竹千代人質・前編

 今川軍は、雪斎が今橋城を陥落させた翌月の七月には、医王山に砦を築いたようである。義元が家臣に送った七月八日付の書状には、


 ――よって三州、此の刻み本意を達すべく候、近日出馬すべく候。


 と記している。つまり、「医王山に砦を築いたこの機に乗じて、三河制覇の野望を達成するつもりだ。近い内に、私自らが出陣しよう」と意気込んでいたのだ。


 だが、義元の三河遠征は実現しなかった。寿桂尼が義元の出陣に異を唱えたのか、東三河の戸田氏と岡崎方面の織田勢を一度に相手にする二方面作戦は危険だと雪斎が止めたのか……。その理由は不明である。とにかく、義元が三河への出陣を見合わせたため、信秀と義元の直接対決は幻と消えた。


 かくして、大きな動きがないまま、上和田・作岡・大平の三砦に陣する織田方の三河武将と医王山砦の今川勢は、およそ二か月に渡って睨み合いを続けた。


 岡崎城をめぐるこの両勢力の均衡を崩すきっかけを作ったのは――戸田氏の本拠地・田原城を攻めた雪斎の想定外の敗北だった。




            *   *   *




 九月上旬のある日。三河安祥あんじょう城。この日、信秀の元に、


 ――九月五日に雪斎率いる今川軍が田原城を攻撃したが、戸田氏に手痛い反撃を受け、いったん退いた。


 という情報が入った。


 雪斎は必勝を期すべく、この二、三か月の間に戸田氏側に調略の手を伸ばし、田原城を内から崩して攻略しようとしていたようである。しかし、戸田氏一党の結束力が予想以上に強かったため、雪斎の内応工作は空振りに終わったのだった。


「ハッキリとした今川軍の被害の数は分かりませぬが、まったく想定していなかった敗北に今川方の将兵の士気も大いに下がっていることでしょう」


 織田の諸将が集う評定の間で、平手ひらて政秀まさひでがそう報告すると、信光のぶみつが「フン、いいざまだな。あの糞坊主め」とせせら笑った。

 横に座っている織田宗伝そうでんが不愉快そうに信光を睨んだが、信光や他の重臣たちは今川軍の敗北に大喜びしていて、宗伝のことなど誰も注目していない。


「義元が医王山に砦を築いたせいで、長らく睨み合いが続いていたが……。今川軍が戸田氏に敗北した今ならば、岡崎城の松平広忠ひろただに降伏せよと圧力をかけられるな。夏に使者を送った時には恭順を拒絶した広忠も、今川の本軍が東三河から当分の間は動けないと教えてやれば、我らに逆らう気持ちも萎えるはずだ」


 広忠は、東三河への連絡路を織田方の三河武将たちによって遮断されているため、今川軍敗北の情報をまだつかめてはいないはずである。織田の使者の口からこの衝撃的な情報をいきなり伝えられたら、広忠と家臣たちは激しく動揺するに違いない。


「殿のおっしゃる通りでござる。……とはいえ、雪斎は当代きっての知恵者です。すぐにでも軍勢を立て直し、最終的には田原城を攻め落とすことでしょう。まごまごしていたら、戸田氏を滅ぼした雪斎の軍が岡崎方面に現れることは必定ひつじょう。広忠に降伏を迫る使者を遣わすのならば、今この時しかありませぬ」


「ふむ……。では、ただちに岡崎へ使者を送るように松平信孝のぶたかに命じよう」


「いいえ。今回は、我らの本気を広忠に見せるためにも、織田家の重臣が岡崎城に乗り込むべきです。どうか、私を使者として岡崎へお遣わしくだされ」


「政秀がか? そなたが行ってくれるのならば、たしかに心強いが……。足の怪我はもうよいのか?」


 いつもは冷静沈着なはずの政秀が、「広忠を是が非でも屈伏させん」と珍しく息巻いている。すでに五十六歳の老境に達している股肱の臣の健康を心配して、信秀は戸惑いつつそうたずねた。


「ただのかすり傷ですので、使者の役目を果たすのには何の支障もありませぬ。

 ……それに、我が傷などどうでもよいのです。私は、後見役でありながら信長様の記念すべき初陣に泥を塗ってしまった自分が許せぬのです。この命に代えて、我が罪を償いたい……。広忠と刺し違える覚悟で岡崎城へ赴く所存です。どうか……どうか何とぞ、私に広忠をねじ伏せるお役目をお与えください。

 我が胸中に秘策あり! 必ずや奴から人質を奪ってきてみせまする!」


 常日頃は穏やかな人間が急に声高に激昂すると、周囲の人間は驚いて口をつぐむものである。温厚な性格のこの老臣からは想像もできないほどの鬼気迫る形相に、織田家中で一番気が荒い信光ですら思わず気圧されて息を呑むほどだった。


