第10話 A small happiness

「よう、ジャン爺」

 ミシェルはその店の前で店主にそう声をかけた。手には彩り豊かな大降りの花束を持っている。添えられたカードには、この店の二十周年を祝うミシェルからの言葉が書かれている。

 店の前には多くの花束や飾りが置かれ、それらのどれもがこの店が二十年続いたことを祝うメッセージが添えられていた。

「来たか、エリィ。また豪勢なもん持ってきたなぁ」

 答えたのは老年の、黒いベストを着込んだ、シルバーアッシュの髪と口ひげをきっちりと整えた男性だった。

「その呼び方、やめてくれよ。もう俺も子供じゃないんだぜ」

 ジャンに呼ばれたミシェルは、いつもよりもややフォーマルな格好をしていた。濃紺のスラックスに同色の燕尾のジャケットを羽織り、胸には華美すぎず、しかし華やかな場にふさわしい、銀でできた鳩のブローチをつけていた。

「しゃらくさいわ。ヴァルが生きておる頃からお前さんはわしの孫みてえなもんなんだ。いつまでたってもチビ助のまんまだよ」

「はは、そう言われちゃあな……」

 苦笑するミシェルから、ジャンは花束を受けとった。

「入りな、エリィ」

 花の世話を終えたジャンは、ミシェルのことを店に入るように促した。

 深い、深い紅で統一された店内。ベルベットの絨毯は年期が入っているにも関わらず、柔らかい踏み心地が保たれており、ブラウンのカウンターは汚れひとつなく磨かれている。

 柔らかい、間接照明。目立つ明かりはあまり設置されていない。カウンターに据えられた席ひとつにつきひとつだけ、カウンターの上を舞台にするかのように、吊り下げ式のシェードランプが部分的に明るくしていた。

「いつ来ても、良い店だな」

「たりめぇさ」

「これ、この店とジャン爺に」

「ああ、どうもな」

自立するように作られたその花束をカウンターの端に置き、ミシェルの方に向き直った。

「この店ももう二十年か」

「わしにとっちゃまだ二十年よ。自分の店を持って、やっとこれだけの時間が経った」

「前の店の……ミランダさんの葬儀も、俺が手筈を踏んだよ」

「ああ、あれは良い式だった。兄さんも喜んどることに違いなかろう」

「まだジャン爺の葬儀はしたくないぜ?」

「バカを言うな。まだまだ意地汚く生きてやるわい」

 ジャンはしゃん、と背を伸ばし、穏やかだが切れ味のある瞳でミシェルを見据える。そうして、こう言った。

「ご注文は?」

「いつものを俺と、ジャン爺に。俺の方はロックで頼むよ」

「かしこまりました」

 ジャンはすぐにミシェルのキープボトルである、上等な琥珀色のウィスキーが入った瓶を背後の棚から選び出し、カウンターに置く。ミシェルはその瓶を見てひとつ、頷いた。

 それを確認するや否や、ジャンの手が素早く作業台の上を動く。底の厚いロックグラスと、細身でカット加工がされたロンググラスが作業台に乗せられ、ロックグラスには球状の氷が、ロンググラスには大きめだが透明で、端の丸い氷、そしてそれぞれのグラスに適量のウィスキーが入れられる。

 ロックグラス、ミシェルが注文したものをカウンターの上を軽く滑らせて。

「どうぞ」

 と一言添えた。

 皮手袋越しでも、ウィスキーが凛と冷えているのが伝わる。

 その手捌きにミシェルが見とれている間に、ジャンはロンググラスにトニックウォーターを注いで軽くステアし、ライムの飛沫を飛ばす。琥珀色の液体は輝く黄金のハイボールに形を変えた。

