序章 A Tear in the rainy town
雨降る街の枯れた涙―①―
2017年3月15日 午後3:07
カナダ,
巨大な銀鏡色の一歩が、雨に覆われた
揺れる水面に映る灰色の空と、摩天楼。
無慈悲な一歩が、空から落ちる雨粒と共に、街の鏡像を歪める。
水面の街並みを破壊しながら、巨体は緩慢な拳歩で、河上サキに近づいた。
全長約2.5メートル。
銀鏡色の前屈みに膨れた上半身から、成人の胴程ある剛腕が伸びている。
距離を縮める度に、それがサキの前で振り子の様に揺れた。
サキは、銀鏡色の動作から、幼い頃に動物園で見た大猩々を思い出す。
子供の時、檻越しで見る側だったが、今は自分が肉薄されている。
そんな運命の笑えない皮肉に、彼女は残酷な時の流れを自覚させられた。
”ガンビー”。
英国の公共放送内の現代喜劇番組の役柄から得た、大猩々の形をした”ウィッカー・マン”。
巨猿の持つ丹力から繰り出される、剛腕の圧力と衝撃は、万物の霊長たるヒトを抹消するに足る――つまり、遭遇は死と同意語だった。
拳歩を終えた”ガンビー”が、サキの前に立ち止まる。
彼女の眼の前で聳え立つ大猩々は、鏡の巌だった。
皮膚の表面に、汚れや曇りは愚か凹凸すらない。
ただ、綺麗に切り揃えられた、丸み帯びた直方体の四肢と無数の銀色の立方体の筋肉。
尖りのない楕円の頭部に付いた一対の硝子玉が、生物の瞳孔の様に拡大と縮小を鈍く繰り返す。
銀鏡色の巨躯の双眸に映るのは、黒の全身タイツに覆われた少女――河上サキ自身だった。
尖がった犬耳の様な送受信装置の付いた、黒い機械駆動式の兜。
両肩、両腕、両脚部、胸部に付いた白の装甲が、体に密着した黒地の上下を引き立てる。
サキの両腕には、黒と白の対比に彩られた、彼女の肩幅ほどの半自動装填式突撃銃が納まっていた。
大猩々の硝子玉は、上目遣いのサキの動きを逐一逃さない。
広がる雨天を覆わんとする三メートル弱の”ガンビー”の眼は、自らの影で出来た暗がりの中で雨に濡れる彼女を映す。
感情の処理が追い付かず、引きつらせたサキの顔。
覗き込む巨猿の巨躯に、サキは覆い潰されるかのように思った。
しかし、彼女の一寸先の恐怖に反して、”ガンビー”の凝視がそこで止まる。
最初からサキを見なかったかのように、左腕から体幹を揺らし、銀鏡の頭蓋を上に向けた。
灰色の空から絶え間なく降る雨が”ガンビー”の全身に滴り、
鏡面の様な全身が、空と同じ色を映しながら、サキの背後を見渡した。
彼女の背後に立つ小奇麗な飲食店と硝子張りの摩天楼に映る、”ガンビー”自身とその群れに興味が移ったようである。
シーモア
だが、その一線は、鏡の皮膚を持つ大猩々たちの刻む拳歩で、瓦礫と共に脆く消えていった。
銀鏡の群れの目に映る虚像の中で、硝子玉を曇らせる程の、白い蒸気と紅い血煙が混じる。
鬱屈で寒々としたバンクーバー独特の雨季に、生温かさの残滓が漂い始めた。
左右を見れば、サキと同じ格好をした犬耳の人影が、”ガンビー”の群れの一体から放たれた拳に潰されている。
ある者は正面から。また、ある者は背面から剛腕の瀑布に呑まれた。
何れも形容しがたい衝撃により、四肢があり得ぬ方向に曲がり、轟音と共に砕かれる。
すり潰した拳の下から滲み出た青白い光が、大猩々を包んでいく。
――距離を取って……。
河上サキは、そう思ったがしなかった。
いや、出来なかった。
”ガンビー”の双肩が歪む。
歪みは、空間で二つの波紋を作り、流体となってサキを挟んだ。
流体の表面は、大猩々と同じ銀鏡色。
しかし、銀鏡色の流体の敏捷な動きを、サキは捉えられなかった。
サキの目の前で銀鏡色は、二等辺三角形の頭部と四肢からなる、四足動物の形を作る。
銀鏡色の”四つん這い”は、サキの傍を駆け抜け、大猩々の拳の瀑布から逃れた、黒い犬耳兜の兵士を覆った。
銀鏡の大群に覆われた人々は、異形の皮膚の合わせ鏡の中で、絶え間なく叫び続けた。
その背後で、仲間の肉が焼かれる臭いが、犬耳兜に付いた空気清浄機から伝わる。
彼女の目に映る青白い生々しい光が、自らの華奢な体を横切り、鏡の巨猿や四足歩行へ飛んで行った。
人は死ぬと、体重が減るという。かつては、魂の存在の証明とされたが、現在は、魂ではなく、水分という科学的決着が付いている。
しかし、仲間の肉体から、”四つん這い”や巨猿に光が向かう様は、サキに魂の有無についての認識を改めさせた。
まして、同じ時を過ごした者の死に直面させられたら、猶更だった。
――逃げれば、あの時と同じ。
彼女の目を覆った、輝かしくも凶暴な光を思い出す。
サキがこの場を離れることは、あの時に自分を助けてくれた人たちを裏切ることと同意語だった。
自分が弱いから、迷惑をかける。
