陰謀発動

 明智あけち父子が本巣もとす郡で逃げる賊を追跡していた同じ日の夜。稲葉山いなばやま城では――。


「げほっ、ごほっ……! お……小見おみ。俺はもう駄目じゃ」


「しっかりしてくださいませ、殿! あなた様らしくもない、なぜそんな弱気なことを……」


「俺の体のことじゃ、俺が一番よく知っている。病み上がりの帰蝶きちょうに心配をかけさせまいと思ってずっと我が病を知らせずにいたが……ごほっ、げほっ。し……死に目には愛娘と婿むこ殿に会いたい。頼む、頼純よりずみ様に使者を……」


 病床の利政としまさ道三どうさん)は妻の小見の方の手を握り、そう懇願していた。


 腹黒い夫のことだから実は仮病なのでは……と最初はいぶかしんでいた小見の方も、「あっち死に」した平清盛たいらのきよもりのごとく高熱で苦しみあえいでいる利政の痛々しい姿が演技だとは到底思えず、これはいよいよ覚悟を決めるべき時が来たかと感じた。


「……分かりました。ただちに、使者を遣わす手配をします。新九郎しんくろう(後の斎藤さいとう義龍よしたつ)殿、父上のことを頼みましたよ」


 小見の方はたもとで涙を拭いながらそう言うと、寝室を後にする。


 部屋に残った新九郎は、六尺五寸(約一九七センチ)の巨体をせっせと動かして、父の看病を甲斐甲斐しく続けた。


「父上。父上は、しぶといお方です。こんな病ごときで死ぬわけがありませぬ。どうか弱気にならず、元気になってくだされ」


「……フン。心にも無いことを言うな。日頃から俺に虐げられているお前が、なぜこの俺が長く生きることを望むのだ」


「子が親の長寿を望むのは、当たり前のことではありませぬか」


「ケッ、気色が悪い。さっさと水を飲ませろ。喉が渇いた。……げほっ、ごほっ」


 利政は、息子の真心がいっさい心に響かないのか、その態度はいつもと変わらず非常に冷たい。

 自分の息子たちの中で一番出来が悪い無能だと決めつけており、役立たずな人間が大嫌いな彼は、長男である新九郎に優しく接したことなどほとんど無かった。


 そもそも、新九郎をこうして世継ぎとして身辺に置いていること自体が、利政の本意ではない。仕方なくそうしているのは、新九郎の生母が深芳野みよしのという特別な女性だからである。


 深芳野はもともと主君・土岐とき頼芸よりのりの愛妾だったが、褒美として利政に下され、利政の側室となった。そして、新九郎や孫四郎まごしろう喜平次きへいじら数人の子供たちを産んだのである。主君からのお下がりの女が産んだ最初の子ゆえに、表面上は粗略に扱えないのだった。


