吉凶―④―
3月16日 午後10:17 バンクーバー国際空港 滑走路付近
チエの微睡は、叩きつける様に開かれた車のドアの音によって終わらせられた。
“ワールド・シェパード社”の犬耳兵士が、まるで製鉄工場で流れる溶鉄の様になった黒と白が、一斉に流れ込む。
人数は分からない。
性別も不明。
ただ、流動的で可視化された力の群れに戸惑うチエは、夢の中にいる幅広のミキと共に外へ引きずり出された。
轟音がチエの耳を襲い、同伴者を現実に引き戻す。
「ミキ、起きてよ!?」
チエは、冬と雨の寒さに震えながら、太った相方を大きく揺らした。
彼女の視界には、黒く煤の掛かったような曇天の夜空が広がる。
空の暗さに反して、煌びやかな旅客ターミナルの高層建築物群の光に照らされる旅客機の胴体が、砂浜に打ち上げられた鯨の皮膚を思わせた。
雨に濡れる切り揃えられた芝は、鯨のような旅客機から生じた風にその身を揺らされている。
チエの周囲を見渡すと、男女問わず、風雨に晒され、芝の波の上に立たされている人影が、もう十人ほどいた。
どの顔も見覚えがあった。
だからこそ、彼らがここにいる状況を、彼女は理解できなかった。
繋がりのない光景に戸惑うチエの頭が、過回転を始めると共に、腹への鈍い痛みが蘇る。
痛みと共に、最後に見た人物が目に浮かんだ。
河上サキ。
高校生でありながら、傭兵志願の集まるオラクル語学学校の留学生。
日本人で且つ、十代で渡加したということもあって、他の生徒から愛されていたのを覚えている。自分も彼女を愛でる一人だった。
それは、今目を覚まし、口を茫然と開けているミキも同じだと考えていただろう。
その第一印象に、二人は裏切られた。
まず、流暢な英語の発音。
日本語らしさが全くない。
発音も考えながら言っているのか、現地人より遅く聞こえるが、意思疎通に支障をきたすものではない。
何より、ニュースを聞いて賛否両論も言え、自国文化に関しても造詣が深い。
チエとミキがどれだけ足掻いても、手に入れられなかったものだ。
チエたちは、
偶々、現地で出会った時、山陰生まれだと知り、心寂しさから行動を共にしている。
同時に、日本の文化や職業慣行による生き辛さから、海外に飛び出した動機も知ることになった。
チエとミキは、意識が高い。上昇志向も強い為、地元企業の日本型雇用――特に、男性と女性の性差――からの眼差しに耐えられなかった。
二人は高校を出て、地元企業に就職。
金を得る重要性は心得ていたが、仕事以外の余暇の埋め方を知らなかった。
もちろん、大学へ進学する資金も無いので、高等教育に触れる機会もない。
結果、自己と精神、両方の鍛錬の方法を、現在も学べずにいた。
自分の精神を充実させられず、日々忙殺に追われる。
そんな彼女たちが傾倒するのは、SNSの様な脊髄反射で応えられる電子空間であることはある種、自然の帰結だった。
何より、内向的で刹那的。
部活、受験や試験の積み重ねが、社会の中で自分の力の一里塚を知る為の手段と捉えず、通過点としていただけ。
自己を肯定する力が弱く、常に人からの承認欲求に飢餓状態だった。
自分を投影できる手段への渇望も、底なし沼。
更に言うと、その手段に至る道筋も漠然とし、霧散する。
考えられず、弱い自分も傷つけられたくない。
救世主願望が年齢と共に、大きくなっていく。
彼女たちが、現実に叶わぬ願望を叶える手段は、女性向けのアニメ、女性向け漫画に女性向けゲーム――唯一残った、”女性”であることだけだった。
当然、自分の劣等感を引き起こす女性のいないものだから、男性だけの作品にも傾倒。同性愛的な志向のある作品ばかりか、少年誌の漫画の人物同士に、そういう関係を馳せる嗜好に染めた。
趣味に傾倒する、チエとミキには、教養が致命的にも欠けていた。
『この世にあるものが、自分を受け入れてくれるものばかりでは無いことを知る』に足る知性が生まれる余地は、皆無。
彼女たちの不寛容が、他人の好きなものへの攻撃衝動に転化するのに、そう時間はかからなかった。
