第27話 peek into the past
汽笛が、駅舎に鳴り響く。
ミシェルとニコラは、キャリエールに来た時よりも少しだけ重くなった荷物を提げて汽車に乗り込んだ。
乗車口から、見送りに来たジークフリートの方を見る。
「ありがとうございました、先生」
「本当に! ミシェルのことはこれからも任せてくださいね。きちんとご飯、食べさせますから」
「くくく、頼んだよニコラ。この馬鹿弟子をしっかり見ててやってくれ」
「はい、もちろんです」
「なあ、馬鹿弟子――ミシェル」
馬鹿弟子、ではなく名前を呼ばれたミシェルは、完全に不意を突かれたという驚きの表情でジークフリートに向き直った。
「は、はい」
「お前さんは……ヴァルに、愛情を注がれて育った。それは間違いない。その証拠を、渡したモンから学べ」
「わかりました。必ず」
決意を胸に、ミシェルはジークフリートへ目礼をする。
もう一度、汽笛が鳴った。とうとうこのキャリエールを離れるときが来たのだ。
「元気にしてなよ、馬鹿弟子」
「ええ、先生も」
「ニコラもね。きっちり墓荒らし頑張りな」
「うう、その言い方やめてくださいよぉ」
「私らから見りゃ、そういうモンなんだよ。ま、精出しな」
「わかりましたよ! じゃあ、またお会いしましょうね、先生」
ゆっくりと汽車が動き出す。手を振りながらジークフリートはそれを眺め、ミシェルたちもジークフリートが遠くなっていくのを、見えなくなるまで眺めていた。
汽車の中に人はあまりいなかった。シカトリスのある海岸方面へ向かう汽車は乗客が少ない。そのため、ミシェルとニコラは広めの升席を選ぶことができた。
「はぁ、疲れたなぁ。ミシェルはどう? 辛くない? あんまり無理しないでね、ジークフリート先生との約束なんだからさ」
「今さっき別れてきた人の約束をすぐ忘れる訳ないだろう。猫や鶏じゃあるまいし」
「あはは、そうだね。むしろミシェルは怨念みたいに記憶力がいいからなぁ」
「誰が怨霊だ。祟ってやろうか」
「うわー、ごめんごめん!」
「……冗談だぞ」
「ミシェルが言うと冗談に聞こえないよ。本当にベッドの隣に立って顔を覗き込んできそうで怖い!」
「お前の中で俺はどんな立ち位置なんだ……?」
そんな軽口を叩きながら、二人は汽車に揺られていく。
少しすると、ニコラは徐々にミシェルの言葉に生返事になり、とうとう欠伸までし始めた。
「眠いなら眠っておけよ。俺も、これを読みたいから」
「ああ、ヴァレリアンさんの」
「日記とか、ノートとかだな。持ち出せそうなものを少しもらってきたから」
「わかった。じゃあおやすみ、ミシェル。ふあぁ……」
そう言い残し、ニコラはことりと眠りに落ちた。ミシェルは子供のようなニコラのことを少しの間、和やかな気持ちで見ていた。
それから、覚悟を決めて、ヴァレリアンの遺した日記帳のページに手をかける。古くなった紙はセピアに色褪せていて、背表紙の糊も劣化している。そっと開いたつもりだったが、微かに紙が軋む音がした。
中表紙にあたるページに、美しい百合のスケッチとともに、日付のような文字列が書かれていた。少し滲んでいるため、判読できない。
「…………」
ミシェルは、スケッチされた百合の美しさに見とれて、ページを捲る手を止めた。美しさだけではない。このスケッチの特徴は、間違いなく、
「ヴァレリアン」
師匠の、ものだ。
ヴァレリアンの筆跡。確実に、この鉛筆のスケッチからはその息遣いを感じることができる。
がたん。汽車が揺れる。揺れにはっとして、ミシェルは次のページを捲ることを思い出した。
次のページは、万年筆と鉛筆の両方が使われていた。と言っても、スケッチをクリアにするという目的ではない。文字を書くのに、そのときあったものを使った。そんな風が見て取れる。
「ふふ、ヴァレリアンらしい」
ノートの筆跡を、辿る。
『今日は、初めてジークフリート先生に花の技術を褒めてもらった。この日記の最初のページを、この項目で始められてよかった。本当にそう思う』