 また、深芳野は稲葉いなば家の出で、美濃の有力武将・稲葉いなば良通よしみち一鉄いってつ)の姉にあたる。

 良通ら稲葉一門が温厚な新九郎を斎藤家の次期当主に推しており、勇猛果敢で頑固一徹な良通を敵に回したくない利政は、気に食わぬ長男を嫌々そばに置いていたわけである。


 真っ直ぐな気性の新九郎は、父親に嫌われていることは薄々気づいてはいるが、懸命に孝行を続けたらいつか父に愛してもらえると信じて病床の利政に尽くしていたのだった。


 しかし……。恐らく、この蝮が息子の気持ちを察する可能性など皆無であろう。なにせ、娘の帰蝶をこれから不幸のどん底に叩き落とそうとしているような男なのだから――。


「父上! 失礼致しまする!」


 突然、城内にドタドタと荒々しい足音が響き、利政の三男・喜平次が寝室に入って来た。


 新九郎は、弟が甲冑姿であることに驚いて、「喜平次。どうしたのだ、その姿は」と問うた。


 だが、長兄のことを愚鈍な奴だと小馬鹿にしている喜平次は新九郎を無視し、父にこう報告した。


「良通叔父上と安藤あんどう守就もりなり殿の部隊が、たったいま出陣いたしました」


「え? 今は真夜中だぞ? なぜこんな時刻に……」


 新九郎は首を傾げ、そう呟く。


 本巣郡で朝倉勢と戦っている明智頼明よりあきの救援のために稲葉良通・安藤守就・氏家うじいえ直元なおもと卜全ぼくぜん)の軍勢が稲葉山城に集結しつつあることは知っていたが、こんな夜更けになぜこそこそと出陣するのであろうか?


「……よしよし。で、俺と出陣する予定の氏家直元は?」


「氏家殿も準備は整っておりまする。後は、父上がお出ましになるだけです」


「小見が遣わした使者も、朝方には大桑城に到着することじゃろう。驚いた帰蝶は大急ぎで俺の見舞いに駆けつけようとするはず。婿殿と帰蝶が長良川(稲葉山城の眼下を流れている川)を渡るのは明日の昼頃であろうな。

 ……時は来た。いざ、参るか。喜平次よ、輿こしを用意してくれ。出陣前に守護館へ行かねば」


 利政はそう言うと、身を起こした。ふらふらだというのに、太刀を手に取って寝床から這い出ようとしている。


「し、出陣⁉ 父上がですか⁉ いったい、どこへ⁉ まさか、たかが数百の朝倉勢を討伐するために、重病の父上が自ら出陣するというのですか⁉」


 父の言葉を聞いた新九郎が、素っとん狂な声を上げて驚愕きょうがくした。


 利政は喜平次の肩を借りてよろよろと立ち上がりながら「馬鹿め。朝倉討伐になど行かぬわい」とせせら笑う。


「で、では、いったい誰を討伐に――」


「決まっておるではないか。我が婿殿……土岐頼純よ」


「え? ……えええ⁉ い、意味が分かりませぬ! 俺はそのような話、聞いていません!」


 あまりにも急な展開に理解が追いつかず、新九郎の頭は混乱をきたした。


 あんなにも熱と咳が酷くて弱りきっていたというのに、今の父は精悍な顔つきになっている。まさか、あれは全て仮病だったとでもいうのだろうか⁉ 


 そんなふうに困惑している長兄の無様ぶざまな姿を見て、喜平次がフフッとわらう。


「同腹の兄弟でこの企みを知らぬのは、新九郎兄上だけですよ。父上に信頼されていないあなたが、事前にこの重大な計画を知らされるはずがないでしょう」


「な……何だと? では、孫四郎も……」


「ええ。良通叔父上らと同様、夜陰に紛れて出陣しました。頼純討伐のためにね」


「ば、馬鹿な。頼純様は帰蝶の夫なのだぞ。お……お前たちは、妹を不幸にしても平気なのか」


「ハン。我ら兄弟は深芳野母上の子供。帰蝶は小見の方様の子供。腹違いの妹の幸不幸など、どうでもよいでしょう」


 喜平次は父親譲りの軽薄な笑みを浮かべてそう吐き捨てると、利政を肩に担ぎながら部屋を出て行った。


 新九郎は「ま、待て!」と叫んで追いかけ、廊下に出る。


 そんな新九郎の前に、六尺二寸(約一八七センチ)の大女が立ち塞がった。新九郎・孫四郎・喜平次の生母の深芳野である。


「新九郎。取り乱している場合ではありませぬ。あなたも従軍して、斎藤家の嫡男として功名を上げるのです」


「は……母上⁉ まさか、母上まで父上の企みを知っていたのですか⁉ 俺だけがのけ者だったということですか‼」


 新九郎は、半ば涙声になってそう叫び、そういえば……と思った。


 高熱と咳に苦しむ利政のことを正室の小見の方は寝る間も惜しんで看病していた。

 側室の深芳野も利政の容態を心配している素振りを見せてはいたが、思い返したら彼女は小見の方が利政の世話しているのをただ見ているだけで、看病の手伝いはほとんどしていなかった。

