別れの接吻
帰蝶を頼純に嫁がせた一年前から、頼純暗殺の計画を緻密に練っていたこと。
利政の子を身籠った深雪を脅し、帰蝶の体質に合わない薬を食事に盛らせたこと。
薬の影響で倒れた帰蝶を懸命に看病するふりをして、頼純の信頼を手に入れたこと。
そして、病と偽り、利政を信じるようになった頼純を騙し討ちしようとしていること――。
何もかもを、深雪は語り尽くした。
帰蝶に目を覚ましてもらいたいとう気持ちもあったが、途中からは自分を一人の女として愛してもくれず性欲のはけ口にしてきたあの男への烈しい愛憎が言葉の端々に溢れていた。
帰蝶は呆然自失となり、
「信じられない。信じられないわ。そんな……」
と、美しい顔をひきつらせて呟いている。
敬愛していた父が自分に一服盛っていたばかりか、我が子同然のように育てていたはずの深雪を凌辱していたという事実を受け入れることができなかったのだ。
頼純も、利政の外道極まる謀略を知って呆気にとられ、寒気すら覚えていた。
まさか、娘の帰蝶に対して見せた「家族愛」すら、あの男が頼純をからめとるために張り巡らせた蜘蛛の糸だったとは……。
「頼純様。呆然としている場合ではありませぬぞ。一刻も早く、ここから逃げねば。大桑城に立て籠もって、織田・朝倉の援軍が駆けつけるまで
野田某が頼純の肩を揺すってそう進言したが、深雪は頭を振り、
「大桑城は、今ごろ
と、またもや驚くべきことを言った。
野田某は「まさか!」と叫び、村長の屋敷から飛び出して北の方角を睨みすえた。――古城山があるあたりから、黒煙が見える。きっと、大桑城で戦闘が始まっているのだ。
「と、殿! 本当のようです! ……深雪殿、よくも我々をこれまで騙してくれたなッ!」
「やめぬか、野田! 深雪は腹の子供の父親である利政を裏切ってまでして、私たちに危機を教えてくれたのだ。深雪は利用されていただけで悪くない、責めてはならぬ」
頼純は野田を叱りつけ、黙らせた。
泣き崩れている深雪の顔色はますます青ざめつつある。これ以上追いつめると、流産しかねない。
「だが……前方には斎藤利政、後方には稲葉と安藤か。我らは進むことも引くこともできぬということだな。万事休すだ……」
「頼純様、諦めてはなりませぬ。蝮ごとき成り上がり者の陰謀に屈しては、清和源氏の流れをくむ名門土岐家の名折れですぞ」
「宗乙……。何か考えがあるのか」
「はい。私は
西美濃の
前にも書いたが、織田信秀は三年前に美濃国の城の一つである大柿城を攻め落としており、斎藤利政にとっては国内の防衛における不安の種であった。
山越えをして越前国へ逃亡するよりも、馬で飛ばせば半日もかからずに着く大柿城のほうが速やかに安全を確保できる。宗乙はそう考えたのである。
「大柿城、か。ふむ……」
「それは良き策でござる。早速、出立しましょう。……あっ、されど、奥方様と深雪殿はどうされますか」
野田某が、いまだに顔面蒼白で取り乱している帰蝶をチラリと見ながら、そう言った。
頼純も最愛の帰蝶を手放したくはないであろうし、大柿城へ連れて行けば斎藤利政に対する人質となる。
また、深雪の身柄も確保しておくべきだろう。万が一、大柿城を利政に攻められた際、深雪の胎内にいる利政の子供が和平交渉の材料となり得るはずだ。
しかし、乗馬が下手な帰蝶と妊娠中の深雪が、馬に乗っての急行軍に堪えられるはずがない。まさかここに置いて行くわけにはいかないが――。
「二人は、この村に置いて行く。……宗乙よ。数刻もしたら、我らが長良川を渡って来ぬのを不審に思った利政が、軍勢を引き連れてこの村に現れるであろう。その時まで、二人の世話を頼んだぞ」
決然とそう言った頼純の言葉に、野田某だけでなく、半ば放心状態になりかけていた帰蝶が「えっ⁉」と驚いた。
