雪斎と寿桂尼
「
義元の居室を退出した後、雪斎は西日差し込む館の廊下で
「はて、何のことでしょう」
一瞬だけ嫌そうに顔を歪めた雪斎は、作り笑いを浮かべてゆっくりと振り向く。
夕日を浴びて茜色に染まっている寿桂尼の顔は、相変わらず慈愛に満ち溢れた微笑みをたたえている。
だが、その両の
「とぼけても無駄ですよ。義元殿に報告しなかったことがあるでしょう。何か隠し事をしていることぐらい、あなたの顔色や仕草を見ていたら分かります。今川家の行く末に関わることならば、隠し立てせずに言いなさい。尾張で何があったのですか」
(やれやれ……。この女人にだけは敵わぬ。あの場で報告すべきか否か迷っていたことがあったが、そのようなことはおくびにも出さなかったつもりであったのに)
寿桂尼は、神通力でもあるのではと疑いたくなるほど、陰謀や密か事を嗅ぎつける天才である。
――亡き夫・
と、全神経を使い、今川館の内外に警戒の目を光らせているのだ。
つい二年前にも、遠江
しかし、確たる証が見つからなかったため、彼女は井伊家の奸臣・
御家のためならば、相手が誰であっても容赦はしない。どんな些細な反抗の芽でも摘み取る。それが、寿桂尼という女である。
(さすがに、当家の補佐役である私のことは、寿桂尼様も義元様にとって欠かせぬ存在だと思ってくれているはずだと信じてはいるが……)
それでも、ここで白を切ったら、猜疑心の強い寿桂尼との間に亀裂が生じてしまう恐れがある。気は進まないが、「寿桂尼と雪斎の二人が、義元の治政を支える」という今川家盤石の体制を崩さないためにも、正直に白状しておくほうがまだ無難であろう。そう思い、雪斎は小さなため息をついた後に「実は……」と言った。
「尾張国に、瞳に龍神を宿せし者がいたのです。義元様と同じく、救世救民の英雄となり得る器を持った人物が……」
「何ですって? それは、もしや織田信秀ですか。……いや、しかし、信秀には短命の相が出ていたのでは?」
「信秀ではありません。信秀の嫡男の織田信長です。元々、優秀な跡継ぎだという情報は私の元にも内通者から届いていましたが……。実際にこの目で見て、優秀などという言葉では片づけられない異才を拙僧は感じました」
「……たしか、その者は今年元服したばかりの十三歳の少年だったはず。そんな若造が、私の義元殿と並び立つ才能を持っているというのですか? 信じられない……」
「年齢など、関係ありません。拙僧は、五歳の義元様に英雄となる資質を見出したのですから。
信長は、私が古渡城を来訪する直前に、今川家の使者がもうすぐ来ること、我らが今川と織田の連携を持ちかけるであろうことを予言していたようです」
「つまり、十三歳の少年が雪斎と全く同じ戦略を思いつき、我々の動きを先読みしていたということですか……」
寿桂尼の顔が見る見るうちに険しくなっていく。その少年は義元殿にとって危険だ、と思ったのである。
『史記』に、「両雄並び立たず」という言葉がある。同等の力量を持った英雄が二人いたら必ず争いとなり、どちらか一方が
義元は東海六か国を制覇する野望に燃えている。その野望を達成するためには、必ず尾張の織田家と戦わねばならない。たとえ強敵である信秀が雪斎の予言通りに早死にしたとしても……その息子の信長が義元の前に立ちはだかることになるだろう。
今は若年で武将としての経験が浅い信長だが、二十代や三十代になれば父の信秀よりも厄介な敵になっているかも知れない。雪斎に龍の化身と評された義元と信長が激突したら、どうなるだろうか。両雄が戦ってどちらかが滅びる定めにあるのならば――その死の運命が義元に訪れる可能性も大いにあり得るではないか。
「雪斎が言うからには、その信長という少年は必ずや龍に化けることでしょう。絶対に、
「……寿桂尼様がそうおっしゃるであろうと思い、しばらく黙っていようと思ったのです。現在、織田家とは『互いに
戦時において謀略を用いるのは武門の習いですが、見境なく策を弄するのは今川家の徳を落とすことにつながりかねませぬ。拙僧も、信長という少年が義元様にとって危険な存在となり得ることは重々承知していますが、織田家と盟約を結んでいる今だけは暗殺しようなどと考えるのはどうかおやめください」
雪斎は、こればかりは譲れぬと断固たる態度で、寿桂尼に釘を刺した。
寿桂尼が実行した暗殺謀殺の何割かは、今川家の軍師たる雪斎の仕業だと他国の武将たちには誤解されているようだが、雪斎はあくまでもここぞという
天道とは恐ろしいもので、人間が犯したあらゆる悪事を見ていて、人が天の道に外れたらたちまち天罰が下るのである。そうやって滅びた家を雪斎は何度も見てきた。だから、無闇に策を弄して、罪があるかどうか曖昧な人間を殺したり、同盟国の人間を害したりなど、天道に外れる行為を重ねていたら、危険なのである。主君の義元に天罰が下りかねない。
