領主の務め
「話は分かりました。しかし、ここはずいぶんと良い天気ではないですか。もしかしたら、今頃は向こうも晴れているのではありませんか?」
「
盛豊の話によると、母鹿は近隣の農民たちによって保護されたが、信賢に怪我を負わされた子供の白鹿は行方が分からなくなってしまっているらしい。もしも親と離ればなれになった白鹿がどこかで野たれ死にしたら、さらなる災いが葉栗郡の領内で起きるのではと重臣たちも心配していた。
「ならば、神の怒りを鎮めるためにも、一刻も早く白鹿を見つけ出して親の元に帰してやるしかあるまい。ちゃんと探しておるのか?」
「……しかし、なにせ葉栗郡は今土砂降りの雨でして。視界が非常に悪く、子鹿一頭を見つけるのも困難なのです」
「そういうことなら、俺も白鹿探しを手伝いましょう。尾張の民たちが神の祟りを恐れて不安がっている時に、我らが呑気に
信長はそう言いながら立ち上がった。
「おおっ、さすがは兄上の子ですね。なんと頼もしいことでしょう。それに比べて、我が子の
と、喜んだり嘆いたりした。
すると、噂をすれば影が差すとやらで、ドタドタと荒々しい足音が聞こえてきた。信長が振り向くと、ちょうど信賢が肩を怒らせて部屋に入って来るところだった。
「父上! 家臣たちに命じて白鹿を捜索させているそうではありませんか! あんな畜生ごときが人間に天罰を下せるはずがないというのに、父上も家臣たちも大げさです!」
「黙らぬか、馬鹿者ッ。そなたが白鹿を射なければ、このようなことにはならなかったのだぞ。少しは反省しろ」
信安は叱りつけたが、信賢はフンと鼻で笑うだけである。そして、たまたま目が合った信長にニヤリと笑いかけ、
「おう、信長。年若い我らには老いぼれたちが語り継いできた迷信など何の価値もないことを、お前からも父上に言ってやってくれ」
などと、同意を求めてくる始末であった。
信賢は、年の近い信長だったら白鹿伝説など迷信に過ぎないと同調してくれるはずだと思ったのだろう。
しかし、信長は「それはできませんな。白鹿は保護してやるべきです」と即答したのである。
「何だと……? お前まで、くだらん迷信を信じているのか」
「その白鹿の伝説が迷信なのか、真実なのかは俺にも分かりません。個人的には、その子鹿を捕まえて、隅々まで体を調べてなぜ白い体毛なのか突き止めてみたいという好奇心はありますが……。
しかし、重要なのはそこではありませぬ。迷信であろうが、本物の神の御使いであろうが、そんなことは二の次です。一番大切なのは、葉栗郡の民衆がその白鹿伝説を信じているということ……。先ほど寛近の翁から聞きましたが、その伝説は聖武帝の御世には葉栗郡で広まっていたそうではありませんか」
「……それが、どうした。何が言いたい?」
「領主の務めとは、領民たちを守ること。彼らが平和に暮らせる国作りをすること。俺は、父からそう教わってきました。
ならば、尾張の民たちが
「な、な、な……」
信賢は目を白黒させた。自分と大して年齢が違わない信長がまるで成熟した大人のように理路整然と持論を語り、それに対して何の反論も思いつかなかったからである。
後年、天下人となった信長は「奈良において神の御使いである鹿を殺した者は処刑」という慣習に従い、春日大社の
また、奈良の興福寺で相論(訴訟して争うこと)が起きた際、争いの当事者たちに解決を求められた信長はわざわざ興福寺の先例や慣習などを調べたうえで裁決を下した。
現代において「中世の古い価値観をことごとく破壊していった戦国の魔王」という印象を持たれがちな信長だが、統治者としての彼は自分に逆らわない限りは支配下にある人々の慣習を配慮する一面があったのである。
「く……くだらん! くだらんぞ! 何が神の化身だ! 何が神の御使いだ! あんな子鹿、俺が見つけて叩き殺してやる!」
信長に言い負かされてしまった信賢は、感情に任せてそう喚くと、部屋を飛び出していった。
「あっ、まずい! あいつなら、本当にやりかねない!」
信安が
夫よりもまだ肝が据わっている岩倉殿が「追いかけて、止めなさい」と盛豊に目配せすると、盛豊は頷いて信賢の後を追った。
(俺の従兄弟の信清もずいぶんな乱暴者だが、信賢殿はさらに手に負えないな。信清はああ見えて、本当に弱りきっている者には思いやりを見せる優しいところもあるのに。伊勢守家が信賢殿の代になったら、仲良くやっていけるか少し不安だ)