自分の好きなものは至上。
自分が受け入れられないものは、異端。
自分たちに降りかかる異端信奉者の理不尽は、自分たちを含めた全ての女性への暴力。
興味のないアニメや漫画を支持する人たち全てが、自分の敵。
自らの育まれた環境は歪曲されたもので、陰謀論に近い被害者意識も振りかざした。
当然、教養、知性、鋭敏な感覚のある者から、反撃を食らう。
だから、反撃に抗った。
彼女たちに情けは無い。されど、性差も加減もない応酬の蔓延る電脳空間に、安寧は愚か、終息も来ない。
彼女たちは戦いと言ったが、他人の血と自分の血が飛び交うものとは異なる。
彼女たちの戦いは、自分で傷口を広げたモノ――女性性――から出る血を見せつけることを指していた。
他人にとっては、独り相撲でしかない。
彼女たちの持つ意識の高さは、日常生活の上では”砂上の楼閣”にしかならない。
自分の肉体すらも滅ぼしかねない、明日なき暴走への光明は、海外文化だった。
日本以外のドラマ、映画に俳優。
彼らの存在する世界が、いつしか自分たちの求めているものだと妄信を始めた。
性差が相対的に少なく見える場所が、彼女たちの理想郷だと信じるようになった。
だが、電脳空間と現実は違う。
生活に必要なお金を得ることが必要と受け入れる程度の客観性を、彼女たちは持ち合わせていた。
だから、日本を出られることを目指した。
考古学的に「何で旅をするのか?」という問いは、もはや死語と言われている。
何故なら、旅に出られるから旅に出るのだ。
手段は、船、飛行機にお金である。
言葉は後で何とでもなる。
驚くほど、チエとミキの考えは似ていた。
だが、渡加してから、二人は壁に直面する。それを乗り越える手段は愚か、壊す術も見つけられなかった。
意思疎通能力は低く、教養もない。しかし、経済資本は、二人の懸念を他所に、見る見る内に摩耗していった。
このカナダ、バンクーバーは特に、東洋系――日本人――が多い、語学留学の初心者向けの場所として知られている。
しかも、二人のいた店は、英語圏であるのを良いことに、男女問わず日本人従業員が給仕中に、非日本語圏の客の前で、下半身系の話題を、従業員同士が雑談し合う様な場所だった。
全世界的規模に展開する珈琲店で働くのに必要な英語力は、残念ながら持ち得なかった。
語学学校で英語を学んでいたが、彼女たちは、その落とし穴も見逃していた。
英語の語学学校は、元来英語が母国語でない者向けである。出来る人脈も、南米系や中東系……そして、東南アジア系、中国系か韓国系の非英語圏しかいない。
基本、彼女たちが必要とする英語を学ぶだけなら、日本で展開されている個人教室、高校の外国語補助教員か、国内の自治体で雇われている英語圏からの国際交流員との交流で足りる水準だった。
もし、彼女たちがこの矛盾に気付ける知性があるなら、この結果をこう評せたであろう。
安物買いの銭失い。
水は何を足しても水でしかないし、零を加減乗除することの行為に何の意味があると言うのか。
ただ、彼女たちの人間関係資本で、無教養の頭数が増えるだけだった。
学ぶ方法を誤った。
このことに、焦るほどの精神状態であったのが、彼女たちの救いだったかもしれない。
彼女たちの目的は、理想郷を求めることから何かを得ることに変わった。
”ウィッカー・マン”防衛任務は、そんな起死回生の一手だった。
英語を学びながら、専用の銃器を、ただ人間外の物へ向ける。
東南アジアやハワイの観光地で、金を払えば銃が撃てるのと同じだ。
しかも、的が動いている人類の敵というおまけ付きだ。自分たちを馬鹿にした人たちへの勲章ともなり得る。
その為の勉強として英語も頑張った。
“ウィッカー・マン”防衛とは名ばかりの、ただ、うろつく何かへ銃を向けるだけの簡単な仕事をしただけで、帰国した時の名誉を得られるのは大きかった。
更にいうと、それは、日本へ帰ることなく、カナダにいることも出来る可能性も意味をしていた。