「流石だな、ジャン爺。本当に今年で八十かよ」

「阿呆、もう八十一だ」

「おっと、そうだったか」

「お前さんの方が老いたか?」

「ジャン爺にそう言われちゃお仕舞いかな」

「まだまだだな、お前さんも」

「そうだな。ジャン爺には敵わないよ。……じゃ、この店の二十周年と、新たな門出に」

 ミシェルは言葉とともにグラスを軽く、ジャンの方に掲げる。それを受けて、ジャンもハイボールのグラスを掲げた。各々、グラスから一口、酒を飲む。

「はぁ、美味い。自分で注いでもこうはならない」

「素人に同じことができるんなら、アルティザン国家資格なんざ紙切れ同然の価値にしかならんだろう。有資格者として当然のことだ」

「資格か、資格ね。俺も昔は毎日、必死に勉強したっけ」

「奴も毎日のようにここで愚痴をこぼしていたぞ。自分が教師としてなっていないだのエリィの期待に応えられていないだの、な」

「はは、本当かよ」

「おうともさ。ふふ、あれからどれだけ経ったかな。エリィ、お前さんいくつになった」

「そろそろ三十半ばだよ」

「そうかそうか。わしも年をとるわけだ」

 にこやかに、和やかに二人の会話は続く。ときどき、二人は思い出したように笑う。

 そんな穏やかな時間ののち、ぽつり、とミシェルは小さく言葉をこぼした。

「本当なら、ここにヴァレリアンも居られたら良かったんだけどな」

「そうさなぁ。惜しい奴を亡くしたよ」

「ジャン爺。できれば、ヴァレリアンにも」

「レーグルに反するもんじゃないぞ、チビ助」

 ジャンは、ミシェルのことを鋭い目付きで見据え、そう言った。

 その瞳に、ミシェルはアルティザンに残された聖書のひとつ、ビリーオの言葉を暗証する。

「……『亡き者に無為に喜びを捧ぐことなかれ。常に、彼らを尊び、崇めよ』か」

「良くできた。その一杯をおごりにしてやろう。それで手を打て」

「……ああ」

 ミシェルは暗唱したその言葉を、頭の中で反芻する。何度も噛み締めるうちに、言葉はミシェル自身の声でなく、懐かしいヴァレリアンの声となって響く。

「ビリーオは、掟だらけでガキの頃は嫌いだったな」

「子供はみんなそう言うさ。聖書なんてそんなもんだろうよ」

「そう言ったら元も子もないだろ」

「いんや、あるかもしれんぞ。わしは格言のエヴァンジルが嫌いだし古事記のミトロジーを信じておらん。掟のレーグルはうざったい」

 ジャンの言葉を聞いて、ミシェルは大きくため息をついた。

「ビリーオ全否定かよ」

「ああそうさ。お陰で神様に嫌われているのか、迎えの姿をちらりともみたことはない」

「神様ね」

「わしゃ己しか信じておらんからの。今のはヴァルへの……ヴァレリアン・アンダーグラウンドへのちょっとした敬意だよ」

「そう、か」

「そうさ。死んだ奴には口が無い。だが心を察して代弁することくらいできるさ。ヴァルの奴なら、お前さんの行動をそう言って咎めただろうよ」

「本当に、ジャン爺には敵わねえな」

「たりめぇだよ、エリィ」

 そうして、店の中に少しだけの静寂が訪れた。ゆったりと、小さな音で流れるジャズミュージックだけが店の空気を揺らしている。

 心地よい、静けさ。ミシェルはこの空気が好きだった。ヴァレリアンにたまに連れてこられ、甘いジュースを与えられているときも、ヴァレリアンとジャンの間に流れる心地よい空気に、無音の言葉に、憧れを覚えていた。

 そして、今こうして自分がヴァレリアンと同じようにアルコールを楽しみ、ジャンとの心地よさに身を預けていることを誇りに思っている。

 咎められはしたが……それでも。ミシェルはこの場にヴァレリアンがいないことを残念に思う。

(ヴァレリアンと、杯を交わしたかった)

 その小さな願いは、永遠に叶わない。

 叶うことのない願いを口に出す前に、ミシェルはウィスキーでそれを飲み込んだ。

 少しばかりの静寂。レコードの上を滑らかに滑る針が奏でるジャズのゆったりとした響きだけが店内を満たす。


りぃん……


 ミシェルのグラスの中で、氷が揺れた。小さなその音すら、ミシェルは過去の恩師であり育て親であるヴァレリアンの行動に重ねて、久しく流していない涙がこぼれそうになる。

「わしは何も見とらんぞ」

「……ジャン爺」

「悲しみは、時に酒の肴になるもんだ。それを見ぬのも有資格バーテンダーの腕よ」

「は、本当に。ジャン爺には敵わねえなぁ」

 両目を、薄手の皮手袋で包まれた右手で覆う。

 熱いものがこみ上げ、涙腺から流れ落ち頬を伝う。

「ヴァレリアン」

 再び、ミシェルはその名前を呼んだ。



 幼いミシェルと、ヴァレリアンが出会ったのは、本当に偶然の一言で片付けられるような簡単なものだった。

 そのときミシェルは飢えていて、喉も渇いていた。だが、ミシェルの生まれたその町、アンタンスでは『白銀の髪に紅い瞳の者は災厄をもたらす』として忌み嫌われていたため、助ける者は誰もいなかった。

 助けるどころか。

 アンタンスに広まった新たな信仰、『ラポカリトス』からもミシェルの髪と瞳を蔑まれ、迫害される日々を暮らしていた。

「もう、終わりなのかな」

 寒い冬だった。

 家もなく、頼る人もなく、食べるものもない。

 冷たい煉瓦敷きの路地横たわり、心ばかりの防寒着――もとい、ぼろきれを身に付けて、ミシェルは命の終わりを悟っていた。

 冷たく白い雪の花びらが、ミシェルの投げ出された冷えきった手のひらに舞い落ちて、時間をかけて溶けていった。

「こんな風に、いなくなるのかな」

 儚げな姿にも、凍ったミシェルの心は揺さぶられなかった。

「あーあ……俺も、たくさんの花に囲まれて」

「囲まれて、どうしたいんだい?」

 はっとした。ミシェルの知らない声が、路地の向こうから聞こえたことに、恐怖を覚えた。

 また、殴られる、痛いのは嫌だ。

 恐怖心だけが、冷えて強張ったミシェルの体を動かす。だが、必死の抵抗は虚しいものにしかならず、路地の向こうに見えた影はかつかつと革靴の音を立ててミシェルに近づいてくる。

