業火を放つ・前編

 信長の指揮のもと、虎若とらわから足軽部隊は、大将を失って浮足立った敵勢を蹴散らすことに成功した。


 しかし、天王の森では、現在でもいたるところで信長軍と長田おさだ軍の戦闘が繰り広げられている。この森にいる限り、敵の部隊に襲われ続けることになるだろう。


「兵の数、地の利、その両方において大きく不利な我が軍は、じわじわと兵力が削られていく一方だ。一刻も早くこの森から脱け出さねばならぬ。者共、北を目指して急げ」


 信長は、負傷した山口やまぐち教吉のりよしに肩を貸してやりながら、森の中を進んで行く。気絶からまだ目覚めていない池田いけだ恒興つねおきは、虎若に背負わせていた。


「それにしても、若大将。矢を胸に受けて平然としておられるとは、さすがは尾張の虎・織田信秀様のご嫡男ですな。俺ぁ、そんな頑丈なお方をこれまでに見たことがありませんよ」


 身分の上下を忘れて馴れ馴れしい態度を取ってしまう癖がある虎若が、勇ましい信長を惚れ惚れと見つめながらそう褒めそやした。


 身のほどをわきまえないこの欠落かけおち百姓に対して、信長は機嫌を損ねている気配はなく、それどころか虎若にニヤッと微笑みかけてやって、こう語った。


「あの強烈な勢いの矢を喰らって、生身の人間が平気なものか。助かったのは、熱田あつたの神々とお前のお陰だ」


 敵将二人を惨殺した悪鬼のごとき荒々しさはどこへ消えたのか、今の信長は、年相応の少年らしい愛嬌に満ちた爽やかな笑顔である。


 信長に微笑まれて、虎若は少しどきまぎした。別に衆道しゅどう(男色)の気などないが、常人離れした信長の美貌に面食らってしまったのである。


「お……俺のお陰ですか? 俺は何もしてねぇけれど……」


「ほら、これだ。お前が譲ってくれたお守りが、俺を救ったのだ」


 信長は懐から美しい刺繍の守り袋を取り出し、虎若に見せてやった。虎若が目を凝らしてのぞいてみると、守り袋には小さな穴が開いており、中身の護符は真っ二つに割れていた。護符と一緒に入っていた火打石ひうちいしも、わずかに欠けている。


「あっ……。この守り袋の中にあった火打石が、若殿様を助けたのかぁ~!」


「そういうことだ。お前をあそこで拾ったのは、熱田の神々の思し召しであったのやも知れぬな」


 信長が得意げにそこまで語った時、左右の木々の陰から殺気に満ちた怒号が聞こえてきた。姿を現したのは、長田軍の槍兵たちである。


「チッ。また待ち伏せか! しつこい!」


 信長麾下の尾張兵たちは、ほとんどが手負いだ。この奇襲部隊を退けることができたとしても、あと何度敵の待ち伏せがあるか……。


「皆の者、怯むな。敵も疲れている。蹴散らして、前へ進むぞ」


 ずっと信長本隊を待ち伏せしていた敵の新手が疲れているはずがないのだが、信長はそう言って味方の兵士たちを励ました。とっさに口から出たハッタリだったが、尾張兵たちも深く考える余裕がないほど疲れているため、信長の言葉をすんなりと信じたようである。「敵も疲れているのならば……」とおのれを励まし、敵兵たちと戦い始めた。


「織田信長を討ち取れぇー!」


「あの美貌の若武者が信長に違いない! かかれ、かかれ!」


 信長の兵たちは善戦したが、やはり戦闘続きで疲れている。三度ほど敵勢を押し返した後は息切れしてしまい、じりじりと追いつめられていった。


(いかん。このままでは、まずい)


 まさに、前門の虎後門の狼。絶体絶命の危機を乗り越えたと思った矢先に、このような状況に再び陥ってしまった。美濃のいくさで敗走した父の信秀も命からがら逃げたと何度も聞いてはいたが、戦に敗北した大将がこれほどまで執拗に命の危険にさらされるとは思ってもいなかった。俺はまだまだ武将としての覚悟が足りぬ、と信長はおのれを責めた。


