甘い呼び水


 健斗の答えが間違っていたなどと、思いたくはなかった。

 しかしどれほど気を逸らそうとも、この飢えは本物だ。

 渇ききった体は切に雨を願っている。

 赤い赤い、赤い雨を。


 ――――私は何も変わっていない。

 路地の壁に背を預け、かつてドレスだったボロ切れを纏うまま抱き締めた。



 異能を抑え、魔力を使わなければ、或いは生き延びることもできただろうか。

 人に混ざり、人のように。

 けれどそれも、もう終わりだ。


 健斗が託してくれた燃費の良い体も、魔力が底を突けば元の木阿弥。

 サイクルは破綻して、生存に必要な力さえ自力では生み出せない。

 ここにあるのは血に飢えた欠陥品。



 昨夜から一日、トレンチコートとは幾度も交戦している。

 交通の要所は封鎖され、街から逃げ出ることも叶わない。

 再び日は沈み、曇天の夜。

 裏路地が深い闇に沈む一方で、ネオンに照らされた週末の繁華街は賑わいを見せている。

 この姿で出歩けば、見つけてくださいと言っているようなものだ。

 しかし目と鼻の先、何も知らずに歩く人間を引き摺り込めば、衣服と食料がいっぺんに手に入る。それは一瞬、素晴らしいアイディアに思えた。


 ぐわんぐわんと揺れる頭を更に振って打ち消す。

 腹は鳴りっぱなしで、普通に歩くことすら難しい。

 壁伝いにヨタヨタ、美味そうな香りに誘われてペール缶に頭を突っ込む。

 香ばしく肉汁の溢れるステーキ、プリプリした食感の鶏レバー、上品な甘みのアワビ。

 掻き込むように頬張って、飲み込んだ。


 途端、口一杯に広がる生臭さ。魚の粗、骨と鱗の喉越し。腐った野菜の臭いが鼻を抜ける。

 当初感じていたはずの美味しさはどこにもない。

 勢いよく逆流する胃の中身。もはや留めようもなく滝を作った。

 惨めさに震えながら、下を見る。

 咳き込むように胃液の酸っぱさを切るが、もはや唾すら出てこない。


 ――――限界だ。

 しかし似合いの最期とも言える。

 このままひっそりと、誰に知られず朽ちていく。

 惜しむらくは、バカ弟子の願いを無駄にしてしまうことぐらい。



「誰かいるのか?」

 不意に声を掛けられた。

 繁華街の光を背に、裏路地へ入ってくる太めの人影。

 通路幅いっぱいの男性は暗闇の中、目を凝らした。

「……お前、もしかして暴力店員か? あんみつ屋の」

「あぁ?」

「ははぁ、小憎たらしいその顔。間違いねぇ」

 酒臭い息が掛かるほど間近に顔を近づけて。「……へへへっ、なんだよ、この格好」

 ボロ切れ同然の布を不躾に引っ張る。もう片方の手は華奢な肩に触れ、素肌を撫でた。

 アナが「やめろ」と呟くが、お構いなしに手を這わせる。

 振り払う様子がないのをいいことに、行為はエスカレートしていった。

「客に手ェ上げやがって。風情の分からんクソ店員が。……密室に女が訪ねてくるんだ。狙ってるとしか思えねぇ。……俺ァ、間違ってないよなぁ?」

 ゴツい指が、モニュモニュと柔らかな女体を弄る。

 はぁはぁと息を荒げるアナに、男性は何を勘違いしたのか、上機嫌になって続けた。

「ほれみろ。テメェは上客を逃したのさ。……だが俺も鬼じゃない。ここで前回の奉仕を続けるってんなら、全部水に流してやる。どうだ? ん?」

「……。意味が、分からない」

「だったら教えてやるよ」

 少女を押し倒して馬乗りになる男。胸を覆うボロをビリリッと引き裂いてしまう。

 混濁した意識の中でも反射的に悲鳴を上げようとするアナの口を、手で抑えた。

「おいおい、騒ぐなよ。その恥ずかしい格好を晒すことになるぜ」


 ――――クズだ。人間のクズ。こんな奴が消えたって、誰も悲しまない。


 頭に浮かんだ言い訳を、アナは必死に否定した。

 血を奪って良いのは悪漢だけ。攻め込んできた敵兵だけ。死を望む者だけ。不治の病に冒されて苦しむ者も。敵国の使者も。敵対する隣国民も……。

 一度箍が外れれば歯止めは効かなくなる。前回の引き金は、そうだった。

 肥え太った喋る血袋を前にして、アナは首を横に振り続ける。

 分厚い面皮はますます好色に歪んで、胸を隠すアナの手を退かした。

「無理やりしようって訳じゃない。お前にとっちゃ仕事の延長だろ? いくら欲しいんだ? 言ってみろ」

「……くれるのか?」

「2万か? 3万か?」

「そんなに、いらない」

 黒色の杭が八方から飛び出して、直ぐさま緋に濡れた。

 4リットル、それだけでいい。

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