第一章 An Oracle Or Omen
吉凶―①―
3月16日 午前10:25 バラード
ヘーゲルの観念論において、人の感知するものは須らく、何らかの運動を行っているという。
存在するものは、何かを発信し、同時に受信している状態を示す一連の動き。
それが、自己意識や理性と言うらしい。
河上サキは、目の前の親友から、少し前に聞いたことを思い出す。
その連続体が、日常であることも自然と学んだ。
しかし、日本を離れた時、海外ではその運動が激しくなる傾向がある。
普通に立つだけでも、人の視線を感じやすくなったとサキは思った。
所謂、日本には有り得ない「向自」があるのだろう。
サキ自身が存在していることを、自分で肯定できる喜びを、この地で感じつつあった。
だが、今回ばかりは、その”向自”がサキの居心地の悪さの虫として表れる。
キャミソールの上に巻いた革帯から、サキは普段は感じない窮屈さを覚えた。
車の後部座席にも、それが伝わっているのではと考えてしまい、顔を作ろうとする。
だが、その顔を同席者が察したのか、
「サキ、お前が生きていてくれて良かった」
白金の髪を後ろに束ねた少女が、サキに柔和な笑みを向けた。
前の座席のポケットから覗く新聞の余りにも破廉恥な見出しを目にして、白金の少女は、膝に置いた人口羽毛の付いた黒のジャケットに視線を伏せる。
知己を背けさせるほどの見出しは、サキの気持ちに構わず、両目に飛び込んだ。
”|The Eastern Maiden Rises《極東の聖女、立つ》”
”
見る者にとっては、まるで神の奇跡を間近で体験したような、”大袈裟さ”しかない文句が溢れ出ていた。
少なくとも、被写体自身を始め、引き合いに出された当事者は、悪魔の手招きに抗おうと気が気でなかった。
記者にそのことが伝わらないのは、世の生業と言っても良いかもしれない。
異口同音に綴られる記事の出だしの写真は、全て白と黒の白の外骨格を纏ったサキだった。
犬の耳を模した顔の隠れる黒い兜のお陰で、一目でサキの顔は分からない。
だが、それでも自分の姿や諸動作は意識してしまうし、親しい人が見れば判別可能である。
結局、頭隠して尻隠さず、であることに変わりはなかった。
サキは身を乗り出して、新聞の見出しを裏にして隠す。
それを見た、少女の視線が言葉なく、サキを諫めた。
無駄なことではなく、
「読まなくていい。なにより、気にするな」
そう目で語っていた。
だが、サキはそういった顔を周囲に作らせたことに、罪悪感を覚える。
それが、身近な人なら猶更だった。
エリザベス=ガブリエル=マックスウェル。
愛称は、本人からの要望で”エリー”。
一年前に、日本で知り合った縁のお陰か、カナダでの生活を全面支援してくれている。
語学の練習相手は当たり前。
留学生を受け入れてくれる地元住民を紹介する語学学校の申し出も断り、太っ腹にも自分の所有しているコンドミニアムの一室を提供してくれたのだ。
地元住民に良い様に使われ、同じ国と同じ人種の留学生同士が固まるのを防ぐ為ということらしい。
それでも同い年の少女としては、あり得ない心遣いに、サキは驚かされた。
「本当の気持ちだよ」
「ありがとう、エリー」
知己から呼んでほしいと言われた愛称で、サキは応えた。
彼女がカナダを目指した動機自体、人に笑顔でいてほしい為に戦うことである。
その為の力と技能を得る為に、今回のカナダ留学を希望した。
勉強と今回の”ウィッカー・マン”の襲撃を乗り越えたのに、新聞の見出しで取り乱すほどの自分の矮小さを、サキは顔に出さないよう嫌悪した。
「ヘーゲルの精神現象学には感謝している。熱意の送受信が通じる相手として、サキがそうであると確信させてくれて。生きている実感、今なら定義がはっきりと言える」
「……それ、余り、人前では言わないでね?」
落ち込んだ反動に比例して出た恥かしさの余り、サキの顔に熱が帯び始めた。
エリーの笑みを浮かべた瞳の奥で、サキの笑顔が映る。
どうやら、即自と向自が、成り立ったようだ。
サキが、乗る車の風景から、バラード
その名前は、北端のバラード浦――厳密に言うと、大英帝国ハンプシャー出の帝国議会議員で英国海軍の所属、サー・ハリー=バラード=ネール第二準男爵――から得た、目抜き通りは、街の中心部と同時に金融街として知られている。
同時に、交通量も多い。
