今川の秘策・前編

 斎藤さいとう大納言だいなごん正義まさよしが不審な死を遂げた翌月の三月。

 濃尾のうび(美濃と尾張)の両国間の緊張は、頂点に達しつつあった。

 織田信秀と斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)の決戦は間近である、と誰もがそう考えていた。


 しかし、両雄の睨み合いを遠くからジッと見守り、隙あらば信秀の背後を襲わんと狙っているもう一人の英雄がいた。それは――言わずと知れた駿河遠江の王者・今川義元である。




「お万阿まあ。我が妻の容態はどうじゃ」


 駿府の今川館。

 義元の正妻・恵姫けいひめ定恵院じょうけいいん)の寝室。


 義元は、忙しい政務の合間を縫って、昨年の冬頃から体調を崩している恵姫の見舞いにたびたび訪れていた。


「あっ……お、御屋形おやかた様! けほっ、けほっ!」


 侍女のお万阿は、菓子を食べている最中に義元が現れたため、慌てて菓子を飲み込んで激しくむせた。


 そんな滑稽な彼女の様子を見て、恵姫は上品にオホホホと笑っている。


「呆れた食いしん坊娘じゃな。北の方(正室の呼び名)の菓子を横取りして喉を詰まらせるとは」


 義元がからかうように笑ってそう言うと、お万阿は「よ、横取りしたわけでは……」と慌てて弁解しようとしたが、また「げほっ、げほっ」とむせいだ。


「食欲が無いので代わりにお万阿に食べてもらっただけですよ。そんなにいじめないであげてください、義元様」


 心優しい恵姫は柔和な微笑を浮かべ、お万阿をかばった。


 このお万阿という少女は、寿桂尼じゅけいにの隠密として働いていた御宿みしゅく虎七郎とらしちろうの娘である。


 虎七郎は竹千代たけちよ誘拐の任務に失敗し、行方知れずとなった。激怒した寿桂尼は、虎七郎の一人娘であるお万阿を殺そうとした。


 危ういところでお万阿を救ったのは、今川家の軍師・雪斎せっさいである。雪斎は、寿桂尼にないがしろにされている御宿虎七郎の境遇に同情していたため、一時期お万阿を寺にかくまっていた。


 そして、この春からは、雪斎の計らいで、義元の正室・恵姫の侍女として今川館に戻っていた。

 恵姫は今川家の同盟相手・武田たけだ晴信はるのぶ信玄しんげん)の姉なので、彼女の侍女となったお万阿にはさすがの寿桂尼も手出しできないはずだと雪斎は考えたのである。


 義元夫妻は、この少し食いしん坊なお万阿のことを可愛げがある素直な娘だと気に入っており、恵姫の看病役として側近くに置いていた。


「ふむ……これぐらいの量の菓子も食えぬか。ここのところ、ますます食が細くなっているようだな。あまり長引くようなら、そなたの弟・晴信殿に仕えている名医・永田ながた徳本とくほんを駿府に呼び寄せよう」


 義元はそう言いながら寝床に伏せている恵姫の傍らに座ると、皿に盛ってあった菓子を一つかじった。


「うむ、美味い。京の味がする。これは、京の菓子じゃな」


「はい。先日、京の旅から戻った父・信虎のぶとらが見舞いの品に下さった物です。また京の旅行に行ってみたい、お前から婿むこ殿に頼んでくれ、と私にしつこく申して困ってしまいました。ホホホ」


しゅうと殿は、嫡男の武田晴信殿に当主の座を奪われ国外追放された身じゃ。私も気の毒に思っておる。舅殿にはなるべく気ままに暮らしていただけるように配慮するつもりだ。

 ……ただ、しばらくの間は、京に赴くのは我慢してもらわねばならぬであろう。間もなくいくさが始まるからな」


「まあ……。東三河の戸田康光を苦労して滅ぼしたばかりなのに、またですか? 次の戦のお相手は?」


「我が宿敵、織田信秀よ」


 義元は咀嚼していた菓子を飲み込むと、ニヤリと不敵に微笑んだ。


 しかし、恵姫は心配そうな顔つきである。彼女も戦上手で知られる甲斐かい武田家の女なので、連戦に次ぐ連戦は兵の疲弊を招くことぐらいはよく知っている。今川軍の兵は戸田氏攻めでそうとう消耗したはずなのに、時を置かずして尾張の虎に喧嘩を売っても大丈夫なのだろうかと思ったのだ。


