子鹿探し

 それから、一刻(約二時間)ほど後。

 信長主従は、ずぶ濡れになって白鹿を探し歩いていた。


 しの突く雨に打たれて、どんどん体温が下がってきている。蓑を身にまとってはいるものの、恒興つねおき教吉のりよしは暴風で笠が飛ばされてしまっていた。


「は……葉栗はぐり郡に入ったと思ったら、この豪雨……。こ、これは本当に白鹿の祟りやも知れませんな……」


 恒興が歯をガチガチ言わせながらそう訴えたが、天から叩きつけるように物凄い音を立てて雨が降っているため、隣にいる信長と教吉には何を言っているのか分からない。信長は「何か言ったか⁉ もっと大声で言え!」と怒鳴った。


「これは! 本当に! 白鹿の祟りやも知れませぬ!」


「聞こえぬから、もっと怒鳴れ!」


「これは白鹿の……」


「ああ⁉ 何だって⁉」


「お腹が空きましたぁーーーッ‼」


「俺も腹が減ったわッ‼ 我慢しろッ‼」


 そうは言われても、雨に濡れて寒いわ、腹が減って力が出ないわで、もうヘトヘトである。恒興はそろそろ音を上げそうだった。

 しかし、信長と教吉は、近隣の村の農民たちと一緒になって白鹿を一生懸命に捜索している。ここで恒興一人が「もう岩倉城に帰りましょう」とは言えない雰囲気だった。


(信長様は生真面目で責任感が強いお方だし、教吉殿は辛抱強い性格だからなぁ。この二人についていくのは、本当に骨が折れる……)


 葉栗郡や隣の丹羽にわ郡の武士たちも白鹿捜索に加わっており、その中にはあの生駒いこま家宗いえむねと息子の家長いえながの姿もあった。


「信長殿、信長殿。今日はもう、子鹿を探すのは無理じゃ。あと半刻もしたら、あたりが暗くなる。この視界の悪い大雨の中で夜を迎えたら危険じゃ。いったん、丹羽郡に戻りましょう。我が屋敷にて夕餉ゆうげを用意させていただきますゆえ」


 家宗に耳元でそう喚かれ、信長は、


(誰だ? この馴れ馴れしいおっさんは?)


 と思ったが、たしかにこのまま闇雲に探しても見つかりそうにない。ひとまず引き上げて、子鹿が隠れていそうな場所を葉栗郡の地理に詳しい者たちに聞いてから捜索を再開したほうがいいだろう。こんな大雨では、信賢もきっと子鹿を見つけてはいないはずだ。


「あい分かった。では、そなたの屋敷で世話になろう。……ところで、そなたは何者だ?」


「おや? お父上の信秀殿からお聞きではありませぬか? 以前、我が娘が信長殿にお世話になった、生駒家宗でござるよ」


「そなたの娘……?」


 いったい何のことか分からないが、生駒家の屋敷でその娘とやらと会えば分かるだろう。そう考えた信長は、素直に家宗の言葉に従い、丹羽郡の生駒屋敷へと向かうのであった。




            *   *   *




 丹羽郡に戻ると、雨は嘘みたいにやんだ。


 このような不思議なことがあるのか、と恒興と教吉は驚き、茜さす夕空を見上げている。信長は葉栗郡の領民たちのことが気がかりで、しきりにもと来た道を振り返っていた。


 一方、我が屋敷に信長たちを招こうとしている家宗はというと、さっきから浮かれ気味に「ふっふっふっ……」とほくそ笑んでいる。息子の家長は気味悪がり、


「……父上。何を不気味に笑っているのですか?」


 と、後ろの信長たちに聞こえないように小声でたずねた。


「ようやく、信長殿を我が愛娘と引き合わせることができるのだぞ。これが笑わずにいられるか。

 ……数年前にわしは我が娘と信長殿の結婚を信秀殿に持ちかけようと思って那古野なごや城を訪れたが、色々と不運が重なって縁談話を信秀殿に言い出すことができなかった。今年の春に信長殿が元服したと聞き、そろそろどこかの姫と結婚するのではと心配していたが……。

