地獄に生き、夢に死す

「はぁはぁ……。みんなひでぇや。おいらのこと、置き去りにしやがって……」


 薄闇の中、弥右衛門は鉄放を杖がわりにして一人でフラフラと歩いていた。


 井ノ口の城下町からの撤退を開始した信秀軍の行軍についていけず、落伍してしまっていたのである。すでに、信秀の本隊からはだいぶ引き離されているようだ。同郷の兵たちは弥右衛門のことを目障りなお荷物ぐらいにしか思っておらず、片足を引きずって歩いている弥右衛門を気遣うこともなく置き去りにしていった。


 麾下きかの兵士たちに情をかけてくれる内藤ないとう勝介しょうすけも、一兵卒の弥右衛門の心配をいつもしていられるはずがない。たぶん、弥右衛門が部隊から離脱してしまっていることにまだ気づいてもいないだろう。


「敵兵に襲われそうになったら、この鉄放をぶっ放せ。そして、敵が驚いている間に必死に逃げろ」


 勝介はそう言って、この明国渡来の武器を手渡してくれた。

 こんな何の役にも立たない農夫にそんな心配りをしてくれるだけでも、ありがたいと思わなければならない。勝介は鉄放を使い道のない道具だと思っているようだが、そんな武器でも自分に託してくれたことが弥右衛門には泣きたいほど嬉しかった。


「何とかして、この鉄放で殿様や内藤様のお役に立ちたいものじゃが……。このままだと、味方と合流する前に野たれ死にしそうじゃ……。ここはいったい、どこじゃろうか? 向こうに山が見えるが、道はこれで合っているのかのぉ……」


 弥右衛門は、徐々に見当外れな道に迷いこんでいることを知らないまま、歯を食いしばって歩き続けた。


「おい、あんた。こんな所で何やってんだ?」


「うひゃぁー⁉」


 突然、足元から野太い男の声が聞こえてきて、驚いた弥右衛門は危うく転びそうになった。


「お、おめぇ、なにもんだぁ⁉ み、美濃の兵か!」


「違う、違う。俺は、あんたと同じ尾張軍の虎若とらわかという者だよ。まあ、生まれは甲斐かいだがな」


 うずくまって地中に何かを埋めていた男――虎若は、甲斐なまりで笑いながらそう言う。弥右衛門も「おっ……。そういえば、その顔、陣中で何度か見たことがある」と気づき、警戒を解いた。


 浅黒くニキビだらけのその顔はゴツゴツとした岩のようだが、黒々とした大きな瞳はやんちゃな子供のようでなかなか愛嬌がある。人懐っこい性格のようで、ニコニコと無邪気に笑いながら弥右衛門に歩み寄って来た。


「甲斐国から欠落かけおちしてきた百姓か。おめぇこそ、ここで何をしておる?」


「俺か? 教えてやってもいいが、他の奴らには言うなよ? 敵地で略奪した米とか着物を鍋に入れて、地中に埋めておいたんだ。かなり上等な着物を手に入れたからな。陣中に置いておいたら、他の兵たちに奪われるかも知れねぇ。いくさが終わるまでここに隠しておいて、後でこっそり、ここに取りに来るつもりなんだ」


「いかつい顔をして、やたらと慎重な男じゃのぉ……」


「以前、ある戦場で、略奪した一着の着物をめぐって仲間たちと喧嘩になっちまってよ。誤って、一緒に甲斐から逃げて来た幼馴染を殺してしまったんだ。それから、俺は自分の取り分をこうやって戦場の外れに隠しておくようになったんだよ。味方同士でいらぬ殺し合いをするのは懲り懲りだからな」


「そうだったのか……。じゃが、こんな目印も何もない所に隠しておいて、後で分からなくなるのではないのか?」


「それが、簡単に見つけ出す方法があるんだ」


 虎若は弾んだ声でそう言いつつ、略奪物を埋めた地面を指差した。老け顔で声が野太いから三十代半ばぐらいかと思っていたが、その所作は子供っぽく、溌剌はつらつとしていて、とても若々しい。もしかしたら、まだ二十歳前後かも知れない。


「これはある老兵から聞いた話だが、農民たちは敵兵に財産を盗られないように地中に米や着物を隠すことがある。しかし、霜が降りた朝に見てみると、隠し物が埋まっている地面は他の場所よりも早く霜が消えるそうだ。だから、こんな何の目印もない場所に隠しておいても、俺は隠し場所を見分けることができるってわけよ。……まあ、数日経ったら、見分けがつかなくなるらしいから、注意は必要だがな」


