東海の龍

 駿府すんぷに帰還した雪斎せっさいは、織田信秀が今川の誘いに乗ったことを義元よしもと寿桂尼じゅけいにに報告した。


「役目大義であったぞ、雪斎。相変わらず、そなたの外交手腕は見事じゃ」


「ははっ、お褒めにあずかり恐悦至極に存じまする。……ただ、信秀が軍を動かすのは翌年にずれ込むやも知れませぬ」


「む? 何故なにゆえだ? 居城を那古野なごやから古渡ふるわたりに移したばかりで、年内はいくさどころではないからか?」


「それもありますが、信秀はしょせん尾張守護の又家来。尾張衆を率いて戦を起こすには、尾張守護・斯波しば義統よしむねと主君の織田大和守やまとのかみ達勝みちかつの許可が要ります。

 斯波家の当主は代々、今川家を目の敵にしていますので、義統が我らと手を組むことにすんなりと頷くとは思えませぬ。信秀が大殿の義統を説得するのに、それなりの時間がかかるはずです」


「遠江を奪われた恨みをいまだに忘れておらぬのか。フン、くだらぬ。遠江はもともと今川家のものだぞ。……よもや、信秀は義統を説得できぬなどということはあるまいな?」


「それは、恐らくありますまい。義統は先代の尾張守護よりは聡明な人物ですし、信秀との間に強い信頼関係があります。最終的には渋々ながらも信秀を信じて、当家と手を結ぶことを許可することでしょう。向こうも、これが一時的な盟約に過ぎぬことぐらい理解しているはずですから」


 雪斎には、尾張国内に内通者がいる。その者と頻繁に連絡を取り合っているため、尾張国の人々の内情を彼は恐ろしいほど詳しく把握していた。

 そんな事情通の雪斎が自信ありげにそう語るのだから、義元も安心して「ならば、良い」と頷くのみである。


「信秀の出陣が多少遅れても、私と奴が手を組んだという事実が三河の豪族たちに大きな衝撃を与えるはずだからな。……それで、織田信秀とはいかなる人物であったか?」


「そう、ですな……。一言で言えば、恐ろしく働き者な男です。新しく作られた古渡の城下町を見てきましたが、秋の初め頃に居城を移転したばかりだというのに、すでに町が整備されていて二、三十年ほど前から賑わっているような有様でした。おのれの新しい城の普請を後回しにして、大急ぎで城下町を整えさせたのでしょう」


「なるほど。城の守りよりも商いを優先するか。民を富ませることこそ国の繁栄の元……。信秀め、なかなかやりおるようだな」


「はい。……ただ、相当短気な性格のようでして、初対面である拙僧のあいさつをろくに聞くことなく、『用件を早く言え』と急かす始末。彼が常に忙しなく働いているのは、あの短気な性格が一因やも知れませぬ。じっとしていられない性分なのでしょう。機を見るに敏な人物なれど、あまりにも性急に事を進め過ぎて足元をすくわれる危険性があります。そして――」


 雪斎はそこまで言うと、いったん口をつぐみ、上座の義元のもとへにじり寄って押し殺した声でこう告げた。


「信秀は、存外、長生きできぬやも知れませぬ」


「む……?」


 師の意外な言葉に驚いた義元は、吸い込まれそうなほど深く黒々とした雪斎の瞳を無言で見つめた。


 雪斎の眼力は凄まじい。今川氏親うじちか(義元の父)が幼い義元の養育係を雪斎に頼んだ際、彼は二度もその要請を断り、三度目で渋々受けた。しかし、実際に義元と会ってみると、


 ――この幼子おさなごの爛々と輝く瞳には、龍が宿っている。この子は一介の僧侶で終わる人間ではない。いずれ天翔る龍神となって、乱世に苦しむ天下万民に干天かんてん慈雨じうを降らすことになるだろう。


 そう直感して、義元の英才教育に心血を注いだ。


 自分は僧侶のまま寺で生涯を終えると信じ切っていた少年期の義元は、師である雪斎の「あなたこそが龍神の化身です」という言葉を半信半疑で聞いていたが、兄の氏輝が急死したことによって駿河・遠江の大大名の座につき、雪斎の予言は正しかったのだと驚いた。