「り……離縁ということですか? 私の父が、頼純様を裏切ったから……。私のことを嫌いに……なったのですか?」
帰蝶は小さな体を震わせ、ぽろぽろと涙をこぼしながら頼純を見つめた。父に裏切られ、愛する夫に捨てられてしまったら、もうどうしていいか分からないと絶望的になっていたのだ。
「馬鹿なことを言うな。私がそなたを嫌いになるはずがない」
「だったら、私も連れて行ってください! どこでも一緒じゃないと嫌です!」
「それはできない。そなたと深雪は、利政殿ゆかりの者ゆえ、斎藤軍に捕まっても身の安全が保障されている。僧侶である宗乙も、見逃してもらえるだろう。
……だから、そなたたちはここに残ったほうが一番安全なのだ。道中、どんな危険が待ち構えているか分からないのに、大切なそなたや身重の深雪を連れては行けぬ」
「じ……じゃあ、私が父上のところまで行って、一生懸命お願いしてきます。頼純様を殺さないでください、仲良くしてくださいって頼んだら、きっと……」
帰蝶は、まだこの世で最も冷酷な父親のことを信じている……いや、信じたいと思っているのだろう。真剣な眼差しで、利政本人が聞いたら大笑いしそうなことを言った。
とても純粋だ。
こんなにも愛情深く、
かくのごとき純情可憐な少女だからこそ、本来疑い深い性格であった頼純は彼女に惹かれた。最初は蝮の娘だと警戒しつつも、知らず知らずのうちに、この少女を深く愛してしまっていた。骨抜きになっていた。彼女の優しさに影響されて、かつて敵であった者と分かり合いたいという心まで芽生えてきた。
全てが、頼純から戦国武将としての警戒心を奪うための利政の罠であったとも知らずに――。
帰蝶という可憐な姫君こそが、斎藤利政にとって「頼純殺し」の最大の切り札だったのだ。
頼純は、帰蝶を愛した時から……いいや、彼女を妻にしたその日から死の道へと誘われていたのである。他でもない、最愛の少女によって。
そのことを、今、頼純は理解した。理解したうえで、彼は泣きじゃくっている
「……私は、そなたを愛したことを、死の瞬間までけっして後悔しない。帰蝶に会えて良かった。そなたといれた一年は、とても幸せだった。乱世の厳しさや無常さしか知らなかった私に、温かな日々をくれてありがとう」
帰蝶の手をつかみ、そっと抱き寄せる。そして、淡く接吻をした。
唇と唇が離れ、「頼純様」と帰蝶が呟いた時には、頼純は立ち上がって妻から背を向けていた。
「さらばだ、また会おう。いつかきっと」
頼純は村長の屋敷を出ると、馬上の人となり、野田某と供の者たちを引き連れて西方へと走り去っていった。
「よ……頼純様ぁ‼」
帰蝶はよたよたと走りながら追いかけたが、頼純は振り向かない。
(私は、今もこうして死への道をひた走っている。利政の手勢に
頼純は、すでに死を覚悟していた。
ここまで完璧に二重三重の罠を仕掛けてきた利政が、大柿城への逃走路をおさえていないはずがない。長良川を渡る前に頼純が陰謀を察知して西へ逃げた場合のことを考え、必ず兵を伏せているに違いない。
きっと、残忍な斎藤軍の兵たちによって、頼純は袋叩きにされて残酷な殺され方をするはずだ。十三歳の帰蝶に、そんな
「哀しき美濃の大地よ。お前は、あの非道極まりない蝮の物となるのか。お願いだから、あの子が私を失って涙を流していたら、美しい花を咲かせて彼女を慰めてやってくれ」
後に織田信長の正室となる帰蝶――濃姫の最初の夫であった土岐頼純は、斎藤軍から逃れるべく馬を走らせていたところを伏兵の襲撃にあい、長良川の
※次回の更新は、12月22日(日)午後8時台の予定です。
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