蝮の罠
「去る九月十九日。
九月二十二日。尾張
「ほら、母上。大丈夫だと言ったではありませぬか。父上が
「このまま何事もなく、
「尾張と越前の大軍が合流したのです。もう、蝮に勝ち目はないでしょう」
吉法師は、春の方が不安にならないように、
母から漂う甘くて優しい香りを近くで嗅いだのは、幼い時以来のような気がする。
「……ありがとう、吉法師。あなたは優しい子ですね。普段から、こうやってあなたとお話ができたらいいのに……」
「いや、その……。父上に叱られますから……」
吉法師は母に見つめられて照れ臭いのか、視線をあちこち泳がせながらごにょごにょと言った。
政秀は、微笑ましい母子の様子を見て、ニコニコしている。
「わ、笑うなよ、平手の
「いえ、いえ、それがしは笑ってなどはおりませぬよ? フフフ」
「笑っているではないか。まったく……」
そうブツブツ言いながら、吉法師は、
(そういえば、母上と同じ香りをどこかで嗅いだような……)
と思っていた。そして、ふとあることに気がついた。
亀岡山の山道であの桂の香りの少女と出会って以来、吉法師は少女のことをたまに夢に見る。昼間にもたびたび思い出す。そして、少女のことを考えるたび、母の顔が頭をよぎっていた。
なぜあの少女を思い出すたびに、同時に母のことも思うのか。そのことがずっと不可解でならなかったが、母の匂いを久しぶりに嗅いで唐突に理解できた。
(彼女は、母上に似ているのだ。香り立つように甘く優しい匂いが、そっくりなのだ)
またあの子に会いたい、と吉法師は切実に思うのであった。
その少女の父である
そして、この日、信秀が
* * *
同日、美濃稲葉山城。
城内に立て籠もる斎藤利政は、眼下に広がる紅蓮の炎を冷徹な目で見下ろしていた。井ノ口の城下町は、尾張・越前連合軍の放火によってことごとく
「信秀と宗滴のジジイめ、派手にやってくれるのぉ……」
「ち、父上ッ。呑気に城内にとどまっていてよろしいのですか⁉ 城下町だけでなく、近辺の村々も焼かれてしまっているのですよ。収穫したばかりの米は敵軍に奪われ、
「ぎゃあぎゃあうるさいぞ、
「父上は、領民たちが戦火に巻き込まれているというのに、なぜそんな平気な顔をしていられるのです! 彼らを見捨てるおつもりですか⁉」
「黙れッ! 戦の駆け引きを知らないくせに、父に口出しをするでない!」
ピシャリ、と利政は新九郎の腕を軍扇で
(押し寄せて来る大波に逆らっても、押し流されるだけだ。波が引き始めた時こそ、反撃の時よ)
利政は、おのれの軍略を新九郎に語らない。愚鈍な息子に何を言っても理解などできぬ、と見放しているからである。新九郎のほうも、父の冷たい態度で自分がどう思われているのかだいたい察しているので、近頃は父との対話をすぐに諦めてしまうことが多かった。
「弟たちには何でも話してくれるのに、なぜ俺だけが……」
新九郎は涙交じりの声でそう呟くと、城内の百姓たちの混乱を鎮めに行くべく父のそばから離れるのであった。
「……フン。図体がでかいくせに、女々しい奴め。そんな甘ったれた小僧を戦場に出せるものか。そうやってめそめそ泣いておればよいのだ。お前の弟たちは、今日大きな武功を上げるぞ」
新九郎の弟たちは、今、城内にいない。敵軍が攻めて来る前夜の内に、美濃の部将たちと共に密かに出撃してある場所に兵を伏せていた。敵兵たちが城下町を放火するだけ放火して撤退を始めた時、奇襲攻撃を仕掛ける手はずなのである。そして、ほぼ同時に、利政も稲葉山城から打って出る予定だった。
「朝倉宗滴はさすがじゃ。兵たちの動きは一糸乱れず、付け入る隙がない。それに引き換え、尾張の兵たちはてんでバラバラじゃな。信秀の本軍と織田
……信秀の弱点は、あいつが国主でも守護代でもないことだ。朝廷に献金ができるほどの巨万の富を持っていても、しょせんは一奉行に過ぎぬ。同僚の武将たちに遠慮をして手足のように動かせないようでは、奇襲を受けて混乱に陥っても、軍勢を立て直すこともできまい。一気に潰走するだけよ」
利政は独り呟くと、今夜の内には信秀めの首を獲ってやる、と決意を固めるのであった。
* * *
尾張軍の放火と乱妨取りは、なおも続いている。
その様子を本陣から眺めながら、信秀は「ケシカラン殿め、あいつはいったい何を考えておるのだ……」とイラついていた。
秋は陽が落ちるのが早い。あたりが暗くなってから兵を退いたら、敵軍の奇襲にあって混乱に陥る可能性がある。だから、
「もう申の刻になってしまったぞ。朝倉軍はすでに撤収してしまった。敵地の
