悪逆の極み・前編

 船伏ふなぶせ山の斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)本陣――。


「父上、おかしいです。いくら待っても土岐とき頼純よりずみが現れません。まさか、深雪みゆきが裏切って、我らの企みを頼純に知らせたのではありませんか?」


 斎藤さいとう喜平次きへいじ(利政の三男)が、待てど暮らせど獲物が長良川を渡って来ないことに苛立ち、利政にそう言った。


 うまの刻(午前十一時~午後一時)はすでに過ぎている。大桑城を早朝に発てば、とっくに長良川を渡って船伏山の西方の道を通過している頃のはずだ。それなのに、頼純は一向に姿を見せない。これはもう、事が露見してしまったと考えるべきではないのか……。


 母親の深芳野みよしのから「大将の器を備えていない」と嘆かれてしまうような喜平次でも、これぐらいのことは思いつくのだから、他の武将たちも同じことを想像していた。


「恐らく、織田方に頼るべく大柿おおがき城へ逃走したのでしょう」


 氏家うじいえ直元なおもと卜全ぼくぜん)がそう推測すると、利政は不機嫌そうに「であろうな」と短く答えた。


 深雪が自責の念に堪えかねて頼純に利政の陰謀を教えるかも知れないとは、利政も予測していた。だから、万が一のために、大柿城方面への逃走経路に伏兵は置いておいた。伏兵部隊を率いているのはあまり戦が得意ではない次男の孫四郎まごしろうだが、頼純と数十人の供を殲滅せんめつすることぐらいはできるだろう。深雪が裏切っても、この企てには何の支障もない。しかし……。


(深雪よ。この俺を裏切ったからには、どうなるのか覚悟ができているのであろうな)


 人を裏切り続けて美濃の守護代にまでのぼりつめたこの男は、自分が他人に裏切られるのは我慢できない。深雪に対する烈しい怒りがふつふつと沸き起こっていた。


「頼純の首は孫四郎が取ってくれるはずだ。ここで待っていても仕方がない、我らは長良川を渡って大桑城攻めに加わるぞ。……それ、進めッ」


 利政は全軍に下知をして、長良川を渡河した。


 お人好しな頼純は帰蝶と深雪を人質にするために連れ去るようなことをせず、長良川近くの村か寺に二人を置き去りにしているに違いない。


 まずは、裏切り者のあの女を血祭りにあげてから、頼純の城を落としてやる――逆上した美濃のまむしはそう考えていた。




            *   *   *




 長良川から北に数里離れた村にいた帰蝶と深雪、宗乙そういつは、北上してきた斎藤利政軍の兵たちによってすぐに発見された。


「あっ! 姫様だ! 急いで殿様のところへお連れしよう!」


「くぉらー! 雑兵たち! 汚い手で帰蝶姫と深雪殿に触れるな! 無礼だぞ!」


 村長の屋敷にドカドカと上がりこんだ兵たちが、無遠慮に帰蝶と深雪をぐるりと囲むと、宗乙は高飛車な物言いで斎藤軍の将兵を叱りつけた。


 宗乙は偏屈なところがある若者だが、仁義には篤い。頼純から二人のことを託されたからには、我が身を犠牲にしてでも守り抜こうと意を決していたのである。


「何だ、てめぇは? 修行僧のくせして生意気な……」


「黙れ、下郎ども。私は、美濃国にその人ありと称えられる快川かいせん紹喜じょうき様の弟子、宗乙だ。土岐頼純様の命に従い、奥方様と侍女殿の護衛をつとめている。お二人を捕虜のように扱って引っ立てるような無礼は、この私が絶対に許さぬぞ。丁重に、おぬしたちの大将の元まで案内いたせ」


「何をごちゃごちゃと……。おい、さっさと姫様を連れて行こうぜ」


「愚か者め、帰蝶様に触れるなと申しておるだろうが! かぁーーーつ‼」


 宗乙は、帰蝶の着物に手を伸ばしかけた兵の一人を引っぱたき、力いっぱい怒鳴った。


 後年、あの独眼竜どくがんりゅう伊達だて政宗まさむねが生涯の師として敬服するほどの名僧となる男である。今はまだ二十歳にもならぬ若年ではあるが、一喝すれば有象無象の雑兵ぐらいは萎縮させられる気迫をすでに持っていた。