「へ、へぇ~……。おめぇ、詳しいんじゃなぁ~。しかし、なぜそんな大事なことをおいらに教えてくれたんじゃ? おいらがおめぇの埋めた物を盗みに来るかも知れんぞ?」


 弥右衛門がそう問うと、虎若は「あんたは、略奪した物になんか興味が無いのだろ?」と甲斐訛りで言って笑った。弥右衛門はそれを聞いて、「えっ」と驚く。図星だったからである。


「なぜ、おいらの心の内が分かる。おめぇ、人の心が読める物の怪か何かか?」


「あっはっはっ、面白いことを言うなぁ。違うよ、物の怪なもんか。あんたの名前、弥右衛門っていうんだろう? あんたと同郷の奴らがそう呼んでいたのを耳にして、気になってずっとあんたの行動を観察していたんだ。……あんたが、俺の死んだ親父と同じ名前だったからさ」


 つまり、この若者は、弥右衛門が戦場で乱妨らんぼう取りに加わっていなかったのを見ていた、ということらしい。


「そうだったか……。お前さんの父親と同じ名前とは、不思議な縁じゃな」


 弥右衛門はそう呟きながら、近くにあった大きな石に腰かけた。左足がもう限界で、立っていられなくなっていたのである。つられて、虎若も横に座る。


「不思議なのは、あんたのほうだよ。そんな足で戦場にやって来たのは、家族を食わせるために、略奪で稼ぐのが目的じゃないのか?」


「…………乱妨取りなんかしても、武功にはならねぇ。おいらは、槍働きで大将首を獲ってお侍になるのが夢なんだ。ずっと、ずっと、それだけを夢見て生きてきた」


「侍だって? あはははは。そんなひょろひょろの体で、士分に取り立てもらえるような大きな武功をあげるのは難しいだろう。とんでもない大風呂敷を言うおっさんだなぁ」


「笑いたかったら、笑えばいい。おいらは、同郷の奴らが仰天するようなでかい武家屋敷を構えて、近所の悪ガキどもにいつもイジメられている息子の藤吉郎を若様と呼ばせてやりたかった。貧乏暮らしで苦労ばかりかけてきた嫁のに、綺麗な打掛うちかけや小袖を着せてやりたかったんだ。

 ……じゃが、それももう無理じゃな。味方の行軍についていけず、こうやってへたり込んで途方に暮れてしまっている。兵として、おいらはもう死んだも同然だ」


 弥右衛門はそう言って自嘲ぎみに笑うと、「じゃが、それでも……それでもだ。こんな体になってもなお、まだ夢を諦められない。おいらは、馬鹿な男だよ」とポツリと呟くのだった。声は震え、痩せこけた頬には一筋の涙が輝いている。


「……悪かったよ、笑って。夢って、大事だもんな。夢がなきゃ、こんな糞ったれな世の中を生きていても、面白くも何ともねぇ。

 俺の生まれ故郷でも、『侍になってやる!』と息巻いていた奴らはいたぜ。俺が子供の時に死んだ親父もそうだったらしいし、同じ村の多助や六兵衛もそんなことを言っていた。

 ……でも、みんな死んじまった。戦で討ち死にしたんじゃない。みんな、ろくでもない死に方をしちまった。甲斐は、農民ふぜいが夢なんて見ていられるような国じゃなかったんだ」


 虎若は黄昏たそがれの空を睨みながら、そう語り出した。拳を力強く握り、顔はだんだんと苦渋に満ちたものになっていく。忌まわしい記憶を思い出しているようである。


「尾張の国は豊かな土地に恵まれているが、甲斐の国は山ばかりで平野が少なくてよ。まったく農業に適していない。暴れ川があって、頻繁に洪水がおきる。飢饉ききんもしょっちゅうあるから、村には毎年のように餓死者が出たもんだ。……俺の親父は、ある年の大洪水で俺やお袋を命がけで助けて、力尽きて溺れ死んじまった。友達だった多助と六兵衛は、四年前の大飢饉で死んだ。

 俺たち農民がこんなにも苦しんでいるのに、甲斐の殿様――武田たけだ信虎のぶとら様は俺たちから鬼のように税を取った。甲斐の土地が貧しいからお侍さんたちも大変だったんだろうが、本当になりふり構わないやり方だったぜ。甲斐では、棟別銭むなべつせん(家屋や家族ごとに課せられる税)を農民たちからとにかくたくさん徴収しようとするんだ。棟別銭だったら、米の収穫量とは関係なく徴収できるからな。他国では年間五十文から百文程度なのに、甲斐では二百文も取りやがるんだぜ? 酷すぎないか? 俺たちゃ、戦場で手柄を立てる夢を見る前に飢えて死ぬしかねぇ。淡い夢を見ることすら、許されねぇ。

