父たちの出陣・前編
評定で「美濃を攻める」という方針が決定して間もなく、越前の
――もうすぐ
夏頃には、すでに戦雲が美濃を覆い始めていたようである。
大規模な戦争が、間近に迫っていた。
* * *
蒼天の下、青々とした田園風景が広がっている。こののどかな尾張中村(現・愛知県名古屋市中村区)の田んぼ道をぞろぞろと行軍している兵士たちがあった。
彼らは、領主の信秀に従軍すべく各村から集められた兵たちで、
馬上の勝介に付き従っている兵たちは、信秀の領内で生まれ育った百姓たちばかりとは限らない。一人一人観察してみると、どう見てもただの農民とは思えない勇ましい面構えの
それぞれに色んな事情があってこの織田信秀軍の兵士となったのだが、そんな「色んな事情」を抱えて戦国武将の軍隊に加わっている足軽や雑兵はこの時代にはごまんといた。
勝介のすぐ後ろで「織田信秀様は手柄を立てたら褒美を
元気
欠落とは、年貢が払えない、借金取りに追われている、出稼ぎのために故郷を飛び出した、などの様々な理由で生まれた村から逃亡する行為のことで、この戦国時代にはおびただしい数の「欠落」百姓がいた。逃亡した彼らは危険な戦場で雑兵として生き、食い扶持を稼いでいくしかないのである。
そんな異郷出身の雑兵たちに混ざって、父の形見である一振りの太刀を大事そうに胸に抱えながら従軍している青年がいたが、どうやら彼は元武士らしい。
盛衰興亡が激しい戦国の世である。仕えていた主家が滅亡し、新しい仕官先も見つからず、やがて百姓身分にまで落ちる侍も数多くいた。この若者はそんな「百姓落ち」した元武士の一人なのだろう。
今は農繁期だが、戦国武将たちは季節に関係なく戦争をやる。「この村からは何人徴発する」と通達されると、働き手が不足している村は代納銭を差し出して免除もしくは減免してもらうこともあった。戦争に行っていたから米が収穫できませんでした、となったら困るのは領主である戦国武将だから当然だ。その場合、戦国武将は領内をウロウロしている「わけあり」の者たちを雑兵として雇っていたわけである。
「内藤様ぁー! 待ってくだされぇー! おいらも従軍しますだぁ~!」
空の果て、地の果てまでも響き渡りそうな大音声が後ろから聞こえてきた。
「な、何だ?」と驚いた勝介が振り向くと、猿顔の小男が「おーい! おーい!」と
猿顔の男は左足が不自由なのか、槍を杖がわりにして必死の形相で歩いている。走るどころか、歩くのも困難のようである。
「やっ、お前は
勝介は兵たちを停止させ、弥右衛門を待ってやった。弥右衛門はハァハァと呼吸を乱しながら歩いてやっと追いつき、「ひ、ひでぇや! おいら、まだ死んでねぇよ!」と文句を言った。見た目は痩せこけてずいぶんと弱っているくせに、声だけは馬鹿でかい。
「村の奴らは、前の美濃大垣攻めで負傷して足が不自由になったおいらのことを『戦にも出れねぇ、田畑も耕せねぇ、女房を寝取られた、死んだも同然の役立たずだ』と嘲笑っているが、おいらはこうして生きておりますだ。片足が言うことを聞かなくても、槍働きぐらいできますから、おいらを戦場に連れて行ってくだされ」
弥右衛門は泣きそうな顔で必死に訴えた。
この猿男は小柄ながらも戦場ではなかなか目立つ働きをしていた兵士で、負傷して敵兵に囲まれた勝介をすばしっこい身のこなしを活かして救ってくれたこともある。
だが、全力で走ることもできなくなった今の体では、すぐに戦死してしまうのがオチだろう。足の踏ん張りがきかないので、槍も満足に振るえないはずである。
「よせ。その体で戦場に行けば、絶対に死ぬぞ。お前に顔がそっくりの息子……名前は何だったかな。ええと……猿吉か?」
「
「そう、そう、藤吉郎だったな。お前が可愛い可愛いと自慢していたその藤吉郎が悲しむから、やめておけ。もう七歳か八歳ぐらいではなかったか?」