 前にも書いたが、今川家の領国である駿河・遠江の米の収穫高は、二か国合わせても、肥沃な大地を持つ尾張国に及ばない。

 米が取れる量が少ないということは、人口も少ないということになる。つまり、今川義元が動員できる兵力はそれほど多くない。予備の兵士などほとんど無いのに、戸田氏攻めの疲れがまだ癒えていない軍勢を動かしても信秀に返り討ちにあう危険性が強いはずだった。


「そんな顔をいたすな、恵。そなたの心配は分かっている。兵士たちのことであろう。信秀と戦うための兵ならば、ある。こたびの戦のために一万の軍勢を新たに編成したのだ」


「一万……。そんな大軍が、今川の領国内にまだ温存されていたというのですか? にわかには信じられませぬが……」


 恵姫が驚いて夫を見つめると、義元はフフッと笑った。


「黄金を兵士に替える、ちょっとした妖術を使ったのだ」


「黄金? 妖術……?」


「そなたたちに良いものを見せてやろう。女子おなごはキラキラしたものが好きであろう?」


 義元はそう言い、両手をパンパンと叩いた。


 すると、隣室に控えていた侍女たちが襖障子ふすましょうじを静かに開けた。


 隣室の光景を見た恵姫は、「まあ……」と感嘆の声を上げていた。

 いつの間に運び込んでいたのか、隣室には目が潰れんばかりにまばゆく輝く金塊きんかいが部屋いっぱいに積み上げられていたのである。


 もう一つ頂こうとこっそり京菓子を口に運んでいたお万阿などは、黄金色の光が目に飛び込んできて、驚きのあまり菓子をまたもや喉に詰まらせて顔を真っ赤にさせていた。


「以前より西国に家来を遣わして灰吹き法という金銀の新しい採取法を我が国に取り入れようとしていたが、ようやくそれが実現した。梅ヶ島金山・富士金山・井川金山など駿河国内で採った金じゃ。この黄金で、今川領内に流れ込んできている他国の荒くれ者どもを兵として大量に雇い、我が今川軍を増強させたのよ」


 この時代、地球は小氷河期にあたり、天候不順によって飢饉が多発していた。人々は生き残るために土地や食糧を奪い合い、それが戦国の争乱が激化する要因となっていた。故郷を逃げ出して傭兵稼業をする者も大勢いた。

 特に、今川家の隣国である甲斐国は、農業に不適な土地・毎年のように起きる大洪水・武田家が課す重税などの三重苦に人々は苦しみ、他国に欠落かけおち(脱走)する農民が少なくなかった。信長軍の足軽衆の虎若とらわかも甲斐国から逃げて来た農民である。


 後年、桶狭間の合戦で今川義元は二万五千の大軍で信長を圧倒しようとするが、当時人口の少なかった今川の領国でそれだけの兵力を動員できたのは、こういった傭兵稼業の流れ者たちを雇って兵力を水増ししていたからに違いない。そして、義元には、金山開発や東海道の陸上交通・太平洋の海上交通による経済の発達によって、兵たちを大量に雇用するだけの蓄財が十分にあった。


 難民と化して乱世をさ迷うあぶれ者たちは、銭と飯をくれる頼もしき大将の元に集う。義元は、金の力で臨時雇用パート・アルバイトの大軍勢を作り上げたのである。


「信秀は美濃攻めに夢中になっているようだが、この私のことを忘れてもらっては困る。恵よ、この戦で三河は我らの物となるであろう。病が治ったら、私とそなた、信虎殿の三人で三河国の景勝地巡りでもしよう」


 義元は手のひらの上で黄金のかたまりもてあそびながら、静かに微笑む。義元は勝利を確信していた。


 もちろん、あの信秀が油断をするはずがない。奴が今川軍の動きを警戒して北条家と手を組もうとしていることは、内通者である織田宗伝そうでんの密書によってすでに承知済みだ。


 だが、昨年とは違い、出し抜かれるのは義元ではなく信秀のほうだ。義元と雪斎は、信秀を陥れるための秘策をすでに発動させているのだから――。








<今川義元の正妻(武田信玄の姉)について>

義元の正室である定恵院(法名)の本名は不明です。そのため、今物語では彼女の法名の「定恵院」から一字を拝借して「恵姫」とオリジナルの名前にしました。

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