 三年前に信虎様が追放されて、嫡男の晴信はるのぶ信玄しんげん)様が新たな当主になったが……。農民たちに課せられる重税は変わらなかった。そりゃそうだ、甲斐には豊かな土地も海もない。他国を侵略して土地や財を奪うか、農民たちから税を搾り取るかしなけりゃ、武士たちも生きていけねぇのさ。

 だが、俺たち農民はもっと地獄だ。たびたび過酷ないくさに駆り出され、重い税に苦しみ、そして洪水や飢饉で無様ぶざまに死んでいく……。それが、甲斐に生きる農民たちのありふれた暮らしなんだ。

 こんな夢のない生き方は嫌だと思って、俺は甲斐国から脱走したんだよ。お袋が薬を買う金が無くて病死した二年前にな。……まっ、欠落百姓になった後も乱妨取りで食いつなぐ毎日に変わりはないんだがな。あはははは」


 虎若は重苦しい空気を吹き飛ばそうとして、わざとらしくカラカラと笑った。


「……俺、久しぶりに夢を語っている奴と出会えて何だか嬉しいよ。あんた、やっぱり俺の親父に似ている。もっと早くに話しかければよかったぜ」


「そ、そうか……」


 弥右衛門は少し気恥ずかしそうにうつむいて微笑むと、手の甲で涙を拭いながら「おいらもお前さんともっと早い内に知り合って、一緒に戦場で戦いたかったよ」と言った。


「明日からは稲葉山城攻めだ。互いに協力しあって、武功の一つでも立ててやろうぜ」


「俺はもう足手まといにしかならねぇ。おめぇさんの乱妨取りの邪魔になるだけだ」


「乱妨取りは、明日は二の次だ。真剣に大将首を狙っていく。あんたの夢を聞いていたら、俺も武士になりたくなってきた。親父や友人が果たせなかった夢を、俺が叶えてやる。どうせなら、斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)の首を獲ってやろうぜ。俺たち二人で!」


まむしの首……。そうか、あいつの首を獲ったら大手柄になるな。どうせ先のない命だ、イチかバチかで大物狙いでいくか……!」


「おうよ。どうせ生きていてもこの現世は地獄だ。夢のために命を賭けて戦うのも悪くないぜ」


「おめぇさんの言う通りだ。夢のために死ぬのならば、何の悔いもない!」


 弥右衛門の顔に、生気が戻ってきた。ここに第三者がいたら「ただの百姓が美濃の蝮を討ち取れるはずがないだろう」と冷ややかに笑われるかも知れないが、夢にとりつかれた人間は最後の最後まで夢を捨てきれない生き物である。弥右衛門は、本気だった。


「よ、よし……。手柄を立てたら、褒美は山分けでどうだ」


「ああ、いいぜ。あんたは鉄放とかいう珍しい武器を持っているからな。それを使って、蝮をぶち殺してやろう」


「……いや、たぶんこの鉄放はあまり役に立たないと思う。なにせ、まったく的にあたらな――」


 そこまで言いかけて、弥右衛門は口をつぐんだ。「どうかしたか?」と虎若が問うと、「しっ……!」と口元に指を当てる。


「馬のひづめの音が聞こえる……。敵か味方か分からないが、騎馬武者が近づいて来ているようだ」


「どうせ味方だろ……って、おい。あれを見ろよ」


 弥右衛門が振り向くと、薄暗い闇の向こうから馬がやって来た。ただし、騎馬武者ではなく、人間を乗せていない一頭の馬である。馬は走り疲れたのか、弥右衛門と虎若のそばまで来るとゆっくりと止まり、草をむしゃむしゃ食べ始めた。


「何だ、こいつ? 少しイライラしているみたいだが……」


「弥右衛門さん。どこぞの大将の馬だということは確かだぜ。こんなにも立派な鞍を背に着けているんだ」


「方角からいって、あの向こうの山から駆けて来たみたいだな。……む?」


 弥右衛門は、馬の背中についさっきできたばかりだと思われる刀の傷跡を発見し、顔を険しくさせた。


「まずいぞ、虎若! あの山に……あそこの山の中に、敵兵が潜んでいる! 急いでこのことを殿様に知らせねぇと、大変なことになるぞ!」

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