六角の弓・後編

 さすがの信長も、多人数に囲まれての戦いに疲れてきていた。


 信清のぶきよと背中を預け合って奮闘し、数人を斬り殺したが、次第に防戦一方になりつつある。やはり、春の方や、侍女たちを守りながら敵の包囲網を突破するのは無理があったようだ。


「織田信長、覚悟ッ!」


 小六ころくの強烈な一撃が、信長に迫った。


「チッ……!」と信長は舌打ちしたが、小六の手下とつばり合いになっているため、対応ができない。そばにいる信清も、群がり襲って来る敵を退けるので手いっぱいだった。


(ここまでか……)


 信長がそう思いかけた時、勇気を奮い立たせて小六に飛びかかった者がいた。草履ぞうり取りの藤吉郎とうきちろうである。


「こ、こんにゃろー! 信長様に手を出すなーッ! ガブッ‼」


「い、痛っ⁉ このクソガキ、何をする!」


「ぎゃひん⁉」


 小六の右腕に噛みついた藤吉郎は、思いきり頭を殴られ、目を回してその場にぶっ倒れた。


「と、藤吉郎ッ! ……この野郎めが!」


 ついさっき藤吉郎に命を救われたばかりの池田いけだ恒興つねおきが、怒号を上げながら小六に斬りかかる。


 が、斬られた尻がズキズキと痛むせいで、動きはとろい。


「懲りない奴め!」


 恒興の憤怒ふんぬの刃は、またもやあっさりと弾き返され、小六は恒興の喉元めがけて刀を一閃させようとした。


 しかし、その時――。


「あがぁ⁉」


「うぎゃ‼」


「ぐ、ぐおっ⁉」


 小六の手下の覆面たちが、悲鳴を上げ、次々に倒れていったのである。


 何が起きたのだ、と驚いた小六は攻撃の手を止め、状況を確認しようとした。


 見ると、手下たち五人が手首や顔から血を流し、激痛に苦しんでいる。何かが飛来して彼らを傷つけたらしく、地面には指や耳の肉片が無残にも転がっていた。


 しかも、奇怪なことに、負傷者たちは一直線上に倒れている。

 その直線の先には――ひたいに矢が突き刺さった手下が仰向けになってくたばっていた。


「たった一本の矢で……五人がやられただと? な、何者がこんな……」


 小六が驚愕きょうがくで声を震わせていると、間髪を置かずに、第二の矢が南の丘の方角から飛んで来た。


 阿鼻叫喚の絶叫、発狂。覆面の男たちが、瞬く間に、糸が切れた操り人形のように地面に崩れ落ちていく。今度は、たった一閃の矢で、七人が戦闘不能になった。


 手首の血管を切られた者。

 耳朶じだの肉の大部分をえぐられた者。

 覆面の下にあった鼻の肉を削がれた者……。

 彼らの血が夏草に染み込み、草深い緑の大地は鮮血の海へと変わっていた。


 そのむごい光景を目の当たりにした春の方は、気持ちが悪くなったらしく、


「お……おえっ……」


 と、えずきだした。


「奥方様、大丈夫でござるか⁉」と平手ひらて政秀まさひでが慌てて信秀夫人の背中をさするが、そばにいた侍女たちまでつられて嘔吐を始め、政秀は彼女たちの介抱に追われた。勝ち気な性格のだけは、眉をしかめながらも気丈に振る舞い、黙って戦いを見守っている。


(あの小高い丘から、何者かが矢を射て我らを助けてくれたのか。……しかし、たった二本の矢で十二人に深手を負わせ、しかも、乱戦中だったにも関わらず、我らには誰一人誤って当てていない。誰かは知らぬが、何という弓の腕前だ)


 信長もあり得ない光景に驚き、呆然と立ち尽くしている小六と一緒にしばし戦いの手を止めていた。信清や恒興も同様である。


 彼らを硬直から解き放ったのは、六角配下の忍者たちの出現である。

 伊賀崎いがのさき道順どうじゅん率いる伊賀者二十数人が突如南方から姿を現し、小六とその手下たちに急襲を仕掛けてきたのだ。


「なっ……! こ、今度は忍びだと⁉ 伊賀か、甲賀か!」


「そんなどうでもいいことを疑問に思っている暇があったら、逃げる算段をしたらどうだ。蜂須賀はちすか小六利政としまさ


「なぜ俺の名を知って――う、うおっ⁉」


 道順が、長脇差ながわきざしの刃をきらめかせ、鋭い刺突を繰り出す。


 小六は応戦するべく慌てて打刀うちがたなを振るったが、忍者とまともに刃を交えるのはこれが初めてだったため、彼ら忍びの得意な突き技に上手く対応ができない。あっという間に、左腕をグサリと突かれてしまった。


 反りのある打刀を用いる武士は敵を斬撃するが、刀身が短めでほぼ真っ直ぐな形状の長脇差を使う忍者は突き技を多用した。忍びに襲われた際、刀の扱い方の違いを心得ていないと、武士は痛い目にあってしまうわけである。


「も……者共ものども! 忍びどもの突きに気をつけろ! ふところに入り込まれる前に、叩き斬れ!」


 小六はバッと飛び退いて道順と距離を取り、手下たちにそう警告した。


 しかし、時すでに遅く、彼の手下四、五人が伊賀者たちの手にかかって絶命していた。恐るべき早業である。


 さらに――追い討ちをかけるように、丘にいる六角義賢が三度みたび矢を放ってきた。


 義賢の矢には魔力でも込められているのだろうか。第三の矢も、小六の手下たちに致命傷もしくは深手を与え、今度は六人が地面に倒れ伏した。


 狭い場所で大人数が入り乱れているというのに、義賢の矢は信長たちや伊賀衆を一人も傷つけていない。この凄まじいほどの狙いの正確さは、まさに神業である。


「か、固まるな! 近くの場所に固まっていたら、また狙われるぞ! 散れ! 散って戦え!」


 小六は第四の矢を警戒してそう命令した。

 だが、集団戦で散らばって戦うなど、各個撃破されてしまう危険性があまりにも大きい。まだ二十代ながらも兵法に通じている小六はそのことにすぐ気づき、


「……いや、待て。三十六計逃げるにかずじゃ。全滅する前に退却するぞ! 皆の者、矢の的にならぬように腰をかがめて走れ!」


 と、方針を急遽変更して撤退命令を下した。


 その直後、第四の矢が飛来し、またもや五人の手下が深手を負って動けなくなった。もはや、逃走が可能なのは、小六を含めて四、五人である。


「くっ……! 織田三郎信長よ、また会おうぞ!」


「そうはさせるか、死ねいッ!」


 逃走しようとした小六の背に、信清の血刃が襲いかかった。


 小六は右肩を浅く斬られたが、激痛に耐えて足を止めることなく走り、丈の長い夏草が鬱蒼と生い茂る草地の中へと消えて行った。


「……あ~あ。小六の奴、これで尾張国にはいられなくなるわね。どうする気なのかしら、あの馬鹿……」


 いちおう夫の従弟いとこなので心配なのだろう。が皆に聞こえないような小声でそう呟いていた。


 この数年後、逃げるように尾張を出奔した小六は斎藤利政(道三)に近侍するが、藤吉郎(秀吉)の腹心となるまでの長い歳月の間に、仕える主君が次々と滅ぶという不幸に見舞われることになるのである。そして、彼のその不幸のほとんどに信長が関係してくるが、それについてはいずれこの物語内で語っていくことになるだろう。

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