第30話 In the darkness, a place of dreams

 静謐に、満ちていた。

 湿った空気は停滞し、ゆっくりと隙間風を伝い、地下室の中を泳ぐ。

 時折、冷たい滴が地下室の壁を滑り、水はけがよくなるように工夫して組まれた石たちの間を抜け、地面の中へ逃げていく。

 不意に、階段上の扉が開けられた。そのことで空気が大きく掻き混ぜられる。澄んだものと淀んだものが入れ替わるようにして乱れ、やがて扉が閉まると落ち着いた。

「『亡き者と神へ、我は祈りを捧げます』」

 空気が、低い声に呼応して振動する。

 静謐な空間に、敬虔な祈りの言葉が響く。

「『亡き者と神を崇めます。我の祈りを受け入れてください。我の命を見守ってください。どうか、この祈りが届きますよう、願います』」

 ミシェルは、手に持っていた電池式のランプに光りを灯し、階段をひとつ降りる。

 かつん。

 硬質な音を立て、階段はミシェルの身体を支えた。かつん。かつん。歩みなれた階段を、ミシェルは慎重に、暗闇の中を進む。

 やがて地下室の床までたどり着くと、ミシェルはランプを掲げ、中を照らした。

 作業台が、三つ。

 三角形を描くように置かれ、その頂点のうちひとつに、麻の布が掛けられた台がある。丁度、人間が一人分、すっぽりと入っているような大きさのふくらみが、麻布の下にあった。

「この度は、ご愁傷様です」

 ミシェルは、そっとその麻布を取り去る。その下には――穏やかな顔をした男性の、死体が眠っていた。

「マルクス・ウェデマイアーさんの、葬送依頼。確かに承ります」

 そして、漆黒の衣装を身に纏い、歪んで古びた正装帽を頭に乗せたミシェルは、恭しくマルクスの死体に礼をした。

 死体は、散々な有り様だった。

 あちこちが焼け焦げ、肌に爛れを作っている。手足はもぎ取られる寸前で、なんとか留まっているあ状態だ。つながっているものの、組織が丸出しの部分も多く、見ているだけで痛々しい。

「さて……」

 ミシェルは、かつて店――【Michele-rose】にも何度か顔を出してくれたこともあるマルクスの、死に化粧を始めることにした。

「マルクスさん。今、綺麗にします」

 ひとこと告げて、ミシェルはまず皮膚の縫合と転移をするため、道具箱を違う作業台から持ってきた。

 マルクスも、良い人だったとミシェルは思い出す。

 妻思いの人で、戦線から帰る度にミシェルの店から花を買っていくのだ。それも、飛び切りに豪華なものを。

 薔薇、百合、リシアンサス、ガーベラなど、華やかなものを選び包ませる。それが、大体マルクスがする注文だった。

 ゆっくりと、丁寧に。ミシェルはマルクスの傷を縫合し、このあとに着せる衣装で隠れる部分から、顔や首筋などの見える部分に皮膚を移植する。

 徐々に、端整で気の強そうな、如何にも軍人といった風情の表情が取り戻されていく。

「……ここは、仕方がない」

 ミシェルは、そっとマルクスの左腕を取る。その先に、手指は、ない。

 あまりに残虐なことであるが、マルクスの左手は戦火に巻き込まれ、消失していた。指にはきっと、結婚指輪がはめられていたのだろうが、それもまた消失してしまったのだった。

