第28話 Let's get started today.

 胸のすくような青草の香りが、さやかにエクレール川から昇る。

 川よりも少し遠い位置にある【Michele-rose】にも、涼やかな空気が運ばれ、窓の外に身を出していたミシェルの前髪を揺らした。

「ん……いい風だな」

 今日もシカトリスは晴天の模様だった。

 青い空に厚みのある綿雲が点々と浮かんで、絵画に描いたかのような景色だ。

「さて、と」

 ううん、と紅い瞳を細めながら背伸びをして、この辺りに住み着いたのであろう猫に手を振ってから部屋へ戻る。

 寝間着を脱いで、身支度を整える。白銀の髪もしっかりと手入れをし、整髪料で整えた。

 厚切りのハムとオーバーミディアムに焼いた卵を、パン・ド・ミーに挟んだサンドイッチ。そして野菜を刻んだコンソメ味のスープ、深入り豆を使ったビターなコーヒーを並べ、ミシェルは椅子についた。

「『亡き者と神へ、我は祈りを捧げます。遺志を尊び、遺言に法り、亡き者と神を崇めます。我の祈りを受け入れてください。我の命を見守ってください。どうか、この祈りが届きますよう、願います』」

 胸に提げたロザリオを握りしめ、今日の糧に感謝を述べてからサンドイッチを手に取った。

 祈りが終われば、食事が始まる。

 サンドイッチを手に取って、ミシェルは一口、齧る。ハムの塩気と、濃厚な黄身が絡まり、美味だ。

「はあ、素材に助けられるのは、食事も商売も一緒、か」

 大きくため息を吐いて、鼻に抜ける燻製の風味を楽しむ。コーヒーを口に含むと、〈いつもの朝食〉の香りがした。

「今日は、どんな日になるかな」

 ぽつぽつと考えることは、商売のこと――【Michele-rose】と【Ung-rose】のことだ。

 届く封筒の中身は、何だろうか。どんな注文に応えらえるだろうか。誰がこの店に足を運んでくれるだろうか。

 考え事をしていると、食事は簡単になくなった。

 ミシェルは、食事終わりのデザートとして、もう一杯、注いだコーヒーにたっぷりと砂糖を入れた。

 食後、少しの間だけ今日のタスクを整理するため、メモを取る。使い古した万年筆は、子供の頃、大切な人に贈られたものだ。

 クリーム色の紙に、青みがかった黒色のインクが滑っていく。

 商品の受け渡し時間、いくつ商品をつくるか、何時に店を開けて何時に閉めるか……。

 いくつかのタスクを書き出し、頭の中がすっきりしたところで、ミシェルはカップの中身を空にして、食器を下げた。

 台所仕事も全て終え、ミシェルは数日前に恩人からもらってきた箱と、その後、同じ恩人から届けられたいくつもの大きな箱を見つめる。


「……ヴァレリアン」


 大切な、大切な人の名前。

 ぽつりと呟いた声は、窓から入ってきた夏風に吹かれ部屋に拡散されていく。

 思い出の詰まった箱。思い出しかない部屋。思い出ばかりの店。

 ふ、と。ミシェルは笑みを浮かべた。

 ヴァレリアンのことを思い出し、懐かしくなったのだ。同時に、自分が何をすべきかを自覚した。

「さあ、今日も始めよう」

 ミシェルは、一階へ降りていく。

 一階にはヴァレリアンから名前を変えて継いだ花屋が――【Michele-rose】が、待っている。



 両開きの扉を街路側へ開き、店先に花を並べる。

 色とりどりの花――植木のもの、切り花、ミニブーケなど、色彩溢れる花たちを次々に並べていく。

 ミシェルの動きに迷いはない。今日、仕入れた花の特徴や色がしっかりと頭に入っているためだ。

 一通り花を並べ、ミシェルは花たちから少し離れて店先全体のディスプレイを確かめる。

「うん、よし」

 並びに満足したミシェルは、古びた看板を回し、開店を知らせる。


からぁん――……


 丁度、九時になる鐘が鳴った。

「さてと。そろそろ来るだろう」

 ミシェルは通りの向こうの方を見る。少し探すと、簡単にその少年を探し出すことができた。

「おはようございます、ミシェルさん!」

「おはよう、イヴェール。今日もありがとうな」

「えへへ、これもボクの仕事なので」

「助かってるよ。今日は?」

「はい、こちらです」

 イヴェールは、肩に提げていた小さな鞄の中から三通の封筒を出してミシェルに手渡した。

 三通のうち、二通は白い封筒。もう一通は黒い封筒。

「ありがとう。さ、駄賃だ」