車から放たれる熱気や、建物から吐き出される空調ダクトの蒸気を際立たせる、長雨と曇天色に染まる高層建築という舞台の様な都市模様。
その中を、白人だけではない、東洋人、黒人に中東系など多様な文化を起源に持つ人たちが、朝の光景を彩っていた。
バンクーバーは、元々英国の入植民によって作られた街である。
しかし、人口の3/4は日本、中国、韓国にインドなどの移民が占めている。
市街の
同時に、無視できない移民都市相応の問題もある。
サキは、どの国でも同じかもしれないと雨に濡れるバンクーバーを見ながら考えるようになった。
「しかし、お嬢様。サキ様ですが、本当にお休みを取られなくてもよろしいのですか?」
運転席から、男性の声が聞こえる。
バックミラーから垣間見えるのは、白髪を上品に整えた初老の白人男性。
恭しい口調とは裏腹に、コーデュロイジャケットを羽織る砕けた印象は、何処か親しみを覚える。
だが、彼の知的な佇まいと視線から、サキの体調を見る、専属の医者の様に見えなくもない。
「海外留学ならまだしも、戦闘行為まで……大事を取られた方が?」
「プレストン。私も言ったのだがな……聞かないんだ」
プレストンと言われた、コーデュロイジャケットの老紳士の疑問と苦言に、エリーが申し訳なさそうに、サキの隣で溜息を吐いた。
「いえ、大丈夫です。ここの人たちは、あんなことがあっても、普通に生活しています。私もここで勉強させて頂いている身ですから、下がる訳にはいきません。それに、エリーもいる。前を向いて歩いた方が、鬱屈した気分も晴れますし」
自画自賛したくなるくらいの凛々しい口調で、サキは息を整えながら答える。
そもそも、留学自体がどれだけ準備しても、トラブルは付き物だ。
しかし、それに落ち込まず、狼狽えずに対応できることが一番の特効薬だと、サキは考えている。
「食欲もあります。それに、勉強へのやる気も途切れたことはありません。意外と私自身がタフに出来ていることに驚きました」
「確かに、食事も欠かさず召し上がられております。お嬢様とのティータイムは愚か、運動も欠かされていません……」
プレストンは眉を顰めながら、サキの笑顔を見て首肯した。
納得したという風ではなく、彼女の言葉と状況の反芻に留める。
初老の男性は、サキの隣に目をやって、戸惑いながら一呼吸すると、
「ただ、お嬢様の向こう見ずの気に当てられているのが心配なのです。無意識のうちに、先陣を切り、啖呵を切りだし始めたら、日本でサキ様を待つ方々に、お詫びとして『お嬢様の首』を差し出すことになりかねませんから」
サキというよりは、彼女の隣の人物の方が、プレストンの執事としての一番の懸念事項らしい。
「……プレストン、お前は私の何かを再確認したいのだが?」
「無論、エリザベス=ガブリエル=マックスウェルお嬢様にお仕えする執事です。ただし、内心は『思春期だった私の娘』と過ごした時間と比べると、娘の反抗期の方がマシ、と思うことが多くあります。加えて、向こう見ずで好事家の気が、サキ様をあらぬ方向へ連れて行かないか、気が気でなりません。ヘーゲル教授殿によると、精神は自由であると仰せられたので」
プレストンの皮肉に、エリーが首を横に振る。
後ろ髪に結んだシュシュが、犬の尻尾の様に左右を往復。
彼女の動作は、何処か、悪戯をして咎められた仔犬の様な可愛さを思い出した。
プレストンという運転手のことを、サキはよくわからない。
だが、親友のエリーとは長い付き合いであることが伺える。
でも、付き合いの長さ以上に、サキは、彼の深さや寛容さにも驚かされた。
慇懃でもなく恩着せがましいところもない。
気にかけるべき点を心得ている。無意味な善意ではなく、ただ、支えつつ律するところは明確にする。
彼の距離感もまた、サキが無駄に疲れず、次の行動に切り替えるのを容易にしてくれた。
「それはそうと、もう到着したみたいです」
プレストンの一言に、サキは現実に戻される。
犬が地球儀を一回り、Sの字を描くデザインの二台のSUVが横並びにあった。
車両から二人位の男が出てくる。プレストンのいる窓に立つと、一言二言交す。
後ろ合わせの二台のSUVが、閉ざしていた道を開く鉄扉の様に、路地へ乗り上げた。
昨日の事件の余韻が残る、バンクーバーの一通りの路地を、サキたちの乗ったSUVが進んでいく。
遺体は無いが、”ガンビー”の蹂躙で壊された外装の剥がれた煉瓦や、剥き出しの土瀝青の路地が、生傷の様に残っていた。