だが、現実世界で、二人の都合のよい展開を、運命の問屋が卸す筈がなかった。
河上サキ。
ある授業の時、女性の人権問題を主題に討論した。
カナダ自体は人権国家として知られている。
自分たちが、攻撃するときと同じ論法が使えると思った。
自分たちの側へ引き込めることも念頭に。
しかし、彼女たちは、自分たちの甘さを呪った。
まず、サキは、カナダの教育の問題点――良きカナダ人の審美眼を育てる為に、アメリカ文化を敵視している国策を挙げた。
チエとミキの言う「日本の文化が差別的」ということの具体的に挙げろと、彼女から言われた。
二人が例示した生き辛さの殆どが、労働環境や職業倫理の問題であり、サキから、法的手続きを取らない彼女たちの不行動を、逆に追及された。
また、自分たちの嫌いな男性向けアニメを搾取の例として言ったら、それなら彼女たちの好きな女性向けこそ、女性視点に傾いているという反論も、甘受する必要があることを、十代の少女に諭された。
ある部分を挙げて性的と言うのは、「良きアメリカ人、ナチズム、スターリニズムと変わらない」ことも、サキによって付け加えられた。
しかも、チエとミキは、サキ以外の敵も増やすことになる。
日本自体、先進国らしくないが、先進国に見える文化が、外国人にとって魅力だ。その存在自体は、カナダ人は愚か、留学生の好奇心も擽り、当然勉強している者も多い。
その状況下で、必然的に、アニメに良くも悪くも触れている者がいるのは、何の不思議もなかった。
それこそ、チエとミキたちがカナダという性差のない文化に魅力を感じた様に。クラスメイトのアニメ好きの親日家は、チエとミキに怒り、「いつしか本を焼いて人を殺す」というハイネの引用まで言われた。
チエとミキは、電脳交流空間で出回る何か不平を言って、反論で黙らせて周囲から喝采を浴びたという都市伝説に憧れていた。
だが、彼女たちが黙らせられる側に回るという想像性の無さを、カナダ人教師、非英語圏の生徒だけでなく、未成年の日本人の少女の前で晒された。
極めつけに、口だけでなく、サキは実力でも二人を凌駕していた。
若く、彼女は柔軟で運動を欠かさなかったので、武術は自分たちよりも成績が上位。
いつしか、彼女が自分たちの手の届くところではなく、羨望するしかない存在と、チエとミキは身を以て知らされた。
自分の居場所が、奪われたと言う逆恨みの炎が、チエとミキの中に宿り始めた時、ある人物が声を掛けてきた。
非英語圏から来たクラスメイトの女性で、ある語学学校仲介業者を紹介された。
クラスメイトから紹介された業者によると、この状況を一転させる手があると言う。
それは、スカイトレインの破壊。
そうすれば、街に雪崩れ込んだ”ウィッカー・マン”に、思う存分銃が撃てて、サキよりも優れていることを訴えられる。
人を殺すことは無く、ウィッカー・マンが活発的になるだけだから、安心と言われた。
当然、チエとミキだけでない、仲間がいることも言われた。
更に、成功すれば、労働滞在査証を手に入れられる弁護士も手配することも約束してくれた。
チエは、恩人の女性の顔や人種を覚えていない。
ただ、象牙色の目と石榴色の唇をしていたことだけが、心に残っていた。
しかし、物事はそう上手く働かない。
被害は増大。死人も当然、出た。
その上、サキが英雄として、各紙一面を飾ってしまう。
挙句の果て、スカイトレイン破壊の写真で自分たちの姿が映っていて、
隙を見て、サキを人質に逃げようとした。
その結果は、意識を失い、首謀者たちと一緒に、空港近くの原っぱで立たされているという現実を直視しなければならない。
しかも、最後に来た自分たちに向け、立たされた共犯者からの憎悪の視線に晒されている。告げ口をしたとでも、思われているのだろうか。言い訳をしても、聞いてもらえる状況ではない。
まして、風雨と飛行機の発着陸の音が、チエとミキを含めた“閑居した小人”共の喚き声をかき消している中では。