信長は、信賢の酷薄な性格を父の信秀にいちおう伝えておいたほうがいいなと考えた。
だが、今はとにかく、白鹿を探すことが先決である。信長は気を取り直し、
「さあ、俺たちも行くぞ」
と、白い歯を見せて笑いかけた。
「拙者もお供いたしまする」
平手政秀がそう言ったが、信長は頭を振った。
「大雨の中を走り回って鹿を探すのだ。老体の爺はやめておけ。お前には、あと二十年は元気でいてもらいたいからな」
そう言い捨てると、信長は恒興、教吉を引き連れ、岩倉城を飛び出すのであった。
「信長様は、本当に平手様が大好きなのですね」
馬を走らせながら、実直な性格の教吉がそう言った。平手の爺に優しい信長に感動しているようだ。
信長はフフッと笑い、「まあ、平手の爺の体が心配だということもあるが……」と言った。
「白鹿を見つけたら、白い体毛がどんな感触なのかちょっと触って確かめてみたいではないか。平手の爺がそばにいたら、『神の御使いの鹿にベタベタ触ったらいけませぬ!』と止められるであろう?」
「えっ……。そ、そんな理由だったのですか?」
教吉が口をポカンと開けて唖然とすると、信長の悪戯好きな性格を熟知している乳兄弟の恒興は「あははは! 信長様らしいですね!」と大笑いするのであった。
<信長と鹿について>
信長は、天正八年(一五八〇)に春日大社の神鹿を撲殺した男二人を処断しています。奈良においては鹿は聖なる生き物であり、実際にこれ以前にも鹿を殺した者は死刑にされていたので、信長は「神鹿は保護する」という慣習に従ったと見られます。
……のですが!(汗)
『多聞院日記』(奈良興福寺多聞院の僧侶だった多聞院英俊の日記)の天正三年(一五七五)三月二十一日条を見ると、「信長は奈良の鹿ちゃんたちを食べちゃったのでは?」と疑われる記事があるんですよね……。
「信長ヨリノ儀トテ神鹿二頭取テ、京ヘ上了。前代未聞ノ珍事」(『多聞院日記』より)
つまり、信長の命令で奈良の神鹿ちゃん二頭が京都に連れて行かれた……ということです。多聞院英俊さん、かなりの激おこのご様子。
ちなみに、『信長公記』によると、三月二十日に信長は京の相国寺で蹴鞠の会を開き、今川氏真の蹴鞠を見物しているみたいです。その会にはお公家さんたちも招いてけっこう盛り上がっていたみたいですが……。
京に連れられて来た神鹿ちゃんたちを、信長はどうしたのか?
も、もしかして、今川氏真やお公家さんたちをもてなすために、し……鹿料理を……?
「信長が神鹿を殺して宴の客人たちに食べさせた」とはっきり明記はされていないので、実際のところは分かりません(信長って、行動が読めないところがあるし……汗)。
ただ、信長は客人を「お・も・て・な・し」するのが大好きな人だったので(大河ドラマ『おんな城主 直虎』で信長自らが家康に配膳するシーンがありますが、あれは史実に基づいた内容)、信長の脳内で「客人たちへのお・も・て・な・し>>>神鹿ちゃんたちの命」ということになってしまった恐れもあるかも知れません(>_<)
あと、考えられるのは……。
牛頭天王を信奉し、先勝祈願もしていた信長は、けっして無神論者ではなかったはず。できる限り支配地域の慣習にも配慮していた。それでも「神鹿二頭取テ、京ヘ上了」しちゃったのは、当時支配が難しかった大和国の人々に「俺は特別なんだよ? 他の奴らがやったらいけないことでも、俺が本気になったら簡単にできちゃうんだよ?」ということを教えたかったから……なのかも?(^_^;)
近年の研究で「保守的な信長の一面」が脚光を浴びつつありますが、こうして見ると、ただ単に保守的な人物だったわけではないのでは……と想像してしまいます。
でも、まあ、実際は鹿ちゃんたちを食べていないかったかも知れませんしね!
今川氏真 VS 神鹿二頭 の蹴鞠対決が繰り広げられ、その白熱の試合に信長とお公家さんたちが手に汗を握っていたかも! かもかも!
ちなみに、『多聞院日記』天正十九年(一五九一)正月の記事によると、天下人となった秀吉も鹿を連れ去り、多聞院英俊さんはやっぱり激おこぷんぷん丸でした。
この年は、正月に弟の豊臣秀長が病死、二月に千利休が切腹、八月に鶴松(秀吉と淀殿の息子)が病死……と不吉な事件が続いています。
もしかして、神鹿ちゃんたちの祟り……?
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