今川の秘策・後編

 東三河、渥美半島の東部。


 今川軍の総大将・雪斎せっさいは、たけき波が押し寄せる海岸に立って暁の海を睨んでいた。傍らには副大将の朝比奈あさひな泰能やすよしもいる。


「おお。見えた、見えた」


 老将の泰能が海を指差し、若者のようにはしゃいでそう言った。


 朝日が顔を出しつつある水平線を眺めると、十数隻の船影が見える。今川軍の兵たちを乗せた軍船である。


 今回の軍事作戦は、


 ――信秀軍が美濃攻めのために拠点を留守にしている間に、西三河に攻め込む。


 というものだ。万が一にも、今川の軍勢が西三河目指して進軍していることを信秀に気づかれてはならない。


 だが、抜け目のない信秀のことなので、駿河・遠江の諸街道に密偵を忍ばせているはずである。その密偵たちの目をあざむくために、陸路を避けて海路で東三河に軍勢を集結させることにしたのだ。もちろん、途中で東国から尾張方面へ向かう商船に見つからぬよう、なるべく最短距離となる海路を選んだ。


 ただ、軍船が通過する遠州灘えんしゅうなだは、海の難所と呼ばれる海域だ。航海技術が信用できる水軍でなければ、海の事故で大勢の兵を失ってしまう可能性がある。そのため、総勢一万以上の兵を雪斎の縁者である興津一族の水軍だけで運ぶこととなり、軍船が駿河と東三河を何往復もしなければいけなかったのだった。何とか無事に全ての兵を渥美半島まで移動させるまでに、かなりの日にちを要してしまった。


「あの最後の船団が到着すれば、兵の全てが上陸を済ませたことになるな。さすがは興津おきつ水軍の船じゃ、潮の流れが目まぐるしく変わる遠州灘をすいすいと進んでおる」


 泰能は、興津水軍の航海技術の高さを激賞した。

 駿河の興津氏は雪斎の母方の実家なので、今川家の軍師殿をおだてたつもりだったのだが、世間との繋がりを絶って禅の修行に前半生を費やしてきた雪斎には社交辞令など通じるはずがない。世辞を言われたことにも気づかず、厳しい顔つきのまま「船乗りが航海の技に長けているのは当たり前のことです」と無愛想に答えるだけであった。


(相変わらず、しかつめらしいお坊様じゃなぁ……)


 泰能はそう苦笑するしかない。


 だが、雪斎とは付き合いが長く、彼の無愛想にはもう慣れっこなので、別に不快には思わない。そもそも、泰能はあまり細かいことを気にしないたちである。すぐに気持ちを切り替え、話題を西三河攻めに移すことにした。


「なあ、雪斎殿。信秀が美濃へ出陣するまではここから動けぬのであろう?」


「無論です。織田宗伝から『信秀の軍勢が居城の古渡城を出た』という連絡があるまでは、ここで待機することになります」


「う~ん……それが歯がゆくて、どうにもイライラするわい。信秀めは美濃に攻め込むと数か月前から息巻いているくせに、古渡城からなかなか出ようとせぬ。やはり、軍事同盟を打診した北条家の返事を待ってから出陣するつもりなのだろうか」


「恐らく、そのつもりなのでしょう。されど、織田北条の同盟は不調に終わるはずなので心配はいりませぬ。義元様が甲斐に書状を送り、『信秀の誘いに軽々しく乗らぬように北条氏康うじやす殿を説得して欲しい』と武田晴信殿に頼んでいますゆえ」


「ほほぉ、さすがは義元様だ。武田と北条は同盟関係にあるゆえ、氏康殿も晴信殿の言葉には耳を貸すであろうからな。

 ん? でも待てよ? ……そうなると、信秀は背後の我らの動きが気になって、ますます美濃に出陣しにくくなるではないか。いったいどうなさるおつもりなのじゃ、雪斎殿」


「それも心配無用でござる。信秀は短気な男。斎藤利政と美濃の国衆たちの結束力が乱れに乱れている現状を見れば、その好機を絶対に逃したくないと思うはず。近日中にはしびれを切らして出陣することでしょう。恐らく、今月の半ばあたりには」