 受け取ったミシェルは、イヴェールのために用意してある菓子からロリポップを選び出し、イヴェールに差し出した。

「ありがとうございます。それじゃあ、ミシェルさんにとって良い一日でありますように!」

 イヴェールはロリポップをポケットに仕舞い込み、ミシェルににっこりと笑って見せる。

「ああ、イヴェールにも」

 ミシェルは大きな手で、イヴェールの金のくせ毛を撫でる。撫でられている間、イヴェールは大きな瞳を猫のように細めていた。

 イヴェールのことを見送り、ミシェルは店の中に戻ろうと振り返った。

 と、その時。

「きゃあっ!」

「おっと、」

 眼鏡をかけた女性とぶつかりかけてしまった。

 大仰に驚いた女性は、バランスを崩し膝が折れてしまう。ミシェルは反射的に、女性の手を取って腰を支えた。

「大丈夫ですか、タミアさん」

「あわわわ……ごめんなさい、ミシェルさん! わたしったら、また……」

「いえ、大丈夫ですよ。俺も不注意でした」

 なんとかタミアは体勢を整え、ミシェルの手を借りて立ち上がる。

「はわわ、本当にすみません、すみません……」

 タミアは何度もミシェルに頭を下げる。

「まあまあ、落ち着いてください」

 それでも、タミアはしばらく落ち着くことは無かった。

 やや地味な印象を与える色味の服に身を包んでいるタミア。彼女の内気な性格に似つかわしい。タミアの姿からは木立に隠れる小鳥や栗鼠りすなどを連想させる。

 事実、タミアの所作はところどころ栗鼠のようで可愛らしい。タミアはおっちょこちょいではあるが、細かく動く気の利いた女性なのだ。

「今日は、花のご用命ですか」

「ええ、そうなんです、はい。ミシェルさんにお花を包んでもらいたくて」

「承知しました。どういったものをまとめましょうか?」

「ええと……うーん……えーと……」

 ミシェルの言葉に、タミアは花を選び取ろうと店先をうろちょろする。真剣な顔で何往復もして、じっと見つめては離れ、などを五分も続けただろうか。

 やがて、タミアはがっくりと肩を落とし、ため息を吐いてミシェルに泣きついた。

「ああ、ダメです~。ミシェルさん、やっぱりおまかせしてもいいですか?」

「もちろんです。でも、いつも俺が選ばせてもらっていますが、シックな色合いばかりでいいんでしょうか」

 タミアが選ぶ花は、夏ならばエリンジウムやジニア、スターチスなどあまり彩度が高くない花ばかりだ。

 装飾として自室に飾るのであれば良いけれど、誰かに渡すのであれば少し地味ではないだろうか――ミシェルは、いつもそんな心配をしていた。

「ええ、いいんです。そういう花が、私には似合っているので」

「似合っている、ですか」

「そうですよ。だって、私ったらこんな、おっちょこちょいで、ドジで、華やかさの欠片もない……だから、似合う花って少ないんじゃないかなって、思うんです」

「だからいつも地味な花を」

「まあ、母の遺言っていうのもありますよ。母は、私に『厳かな淑女であれ』って願っていたので。そのくせ、タミアこりすなんて名前付けられちゃって。なんか、本当」

 タミアは、少しだけ目線を下に落として、哀しそうに言う。


「馬鹿みたい」


 その一言が、酷く重い。言葉が、ミシェルの肩に乗って圧をかける。

「タミアさん」

「はいっ!」

 びくり、とタミアは跳ね上がる。自身を責めていた心を見せたことが、恥であると感じたのだろう。

 対して、ミシェルは真剣な顔でタミアに向く。

「今日のご注文は俺に任せてくださるってことで、いいんですよね」

「え、ええ。そのつもりです」

「わかりました。なら」

 ミシェルは、ゆったりと笑う。もう、自分の中で花束の姿が思い浮かんでいるからだ。

 花が差してあるバケツから手際よく彩りをピックアップしていく。その中の多くは、いつもタミアが望んでいるシックな色合いのものだ。

 タミアがミシェルの手際にほれぼれしていると、ミシェルはタミアにつかつかと近寄った。

「え、えと、あの、あの」

 慌てたタミアの横を、ミシェルは通り過ぎる。ミシェルがタミアに近づいた理由は、その後ろにある、大輪のリシアンサスを手に取るためだった。

 薄桃色のレースが重なるように広がるリシアンサスの姿は、位の高い姫君のドレスのようだ。

「ちょ、ミシェルさん。それは私にはちょっと派手すぎるんじゃ」

「大丈夫ですよ、ほら」

