業火を放つ・中編

「火計……。この森に火を放つというのですか?」


「そうだ、平手ひらてじい。幸いにも、おあつらえ向きに烈しい北風が吹いている。今、天王の森に火を放てば、燃え盛る炎はたちまち南に広がり、近辺にある敵の村々や田畑を焼き尽くすであろう。そうなれば、敵軍も我らを襲っている場合ではなくなる。炎上する村や田畑を救うために、慌てて戦場を離脱するはずだ」


「その隙に、我々は火が燃え広がっている逆方向――北へと逃げて、森を脱け出すというわけですか。……されど、今も森の南口で敵軍の本隊と交戦している内藤ないとう様までもが火攻めの巻き添えを喰らってしまうのではありませんか?」


 山口やまぐち教吉のりよしが背中の矢傷の痛みに耐えながら作戦の問題点を指摘すると、信長は頷き、「心配するな、俺もそんなことぐらいは考えている」と答えた。


「ただちに勝介しょうすけにこの作戦を伝えて、我らと合流させる。……虎若とらわか。お前、足は速いか」


「へ……へへぇ! 生国の甲斐にいた頃は、韋駄天いだてんの虎若と呼ばれておりました! 山国育ちなので、鬱蒼と木が生い茂った森の中でもすいすいと走れます! 獣道でも、一度歩いたところなら山国生まれの感で迷子になんかなりません!」


 大将から何か仕事をもらえるらしいと思った虎若は、喜び勇んで前へ進み出て、大見得を切った。

 実際には、韋駄天などという立派なあだ名で呼ばれたことなどは、一度もない。ただ、虎若の足が速いのは事実である。甲斐国を飛び出して駿河国を放浪していた時期に、しょっちゅう無銭飲食をして全速力で逃げていたため、足が鍛えられたのだ。


「今すぐ勝介の元へと走り、『虚崩そらくずれ(負けたふりをして退くこと)して森の中へと逃げ込め』と伝えるのだ。勝介の部隊が森で迷子にならないように、お前が先頭に立ってここまで案内するのだぞ」


「承知いたしました!」


「敵の伏兵に捕まらぬように、くれぐれも気をつけろ」


「へい! お任せあれ!」


 威勢よく拳で胸を叩くと、虎若は疾風のごとく走り去っていった。


「……あと、佐久間さくま信盛のぶもり。我が隊の鉄放と火薬を貸してやるから、勝介の撤退を助けろ。長田おさだ重元しげもとの本隊が勝介を追いかけて来たら、鉄放をぶっ放して威嚇するのだ。

 そして、勝介の部隊が敵兵を十分に引き離すことができたら、お前たちの部隊が森に火をつけろ。ほら、火打石と火薬入れだ。受け取れ」


「え⁉ せ、拙者がなぜそんな危険な任務をやらねばいけないのですか⁉」


「お前の部隊が一番元気そうだからではないか。どうせ、敵と遭遇しても戦わずにひたすら逃げ回っていたのだろう? ちゃんと働け、この怠け者め」


「う、うぐぅ……。分かりました……」


 盛大に森を焼くための指図を細々と与えて信盛の部隊を勝介の元へと遣わすと、信長は他の将兵たちにもテキパキと指示を与えていった。


「とりあえず、勝介と信盛が帰還するまでは、我らはここで待機とする。俺が『全速力で走れ』と命令を出したら、当分の間は立ち止まることはできないから、おのおの体力の温存につとめよ。

 それから、俺がぶっ放した鉄放の音を耳にしてここに駆けつけようとしている味方の兵が、まだ近くにいるやも知れぬ。深手を負っている兵がいたら応急の手当をしてやれるように、準備をしておくのだ。

 ……あと、敵部隊の中にも、『さっきの轟音は何事か』と様子を見に来る奴らがいるかも知れない。敵兵が現れたらすぐに迎撃できるように、警戒を怠るな」


「あの……信長様。少しよろしいでしょうか」


 熱血神官の千秋せんしゅう季忠すえただが、彼にしては弱々しい声で、信長に遠慮ぎみに話しかけた。信長は振り返り、「何だ?」と問う。


「この森は、現地の民たちから天王てんのうの森と呼ばれているそうです。織田家の方々は牛頭ごず天王てんのうを先祖代々篤く信仰なされているはずですが、牛頭天王ゆかりの森を焼いてしまってもよろしいのですか?」


 季忠の言葉に、その場にいた皆が「あっ……」と声をもらして顔を青ざめさせた。


 生きるか死ぬかの戦場に身を置いていたため、すっかり忘れていたが、この地は牛頭天王を祀る神社の領地だ。しかも、織田家や尾張の人々は津島の牛頭天王を昔から信仰し、毎年盛大な祭りを行っている。