 政秀の並々ならぬ覚悟を知れば、信秀も否とは言えない。大きく頷き、「あい分かった」と答えた。


「政秀よ、岡崎城へ向かえ。松平広忠を屈伏させ、奴の嫡男の竹千代たけちよを人質としてこの城に連れて来るのだ」




            *   *   *




 かくして、平手政秀は降伏勧告の使者として岡崎城へと赴いた。


 松平広忠に謁見した政秀は、初対面のあいさつもそこそこに、


「四の五のは言いませぬ。早々に我らに降伏なされよ。人質として、貴殿のご嫡男を頂く。今日の日没までに、竹千代殿をそれがしにお預けくだされ」


 と、居丈高な口調で要求を突きつけた。


 政秀は、相手の感情を逆撫でさせず巧みに交渉にあたる深謀遠慮の外交官として、近隣諸国では名をはせている能臣である。その政秀が、物腰柔らかな交渉人としての顔をかなぐり捨てて、いきなり相手に鋭利な刃物をチラつかせるような態度に出たのだ。


 平手政秀という老人の評判をかねがね聞いていた三河の諸将たちは、少しはこちらの言い分も聞いてもらえるだろうと考えていたのに、思いもかけない強硬的な姿勢に大いに驚いて互いの顔を見合わせた。


「ま……待て。待たれよ。き……今日だと? 日没までの数刻の間に、そのような大事なことを我らに決断せよと言うのか? それはあまりにも理不尽であろう。せめて数日、家臣たちと話し合う時間を――」


 いきなり息子を人質として寄越せと言われ、広忠もすっかり狼狽ろうばいしているようである。声を裏返しながら、そう抗議しようとした。だが、政秀は抗弁することすら許さず、広忠の言葉を途中で遮った。


「嫌ならば、滅亡あるのみ。日没までに拙者が竹千代殿の身柄を受け取ることができなかったら、織田の全軍が即刻矢作やはぎ川を越えて岡崎城を攻める手はずでござる。上和田・作岡・大平の三砦に陣する松平信孝殿・忠倫ただとも殿らも同時に攻めかかり、この城を草の木一本残さず焼き払ってしんぜよう」


「ば、馬鹿なことを……! 今川軍が医王山に砦を築いていて、おぬしたちが迂闊に我らの城を攻撃できぬことぐらいはこちらも知っているのだぞ!」


 広忠の重臣の一人が、声を荒げながらそう反論した。

 すると、政秀はアハハハハと哄笑し、「貴殿らは何も知らぬようですな」と、広忠と家臣たちを見回して睨んだ。


「医王山砦は、二、三日前からもぬけの殻ですぞ。数日前に今川の本軍が戸田氏に大敗し、総大将の雪斎は討ち死に。義元は師である雪斎の弔い合戦を自らするべく、東三河に今川家の全兵力を結集しようとしているとのこと。もちろん、医王山砦にいた兵たちも戸田氏討伐の軍に加わるため、砦を去りました。我らは、今川家の邪魔無しにこの城を攻めることができるのです」


「ま、まやかしを言うな。そのような噂、我らの耳には入ってきてはおらぬぞ」


「それは当たり前でしょう、広忠殿。ここ三カ月ほど、この岡崎城は織田方の砦に包囲されているのですぞ。重要な情報はこの城に届かないように我らが妨げているに決まっているではありませんか」


 たしかに、織田方の三河武将たちが岡崎城の東や南に砦を築いて以来、広忠は東三河の正確な戦況をつかむのにかなりの時間を要するようになっていた。

 医王山に今川の砦が建造されたこと、今川軍が戸田氏に苦戦しているらしいことなどは何とか情報を入手していたが、まさかあの雪斎禅師が戦場で果てていたとは……。


(い、いや、騙されぬぞ。これは、我らを惑わすための策略じゃ)


 広忠はおのれにそう言い聞かせようとしたが、「万が一にも本当であったら……」という恐怖を拭うことはできなかった。


 広忠が恐れているのは、


 政秀が言ったことが本当だったら、織田軍は明日にでもこの城に攻め寄せて来るであろうこと。


 そして、広忠の後妻・真喜姫の実家である戸田氏が雪斎を殺したのならば――かつての恩人である義元は怒り狂い、戸田氏の次に広忠を滅ぼそうと考えているに違いない、ということである。


 信秀は息子さえ差し出せば許すと言っている。だが、義元は自分の師を殺した戸田氏の縁戚である広忠を許してくれるであろうか……?


「広忠殿よ。貴殿の奥方の実家・戸田家は、少々頑張りすぎましたな。義元は戸田の一族を殲滅せんめつしたら、時を置かずに貴殿を血祭りに上げるべくこの城に今川の全軍を差し向けることでしょう。

 貴殿が生き残る術は、ただ一つ。我が主君・信秀様にこれまで逆らってきたことを謝罪し、織田家の軍門に降ることでござる。さすれば、我らが今川義元から貴殿を守ってしんぜよう。さあ、今すぐにご返答なされい」


「ぐ、ぐぬぬぅ……。す……少しだけ待ってくれ。必ず返答するゆえ、ほんの少しだけ、頼むから待って欲しい」


「待てるのは、夕刻まででござる。もしも日が没しても返答がなかった場合は、お覚悟を」


 敵に考える暇を与えない。虚実入り混ぜた情報を伝えて判断力を狂わせる。それが、政秀の作戦だった。


 広忠は、政秀のこの企みにまんまと乗せられてしまったのである。

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