「ごめんなさい、マルクスさん。俺はあなたの指を複製することしかできない」

 再び、ミシェルは黙祷する。痛ましさに、悲しみに、胸の中が満たされる。

 ふう、と一つ息を吐いて、ミシェルは胸の中の感情を整える。

 そうしてから、ミシェルはさらにもう一つの台に用意しておいた、人形の組み立てにも使われる骨組み用の針金と粘土で出来たパテに手を伸ばした。

 ゆっくりと、夜は更けていく――――……


*****


 ミシェルが眠ったのは、マルクスの死に化粧をした晩の午前一時を回った頃だった。

 月の明るい夜だ。

 星々が光を控え、月に主役を明け渡し、天鵞絨(ビロード)の夜は蒼く染まっている。

 そんな夜に別れを告げ、ミシェルはゆっくりと眠りに落ちていく。深く、深く。

 夢の中。

 きっと、今日も夢を見るのだろう、という予感はあった。否、どこか確信すらあった。

 誰かの死を向き合うとき、どうしてだか夢を見ることが多かった。

 それも、明晰夢だ。

 夢の中なのに自意識があり、無意識に邪魔をされない思考や運動が可能な夢。

 ミシェルが夢の中で瞳を開くと、淡い色味があやふやなままに、とりどりに滲んでいる空間にいた。

「夢、か」

 口に出すと、なお一層、夢の中にいるのだということを意識できる。このまま、どこに向かえばいいのか、と逡巡し、ひとまず前に進むことにする。

 数分、歩く。

 何故か少しずつ、ミシェルはマルクスのことを思い出していた。豪胆な性格だが、根はやさしく、部下思いで上官にも好かれている。街の人々のことをしっかりと考え、政治にも精通していた。

 戦で亡くすなど、惜しい人だった。それでも、マルクスはこれ以上の戦火をあげたくないと、レオバルド王国とティーグル国の戦争に参加することを志願した。

 人手不足の戦争に、マルクスは大いに困っただろう。だからこそ、自身が戦線に立つようなことになったのだ。

「早く、終わってくれ」

 ミシェルは、祈る。悲劇が終わることを。

 ふと、前を見る。遠い向こうに誰かがいる。段々と近づいていくとともに、それが誰なのかがわかる。

 彼は、先程。本当につい先程まで作業台で向き合っていた男――――マルクス・ウェデマイアーその人だった。

「よう、ミシェルさん!」

「マルクスさん、何で」

「何でも何もないよ。何でか知らないけど、目が覚めたら綺麗なお兄ちゃんに、ここに来るよう言われたんだ。がはは、どうしてだろうなあ。でも、そのおかげでミシェルさんに会えたぜ」

 荒っぽい言葉遣い。それでも、他人を思いやる心。生前と全く変わっていない。

「何か、俺に残すことでもあったんですか?」

「いんや。どっちかってーと妻のコレットにな。ちぃとばかし遺したい言葉があったんだよ。叶わねえかなあと思っていたんだが、ミシェルさんになら伝えられそうだ」

「そうですか。それなら、俺も嬉しいです。必ず、コレットさんに伝えます」

「まあまあ、そういうことなんだけどよ。それでもこんな業務連絡だけじゃあ寂しいだろう? 付き合えよ、どうせ時間はあるだろう」

「ええ、それなら朝まで」

 ミシェルとマルクスは、少しの間、歩きながら話をすることに決めた。二人は、靄の中をのんびりと歩く。

「なんだかな、ミシェルさんのことだけはわかったんだ。この世界ってのは、故人たち(ひとびと)のもんだと思ってる。だけど、何でかミシェルさんのことだけは、見えたし、触れたんだ」

「俺にですか?」

「ああ。何だったかな……ミシェルさんは掟を厳しく守ってるとか、レーグルがなんとか、ってとある人に言われてよ。でも、その人のことを思い出そうとすると、ぼんやりしちまってどうにも要領を得ないんだよなあ」

「大丈夫です。俺も、そういうことがあったとお伝えくださっただけで、嬉しいです」

 レーグル。ミシェルが敬うシカトリスの土着信仰の戒律をまとめた書だ。他に、ミトロジー、エヴァンジルという教えの書かれた書物もあり、三つをまとめ〈ビリーオ〉と呼ばれる。