『ジークフリート先生から、エンバーミングのことを習う。故人たちを、こんな風に綺麗にしてあげられたらいいな』
そこまで読んで、ミシェルはジークフリートの年齢を思い出す。
彼女は、そんなに若い頃から講師をやっていたのか、と驚いた。
「ジークフリート先生、そんなときからもう、一人前だったのか」
驚愕を隠せないまま、ミシェルは次の項を読み進める。
『ミリカ先生をからかっていたら、ジークフリート先生に〈馬鹿弟子〉って怒られちゃった。何も、馬鹿っていうことないのになぁ』
くす、とミシェルは笑う。
無邪気な性格のヴァレリアンは、変わっていない。むしろ、その無邪気さは若いときに培われたのかもしれない。
『シカトリスが恋しいなぁ。ベルナール兄さんに花を届けに行きたい』
自分の故郷とも言えるシカトリスの名が出て、ミシェルはどこか懐かしい気持ちになった。
そして同時に――ベルナールが亡くなっているということも、思い出した。
「あの人は、俺に何を伝えたかったのかな」
ベルナールは、ミシェルに何かを伝えたかったのか。それとも、暗喩のみを残したかったのか。
恐らくは、後者なのだろうと見当をつけた。自分でたどり着け、と。そうでなくては、葬儀屋として一人前とは言えないと、ベルナールは伝えたかったのだろう、と。
ぼんやりと、ミシェルはシカトリスに置いてきた自身の店のことや、花のこと、街の人々のことを思う。
もうすぐ着くというのに、早く会いたくてたまらない。
店を空けたのは三日か、四日のはずだ。その間の花の世話はイヴェールに託してきた。イヴェールにあげる褒美は何がいいだろうか。小遣いだけではなく、何か、甘い菓子を渡したい。土産のひとつも買えばよかった。
ミセス・ファンヌの公演もあるだろう。次はどんな役を充てられているのだろうか。どんな役でも、彼女ならまるで自分の人生のように演じられるはずだ。
それならば、マルスにチケットを用意してもらわなければ。他の人々も、様々に暮らしているだろう。
「ヴァレリアン。あんたも、こんな風に大切にしてきたのか?」
日記帳に涙が落ちないように、そっと遠ざけてから閉じる。ミシェルの瞳には、澄んだ滴が揺らめいていた。
車窓から入る、夏の空気を纏った風が滴を落とした。ミシェルが着ている紺色のストレートパンツに、小さな染みを作る。
ひとりでに流れる涙を、抑えることができなかった。ミシェルは、ヴァレリアンが愛したあの街で、シカトリスの街で生きている。大好きな、〈
もしもヴァレリアンが、ミシェルを遺して逝ってしまったことを後悔しているのなら――
「悲しい、な」
どうか忘れてほしい、と、ぼんやりと思う。ヴァレリアンの朗らかな有り様を邪魔してしまうなら。自分が彼の邪魔になってしまうなら。それなら、自分のことなど忘れてほしい。そう、ミシェルは切に願った。
ベルナールはミシェルがレーグルの主に愛されていると言った。シカトリスの掟の礎となるレーグルが、愛している。愛しているのなら、ひとつくらい我が儘を聞いてくれてもいいだろう。心の中に砂が零れ、ミシェルの心を擦った。
「早く、帰りたいな」
身体を背もたれに預け、ミシェルは日記帳を膝の上に置いた。
古い日記帳は薄っすらと日に焼けていて、ページが渇いている。ヴァレリアンの持つ人生を支えていたものだというのに、とても儚く、軽い。
ミシェルは両手を重ね、小さな日記帳を包む。たったこれっぽっちの質量の中に、膨大な量の人生が詰まっていた。
重みを、しっかりと受け止める。車窓から外をのぞくと、青い空に入道雲が昇っていた。いつの間にか汽車は開けた場所を走っている。風を取り入れるために開けた窓から、夏草の香りが届いた。
草花の香りが、ミシェルの思い出をくすぐる。郷愁に焦がれ、目を閉じる。
意識をヴァレリアンとの過去に浮かべ、ミシェルは涙で冷えた瞼を閉じた。
汽車が叩く鼓動が響く。身体に、心に伝わって心音と共鳴する。