「やけに自信満々で言うではないか。美濃国が今そんなに乱れておるとなぜ分かる?」


 泰能が白いものが混じった髭を撫でながらそう問うと、仏頂面だった雪斎が初めてニヤリと笑った。


「分かるに決まっています。美濃国に利政の悪評を大々的に流したのは、義元様と拙僧なのですから」


 そう言いながら、ふところから一枚の紙を取り出して泰能に渡す。それを見た泰能は「むっ……。これは、『駿河版』か」と呟いた。


 駿河版(今川版)とは、今川家が導入していた木版印刷のことだ。義元は幼少時、師の雪斎に付き添われて京都五山の建仁寺けんにんじで修行していたことがあるため、木版印刷が盛んだった京都五山とは深い繋がりがあったのである。


「昨年の冬、美濃からやって来たという若い修行僧――たしか宗乙そういつ(後に伊達政宗の師匠となる虎哉こさい宗乙)という名でしたかな――その者が我が臨済寺りんさいじの門前で行き倒れていたため、介抱して温かい食事を食べさせてやったのです。

 すると、その者は酒に酔っ払い、『雪斎殿は美濃の斎藤利政がいかに悪逆非道かご存知か⁉』と聞いてもいない斎藤利政の悪行の数々をペラペラと拙僧に話してくれましてな……。最初は呆れて聞いておったのですが、次第に『この男が話してくれたことは使える』と思ったのですよ」


「というと?」


「宗乙という修行僧は、斎藤利政やその近親者たちとも面識があるらしく、世間の人間が知っていない利政の悪行も数多く見聞きしていました。宗乙から聞いた利政の天魔のごとき所業の数々を拙僧が告発文として文章にまとめて大量に刷り、美濃国にばらまいてやれば……泰能殿、どうなると思いますか?」


「美濃の蝮は破滅じゃ。国衆の多くが斎藤利政に従わなくなるに決まっておる」


「左様。斎藤利政の美濃における支配力が劇的に低下すれば、信秀の目は必然的に美濃に向きます。背後の我ら今川軍のことが多少気がかりでも、壊滅的に弱った斎藤利政を討つ好機を逃したくないという誘惑に駆られるのは必定ひつじょうでござる」


「なるほどのぉ~……。力攻め一点張りのわしには思いつかぬ奇策じゃ」


 泰能が雪斎の智謀に舌を巻くと、「孫子そんしいわく、兵は詭道きどうなり」と雪斎は鋭い眼光を光らせて呟く。


「寿桂尼様のように見境なく策謀を弄するのは、義元様の徳を損なうことに繋がるゆえ拙僧は好かぬ。されど、ここぞという切所せっしょでは大胆な謀略を敵に仕掛けるのも武門の道でござる。

 ……そして、我が謀略はこんな紙切れだけではない。今川軍が三河国を手に入れるための最後の大事な一手があります」


「大事な一手、とは?」


 泰能は、雪斎から漂う僧侶とは思えない炎々たる気迫を感じ、ゴクリと唾を飲んで問うた。


 雪斎はしばしの間黙り込んでいたが、やがて、朝日を背にして今回の戦で最も重要な今川軍の任務を口にするのであった。


「我らが西三河で真っ先に戦うことになる敵将は、三河安祥あんじょう城を守る織田信広のぶひろ――信秀の長男です。彼の軍隊を撃滅し、捕虜にする。信秀の庶子の身柄を取引材料に織田家に囚われている竹千代(松平広忠の嫡男。後の徳川家康)との人質交換を信秀に迫れば……竹千代は今川家の人質となる。我らは安々と松平家を傘下におさめ、三河国を手に入れることができるでしょう」








<織田VS今川の創作部分について>

今後、数話にわたって織田VS今川の小豆坂合戦が描かれることになります。

小豆坂合戦は謎の部分が多い合戦です(小豆坂での戦いは二回あったという説と一回だけだったという説がある……など)。今作品では色々と創作を入れて描写していきたいと思っていますが、

・雪斎が美濃国に斎藤利政の悪い噂を流した。

・雪斎はこっそり船で兵士を運んだ。

このあたりは私の完全なる創作で、歴史の史料には一切書かれていないのでいちおうご注意ください……(^_^;)

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