「我らだけでも兵を退いたらどうですか。言うことを聞かぬ達広様が悪いのですから、置き去りにしてしまってもいいでしょう」
「ですが、あの方は我が殿のことを毛嫌いしておいでのご様子。いくら言っても、聞く耳を持たぬのでは……」
「そういうことなら、
そう名乗り出たのは、信秀の陣を訪れていた寛近の
「おおっ、寛近殿の言うことならば、さすがのあいつも
信秀の要請を受けた寛近の翁は、達広の部隊に使者を走らせた。
(やれやれ。この調子では、明日からの城攻めでも勝手な行動を取りそうだな。先が思いやられるわい)
信秀はそう思い悩み、深々とため息をついた。これであの蝮に勝てるのだろうか、という不安が頭をよぎっていた。
* * *
寛近の翁が使者をやると、因幡守達広も渋々ではあるがようやく撤収命令を兵たちに下した。
かくして、尾張軍は予定よりもかなり遅れて撤退を始めたのである。城下町や村々を焼いて城の周辺を丸裸にしたので、翌日からは本格的な稲葉山城攻めを行う。多くの将兵たちが、圧倒的に兵数が有利な我が軍の勝利を確信していた。
「見ろ、尾張の兵たちが撤退を始めたぞ。今すぐ打って出よう」
「孫四郎兄上の言う通りじゃ。俺たちは、一刻も早く敵軍を撃破して大功を上げたい。我らが、ぼんくらの新九郎兄上とは出来が違うことを見せつけてやるのだ」
「待たれよ、孫四郎殿、喜平次殿。あなたがたの父上は、『軍の半ばほどが戦場から引き上げたところで攻撃せよ』とお命じになったはず。まだ早うござる」
「左様。作戦を乱す行為は、いくら守護代様のご子息でも許されませんぞ」
ここは、
この奇襲部隊の指揮を任されている
孫四郎と喜平次は、父の斎藤利政に似て野心の
「我らは美濃守護・
辟易しながら守就が小声でそう愚痴っていると、孫四郎がとうとう爆発した。
初陣で頭に血がのぼりきっているのだろう。孫四郎は、
「もう我慢ならぬ!」
と急に叫びだして、うおお、うおおおーッ! と狼の遠吠えのごとき雄叫びを上げた。
「ま、孫四郎殿! 落ち着かれよ! 兵を伏せているのに、大声を出す愚か者がおりますか!」
「誰が愚かだ、氏家! 俺は守護代の息子だぞ! 先陣は俺が切る!」
孫四郎は氏家直元の制止を振り切ると、雄叫びを上げ続けながら山を駆け下りだした。そして、疾駆する馬の上で刀を抜こうとしたが――。
「う、うわ⁉ 何だ? 急に馬が暴れ出して……」
刀を抜いた途端、馬が驚いたような鳴き声を上げて暴れ始めた。孫四郎は「どう、どう」と言いながら馬を落ち着かせようとしたが、馬の暴走は止まらず、とうとう振り落とされてしまった。
「孫四郎殿、大丈夫ですか!」
慌てて追いかけて来た守就と直元が声をかける。孫四郎は尻を強かに打って痛そうにしていたが、怪我はしていないようだ。だが、馬は主人を置き去りにして瑞龍寺山を駆け下って行ってしまった。
「おい、まずいぞ。あの馬が山を下りて敵兵に見つかったら、ここに伏兵がいることが尾張軍に勘付かれるやも知れぬ」
「氏家殿の言う通りだ。急いであの馬を連れ戻さなければ」
守就は、精鋭の騎馬武者を四騎選び、孫四郎の馬を連れ戻して来るように命じるのであった。
<おまけ:瑞龍寺山について>
ごめんなさい。作中における「斎藤利政(道三)は、瑞龍寺山に伏兵を置いていた」というエピソードは、お話を盛り上げるための創作です(^^ゞ
この戦いに関する記録はあまり残ってはいないのですが、『信長公記』では「信秀は道三の城下町を焼き払った。夕刻になって信秀が兵を退き始めると、道三は稲葉山城から出撃して信秀軍の背後を攻撃した」と簡単に書かれています。
でも、道三ほどの陰謀家だったら二重の罠ぐらい仕掛けていたかも……と想像し、「瑞龍寺山の伏兵」というエピソードを創作しました。
この戦がある9年ほど前に廃城になるまでは瑞龍寺山には城があったので山道もそれなりに整備されているだろうし、標高があまり高くないので眼下の敵兵めがけて騎馬武者たちが山を駆け下りるのにも適していたのでは……? と個人的に考えています。ただ、あくまでも史料には載っていない私の妄想です(^_^;)
ちなみに、道三は美濃の国主になると、廃城になっていた瑞龍寺山に再び城を築き、稲葉山城の南方の守りとします。信長が美濃攻めを行った際には、この瑞龍寺城を奪って稲葉山城攻撃の足がかりとしたようです。あまり知られてはいませんが、稲葉山城を防衛する際には地理的にかなり重要な場所だったみたいですね。
余談ですが、昭和期に発見された瑞龍寺山の古墳は、
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