力があれば、立ち向かえれば、無用な心配をかけられることもない。
その為には、必要な”証”。
彼女は、頼る弱さを捨て、得る為に強くなる決意を胸に秘めた。
サキは、黒と白の長方形を構える。
突き出された長方形の向こうには、”ガンビー”の腕から放たれる拳の大蛇。
その咢に選ばれた、女性がいた。
『こんな筈じゃなかったのに!!』
電子変換された日本語の叫び声が、サキの機械式兜の中で反響する。
発信者は、犬耳装甲からでも分かる、恰幅というよりは、幅がだらしなく広がる肥満女性。
脂肪の重なり具合が、女性らしさを辛うじて残していた。
腰を抜かしたのか、彼女はいつまでも鈍重に尻餅をこねている。兜越しで表情は測りかねたが、女性から紡がれる悔恨の言葉が、サキにその手間を省かせた。
サキは、自分の抱える細腕程の黒と白の銃身を、巨猿の胸部を捉える。
胸部には、一際輝く一等星の様な光。
そこに向けて、彼女は、持っていた黒と白二色の長方形に付いた、引き金を引いた。
特殊な弾丸内に含まれた分子が熱力を得て、光を発生。
光の発生は熱と電磁波を生み、熱運動も展開させた。
電子励起銃。
特殊加工された弾丸は、励起によって発生した光を燃焼薬として射出を行う”ウィッカー・マン”専用の半自動装填式の突撃銃である。
サキから、音もなく放たれた球電が、巨体の胸を貫いた。
光を帯びながら、大猩々の肥大した上半身が、分厚い両腕を振り回す。
”ガンビー”の挙動が痛みによるものかは、サキには分かりかねた。しかし、歪な逆三角形が天を仰ぐ様は、異様に人間的に映った。
電流による弛緩が終わり、巨猿はサキに目を向ける。
しかし、彼女は見逃していた。
少し前に自分を覗き込んでいた、もう一体の”ガンビー”を。
予備動作なく放たれた拳の大蛇が、サキを覆う。
巨猿の目ともいえる硝子玉は、銃を構えたまま静止した彼女を捉えていた。
硝子玉の眼の中で、拳が迫る度に、サキの影と彼女の視界が暗く染められていく。
肉の焼けた匂いと熱気。
微かに、冬梅雨に晒された砂利の匂いと冷たさが、彼女の鼻腔を擽った。
不思議なことに、サキは恐怖を微塵と感じない。
――あれ、弱点ってことかな?
鏡の巨猿は、自分を脅威として認識してくれた。
不思議な充足感が、サキの中で死の恐怖より大きくなる。
それ故、驚くほどサキの足腰は恐れを感じず、泰然としていた。
しかし、この瞬間に不満が、全く無かったと言えば嘘になる。
――この匂いが走馬燈の代わりは、味気ない……かな?
機械式兜を含め、身に着けている装備は、防水性及び撥水性に優れ、外部の不快感は殆ど入らない。
外に出て、衣服にへばりついていた、雨季と冬季による冷気も消えていた。
今まで、迷惑をかけた人も目に浮かばせず、ただ機械仕掛けの兜を被る前の”ありのまま”を感じさせてくれる。
何より、流れる涙が死ぬ前にも関わらず、枯れ切っていた。
どうでも良い事実に驚きながらも、今まで生きた証を示す充足感として十分だと、サキは受け止める。
――まあ、いいかな。
サキは、ささやかで贅沢な餞別を最後に味わう為に、犬耳兜の中で小さな口を開ける。
足を踏みしめ、大猩々の拳を受け入れようとしていた。
だが、最後まで立つ。彼女の信念は、そう決心していた。
しかし、サキは思わず目を見開く。
死臭、怨嗟、生きた証とも言える青白い光。
冬の雨季の鬱陶しい湿度。
”ガンビー”の拳の暴風。
彼女の周りにあった、生きた餞別とも言えた煩わしさが、突然消えた。
死の餞別の代わりに、サキは何もない空気を飲まされる。
そんな彼女が見たのは、一迅の紅。
サキの甘美なる死への入り口を閉ざした紅は、彼女の目の前を染める。
彼女の視界を覆う紅は、彼女を吹き飛ばす暴風に変わった。
息つく間もなく、彼女の目前で、紅蓮と漆黒の稲妻が爆ぜる。
赤と黒の雷火が、巨大な”ガンビー”を砕く竜の咢と化し、土瀝青の路地もろとも食い散らかした。
宙に浮く残骸が、音を立て、水飛沫と共に迸る。
巻き上げられた雨粒と空気の中、銀鏡色の両腕が飛んだ。
次に、胴体が紅蓮の旋風に貪られ、巌のような体が砂塵に消える。
大猩々の立っていた跡に、配線や機械の残骸が、雨風に濡れた木の葉のように散乱。
巨猿だった欠片が、万有引力の法則によって地表に降り注いだ。
落ちた瓦礫が舞い上げり、水飛沫と共に青白い光が立ち昇る。
光と残骸と雨粒の幕に覆われていたのは、黒き翼。
その担い手は、深紅の外套を纏った青年だった。
背は、サキの頭一つ分高い。
金髪碧眼の青年の纏う深紅の外套の腰と腕の節々に巻かれた、黒革帯。
何より、サキの目を引いたのは、彼の担う翼の様な剣の鍔元。
手を守るどころか、二の腕をも覆い隠す程の紅い護拳が翼の根元から伸びている。
サキは一瞬、それが炎か空を切る弾丸の様に見えたが、
――涙?