赤ん坊が母の手のひらが与える揺らぎで眠りに誘われるように、ミシェルもまた、汽車の律動に意識を受け渡した。
ミシェルは、またいつものように夢を見るのだろう。暗くなっていく視界の中で、そんなことを思った。
だが、今回の眠りは闇の中を漂うばかりで、夢を見ることはなかった。
*****
「あ~っ。やっと帰ってきたね。キャリエールは楽しかったけれど、自分の故郷が一番、心地がいいなぁ。ねえミシェル、早くおいでよ。グラティチュードに行ってユリナさんに報告しよう。ほら、ねえ」
「急ぐなよ、ニコラ。そんな風にしてると――」
「わあっとっと!」
「段差に
「もっと早く言ってよ、ミシェル……」
「お前が慌てるのが悪い。足元、大丈夫か」
「うん。ひねってもくじいてもいないよ」
「ならいい。さ、グラティチュードに行くんだろ」
「行く! 行こう、ミシェル!」
二人は切符を返し、駅舎を出る。荷物は重いが、心は軽い。たっぷりと蓄えた旅の思い出が浮力になって、足取りの力になった。
グラティチュードへ向かう途中、ミシェルはじっくりとシカトリスの街並みを見た。
駅舎から出ると、まず大きなオペラハウスが目に入る。白い外装が夕日に照らされ、朱色に輝いている。
市場の大通りへ向かうため、川沿いを歩くと港町も見えた。小さい街ながら、この港があるおかげで物流が良く、生活が豊かになっている。
大通りに入る手前で、ミシェルは川の向こう岸を見る。大市場とは少し離れた、商店の並ぶ通りの一角に【Michele-rose】がある。
「――――ああ」
幸せに満ちたため息が、ミシェルの口から溢れる。何かを続いて言おうとしたが、言葉にならず、目前の光景に溶け込んで消えた。
「どうしたのさ、ミシェル。なんだかちょっと黄昏てる?」
「はは、ちょっとな。ヴァレリアンもこの街を愛していたと思うと、感慨深いなと思って」
言いながら、ミシェルは街よりもひとつ、川の水面に降りたところにある公園を臨む。
からぁん――……
無邪気に遊ぶ子供たちが、夕方を告げる教会の鐘の音を聞き、またね、また明日、と声をかけあって散っていく。その中の一人が、ミシェルの顔を見つけ、
「花屋さん、こんばんは~、またね!」
と、すれ違いざまに挨拶をしていった。子供の方を振り返り、ミシェルは荷物を持っていない右手で子供に手を振った。
「この、景色を大事にしたい」
ぽつりと呟いた言葉は、覚悟だった。ミシェルの中で、しかと固まった思い。
ミシェルが零した言葉に、ニコラは笑って言う。
「それでいいじゃない!」
「……そう、かな」
「そうだよ。もしもヴァレリアンさんを追いかけたり、主を求められなくなっても、ミシェルにはこの街と景色と、生きてる人々がいるんだ。ミシェルの大事なものは、過去にだけじゃなくって、現在にも未来にも、ずっとずっと先の明日にもあるんだから」
ニコラは、憧憬に浸るミシェルに一歩近づく。ミシェルがニコラを振り返ると、ニコラは子犬がするような人懐っこい笑みをしていた。
「さ、行こう。『みんな』が待ってる」
ニコラの笑顔が、響く。
大切にしたいもののひとつに数えた、友人の――大事な友人の笑顔。
この笑顔を、守り通そう。
「ああ、行こうか。喉が渇いてる、まずは麦酒でももらおうか」
「えーっ! またお酒飲むの!? まったく、ちゃんと他にご飯も食べるんだよ」
「うーん、腹はあんまり空いてないんだよな。むしろ今日の朝飯が残ってるような心地だ」
「ほんとにもう、小食なんだから。いい? 人間には必須栄養素ってものがあってね、それが欠けると死体の損傷とか骨の穴が」
「はいはい、飯の前には仕事は抜きだ」
「もう~……」
二人は、黄昏時の街を歩く。
ゆっくりと、シカトリスの街は月明りとともに夜を過ごし、次いで朝を迎えるのであった。
【憧憬に浸る――fin.】
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