勝介は足軽や雑兵に混じって敵軍に突進する血の気の多い猛将だが、
「内藤様……。おいらが倅の自慢をしていたことを覚えていてくださったのですか。ありがてぇ。……じゃが、おいらは片足が不自由になってからすっかり病弱になっちまって、たぶんもう長くねぇ。どうせ死ぬのなら、最後に戦場で武功のひとつでも立てて、殿様からご褒美をいただきたいのです。そうしたら、藤吉郎や他の子供たちに数年は生きていける銭を残してやれるから……」
「むぅ……。命の恩人のお前にそこまで頼まれたら、駄目だとは言いにくいのぉ」
どう見てもこいつは戦場で犬死する。そうは分かっていても、
(死を覚悟して戦に赴こうとする
と、根っからの武人である勝介は考えた。自分が弥右衛門のように片足が不自由になったとしても、這いつくばってでも戦場へ向かおうとするだろう。
「分かった。だが、犬死しても祟って出るなよ。途中で歩けなくなっても、置いて行くからな」
「あ、ありがとうございます!」
弥右衛門が戦列に加わり、勝介は再び兵士たちを進軍させた。ところが、
「あんたぁー! 待っておくれ、あんたぁー!」
またもや追いかけて来る者があった。今度はどうやら女のようである。さすがの勝介も農民のために何度も行軍を止めたりはしない。知らんふりをすることに決めた。
「あんた! そんな足で戦に行くなんて無茶だよ! 考え直しておくれってば!」
女はずいぶんと健脚のようで、兵士たちをどんどん追いぬかして、隊列の中央あたりで必死に歩いている弥右衛門にすがりついた。しかし、弥右衛門はムスッとした顔で女を無視しようとする。
「おい、弥右衛門。お前の尻軽女房が話しかけているんだ。返事ぐらいしてやれよ」
同じ中村の百姓が、そう言ってせせら笑う。
弥右衛門はその男をギロリと睨んだが、何も言い返さなかった。実際に、この女――妻のなかは
「す、好き勝手言わないでおくれ! わ……私はただ、お殿様(信秀)の
なかは嘲り笑う同郷の男にそうまくしたてたが、その声は震えていて、顔も真っ赤である。
貧乏な弥右衛門の家が竹阿弥に助けられているのは本当だ。しかし、なかが竹阿弥から銭を受け取るたびに、あの男は「抱かせろ」としつこく迫ってくる。夫の弥右衛門が働けなくなった今、幼い四人の子供たちを食べさせていくためには、竹阿弥の金銭の援助だけが頼りだった。拒めるはずがない。
自分でも、去年生まれた娘のあさひが弥右衛門の子か竹阿弥の子か分からなかった。
「……なか。おいらは、必ず大きな手柄を立てる。竹阿弥なんぞに銭を借りなくても生きていけるように、殿様からたくさんの褒美をもらって来る。だから、止めてくれるな」
弥右衛門は妻の顔を見ないままそう言い放つと、なかの腕を振り払った。その拍子に体の均衡を崩して転倒しかけたが、槍を杖にして何とか踏ん張る。引きずっている左足が痛々しい。
「あんた、やっぱり無理だよ。そんな体じゃ……」
「何度も言わせるな、男の決死の覚悟だ。藤吉郎たちのことを頼むぞ」
弥右衛門は振り向かない。なかは呆然と夫を見送るしかなかった。
後世、豊臣秀吉の実父として歴史に名前を残すことになる、一人の農夫の死出の旅の始まりであった。
※秀吉の父・弥右衛門は、1543年(信秀・朝倉連合軍の美濃攻めの1年前)に死んだと伝えられています。しかし、もともと経歴がまったく不明で謎の多い人物であり、戦場での兵士たちの視点も入れたかったため、私の小説では通説よりも1年延命させました。
(あと、内藤勝介を物語内で目立たせるために、勝介―弥右衛門―秀吉という繋がりを持たせるという意図もあったりなかったり……(^_^;))
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます