二章 父たちの戦国
器用の仁
「細川殿。これをご覧あれ。
「は、はぁ……。それは
天文十二年(一五四三)正月。
雪がまだ残る京都の皇居前。室町幕府の
御所の塀がボロボロだ、と訴えられると、晴元も恐縮して何も言えない。本来ならば、朝廷を保護する立場にある室町幕府が天皇の住まいを修理しなければならないのだが、幕府にそんな金はないのだ。また、日本全国で戦乱が続いている影響で荘園からの税が届かないため、朝廷にも金銭的な余裕はなかった。
「別に、幕府に修理費を全額出せなどと意地悪を言うつもりはない。最初から期待していないからな。……実は、朝廷に献金をしてくれそうな武将が尾張にいるのだ。幕府には、その武将との間を取り持って欲しい。それぐらいのことは、してくれるであろう?」
晴元は、前関白のあからさまな嫌味に眉をひそめた。
この時代、幕府の代わりに朝廷の儀式や皇居修理の費用を出していたのは、有力な戦国大名たちである。たとえば、日明貿易を独占していた西国の大大名・
幕府は、大名が朝廷に献金する時、その仲介役となる。だから、稙家は晴元にこのような相談をしているのだ。
「尾張の武将、でござるか。もしや、織田信秀という男のことですか」
尾張の武将と聞き、晴元は五年ほど前に自分の元に使者を派遣して鷹を献上した男の名前を口にしていた。信秀は、この数年の間に三河や美濃に進出して次々と勝利をおさめ、
「器用の仁」
という
「そうそう、その信秀。信秀は尾張守護の
稙家がそう言うと、傍らにいた若い公家も「信秀ならば、きっと献金してくれると思います」と同調した。
「
若者は勇ましい話や人物に惹かれやすい。年の若いその公家は噂で聞く信秀という武将を気に入っているらしく、そう主張した。
しかし、公家たちの中には、身分の低い信秀に頼ることを嫌う者たちもいるようである。
「尾張の織田信秀のぉ……。そんな成り上がり者にわざわざ頼まなくても、足利一門の今川義元殿がおるではないか。今川家に献金してもらったらどうじゃ」
今川義元の生母・
「まあまあ。皆々、落ち着きなさい。
前関白なだけあって公家たちを取り仕切るのが上手い。稙家は揉め始めた公家たちをなだめ、晴元に改めてそう問うた。晴元も、本来ならば室町将軍の役目である皇居修理を他の武将が出費してくれるのだから、
「承知しました。早速、
かくして、朝廷への献金を求める使者が、尾張へと派遣されることになったのである。
* * *
一方、尾張国の
「
「
「それは残念だな。しかし、今夜は酒席を設けるゆえ存分に楽しんでくれ。……新五郎(
「はい、上手い酒もたくさん用意してあります」
織田信秀は、重臣の林秀貞と共に、伊勢神宮からやって来た御師(信者のために祈祷や参詣の案内をする下級神職)を歓待していた。彼は、信秀が伊勢の外宮に多額の献金をした際、尾張と伊勢を何度も往復して、信秀と外宮の
信秀と個人的に親しくなった彼は、信秀にある頼まれごとをしていて、その依頼の報告に来ていたのだ。
「それで、俺が頼んでいた案件だが……。伊勢出身の剣豪・
「そのことですが……。愛洲殿はもうずいぶんと長い間伊勢に足を踏み入れておらず、どうやら九州の
「……むっ、そうか。
信秀がひどく落胆すると、御師は少し不思議がり、
「たしかに愛洲殿は我が伊勢が産んだ
と、問うた。
「いや、別に吉法師の剣の師匠にしよと考えていたわけではない。噂で聞いたことがあるのだ、愛洲移香斎がかつて明国との貿易に関わっていたことがあると。もしかしたら、北九州の海賊どもと混ざって大陸に渡り、明国で略奪や密貿易を行っていたのやも知れぬ。愛洲移香斎を当家に招いたら、博多・堺よりもはるか東に位置する津島や熱田の港が明国人との貿易に一枚噛むことができる策を授けてくれるのではと期待していたのだ」
つまり、献金をきっかけに伊勢神宮との強い繋がりができたことを利用して、信秀は明国との貿易に関わっていたという噂がある伊勢人の愛洲移香斎との接触を試みていたのだ。しかし、探し求めていた移香斎がすでに他界していたのでは仕方がない。
「……愛洲殿が海賊まがいの行為をしていたと噂する者が多いようですが、それはちと違いまする」
別に愛洲移香斎と会ったことはないが同郷の人間が海賊だと勘違いされているのが嫌だったらしく、御師は少し眉をひそめてそう言った。
「伊勢愛洲氏は
「……なるほど、それは失礼した。だが、そう聞くと余計に残念だな。正式な遣明使の随行員だったのならば、明国の都・
信秀は、遥か海の彼方の異郷に思いをはせ、遠い目をした。貿易で銭もうけすることばかり考えている信秀だが、万里の
「ところで、弾正忠殿。こちらへ参る途中、京から来たという
「琵琶法師ごときが、なぜ朝廷の噂話を知っているのだ」
「琵琶法師たちにも座(同業者の組合)がありまして、その座を
「なるほどな。で、その噂とは?」
「朝廷が、御所の修理費を弾正忠殿に献納させようとしているそうです。弾正忠殿が伊勢外宮の仮殿遷宮に多額の献金をしたことが都で評判になり、そのような運びになったとか。近々、京からの使者がこちらに参るやも知れませぬぞ」
「なんと、この俺が帝のお住まいの修理費を⁉ ……ほほう、たしかにそれは面白そうだ」
信秀は一瞬
ずっと黙って話を聞いていた林秀貞は、信秀の気持ちが分からず、首を傾げた。
「遠く離れた都のことなど我らには関係がないのですし、献金など断ればよろしいのに……。殿は、なぜそんなにも嬉しそうなのですか?」
秀貞がそう疑問を投げかけると、信秀は「そんなことも分からんのか、このぼんやりめ」と笑い飛ばした。
「尾張守護の又家来に過ぎないこの俺が、帝の御所の修理費を出すのだぞ。俺は今、畏れ多くも帝から頼られているのだ。これは、我が名声が京都まで伝わっている何よりもの証拠。ついに俺もここまで来たのか、と喜ぶに決まっているではないか」
信秀は常に京都を意識している。三河で松平軍を破り、美濃で大垣城を攻略したこの数年の間、信秀の心は三河でも美濃でもなく京都にあった。全ては、京都で己の志を遂げるための布石なのだ。その京都に自分の名声が伝わり、朝廷や幕府が信秀の財力を頼ろうとしてくれている……。ここまでがんばってきた甲斐があった、と叫び出したい喜びの気持ちでいっぱいだった。
「よぉし……気力が満ちあふれてきたぞ。新五郎よ、京からの使者がいつ来てもいいように、今のうちから良質な銭を準備しておくぞ」
「良質な銭、ですか?」
「うむ。朝廷に献上する銭だ。欠けたり、
例のごとく、働き者の信秀は多忙になると機嫌が良くなる。豪快に笑うと、「そうだ、いいことを思いついたぞ」と言った。
「吉法師も、もう十歳だ。これを機に、あいつに銭の勉強をさせてやろう」
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