 宗乙に叱り飛ばされた兵たちは、「ぐ、ぐぬぬぅ……」と唸りつつも宗乙の言葉に従い、三人を丁重に扱って斎藤利政のところまで連れて行った。




            *   *   *




 利政は村のすぐ南で軍馬を休ませており、急ごしらえの陣幕の中で帰蝶たちを迎えた。


「ち……父上。これはいったい、どういうことなのですか? 父上が頼純様のお命を狙っているだなんて、嘘ですよね?」


「おお、帰蝶よ。元気にしておったか。お前と婿むこ殿がなかなか俺の見舞いに来てくれぬから、待ち切れずに俺のほうから来てやったぞ」


 床几しょうぎ(陣中で使う折りたたみ式の腰かけ)に腰かけている利政は、青ざめた顔の娘にニヤリと笑いかけながら、そう言葉をかけた。


 その声は、気色が悪いほど優しく、猫撫で声である。利政が愛娘の帰蝶に穏やかな声音で話しかけるのは昔からのことだが、深雪によって父の正体を明かされてしまった今では不気味でしかない。帰蝶は、ぞくぞくっと背筋が寒くなり、生まれて初めて父に親しみ以外の感情を覚えた。それは、恐怖という名の感情だった。


 居並ぶ新九郎しんくろう(後の斎藤義龍よしたつ)・氏家直元たち諸将も、利政が漂わせている邪悪な雰囲気を肌で感じ取り、戦々恐々としていた。

 父と同じく残忍な性質を備えている喜平次だけは、異母妹の帰蝶がこれからどんな地獄を父によって見せつけられるのだろうとワクワクしているようで、軽薄な笑みを浮かべている。


(……微笑んではいるが、目には殺気を帯びている。蝮の奴、そうとう怒っているな)


 勘のいい宗乙は、利政の怒りの正体を瞬時に察していた。


 利政は、頼純に逃げられたと思ったから、長良川を渡河してきたのである。彼の企みを知っているのは深雪だけだ。深雪の裏切りに対して、心火しんかを燃やしているに違いない。


 深雪本人も、自分が利政によって処断される立場だということに気づいているのだろう。さっきから雪山で遭難した人間のように身を震わせ、歯をガチガチと鳴らしている。


「笑っていないで、ちゃんと答えてください! 父上は本当に頼純様のことを殺そうと――」


「姫様。あの毒蛇に近づいてはなりませぬ」


 父を問い詰めようとする帰蝶を、宗乙は手で制して自らが前に出た。


 怒り心頭に走っている利政に不用意に近づけば、いくら娘の帰蝶でも何をされるか分かったものではない。宗乙は、(この梟雄きょうゆうの怒りの矛先を何とか自分に向けさせ、帰蝶姫と深雪殿を助けねば)と考えていたのだった。


「やい、腐れ外道の蝮! 頼純様を亡き者にしようとするお前の魂胆など、この宗乙の慧眼けいがんで見破ってやったわ。今頃、頼純様は私の助言で西へ逃げ、あと半刻(約一時間)もしたら織田方の大柿城に着くであろう。ざまあみるがいい、ワッハッハッハッ‼」


 宗乙は、果敢にも諸将の面前で利政を嘲笑してみせた。


 利政の罠を察知して頼純様を逃がしたのは自分だ、深雪殿はお前を裏切ってはいないぞ、殺したければ私を殺せ。心の中でそう吠えながら、思いきり痛罵したのである。


 だが、宗乙の命がけの虚勢に対して、利政はフンと鼻で笑っただけだった。海千山千の利政が、十八歳の修行僧ごときにだまされるはずがない。こいつは深雪をかばっているのだな、とすぐに察していた。


「快川の弟子よ。残念だが、頼純は俺から逃げられない。間もなく、奴の首がここに届くことであろう。大柿城へと逃げる道などすでに我が手勢によって封鎖済みだ」


「何だと⁉ て、適当なことをほざくな! 私に出し抜かれて悔し紛れに言っているだけだろう、この卑怯者め!」


「クックックッ。よほど俺に殺されたいようだな。ならば、望みを叶えてやろう。お前の師匠の眼前でむごたらしく殺してやる。

 だが、今は娘と大事な話をしている最中じゃ。ぎゃあぎゃあとうるさいお前はちと眠っておれ」


 利政が目配せをすると、喜平次が床几から立ち上がり、宗乙の後頭部をしたたかに殴って気絶させた。

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