武家の子である雪斎は、幼い時に親から天道の恐ろしさを教えられていたが、どろどろとした陰謀が渦巻く京の公家社会で育った寿桂尼はいまいち理解していないようである。邪魔な人間は蹴落とせる時に蹴落とせ、と親から教わっていたのかも知れない。
「……そうですか。雪斎がそこまで言うのならば、分かりました」
(いや、これは分かっていないな。瞳の奥の炎が、まだ消えていない)
雪斎は、憮然とした表情で捨て台詞を残して去りゆく寿桂尼の横顔を盗み見て、内心頭を抱えた。
寿桂尼は鷹揚そうな見た目に反して、おのれの意志を強引に貫こうとする激しい気性の持ち主である。
花蔵の乱で義元と庶兄の
寿桂尼は、最初、息子の「できることなら恵探を説得して、和解したい」という考えを甘すぎるとなじっていたが、急に態度を変えて恵探の陣営へ和睦のための直談判に自ら向かった。そして、恵探派の武将に身柄を拘束されてしまったのである。母が敵陣営に捕まったと聞いた義元は、
「私が、甘かった。この乱世で自分と敵対する人間を許そうとしたのが、誤りだったのだ。大事なものを守るためには、心を鬼にしなければならぬ。……これからは、一度敵対した者はけっしてその命を助けぬぞ」
そう激怒して、恵探と戦う決意をしたのである。そして、寿桂尼を救い出し、恵探を自害に追い込んだのであった。
(今思い返せば、寿桂尼様はわざと捕まるために敵地に出向いたのやも知れぬ。我が子の甘さを捨てさせ、義元様に恵探殿を殺させるために芝居を打ったのだ。あのお方は、腹違いの兄との和解を望んでいた純粋な青年だった義元様に修羅の心を持たせ、兄殺しを実行させた。……今川家のためとはいえ、恐ろしい女人じゃ。
信長も、来年あたりには三河攻めで初陣を飾るであろうが……戦場にて寿桂尼様の罠にかかり、若い命を散らさねばよいがのぉ)
雪斎は、屋敷の奥へと消えゆく寿桂尼の背中を見つめながら、心の中でそう呟いていた。
義元を支えるために寿桂尼とはこれからも協力していかなければならないが、今川家の繁栄のためならばいっさいの手段を選ばぬ彼女の凄まじさには時折戦慄すら覚えてしまう……。
「雪斎は有能で頼れる今川家の宰相ですが、しょせんは人生の大半を仏道修行の道に捧げていた坊主ですね。いささかお行儀が良すぎます。汚れ仕事は、やはり私がやらねばいけないようです。
……我が夫・氏親様の英明なる才能を受け継いだ義元殿が東海の覇者となるためならば、私は幾千幾万もの罪を重ねることも恐れません。罠を仕掛けなければ、逆に敵の罠にはめられて滅びるのが戦国の世……。今川家の隆盛を築くことさえできれば、私は地獄に堕ちても構わない」
日が暮れて館内が闇に覆われる中、寿桂尼は独り笑っていた。
志半ばで病の床から起き上がれなくなった夫の氏親を支えるため
病弱で
そして、義元の壮大なる野望の実現と今川家の栄光のため
彼女は女の身でこれまで孤独に戦い続け、人として越えてはならない一線を何度も越えてきた。今さら、恐れるものなど何もない。元服したばかりの未来ある十三歳の少年を謀殺することぐらい、何の問題があるというのか。全ては、今川家のためだ。
※花蔵の乱で寿桂尼が恵探側の武将の元へ行って抑留された、というのは史実らしいです。
寿桂尼のこの不思議な動きの真意は何だったのか、現在でもよく分かっていません。
小和田哲男氏は「将軍義晴が義元の家督継承を認めた文書を突きつけ、家督は私の子に決まりましたと言いに行ったのでは?」(ミネルヴァ書房刊『今川義元』)という仮説を立てています。
また、武田家の史料(『高白斎記』)には「(寿桂尼が)花蔵ト同心シテ」(つまり、寿桂尼が義元ではなく玄広恵探側についたということ)という記述もあり、この時期の寿桂尼の行動にはかなり謎が多いです。(小和田哲男氏は、詳しい事情を知らない武田方の誤解であろうと推測)
そもそも先代当主の今川氏輝も不可解な死を遂げている(同日に、病弱な氏輝が死んだ場合に後継者となるはずだった次弟の彦五郎も死んでいる)ので、今川家の家督相続には我々の想像を絶する陰謀があったのかも知れません。
※次回も来週の日曜日更新予定です。
そろそろ毎年挑戦している角川つばさ文庫小説賞の時期なので、そちらのほうに
も力を入れたいのでもしかしたら夏に近づくにつれて更新が滞るようになるかも
知れません(^_^;) 場合によっては7、8月は休載もあり得るかも……(汗)
休載に入る前に何とか信長の初陣まではやりたいなぁ~と思っています。桶狭間ま
でいけるのはいつの日やら……。
みんな、オラに元気を分けてくれーーーっ!!!
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