 そんな雪斎が、信秀は長く生きられない運命である、と断言したのである。義元は「まさか」とは言わなかった。


「信秀の瞳に、何を見た」


「本人は無自覚のようですが……激しい焦燥と疲れの色が彼の瞳には映っていました。あれは、生き急いでいる人間の眼です。無意識ではありますが、おのれが短命に終わる定めであることを薄々察しているのでしょう。それゆえ、何かに突き動かされるかのごとく狂ったように働き、命あるうちに自分の使命を果たそうとしているのです。そして、無理が祟って余計に寿命を縮めてしまうのが、生き急ぐ人間の哀れなところでもあります」


「……そうか。だが、私と雌雄を決する前に死なれてしまったら、少々張り合いがないな。私がせっかく宿敵と見定めているのだから、我が手にかかって死ぬまでは生きていてもらいたいものだ」


 二流三流の人間はとことん見下して歯牙にもかけない義元だが、自分が一流の人物だと認めた相手には彼なりの敬意をもって接する。

 味方であれば雪斎のようにその才を今川家のために大いに活かそうとし、敵の場合は「武略謀略の限りを尽くして、必ず我が手で滅ぼしてやる」と恐るべき執着心を胸に抱くのである。それが、幻覚を見るほどおのれに苛烈な修行を課した今川義元という峻厳なる男の敵への愛情の示し方だった。


 だから、宿敵の信秀が早死にするかも知れないと聞いて、あまり嬉しくないのである。天が自分に与えた乗り越えるべき敵は、おのれの大名としての力量をもってして打ち破りたい。敵が勝手に病死するというそんな幸運で勝つのは嫌だった。――義元のそういうところは、自らすすんで厳しい修行に打ち込んでいた僧侶時代と変わっていない。


「そんなに残念がらなくても良いではありませぬか。織田信秀は、義元殿の野望を達成するにあたって最も邪魔な男です。さっさと死んでくれたほうが、こちらは助かります。……雪斎よ。信秀はいつ死ぬのです? 来年? 再来年?」


 寿桂尼は、普段は理知的で物腰柔らかな女性だが、今川家に仇なす者に対しては凄まじい残酷さを見せる女傑でもある。その慈母観音のごとき優しげな声からは想像もつかない物騒な彼女の発言に、雪斎は思わず苦笑を浮かべた。


「……拙僧もそこまでは分かりませぬ。ただ、来年や再来年に死なれてもらっても困るでしょう。今はいちおう信秀は味方なのですから。

 それに、体の不調を感じている気配もなかったので、当分は元気でしょうな。働きすぎて突然糸が切れたように倒れる可能性はありますが」


「信秀の寿命のことはもうよい。雪斎の予言はしょせん何年後のことか分からぬ未来の話。今大事なのは、東三河の反今川勢力を一掃して、岡崎城で震えている松平まつだいら広忠ひろただを再び我が傘下におさめることだ。

 ――雪斎よ。そなたには、戸田氏攻めの総大将として出陣してもらう。副将として天野あまの景泰かげやすらをつけるゆえ、戸田とだ康光やすみつが立て籠もる今橋城を攻め落とせ」


「ハハッ」


 雪斎が平伏すると、義元は満足したように頷き、決然と立ち上がった。


「この戦を、我が野望を叶えるための第一歩とする。武田と結び、北条と講和した今、ひたすら西進あるのみだ。

 日本の東の海を包み込む国々――駿河、遠江、三河、尾張、伊勢、志摩。この六か国全ての街道と港を我が物とすれば、東海地域の銭の流れ、物の流れを完全に支配することができるだろう。そして、私は六つの領国の覇者となり、我が領民たちに干天の慈雨を与えてやるのだ」


 我こそが、東海の龍なり。義元は心の中でそう呟く。


 雪斎が予言した今川義元の運命が、今動きだそうとしていた。

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