青年の持つ武器の攻撃的な形にも拘らず、繊細な第一印象が浮いたことに、彼女は戸惑った。
だが、紅く彩られた涙滴から延びる、翼を思わせる黒と赤の幅広の刀身。
それを背負う姿は、伝説や神話に出る翼竜の姿が青年と重なる。
剣は、鬱屈とした雨天を晴らさんと、突き立つ翼。
翻る紅い外套は、曇天に染まる街を焼き払いかねない火竜の吐息。
両腕と腰を覆う黒革帯の留め具は、夜の闇に燐と弾ける鱗。
夜の帳と満月に染まる湖の様な、碧眼。
二つの湖面は、一人の少女を映した。
紅い外套の青年の目に映る少女に、恐怖は見えない。
尻餅を付きながら、茫然と口を少し開けて、上の空の表情。
碧眼に映るのが、犬耳兜の保護面から微かに見えるサキ本人の顔だと気づき、彼女は頬を更に緩ませた。
しかし、青年の瞳の中でサキの顔が強張る。
彼女の背後にいた二等辺三角形の頭部が、紅黒の竜の青年を捉えた。
二体の二等辺三角形の頭部一組が、二双の爪を研ぎたてる。
一番手の異形が、紅い少年の頭部との距離を縮めた。
彼は、左手を涙の形の護拳に伸ばす。
護拳から延びる拳鍔に刻まれた剣の唐草十字の紋様が割れ、半自動の装填式拳銃が、一丁飛び出た。
二発の銃声が轟き、二頭の”四つん這い”の頭が爆散。
銃撃の熱出力が、二頭の頭から胴体を膨張させ、着弾よりも大きな花火が雨の中で煌いた。
サキの周囲で、”四つん這い”だったものの欠片が雨に混じる。
水溜りを叩く雨の音に、薬莢の音が混じると、
「ったく、手間取らせやがって」
紅い青年は、左耳に取り付けている中距離無線通信機を左指で叩いた。
彼は、口端を釣り上げながら、
「ブルース、サキは保護した。”ガンビー”も倒した。命令通りだ。だが、合流は無理だ。そっちが来い。何故か?」
二つの青白い光が飛翔し、赤い青年は顔を上げる。
「”ウィッカー・マン”に囲まれているからだ!!」
シーモア・ストリートの交差点。
店舗の屋根ばかりでなく、ビルの窓にも張り付く無数の”四つん這い”。
その二等辺三角形の剣の様な頭蓋が、サキと紅い青年に狙いを定めていた。
”ウィッカー・マン”。
四年前から世界で出現している、異形の名前である。
概ね、”ガンビー”も含めて、二足歩行ないし四足歩行の脊椎動物を模した機械生命体という特徴を持っていた。
しかし、”ウィッカー・マン”が受け継いだ、生態系の弱肉強食で培われた獰猛さは、生存領域を守る為ではなく、人間の生活領域を「侵す為」に洗練化されていた。
「サキ。俺の名前はロック」
赤い青年は左耳のハンドセットを指で二度叩き、サキの目の前で語りだした。
音もなく、銀鏡色の群れが店舗の屋根から、張り付いた窓からも急降下を行う。
「お前を仲間の下に、合流させろと言われたが、この有様だ」
ロックと名乗った少年は、護拳付きの翼剣を逆手に構える。
瞳の湖面の反射が、剣の輝きに変わった。
「お前のすることは、二つ。まず、仲間への無線を欠かすな。もう一つは……」
口端を釣り上げて、ロックは言った。
「
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