刀爺伝
青葉台旭
1.
真夜中、祖父の声で目が覚めた。
「クァッ! クァッ! クァッ!」
僕の部屋は二階、祖父の寝ている六畳の和室は一階だった。
気味の悪い叫び声が家じゅうに響いていた。
僕は急いでベッドから降りて自室の照明を点け、ドアを開けて暗い廊下に出た。
隣の部屋から弟が出てきた。
弟の部屋から漏れる光に照らされた顔は、いかにも寝起きといった感じで、まだ
「良いよ。僕が
僕は振り返って廊下の奥にある両親の寝室を見た。
父も母も、ある時期から祖父の世話を僕ら兄弟に任せてしまって、自分たちではほとんど何もしなくなった。とくに真夜中は、祖父が暴れ出しても絶対に寝室から出て来ない。
暗黙のうちに、僕と弟に祖父の面倒を見るよう強制しているようなものだった。
夫婦共働きで、いつもグッタリ疲れた表情で帰って来る両親からしてみれば『家にいる時くらい、ゆっくり休ませてくれ。
僕は手探りで廊下のスイッチを入れ、階段の照明を点け、一階に降りた。
まずは台所へ行って、冷蔵庫からエナジードリンクを三本出して左手に二本、右手に一本持ち、祖父の部屋の
いつも通り、祖父は六畳の部屋の真ん中に敷いた布団の上に立って、長い刀を振り回しながら「クァッ! クァッ! クァッ!」と叫んでいた。
『刀』と言っても、本物じゃない。
宴会の余興で使うような、蛍光ピンクとパステル・グリーンのツートン色に塗られたスポンジ製のオモチャだ。
壁や柱に当たったところで傷も付かないし、人間に当たったところで痛くもない。
僕は、「クァッ! クァッ! クァッ!」と叫びながら刀を振り回す祖父の前に正座をして、エナジードリンクを三本並べて畳の上に置き「どうぞお召し上がりください」と言って頭を下げた。
畳に
そして、ひれ伏す僕の頭の先に三本並べたエナジードリンクの一本を手に取る気配。
「パキンッ、プシュッ」というプルタブを開ける音。
「ゴク、ゴク、ゴク」と祖父がドリンクを飲み干す喉の音。
エナジードリンクの空き缶が元の場所に「トンッ」と置かれ、祖父が次の缶に手を出す気配。
「パキンッ、プシュッ」「ゴク、ゴク、ゴク」「トンッ」
次の缶。
あっという間に三本のエナジードリンクを飲み終えた祖父が「ヒョヘッ、ヒョヘッ、ヒョヘッ」と声を上げた。
笑っていた。
僕は顔を上げ、彼の笑い顔を確認し、三本の空き缶を持って部屋を出た。
これで今夜はもう暴れないだろう。
これで朝までグッスリ眠れる。
* * *
以前……こんなになってしまう前の祖父は自分の道場を持つ剣道の師範だった。僕らの町では凄腕の剣士として有名で、町の剣道協会の理事長に何度も再選されていた。
家には、いわゆる『
五年前から急に奇行が目立つようになって、その『家宝』を振り回し始めるに及んで、さすがに危険を感じた父が、祖父の目を盗んで刀を売ってしまった。
「銘の無い刀に価値は無いだとさ」
古物商から帰って来た父が、吐き捨てるように言ったのを憶えている。
「あんなに大事にしているから、どんな高価なお宝かと思ってみれば……まったく……クズ鉄かよ」
祖父は、大切にしていた刀を息子に盗まれても気にしていない……というか、気づいていない様子だった。
もはや真剣とスポンジの区別も付かないみたいだった。
最近の祖父は、一日のほとんどを六畳の自室に敷きっぱなしの布団の中で寝て過ごしているらしい。
幸い、トイレへは自分で行っているらしいから、その点では僕ら家族の負担は軽かった。
「らしい」というのは、祖父がトイレへ行ったりトイレから出て来るところを、ここ最近、僕は見た事が無いからだ。
僕らだって一日じゅう祖父を監視しているわけじゃない。僕ら兄弟には学校があるし両親には仕事がある。
家に帰ってからも、祖父が「暴れ」ない限りは父も母も僕も弟も、
夕食が終われば
だから、家族の誰ひとり長いこと祖父がトイレへ出入りするところを見ていなくても不思議じゃなかった。
風呂についても、
祖父は、奇声を上げながら(オモチャの)刀を振り回す直前、必ず風呂場で水浴びをした。
という事は、祖父にとってスポンジ刀を振り回すというのは何らかの宗教的な意味を持つ『儀式』なのだろうか?
ともあれ、祖父は定期的に奇声を上げ、オモチャを振り回し、その直前には必ず水浴びをする。
常時、脱衣所の目立つ場所に新しい
ときどき真夜中に奇声を上げる以外は、僕ら家族にとって祖父は『手のかからない老人』だった。
食事はエナジードリンクだけ。
感情表現は『クァッ! クァッ! クァッ!』と『ヒョヘッ、ヒョヘッ、ヒョヘッ』の二つだけ。
「クァッ! クァッ! クァッ!」という奇声を発しているときは『興奮』あるいは『怒り』あるいは『不快』の状態。
「ヒョヘッ、ヒョヘッ、ヒョヘッ」と笑い声を上げている時は『喜び』の状態を表していた。
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