「手元の兵だけでは、すぐにやられてしまう。散り散りになった味方の部隊を何とかして俺の元に集結させねば。一か八か、アレを使ってみるか。……おい、鉄放を持っている兵たち。今すぐ、天に向かって鉄放を撃て」


 信長は、自分のそばに控えていた鉄放足軽たちにそう命じた。近接戦闘では何の役にも立たないので、彼ら鉄放足軽たちは槍や刀でずっと戦っていたのである。


 姉のから贈られた鉄放七ちょうを信長は直属の兵たちに持たせていた。そのことを、敵部隊は知らず、味方の将兵たちは知っている。ここで一斉に鉄放七挺の凄まじい発砲音を轟かせば、その音を聞きつけた味方の部隊たちが信長を救援するために駆けつけるに違いないと信長は考えたのだ。


「それ、放て!」


 ズダダダダーーーン‼


 森中に鉄放の凄まじい音が響き渡った。


 この轟音を聞き、真っ先に駆けつけたのは、武闘派神職の千秋せんしゅう季忠すえただである。




            *   *   *




 大将の信長を探して天王の森をさ迷い続けていた季忠は、鉄放の発砲音を耳にして、


「おお! これは、信長様が『俺はここだ。早く来い』と我らに教えてくださっているのに違いない! 思ったよりも近くにいらっしゃるようだ、急いで駆けつけねば!」


 と、すぐに察した。ひたすら騒々しくて猪突猛進な性格の季忠だが、意外と明敏な頭脳の持ち主らしい。別の場所で発砲音を同じく聞いていた佐久間さくま信盛のぶもりなどは、しばらくの間、信長が自分を呼んでいるのだと考えつかず、ただただ鉄放の音に怯えて立ち尽くしているだけであった。


「うおりゃぁぁ‼ 者共ぉー! 長田の弱兵どもから信長様をお救いするぞぉー! 熱田の神々にかわってお仕置きじゃぁぁぁ‼」


 信長が鉄放を撃ってからそれほど間を空けず、季忠の部隊は現れた。


 長田軍の兵たちは、織田軍の新手が横からいきなり襲いかかって来たことに驚き、瞬く間に浮足立った。


 天誅ぅー! 天誅ぅー! 天誅ぅー! と喚きながら、季忠は薙刀を豪快に振り回して敵を倒していく。

 斬る、というよりは、力任せに叩きつけて吹っ飛ばしていた。まだ十四歳とは思えない豪腕である。


「おお、季忠が来てくれたか。我らも反撃するぞッ」


 味方の救援に元気づけられた信長本隊の兵たちも、長田の兵たちに反撃を開始する。挟み撃ちされた敵兵たちは、「これは敵わじ」と見て、あっ気なく潰走していった。


「助かったぞ、季忠。正直、お前が一番早くに駆けつけてくれるとは思わなかった。この忠節は一生忘れな……おい。さっきから何をやっている。俺が話しているのに、こっちを向かぬか」


「あっ、信長様! 申し訳ありませぬ! な、薙刀が松の木に深々と刺さって抜けなくなってしまいまして……。うおおおお、抜けろぉー‼」


「こんな木がいっぱいあるところで、そんな物を滅茶苦茶に振り回すからではないか……。ちょっと待っていろ、手を貸してやる」


 信長は呆れながらも、木に刺さった薙刀を引っこ抜こうと踏ん張っている季忠の体を後ろから引っ張ってやった。


 薙刀はなかなか抜けず、乱戦中に気絶から目覚めた恒興や虎若ら足軽数名まで手伝わされ、平手ひらて政秀まさひでの部隊が駆けつけた頃にようやく引き抜くことができた。




            *   *   *




 幸運なことに、散り散りになっていた織田兵たちは、どの部隊もそれほど離れた場所にいたわけではなかったらしい。その後も、鉄放の音を耳にした将兵たちが続々と信長の元に集まり、最終的には佐久間信盛も、


