芽吹く花たちの
サンド
幻の焼きそば
1-1
黒板にはびこる白いミミズの羅列に目を向けるフリをして、上の時計を盗み見る。
あと5分。
一香はパンと太ももを叩いた。
気分はさながら陸上部だ。状態はいい。体調も。4限は国語の鈴木先生で、チャイムと同時に授業を切り上げるありがたいタイプの人だ。7組の一部は、ただそれだけの理由で鈴木先生を気に入っている。一香もその一人だ。
最後くらいミミズに目を向けてやるかと視線を黒板に戻す。ミミズはみるみる文字に変わっていき、情報が一斉に脳に入って暴れ回る。なるほどねー、はいはい、赤子をあやすように言葉を処理する。ここまでなんとなくで聞いていた授業の内容が形を伴っていく。
そっか、詩の授業だったんだ。
一香は国語がまあまあ好きだ。パッと見た感じ濃い授業に思えたので、先ほどまで上の空だった自分を少し後悔。一香は4限終わりの二つのイベントのことで頭がいっぱいで、授業に全く気が回っていなかった。
あと10秒。
時計が終了のピストルをかまえている。右に置いていたバッグを足でよけて道を作っておく。
キーンコーン……
「あ、終わりましょう。キリいいし。来週はこの続きからね」
「起立」
の声で一香は「よーい」のポーズ。誰も突っ込む暇なく学級委員長の「礼」が続く。はじけるように廊下に飛び出した一香は、一目散に駆け出した。
2年7組の教室は購買から最も遠い。ここマグネシウム高等学校は、進学コースと芸術コースがあって、校舎もそれぞれ離れている。7組は唯一の芸術クラスで、購買からはかなり距離がある。
「故に今日みたいに最速で授業が終わろうとも、3個限定スペシャル焼きそばパンなんかそうそう手に入らないってわけだよ、こっこたん」
こっこたん、と呼ばれた女子は、んー、と唸りながらスマホに指を滑らせている。一香はごく普通のメロンパンをひとかじり、それからまた熱弁を続ける。
「不平等だ! 今日は絶対いけると思ったのに、もう一生食べられない気がしてきた。私、よーいってスタートの構えまでしたのに、この仕打ちはないよ、ねぇ、こっこたんもそう思うでしょ?」
こっこはスマホに向かって「思うー」スマホは『すみません。よく分かりません』「ちゃんと聞いてよ」と足をバタつかせる一香。
パッと、こっこの頭に電球がついた。
「そうだ、何の授業だったの、4限」
「ん? 国語。……あんまり聞いてなかったけど」
「詩の授業じゃなかった?」
一香は小さく頷く。高村光太郎だったよ。あの人の詩、すごく好き! 人生という壮大なテーマを背景に、言葉に煮詰められた情熱がいやというほど伝わってきてーー。一香は目を真珠にして一生懸命に語る。こっこは、好きなものに言葉を紡ぐ一香が好きで、ちょっと見惚れたが、すぐに本題を切り出す。
「1組は高村光太郎じゃなかったんだよね。山笠ももの詩だった」
「山笠もも? 教科書にあったかな」
「ううん、ない。プリントで配られてね、これなんだけど」
一香はじーっと見る。なるほど味わい深そうだ。……詩はどれもそうか。いや、そんなことより「この詩がどうかしたの?」
「それがね、調べてもほとんど出てこなくて。作者の山笠ももって人は見つかったけど、プロとかじゃないみたい。ついったの垢は出てきた」
腕組みをして頭をひねる一香。なぜそんなマイナーな詩をわざわざ取り上げたのだろうか。もしかして「先生の自作とか?」
こっこは、それはちょっと考えたんだけど、と前置きして
「それなら授業でわざわざ取り上げなさそうだけどね。国語の須川先生、ほんと真面目だから。それより詩を見てみて」
「見てるよ。私好きかも」
「ね! 特に始まりの一文」
こっこは息を吸い込む。
「青の! 夜空!! 流星がきらめく青の! 夜空!」
あちこち散らばっていた室内の視線が一気に二人に向かってクロスする。空気が冷えるのを感じる。
「なんでそんなに大声で言うのこっこたん……」
「んー、素晴らしくって」
「なんか視線感じるよあちこちから」
「イッチーが引くなんて珍しいね」
流石の私だって、と続ける一香に、こっこは人差し指を唇に押し当てて、それから「今日のイッチー、いい感じ。ヘアピンかわいい。うすく化粧もしてるでしょ」
なんで今、それ……と言いつつみるみるりんごの肌になる一香。
一香の神経が一点に集まりはじめる。一香の座る斜め後ろに向かって。彼の低い声が、聞こえる。おしゃべりに花を咲かす彼の低い声が。
「西野、お前の足でもやっぱり簡単じゃないか」
彼と話している西野くん、羨ましすぎる。
「焼きそばパン無理なのかな。そんな落ち込むなって」
西野というやつ購買競争に負けて、彼に慰められてる。羨ましい。私も慰めてほしい。
棘がチクリチクリ背中と胸を刺すような、それでいて淡い色になりはじめた胸の内が苦しい。一香の4限終わり二大イベント、一つは購買競争、もう一つがこれだ。
いつからか気になっていた。親友のこっこがいるだけで昼になると遊びに来ていたのが、二重の意味を帯びはじめたのは去年から。2年になっても青野くんとこっこたんが一緒のクラスで良かった、と一香は思う。一香は芸術クラスのため、同じクラスになることは絶対にないからだ。
私、ちょっと話しかけてみようかな、青野くんに。昨日の一香の言葉をこっこは思い出していた。がんばれ、友よ。恋は苦しいぞ、ほっほっほ。同時にこっこは感動している。一香はわりかし男には積極的に行くタイプなのだが、今回は行かない、行けない、何もできない。つまり、本物の恋、きたのかも、きちゃったのかな、と思う。しゅわしゅわ甘酸っぱいのが、こっこの胸にも溢れている。しかし、彼女たち女子学生から切なさが漏れるのを、思春期の男子諸君というものは一生気づかないまま終わるのが、相場だ。青野も今のところは例外ではない。
結局、何度かこっこが一香をこづいただけで、予鈴が鳴ってしまった。
「や、やっぱり無理」
こっこは落胆と安堵が入り混じった一香のきれいな顔をジッと見て「明日も同じ格好で来なよ」
「明日も挑戦しろと!?」
「大丈夫。チャレンジは大事だよ、イッチー」
こっこは弾けるような笑顔で、一香に親指を立てた。
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