 つまり、利政が仮病を使って周囲をだましていることを知っていたのだ。


 正室が夫にあざむかれ、側室が真実を知っている――側室の子である新九郎から見ても、酷い話である。

 だが、利政が小見の方を騙したのは、あの陰謀家にとっては当然の判断なのであろう。

 なぜなら、彼女は帰蝶の生母であり、土岐頼芸と土岐頼純の和解を望む明智一族の出だからである。真実を知れば、夫の陰謀を阻止するべく明智頼明に密告しただろう。たとえ彼女自身が動かなかったとしても、城内にたくさんいる小見の方付きの侍女たちが何らかの行動を取ったはずである。


 一方、深芳野とその子供たち――孫四郎と喜平次は、利政のこの恐ろしい陰謀になぜ加担しているのかと言えば……。それは、深芳野が土岐家に深い恨みがあり、利政の下剋上を望んでいるからだ。


 土岐頼芸は、遊びあきた玩具を捨てるように、寵姫であった深芳野を家臣の利政に下げ渡した。女としての誇りを傷つけられた深芳野は、新しい夫の利政が土岐家から美濃を奪い取ることを悲願としていたのである。


 土岐家嫡流の頼純を殺すのは、利政の国盗りの第一歩と言っていい。彼女とその息子たちが協力するのは当然のことであった。


 だが……その深芳野の子供たちの中で、新九郎だけがのけ者にされていた。真実を知らされてはいなかった。


(俺は嫡男のはずなのに、どこまで軽視されているのか)


 と思い、新九郎は泣きだしたい気持ちでいっぱいだった。


「……お父上はともかくとして、私にとってあなたは命よりも大事な長男です。のけ者にしたつもりはありません。ただ……心優しいあなたは帰蝶姫を不幸に叩き落とすこの陰謀を知れば反対して大騒ぎするのではと恐れたのです。だから、直前まで黙っていました」


「騒ぐに決まっています! 帰蝶は俺の妹なのですよ⁉ 腹違いなど関係ない。俺にとって、父上も、母上も、小見の方様や帰蝶、孫四郎、喜平次も……みんな家族なのです。家族が家族を不幸にするところなど、見たくありません!」


「その甘さがお父上に嫌われるのですよ、新九郎。割り切れぬことを割り切って図太く生きていかねば、この乱世では生き残れませぬ。

 私が産んだ息子たちの中で大将の器を備えているのはあなただけ。陰湿な性格だけはお父上に似て、将才がとぼしい孫四郎や喜平次では、斎藤家を守り抜くことはできませぬ。

 もっと……強くなってください。優しさを捨てて、お父上に認められる武将になるのです」


「父上に認められる武将というのは、血も涙もない外道になれということですか⁉ そんなこと……俺には無理です!」


 新九郎は大粒の涙をこぼしながら、悲痛な声で叫んだ。


 すると、深芳野は我が子の頬をパシンと強かに叩いた。


「大の男が戦いを前に涙を流すとは、なんと女々しい! 早く涙を拭き取り、出陣なさい! 土岐頼純の首を取り、お父上の信頼を勝ち取るのです!」


 深芳野は我が子を叱り飛ばすと、家来たちに甲冑を持って来させ、いまだに動揺し続けている新九郎に着用させた。


「行くのです、新九郎! たとえ帰蝶姫に生涯恨まれたとしても!」








※斎藤道三の次男・孫四郎、三男・喜平次は、生母が深芳野説、小見の方説の二つありますが、今作品ではストーリーの展開上、「深芳野生母説」を採用しました。


※道三の側室・深芳野は、「稲葉一鉄の姉」説の他に、「丹後守護・一色義清の娘」説などもあります。

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