恒興危機一髪

 盗んだ名馬で走り出した恒興つねおきは、三河国に入ったあたりから自分がどの道を走っているのか分からなくなっていた。でたらめに馬を飛ばし、信長軍とは別の道を行っていることすら気づかなかったようである。


 知らぬ間に信長軍を追い抜かし、そして、知らぬ間に敵地である大浜の領内に到着してしまっていた。


「ここは、どこの村だ? しーんと静まり返って、誰もおらぬようだが……。織田軍が近くまで来ているはずだから、みんなどこかに避難しているのだろうか?」


 道に迷い続けてへとへとに疲れていた恒興は、ゆっくりと駒を進ませながら、大浜街道沿いの村にさ迷い込んでいた。


 人っ子一人いない。そのはずなのに、なぜか無数の視線にさらされているような……。


「何だか不気味なところだな。……もしかして、村人が何人か隠れているのか?」


 この村の家々に長田おさだ重元しげもとの部隊が潜伏しているとは、恒興は知るよしもない。馬を降りると、きょろきょろと周囲を見回しながら「おーい、誰かおらんかぁ!」と呼ばわった。ここがどのあたりの村なのか、村人を探し出してたずねようとしているのだ。敵地のど真ん中だというのに、無防備極まりない。


「と……殿様。かなり見当違いな方角から現れましたが、あれは織田家の斥候でしょうか。見たところ、元服もまだのような幼い顔をしていますが」


「分からん。だが、織田家の斥候だった場合は、我らがここに隠れていることを知られるわけにはいかぬ。息を殺して、あの若武者が通り過ぎるのをじっと待つのだ」


「もしも気づかれてしまった時は……」


「無論、殺すしかない。十二、三歳に見えるが、たとえ若年でも、戦場に立ったからには容赦はせぬ。我が領地を侵さんとする者たちは、全力で、確実に、殺す。それが、民の命を預かる武士もののふの役目というものだ」


 屋内から外をうかがいながら、重元と家臣たちは刀に手を伸ばしていた。


 無警戒な恒興は、自分に強烈な殺意が向けられていることを知らず、村で一番大きな屋敷――重元が隠れている村長宅の前で、


「おーい、誰かいるのだろう! ここがどこか教えろ!」


 そう怒鳴った。そして、我が物顔で屋内に足を踏み入れようとした。


 直後、恒興の眼前で白刃が閃いた。


「う、うおっ⁉」


 反射的に、恒興は身をよじらせて重元の一撃をかわす。

 さらに長田家の家臣たちが続々と斬りかかったが、恒興は転げるように後転しながらもことごとく回避していった。


(この子供、無警戒な馬鹿だと思っていたが、身のこなしはただ者ではないな)


 まさか、不意打ちの攻撃を全て避けられるとは。重元はわずかに焦り、「逃がすな! 殺せ、殺せ!」と叫ぶ。重元ら主従が次の攻撃に移る前に、恒興は脱兎のごとく逃げて、すでに馬に飛び乗っていたのである。あそこまでの迅速な動き、歴戦のつわものでもなかなかできない。相当な鍛錬を積んできたのだろう。


(の……信長様の厳しい修行に幼い頃から付き合ってきて、良かった! あんなの、俺じゃなかったら殺されていたぞ!)


 恒興はがむしゃらに駿馬を疾駆させながら、心の中でそう叫んでいた。


 織田家の次期当主として英才教育を施されてきた信長は、大伯父の大雲だいうん永瑞えいずい(信秀の菩提寺・萬松寺ばんしょうじの住職)や平手ひらて政秀まさひでから学問を学び、内藤ないとう勝介しょうすけや亡き青山あおやま与三右衛門よそうもえんからは武芸をとことん叩きこまれていた。

 信長の乳兄弟である恒興も、信長の厳しい修行に昔から付き合ってきたため、同世代の若武者たちの中でもずば抜けた身体能力を身に着けていたのである(ただし、学問は居眠りばかりしていたため、それほど身に着かなかったが)。


「あの者を信長軍と合流させてしまったら、伏兵の存在がばれてしまう! 射殺せーっ!」


 重元がそう下知すると、弓兵たちが潜伏していた家々から飛び出て、慌てて矢を放った。


 二、三の矢が、恒興の兜や甲冑の籠手をかすめる。恒興は一心不乱に上半身を伏せながら、馬を駆けさせ続けた。

 家老のはやし秀貞ひでさだが大枚をはたいて買った駿馬なだけあって、驚くほど足が速い。瞬く間に、長田軍の矢が届かない距離まで逃げおおせた。


「な、何という足の速い馬だ……」


「殿、いかがいたしましょう。このままでは、あの若武者が信長軍に我らのことを報告してしまいます」


「やむを得ぬ。もうこうなったら、我らもあの若武者の後を追って出撃するしかあるまい。いくら『あの先に伏兵がいる』と報告を受けても、信長もすぐには迎撃態勢を取れないはずだ。烈火のごとく猛攻を仕掛け、第二の伏兵を配置している場所まで織田軍を誘導させるぞ!」