「お、遅れて申し訳ありませぬ~!」


 と言いながら駆けつけた。麾下の兵士に、「もしかしたら、あの鉄放の音は、若殿様が我らのことをお呼びになっているのでは……?」と言われ、慌てて走って来たのである。


 かくして、バラバラになっていた信長軍の三分の一ほどが集結することができた。

 他の三分の一は、森の南で長田おさだ重元しげもとの本隊を必死に防いでいる内藤ないとう勝介しょうすけの部隊や、血路を切り開くために森の北部で奮戦している信清の部隊などである。

 そして、最後の三分の一は、この森のどこかでむくろを晒しているのであろう……。


「私がついていながら、このような失態……。まことに……まことに申し訳ありませぬ!」


 政秀は膝をつき、涙ながらに信長に謝罪した。信長の一生に一度の初陣を後見するように主君の信秀に命じられておきながら、敵の策にまんまとはまって大敗北を喫してしまったのである。もはや切腹してこの罪を償うしかない、と思いつめていた。


「立て、じい。俺に膝をつくな。この敗戦は、爺だけのせいではない。爺や勝介に任せておけば大丈夫だと安心して、すっかり油断していた俺も悪かったのだ」


「いいえ、信長様は何も悪くはありませぬ。こたびが初めてのいくさである信長様に、何の罪があるというのですか。後見役でありながら不覚を取ってしまった私が、全て悪いのです。……かくなるうえは、腹を掻っ切って、信秀様にお詫びするしかありません」


「馬鹿なことを言うな! 怒るぞ、爺!」


 信長はそう怒鳴りながら、脇差に手を伸ばそうとした政秀の手を強く握りしめる。


「俺が、この軍の総大将だ。たとえ十四歳の若造だろうが、たくさんの尾張の将兵たちの命を散らせてしまったこの罪は、大将である俺が背負うべきなのだ。こたびの負け戦の責任を取って爺が腹を切るというのならば、俺も一緒に父上の前で切腹するぞ」


 政秀の涙で濡れた眼を真っ直ぐ睨みすえながら、信長は声を枯らしてそう叫んでいた。こんなところで爺に死なれてたまるか、と必死だったのである。


「の……信長様……」


「死ぬな、爺。死んではならぬ。……そなたがいなくなったら、父上も困るし、俺だって困る。以前、俺はそう言ったはずだぞ。お願いだから、腹を切るなどと言わないでくれ」


 最初は怒ったような口調だったが、だんだんと半ば懇願するような声音になっていた。


 孫のように可愛い信長に死なないでくれと必死に言われたら、頑固な政秀でも心が揺るがないはずがない。「分かりました……」と小さく言い、ポロポロと大粒の涙を落とした。


 政秀の言葉を聞いた信長は安堵のため息をもらし、二人のやり取りをじっと見守っていた季忠ら将兵たちもホッと安心していた。

 政秀は織田家にとって欠かせぬ能臣である。そんな彼がこのような敵地で切腹してしまったら、織田家はこれからどうなるのか……。皆がそうハラハラしていたのである。


「信長様、早く逃げましょう。こんなところでじっとしていたら、また敵襲に遭うやも知れませぬ」


 場の空気を読まず、政秀の心配よりも敵に襲われる心配ばかりしていた信盛が、怯えた目で周囲を忙しなく見回しながらそう言った。伏兵に何度も追いかけ回されて、すっかり恐怖症になっているようだ。


「……うむ。だが、長田重元はこの森の中に多くの兵を忍ばせている。無策のまま森を突き進んでも、神出鬼没の敵兵に翻弄されて、再び散り散りになりかねない。ここは一つ、奇策を用いよう」


「奇策、と言いますと?」


 政秀がそう問うと、信長は首にかけていた守り袋から火打石を取り出して、こう宣言した。


日本武尊やまとたけるのみことは、火計によって虎口を脱したという。俺も、それを見習う」

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