「や、嫌だ、やめろ!」

 白い息と叫びが、ミシェルの口から吐き出される。

「だめ。やめないよ。ぼくがしたいのは――」

 何かを持った手がミシェルの頭の上から被さる。ミシェルはぎゅっと目を閉じて、痛みに耐えようと気を張った。

 その恐怖に反して、ミシェルには奇跡が起こった。


 暖かい、ケープが首にかけられた。


 何が起こったのか、ミシェルは瞬時に理解できなかった。黒いケープは上品に毛皮で装飾がしてあり、生地も上等だ。それがミシェルの体を暖める。

「こういうこと、だからね」

 それが、ミシェルとヴァレリアンの出会いだった。

「ぼくのことは、まだ信じなくていい。これからまた、何度かこの町に訪れるよ。だから、少しずつ心を開いてくれたら嬉しいな」

 そうして初めて、ミシェルはヴァレリアンの顔を見た。

 燃えるような赤い髪に、金色の瞳。薄い唇は笑みの形に弧を描き、整った顔立ちは優しい表情を湛えている。

「君の名前は?」

「……ミシェル。姓はない」

「そうか。ぼくはヴァレリアン。ヴァレリアン=アンダーグラウンド。そのケープは君にあげるよ」

 優しい表情をしたヴァレリアンは、そっとミシェルの頭を撫でた。

 ミシェルにとって、初めての経験だった。それが『嬉しい』ことなのかどうかも、ミシェルにはわからなかった。ただ、むず痒いくすぐったさが銀色の髪にうっすらと残り、それがどうにも心を浮き立たせた。

「アンダーグラウンドさん。どちらにいらっしゃいます。そろそろ葬儀のお時間です」

「はい、ただいま。じゃあね、ミシェル。また会おう」

 優雅に手を振って去っていく、喪服に身を包んだヴァレリアンの姿を、ミシェルはずっと、見えなくなるまでずっと、見ていた。



「なあ、ジャン爺」

「なんだいエリィ」

「俺は、ヴァレリアンのことを幸せにできたのかな」

「さぁな。言ったろう、死人には口がないんだ」

「俺が想像するしかないってことか?」

「そういうこった。お前さんは、どう思ってるんだ」

 ジャンの問いに、ミシェルは一瞬、口ごもる。それでも、ミシェルは言葉を絞り出した。

「少し、だけ。おこがましいが、少しだけでも幸せになってくれたと思ってる。そうであってほしいと、願ってる」

 グラスを傾け、氷をもてあそびながらミシェルは言う。

「俺が幸せになることで、ヴァレリアンが幸せになってくれたのなら、それがヴァレリアンにとっての幸せなら――どれだけ、嬉しいかわからない。だからこそ、俺は願ってる。ヴァレリアンに捧げてきた俺の花が、ヴァレリアンを幸せにできてくれ、って」

 それはミシェルの本心だった。あの日、かけられたケープの暖かさを、あの日に見た燃えるような赤い髪を、ミシェルは忘れることができない。

 そういったものがヴァレリアンにもあればいい、ヴァレリアンの心のどこかに、ミシェルがいて幸せだったという思いがあってほしい。

 そんな、願いを込めた一言だった。

「……ふ、はっはっは」

 ジャンが、突然に面白くてたまらないといった風に笑った。老いた顔を笑顔がつくるしわで埋まる。

「な、なんだよ!」

「いいや、わしよりもさらに上手の人間がこのバーに遊びに来ていたな、と思ってな」

「上手な人間?」

 ひとつジャンは頷いて、背後の棚に並べてあるレターホルダーの中から封筒を一通、取り出した。

「ほれ。お前さんにだ」

「俺に……?」

 白い封筒が赤い蝋で封をされている。薔薇をかたどったその模様は、ヴァレリアンが使っていたものに違いなかった。

 カウンターの上に、ジャンがペーパーナイフを置いた。それを使い、ミシェルはおずおずと封筒を開いていく。

 封筒を開くと、見慣れた手書きの文字が並び、ミシェルへの手紙が綴られていた。

『親愛なるミシェル=アンダーグラウンドへ。僕からの手紙が届いていることを願います。今、君はどんなお酒を楽しんでいるかな。ぼくの好きだったウィスキーを飲んでいるかな、と勝手に想像しているよ。ぼくはそこにいれないけれど、君とジャンに、乾杯を。君たちを愛するヴァレリアン=アンダーグラウンドより』

「……は、あはは」

「な、上手だろう?」

「ったく、ヴァレリアン。あんたは本当に最高だ。最高の師だよ」

 ミシェルは、嬉しさの余りに涙を滴らせ声を震わせる。

 ジャンはそれを見ない振りをして。しかし、ヴァレリアンの代わりにしっかりとミシェルの涙を記憶したのだった。




【小さな幸せ――Fin.】

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