 ミシェルは自分が関心を――関心以上のものを持っているレーグルのことを話したかったが、そんな野暮なことを話したくない、というのもひとつあった。二つのうちから、ミシェルは野暮を嫌ってマルクスについての話をすることにした。

「マルクスさんは、どうしてこの夢に?」

「ああ、ああ。うん。なんというかなあ。ほれ、指が千切れちまっただろう」

「左手ですね。先ほど、復元させていただきました。お気に召していただければ」

「そりゃあもう! 無くなっちまったもんが形だけでも元通りになるってのは、嬉しいに決まってる。この上ない」

「ふふ、ならよかった」

「だけんどなあ」

 マルクスは、たっぷりと蓄えた髭をさすりながら言う。

「あいつに、コレットに何にも話さずに来ちまったからよ」

「何か伝え忘れたということですか」

「おう。あいつにな、机の引き出しを探してほしいんだよ」

「マルクスさんの机、ですか」

「そうだ。左の引き出し、それも引き出しの天井に貼りつけてあるんだ。ただ、あんまりにもわかりにくい場所だろ? だもんで、見つけるのも難しいだろうと思ってよ」

「確かに、そこはわかりにくい」

 ミシェルは苦笑した。そんな場所は、たとえ自分でも探すことはないだろう。

「コレットさんに、必ず伝えます」

「がっはは、ミシェルさんは真面目だねえ。だからいい人なんだけどよ。じゃあ、頼んだよ」

「はい、お任せください」

「おう、よろしくな。ああ、そうそう」

 明るい光が、二人の目前まで迫っていた。きっと、朝が近いのだろう。このままミシェルは目覚めるのだ。

「何か、ありますか」

「ちょっとしたことなんだけどよ。ミシェルさん。たしか、ここに連れてきてくれたのは、あんたによく×××××――――」


*****


 ミシェルは、マルクスの葬儀の前にコレットのもとを訪れた。

 悲しみに暮れていたコレットは、酷くやつれ、頬にも目の下にも黒く影を落としていた。

「……ミシェルさん。どうぞ。葬儀のことかい」

「いいえ。マルクスさんからの伝言がありまして」

 コレットは、ミシェルの言葉に弾かれたように顔をあげる。

「あの人が、何か?」

「はい。マルクスさんが使っていた机の引き出し、左側の引き出しを探してほしいと。天板に、あるものが隠れているそうです」

「何が隠されているって」

「そこまでは、俺は聞いていません。けれど、きっと良いものでしょう」

 コレットは、縋る思いで書斎に入る。ミシェルも後に続いた。

 書斎は、多くの本で埋め尽くされていた。マルクスは読書家だったのだ。コレットはまだ埃も被っていない机に近づいて、左の引き出しを開ける。かさかさと音を立てて取り出されたものは、一通の手紙だった。

「これは、ああ、ああ」

 すぐ、コレットの手が動いた。中を改める。入っていた便箋に書かれていたメッセージを、一文、また一文と読み進める度に、コレットの瞳に涙が溢れていった。

「ああ、ねえ、ミシェルさん」

 コレットは、そっとミシェルのことを見る。

「あの人のために、生きていていいんだねえ。あんなに酷い死に方をしたってのに、あの人は全然、なんとも思っちゃいないんだねえ」

「そうでしょう。あなたの自慢の夫なんですから」

「うん。うん。生きるよ、あの人の分まで」

 そう言って、コレットは泣き崩れた。ミシェルは結局、手紙の内容を知ることは無かった。

 だが、解ることはある。

 マルクスは、コレットのことを骨の髄まで愛していたのだ、と。

 これからも、また明晰夢を見るかもしれない。誰かに、何かを伝えたいと願う人が現れるかもしれない。だったら、同じことをするまでだ。

「しかし」

 ミシェルは、ひとつ思案する。

 マルクスが言っていた、レーグルのことだ。彼は、一体ミシェルに何を、

「何を――――伝えたかったんだろう」

【暗いところに夢の場所――Fin.】

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