チエが、眼の前の現状を悪夢と割り切るには、彼女の良識の範疇を越えていた。
突然、彼女の目を、滑走路の射光器と違う光が覆う。
青い光。
光を背に、自分たちを囲む犬耳の集団。
いや、違った。
自分たちを連行した、”ワールド・シェパード社”の兵士では無い。
自分たちを囲っていた者たちは、二つの人影と扁桃の頭をした集団に変わっていた。
人影の片割れの一対の眼光に、チエの呼吸が止まる。
象牙色と、その下に浮かぶ下弦の月を描いた石榴色の唇。
チエは驚きながら、
「何のつもりよ、あなた達!?」
抗議の声を上げた。その横で、ミキは、目を覚まし、過呼吸の発作に見舞われる。
チエの隣の幅広の共犯者が呼吸を整え、絞り出すように、
「あなた……何者、あなたに言われてやったのよ? 大丈夫なんでしょ!? 何の冗談よ!?」
チエはミキと共に、取引を持ち掛けられた象牙色の瞳の女性の顔を思い出す。しかし、思い出そうとするたびに、電流に頭蓋を掴まれたかのような激痛に苛まされた。
「アコモデーション、ビザのロウヤ―も世話して、ジョブも得られるんでしょ? 答えなさいよ!!」
頭を抱えながらチエは、自分の言葉に英語の名詞と、日本語の名詞が混じった言葉を吐き捨てる。
かつて、勢いのまま、日本の成人式で煽る様に飲み、盛大に戻した時の胆汁の味を思い出した。
嘔吐の回数が多くなり、その分、連絡が取れなくなっていった友人の数も比例して増えていく。
その時の吐瀉物の苦味が、彼女の口の中で広がった。
だが、チエはそれを喉に押し込めるしかない。
彼女たちの前に、扁桃の頭の群れが迫る。
その中から、もう一体の人影が前に出た。
フードに覆われた影。だが、その右の頭部から喉に掛けて、銀色に輝いている。
まるで、機械が埋め込まれたか、そのものになっているように鈍く、黒く輝く相貌。
その中に浮かぶ、灯篭の火種の様に、突如と紅い瞳孔が浮かんだ。
刹那、チエは暑さを感じ始める。
おかしい。
春になり、夏時間に変わったと言っても、冬の寒さが消えたわけではない。
それに、自分たちの頭髪を濡らした雨と、気温差から生じる甘ったるい汗の臭いの不快感がチエの周りを漂う。
不快感は、犬顔の女の中で恐怖に変わった。
更に、寒さに気温を奪われていたはずだが、青い光が更に眩しくなっている。
その原因が分かった。
自分たちの周りに立たされていた、首謀者の留学生たちに、隣のミキ。
彼女たちは、青白い人型の光となっていた。熱力量の大きさは、顔から感情は愚か、声を出すことすら許さない。
ただ、光と音の収束音が絶叫を覆った。
やがて、チエの視界だけが、赤々とした炎に覆われる。
たしか、自分たちの服は、防寒性も耐久性も高いと聞かされた。
安心を感じたが、ある話がチエの頭を不意に過る。
温暖化問題は、温室効果ガスによって熱が含まれ、地球が温められる現象だ。
強化装甲は、耐衝撃性にも優れている。
“ウィッカー・マン”と近接武器でやりあっていた、”深紅の外套”の青年に蹴られても、足跡が残るだけで肥満体のミキの命は、取られなかった。
だが、それは、内部からの熱と力の仕事にも耐えられ、蒸風呂にもなるのと同意語だった。
その事実を知った時には、チエの視界が上下にずれた。
熱による炎で、骨が溶かしつくされたのだろう。
軟骨の蒸発した音を聞きながら、ミキのいた場所に目をやる。まだ、目は動くのか、脂肪が無くなり、ミキだった人型の炭が立っているのが見えた。
着陸した旅客機が着地する音を聞く前に、チエは眼球が熱で解けた音が耳に届く。
ふと、日本の旅客機ではないかと考えた。
夜に来る便は無かったはず。
それにも関わらず、最後の思考が彼女の中で行われた。
それは、
――こんなところ……来たくなかった……。
選び間違えた後悔は、未来に立たない。
雨の下、チエだった人型の炭は立ち姿のまま、膝を折ることなく草原に崩れた。
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