移民国家と言えるカナダの多様性の象徴の一つ、バンクーバー。
その主要産業の中に、「英語」の「語学学校」が含まれることは何の不思議もない。
サキとエリーを乗せた車が通る、ヘイスティング
英語を学びに来た多種多様な言語圏からの言葉が聞こえ、英語が聞ける場所を探すのが難しいほどだ。
主要言語のひとつである英語の習得は、地元産業への就職を約束させる。
しかしながら、当然、これだけ英語を学ぶ者が多い場合、雇用主はそれ以上を求める傾向にある。
需要過多の場合、買い手市場が付加価値を求めるのは、資本主義経済の宿命だった。
”普通に英語が話せること”ではなく、”英語で何かが出来ること”に焦点が当たる様になるのも必然であろう。
また。海外からの留学生を受け入れることで、受け入れ世帯の家のローン返済資金を得られる。
何より、語学留学は観光産業の延長線上である為、外食業やサービスという第三次産業も潤わせる。
いや、ずぶ濡れと言っても過言ではない。
雨の様に金をもたらす留学生で溢れるバンクーバー。
冬の雨が、土瀝壁と混凝土の路地を弾く音が、多種多様な言語を打ち消していく。
路地の向こう側の建物すらも、雨のカーテンが包みこんだ。
プレストンは、駐車料金台の傍に車を止める。
サキは歩道側、エリザベスは車道側に出ようと、扉を開けた。
しかし、その幕をぶち壊さん勢いで目立つものが、サキの目の前に飛び込む。
”
”|The Frenzy Turns the Flame《饗宴は極炎となり》!!”
無料情報誌二誌のポストの見出しが、外国人観光客向けの免税品店の陳列窓よりも、輝かしく爛々としている。
別々に煽情的で目を引く表紙は、異口同音に焼死体が発見されたことを告げていた。
場所は、バンクーバーの繁華街
雨の中、“火の気”も無いところから、いきなり燃え出した。
犠牲者は大学生、留学生に社会人も関係ない。
ましてや、性別、世代に人種で考えても、相関は皆無。
場所にしても酒場、クラブはおろか外とも統一性の無さが目立つ。
今月に入ってから、頻繁に起きているとのことだった。
反社会勢力の抗争、建物の管理の問題点も含めて、地元警察は捜査を行い、夜間の外出制限を出している。
「サキ、気になるのか?」
「興味は無いけど、事件がこうも続かれるとね?」
どういう顔に見えたのか分からないが、エリーの言葉は面白いものを探しているようだった。
「見る限り、サキの限界効用は、夜の繁華街に対して低いみたいだな……少し安心している」
「……なんか褒められている気がしないな、それ」
限界効用自体は、日本の高校の社会の授業で言葉は聞いたことがある。大学で習う経済学の概念で、麦酒や清涼飲料水一杯で満足できる、満足度の指標らしい。
サキも他の十代の例に漏れず、夜の世界の享楽に憧れたことは、何度かある。
しかし、そこで何かをした時に得られる喜びを想像することが出来なかった。
サキは笑いながら、車の右側のドアを開ける。
軒下のある所に止めてくれたので、濡れずに済み、硝子張りの入り口に立った。
その前には鉄格子が立ちはだかる。そこで佇む短機関銃を抱えた警備員二人が仁王立ちをしていた。
二人の立つ中間に位置する、穴の開いた透明板の穴から、特殊樹脂に入った磁器反応付の身分証明書が、サキに渡される。
だが、軽機関銃を携帯した警備員が、後ろに割り込んだ。
サキは戸惑うが、エリーは彼らと目を交わして、
「サキ、私は別に手続きがあるらしい」
「ここに用があったの!?」
エリーの素っ気なさに、サキは声を大きく上げた。
彼女の知己は必要な情報以外、口にしない。加えて、要求事項が意外と分かりにくいので、何事も突発的にしか見えないのだ。
「話してなかったか?」
見送りにしては彼女が長く傍にいたことを、サキは今更ながら思い返す。
自分も自然に会話して、理由を聞かなかったので、エリーも話すこともなかった。
それだけのこと。
サキは、溜息と共に、先に行くことを伝えた。
三歩歩いて、昇降機の鍵盤を押す。
押した鍵盤は、オラクル語学学校のある階数。
カナダのバンクーバーの主要産業の一つ、ESL(English as a Second Language:英語を第二外国語とする人)用の語学学校の一つである。
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