(お天王様の聖域であるこの森を燃やしてしまったら、我らに災いがあるかも知れない……)


 そう考えた諸将は、顔を見合わせて心配した。だが、信長はあっけらかんとしたもので、


「なるほど。お前も、たまには神職らしいことを言うのだな」


 そう笑いながら、季忠の肩に手をポンと置いた。


 季忠は、あまりにも軽すぎる信長の反応に当惑して、「いえ、冗談を言っているのではなく、本気で心配をして……」と言いながら信長の顔を見た。そして、言葉の途中で押し黙ってしまった。


 信長は、いつもの悪戯っぽい笑みを顔に張り付けている。だが、目は全く笑っていなかった。その瞳はギラギラと危険なほど輝いていて、彼が凄まじく怒っていることを季忠は察した。


 その怒りとは、もちろん、信長と尾張の将兵たちを死の淵に立たせた敵に対するものである。信長は、自害の決意までするほど平手の爺を精神的に追いつめた今回の敵を怒りの業火で焼き尽くさねば気が済まぬと考えていたのだ。


「余計な心配をするな、季忠。これは天の道に外れる行為ではない。天は、俺の行ないを悪とは見なさぬ」


 笑うのをやめた信長は、抑揚の少ない声で静かにそう言った。


「……ま、まことでござるか?」


「ああ。季忠よ、我ら尾張武士の使命とは何だ?」


「それは……尾張の領地と領民たちを守ることです」


「そうだ。俺たちの果たさねばならぬ正義とは、尾張国を守ることだ。そして、我ら武士や尾張の民たちに加護を与えてくれる寺や神社も保護せねばならぬ。かけがえのない身内を――尾張の人々と我らの神々を守るために、俺たちは敵と戦っているのだ。身内を傷つける者たちは、けっして許してはならない。

 敵方の武士、領民、彼らに加担する神仏たち……。我らの敵に回る者どもは、容赦なく焼き滅ぼす。神も、人も、関係ない」


「……つまり、敵が信仰しているこの土地の神仏は、我らの敵であると?」


 信長が何を考えているのかだんだん分かってきた季忠は、恐るおそるそうたずねた。信長は頷き、さらにこう語る。


「この地の牛頭天王は、敵に信仰され、敵を助けている、敵方の神だ。我ら尾張人たちをお守りくださる津島の牛頭天王とは、違う。敵の神ならば、殺してもよい」


 信長のこのあまりにも烈しい言葉に対して、季忠は「な、なるほど……」と曖昧に答えることしかできなかった。ただただ、(このお方の敵ではなくて、本当によかった……)という感想しか出てこない。


 その場にいた他の将兵たちも、優等生な若殿様としかこれまで見てこなかった信長の凄烈な一面を垣間見て、このお方は荒ぶる鬼神・牛頭天王そのものだ、と畏れたり感嘆したりしていた。


 だが、嫌悪感を抱いている者はあまりいない。この時代、主君の器は「頼れる大将か否か」が最も大きな判断基準だった。味方を守るためならば神をも殺す、という信長の激語は味方の武将たちに衝撃を与えつつも、鬼神のごときこの大将に従っていれば我らは安全だという気持ちも同時に抱かせていたのである。


(信長様……。生真面目なご性格ゆえに、そのように極端なお考えを持たれるようになられたのか……)


 ただ一人、傅役もりやくの政秀だけは一抹の不安を感じていた。思い返せば、信長は五歳児だった頃にも、


 ――こんな恐ろしい顔をした牛頭天王が、本当に母上の病気を治してくれるのか? もしも病気がますます悪くなったら……絶対に、吉法師きっぽうしはこの神を許さない。


 などと、幼児とは思えない凄みのある形相で恐ろしい発言をしていた。あの時、幼い吉法師に対して密かに戦慄したことを政秀は今でもハッキリと覚えている。


 信長は、物心がついた頃から、父の信秀から「織田家の嫡男として、お前はこの尾張の国を守れる強い男になるのだ」と厳しく教育されてきた。生真面目な信長は、父の教えを実直に守ろうとして、日々心と体を鍛えてきたが……。


(その修練の結果、信長様は、敵と見なせば味方を守るために神仏にすら挑みかかる勇気を持ってしまった。その勇気が吉と出るか、凶と出るか……。私はいささか不安だ)


 信秀様はもう少しいい加減に信長様を育ててもよかったのでは、と政秀はこの時初めて思うのであった。

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