 言いながら、ミシェルは手にしていた花たちの中に、リシアンサスを埋める。


 厳かな、姫君の君臨する舞台――――花束が奏でた旋律は、まるで姫君に捧ぐ交響曲だ。


「っ、これ」

 タミアは、息を呑む。素朴な色合いの中に沈むレースの花は、タミアが望んでいる姿に酷似していたからだ。

 タミアの望む姿――舞台女優。美しい装具で飾り、舞台の上で踊り歌う者になりたい。その願いを、ミシェルが作った花束はありありと映していた。

 いつか、こんな風に素敵な舞台に立ってみたい。タミアはそう、願っている。

「こんな、こんな、私」

 す、と、ミシェルは水に濡れた指でタミアの胸元を指す。そこには、ルリビタキの雌を模したブローチが着けられていた。

「タミアさんの、そのブローチを見て思いついたんです」

「え、この子……?」

「ルリビタキ、ですよね」

「そうです、母が、歌がうまくなりますようにってお願いをかけて渡してくれたんです」

「俺はその遺言と、タミアさんの願いの両方を叶えたくなったんです」

「両方なんて、そんな……無理ですよ。歌姫や女優なら、もっと華々しくて堂々としていなくちゃならないですもん。それなのに、ルリビタキの雌みたいな地味な女優に、って母は遺したんです」

「いいえ。お母さまのことももっともですが、それだけのことではありません。事実、このリシアンサスも」

 ミシェルは、大振りな花房を持った花束の主役を示す。薄絹が重なったような花びらが目に鮮やかなのに、シックな色合いに包まれているおかげで主張しすぎない。

「華々しいのに、堂々としているのに、その振る舞いでこんなにも役が変わって見える」

「でも、それはお花だから」

「いいえ。花だけじゃあないんです」

 ミシェルは、花束を作業台に乗せて、枝を剪定せんていする作業に入る。軽快な花鋏の音が、辺りに響く。

「俺たちは、素材というものに助けられるんです。何も、特別に着飾ったりする意味はない。ルリビタキなら、雌なら声で、雄ならその色そのもので、勝負したらいい。そして、人間も」

 花鋏が噛み合う音。紙が擦れ合う音。防水紙が包まれる音。様々な音が鳴り、花束がひとつにまとめられていく。

「だから、タミアさん。お母さまの遺言にだけ縛られていないでください。その眼鏡、伊達だって知っていますよ」

「え、や、やだ、なんで」

「はは、そんなに慌てないでくださいよ。大丈夫、俺が特別、目がいいだけです。だから」

 ミシェルは、再びタミアに近づく。今度の目的は、間違いなくタミアだ。水で冷えた手で、ミシェルはタミアの眼鏡を外す。

「こんないい素材を放っておくのは、勿体ないって思うんです」

 かぁ、とタミアの頬が赤くなった。恥と、褒められた喜びとがぐしゃぐしゃになってタミアの頭の中をかき乱す。どう処理したらいいのかわからなくなった頭は、結果的にタミアの瞳に涙を浮かべさせた。

「でも、だけど、私なんて」

「ちょっとした役しかできないなんて、寂しいこと言わないでください。俺、タミアさんが有望なのも知っているんですよ。これでも、舞台にはちょっと煩いんです」

「う、うう、ううう」

「もう泣かないで。タミアさん、また花のご用命がありましたら、いつでも」

「はい……っ、はい!」

 タミアは大きく頷いて、涙を手の甲で擦りとる。

「じゃあ、これ、母に供えてきますね。これが私のなりたい姿です、って」

「どうぞ、そうなさってください。お母さまによろしく」

 ミシェルはタミアから代金を受け取り、エプロンのポケットに滑らせた。遠くに駆けていくタミアの背中を見送って、ミシェルは改めて店先に並んだ花を見渡す。

「本当、素材に助けられるのは何事も一緒、か」

 そして、ミシェルは事務机の方を、正しくは事務机に乗せてある封筒の方を見る。あの中には、【Ung-rose】に関する書状が入っているはずだ。

 ミシェルの、もう一つの職業――――葬儀屋。

 今夜は、久しぶりに眠れない夜になりそうだ。そんな気がする。

「おっと」

 不意に吹いた河から昇る風に、ミシェルは白銀の髪を押さえる。

 気持ちの良い風が、街を抜けていく。

「悲しいことなんて、なければいいのにな」

 ぽつりと呟いた言葉は、遠く、風に攫われていった。


【さあ、今日を始めよう――Fin.】

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