 かーかっかっか! 儂の娘は運がいいわい、信長殿がどこぞの不細工な姫を嫁にもらう前にこうして再会できたのだからなぁ!」


「信長殿が妹のことを気に入ってくださるかまだ分からないというのに、物凄い自信ですな……」


「気に入るに決まっている。儂の娘は日ノ本一……いいや、三国一(日本・中国・インドで一番。つまり、世界一ということ)の美女だからな! ふはははは!」


「親馬鹿だなぁ……。まあ、兄の目から見てもあいつはたしかに可愛いですが……」


 父子がそんなやり取りをしているうちに、生駒屋敷のすぐ近くまでやって来た。


 生駒家の領地は、岩倉街道(清須きよす~犬山間を結ぶ道)が通る交通の要衝地であり、すぐ南には尾張上四郡の首都というべき岩倉城がある。藤原北家の末裔という血筋で、財もかなり有している生駒家は、尾張上四郡において特異な立ち位置にある豪族と言っていいかも知れない。


「……む? 何だか甘い香りがするな」


 涼やかな秋風に運ばれて、かぐわしい匂いが信長の鼻孔をくすぐった。


 優しくて甘い、心が切なくなるようなその香りに、信長は強い懐かしさを感じる。


「きっと、あそこの大きな桂の木の香りですね。秋になると、桂の葉は遠くにいても分かるほど甘い匂いを放ちますから」


 教吉が指差した方角を見ると、夕空の下で黄葉を燦然さんぜんと輝かせている桂の大木があった。那古野なごや城の庭にも桂の木はあるが、それの何倍もの大きさである。


 その大木の下で、一人の少女が小さな獣と戯れていた。

 少女は信長よりも少し年下ぐらいに見える。儚げな印象を与える容姿だが、幼い獣を追いかけたり、抱き上げて可愛がったりしている様子はとても活発そうである。たまに聞こえてくる笑い声は、少年のように快活なものだった。


「父上、あれはかえでではありませんか?」


「あ、あのお転婆め。また屋敷を勝手に抜け出しおったか。よく風邪を引くくせして、外で遊びたがるから困る……」


 生駒父子が桂の木の下で遊んでいる少女を見て驚いていたが、信長も目を見張って「楓」と呼ばれたその少女を見つめていた。


「あの娘は、三年前に亀尾山で出会った……」


 そうだ、あの桂の香りの少女だ。彼女とはたった一度会っただけだったが、あの日以来、何度も彼女の夢を見ていた。家も名前も聞かなかったのでもう二度と会えないと思っていたが、まさかこんなところで再会するとは……。


「あ、あ、あ……あああーーーっ‼ 白鹿ぁーーーっ‼」


 初恋の少女との再会に胸の高鳴りを覚えていた信長だが、横で恒興が馬鹿でかい声を上げたため、驚いて落馬しそうになった。教吉が慌てて信長の体を支え、何とかもちこたえる。


「な、何だ、急に。大声を出すな」


「信長様、見てください! 白鹿です!」


 恒興にそう指摘されて皆がよく見ると、楓という名の少女と遊んでいる小さな獣はたしかに白い体毛の子鹿だった。どうやら、こんなところまで逃げて来ていたらしい。


「な、なぜ儂の娘が神の御使いの鹿と遊んでおるのだ⁉」


 家宗の悲鳴に近い驚愕の声が、暮れゆく生駒の里に響き渡った。







<この物語における信長最愛の女性・生駒の方の名前について>


生駒の方(信忠・信雄・徳姫の生母)の名前についてです。


~『武功夜話』では彼女の名前を「吉乃」としていますが、これは生駒家のご子孫が「『武功夜話』の作者の創作で、本当の名前は不明」と発表されているため、この小説では今作品オリジナルの名前を使用する予定です。~


……と、前にも書きましたが、今作品では彼女のことを「生駒 楓」という名前で登場させたいと思います。

この名前をつけた理由はいちおうありまして、『久遠寺縁起』(生駒屋敷 歴史文庫のホームページ参照)によると、信長は愛する生駒の方が亡くなると生駒家の菩提寺・龍徳寺に葬りました。この際、この寺を「嫰桂山久昌寺」と改名しています。寺名の由来は、

「二株の若い桂が久しく昌える」

ということだそうです。


桂の木は、「香りが出る(香出かづる)」が語源だともされていて、とても甘い香りを放ちます。そして、古い時代の歌集『万葉集』では桂の木のことを「かつら」と書いていたようです。


そこで、信長にとって甘い記憶と安らかな思い出がいっぱいの彼女にふさわしい名前として私が考えたのが「かえで」でした。

いや、ストレートに「かつら」でも良かったんですけれどね。

でも、「桂」だとNHKアニメ『YAT安心!宇宙旅行』のヒロイン・天上院桂ちゃんを思い出しちゃうから……(激しくどうでもいい理由)。


というわけで、今作品における「生駒 楓」ちゃんをよろしくお願いします!!m(__)m

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