 重元は頭の回転が速く、切り替えも速い武将だ。状況が変わってしまったと見るや、作戦を変更する決断を迅速に行った。


「者共、出陣じゃ!」


 重元軍が、襲撃予定地だった村から出撃した。恒興は、重元軍を後ろに従えているようなかたちで必死に逃げている。逃走するその先にいるのは――もちろん、織田信長の軍勢である。




            *   *   *




「わ、わ、わ! 敵軍が追いかけて来る! お……俺はどこに向かって走っているんだぁ~⁉」


 方向音痴の恒興は、無我夢中で走りつつも、主君の信長の軍勢に自分がすぐそばまで接近していることを知らない。ただひたすら、敵部隊から逃げていただけだった。


 一方の信長軍はというと、先鋒の部隊を率いている内藤勝介が「おや? あれは……恒興ではないのか?」と気づいていた。

 勝介は視力が非常によく、遠く離れた場所に布陣する敵兵のおかしな行動もいち早く察知できるため、軍の先鋒を任せるにはうってつけの武将なのである。


「恒興! そなた、なぜ敵地から駆けて来た!」


 留守番を言い渡されていた恒興が勝手に出陣したという事情を信長から聞いていた勝介は、声が届く距離まで恒興がやって来ると、そう怒鳴って問いただした。


「ああ、よかった! 信長様の軍にようやく合流できた! 

 ……って、そんなことを言っている場合ではありませぬ! て、敵が……敵の部隊が間もなくこちらに……」


「何だ、どうした。敵だと?」


「はい! 敵軍が、かなりの数で攻め寄せて来るのですッ! ただちに迎撃態勢を!」


「この地の領主は不在なのだぞ。そんなこと、あるはずが……。む? 何やら向こうから砂埃が……敵の騎馬兵かッ!」


 勝介は我が軍に迫りつつある敵勢を視界にとらえ、驚愕の声を上げた。

 恒興が駿馬でだいぶ引き離しはしたが、長田重元も必死である。信長軍に迎撃の準備をする時間をなるべく与えないため、猛烈な速さで進軍してきたのだ。


(まさか、我らが大浜を攻撃することを敵が知っていたというのか? こちらの動きが長田軍に察知されてしまったら、我らに内通している者がそれを報せてくれるはずなのだが……)


 そう戸惑い、混乱しかけたが、勝介はさすがに歴戦の勇将である。(いや、今はそんな余計なことを考えている場合ではない! 落ち着け!)とすぐに冷静さを取りもどした。


「皆の者、敵襲じゃ。槍兵、前に出よ。弓兵たちは敵の騎馬隊が矢頃やごろ(射程距離)に入ったら、一斉に射かけよ!」


 将兵たちに素早く指図をして、敵を迎え撃つ態勢を取る準備を開始させた。そして、ほぼ同時に伝令を中備えの信長と平手政秀に遣わし、我が軍に危機が迫っていることを伝えたのである。



「敵襲だと? 大浜は領主が不在で、守備兵もごくわずかだという話だったはずだぞ。大将の長田重元は大浜にいるのか? なぜ、内通者はこのことを我らに報せなかったのだ」


 伝令からの報告を聞いた信長は、驚きながらそう言った。


「内通者は……もしかすると、すでに始末されてしまったのやも知れませぬ」


 政秀が、激しく顔を歪めながら、苦々しい声で信長にそう語る。


 敵は、織田方に情報を流していた裏切り者を殺したうえで、信長軍がやって来るのを待ち受けていたのだ。異変があれば内通者から連絡があるはずだと油断していた織田軍の心理を逆手に取ったわけである。敵方には、よほどの策士が背後にいるのかも知れない。


「つまり、向こうのほうが一枚上手だった、ということか」


「……ということになりますな。申し訳ありませぬ、信長様。私がついていながら、このようなことになってしまうとは……」


「是非に及ばずじゃ、じい。まだ負けたと決まったわけでもないのに、くよくよしても始まらぬ。ここで迎え撃って、敵軍を蹴散らすしかあるまい」


 信長は吠えるようにそう怒鳴ると、刀を勢いよく抜いた。初めての実戦で多少の興奮はしているようだが、十四歳とは思えぬ肝の据わり方である。


(たしかに、是非に及ばずじゃな。今はあれこれと愚痴を言っている場合ではない。何とかして、この危機を乗り切らねば)


 信長に続いて抜刀した政秀は、自分にそう言い聞かせつつも、内心かなり焦っていた。


 絶対に、初陣で信長様に負け戦を経験させるわけにはいかない。

 だが、我が軍を出し抜いた長田重元という武将は相当な手練れだろう。もしかしたら、第二、第三の罠も用意しているのではないか……?

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