幸せの白い猫

シオリ

幸せの白い猫

 田中晴貴、二十五歳。生まれて初めて女性を好きになりました。


 記憶にある限り、「恋」というものをしたことがなかったが、その感情を理解するのはいとも簡単だった。いつも家の前を通る白いワンピースの女性。黒いロングヘアーをなびかせて、颯爽と歩いていくのを見るたび、文字通り「甘酸っぱい」気持ちになるのだった。

 俺はというと、いわゆるニートだった。二〇三Ⅹ年、医療も科学技術も驚くほど速く進歩するこの時代、車は無人で走るようになったが、学生時代にとある挫折を経験した俺は、未だに家すら出れない人間になっていた。

 しかし、しかしだ。どうにかして彼女に話しかけたい。ただ、こんなボサボサの髪、灰色のスエット、何よりこんな体型では顔を合わせるのもためらわれた。


 今日はまず昼食を食べながら、箸の持ち方や食べ方に気をつけてみた。こんな小さいところまでの変化に誰かが気づくとも思えないが、それでよかった。焦らなくていい。彼女に会わせられる自分が出来上がるまで、ゆっくり変わっていけば良いのだ。

 そして食べ終わると今日も今日とて、何もすることがない。自身が変わるために仕事を探すべきかと考えたが、すぐに仕事が見つかるとも思えず、何の資格も持って無かったのでやめた。


 学生のとき部活動で使っていたジャージをタンスから引っ張り出し、夕方ランニングに出かけた。長らく走る事自体をしていなかったので、十メートルほどで歩きたくなってしまうのだが、あの子に会うためだと言い聞かせて徐々に距離を伸ばしていった。その日はよく眠れたし、なんだか健康になっていっている気がした。

 ごはんもいつもより美味しく感じた。姿勢もよくしてみて、鏡で笑顔の練習もしてみた。こうしてみると、笑顔がなかなかの不細工で、これはまだ先は長いと感じた。

 

 ランニングに慣れて、二キロほど走れるようになった日の帰り道。道路で白い猫を見つけた。舌を鳴らして呼んでみると、野良猫にしては珍しい、寄ってきて俺の手に顔をすりつけた。かわいくなってきて、顔やあごの下を撫でまわしていると、ふと後ろに人の気配がした。

「ねこ、かわいいですね。」

 鈴の音のような澄んだ声。ふわっと香る甘い匂い。振り返ると……ワンピースの彼女だった。

 そうですね、いい天気ですね、猫好きなんですか? ところでワンピース素敵ですね、何か言おうと言葉を探すが、咄嗟のことに声が出ない。そもそも人と話すときにどれくらいのボリュームの声を出せばいいんだ? 笑顔ってどうやって作るんだっけ……?

 俺の脳内が大騒ぎなのに反し、やっと出てきたのは「はい」というつまんない答えを、下を向いてぼそっと言うだけだった。こうなるんだったら、母ちゃんとでもいっぱい話しとくんだったと後悔をして、なんだか泣きそうになった。そんな俺に彼女は「ふふっ」と笑って、猫をひとしきり撫でた後、「では」と言って去ってしまった。

 大きな目とくっきりとした眉。白い肌にえくぼが浮かんでやっぱりかわいかった。

 俺は白猫に感謝するのと同時に、おなじくらい恨んだ。

 

 つぎの日、朝一番に美容院へ行った。ボッサボサの髪と眉毛、髭も剃ってもらって、母ちゃんは「誰か分からんやったわ」と言った。母ちゃんに「だろ?」という短い発声練習をして、気分のいいままランニングに出かけた。もう最寄りの駅まで往復で走れるくらいになったのではないかと思う。余裕ができたので周りを見渡しながら走っていると、小さい頃に遊んだ公園が目に入った。子供がいる様子もなかったので、鉄棒に座ってしばらく辺りを眺めていた。

 あのブランコで誰が一番遠くまでジャンプできるか競ったっけ。滑り台を反対側から登ったり、鬼ごっこしたり…楽しかったなあ。


「にゃー」

「うわっ! びっくりした!」


 いつのまにか足元にいたのは昨日の白猫だった。俺は鉄棒からおりて猫を撫でた。猫や犬を見ると名前を付けたくなってしまうもので、無難に「タマ」と呼ぶことにした。


「タマ、今日いい天気だな。」

「にゃ」

「白いボディ、素敵だな。」

「にゃ」


 何を言ってもあいまいな返事をしてくれるタマがかわいくて、またわしゃわしゃと撫でた。


「あら、こんにちは」


 そんなとき、公園の入り口からやってきたのは…ワンピースの彼女だった。今日は


裾にフリルのついていて、控えめに言って美しかった。

「こんにちは」


 心の中でガッツポーズをした。挨拶は完璧。母ちゃんで発声練習をしたかいがあった。


「昨日の白猫ちゃんとお話ししているのが見えたので、つい。髪切ったんですね」


 タマと話していることを見られたのが恥ずかしいのと、髪を切ったことを気づいてもらったのが嬉しいのとで、頬が熱くなるのを感じた。赤くなってるだけだったら少女漫画の主人公みたいじゃないか。なにか言わないと、なにか言わないと……。


「…よく分かりましたね」


 そりゃ分かるだろ俺の馬鹿! 髭まで剃っちゃってんだぞ!


「とてもよく似合ってますよ。あ、ごめんなさい。私急いでるんだった」


 彼女は「では」といって白のワンピースを翻した。

 俺の女神さまは思っていたより女神様だった。

 

その日から、ランニングで出会うたびに彼女と他愛もない話をした。そこにはタマもだいたい同席していて、ほとんど会話はタマに助けてもらっていると言ってよかった。


 決めた。俺は仕事を探すことにした。見た目が改善されて、外に出られるようになったのもあるが、彼女と話せることで毎日が楽しくなり希望が持てたというのもあった。何年振りかのスーツに腕を通し、背筋を少し伸ばして家を出た。


「そう簡単にはいかないよな…なあ、タマ。」

 俺は公園のベンチに座ってタマを撫でた。タマが心なしか悲しそうな声を出しているように聞こえた。夕方になると、十月は肌寒く、あったかいお茶を買おうと立ち上

がったとき、公園の入り口で手を振っている彼女を見つけた。


「今日はスーツなんですね。仕事帰りですか?」


 さすがにハローワークに行っていたとは言えず、嘘をつくのは気が引けたが、「はい」と答えた。何の仕事をしているのか聞かれるのが怖くて、俺は「ちょっと待ってください」と言うと、自動販売機に向かって走った。

 あぶなかった…。今のは危なかったぞ。息を整えて自動販売機に百円玉を三枚投入

した。温かいココアとお茶のボタンを押して、彼女のもとへ戻った。


「寒いでしょう? どちらかどうぞ」


 俺が飲み物を差し出すと、彼女はありがとうと言ってココアを受け取った。その時の笑顔が、あまりにも綺麗すぎて、えくぼが、三日月形の目が、すべてが可愛くって。俺の頭はパニックになりそうだったが、真似して笑顔を作ってみた。まだまだ鏡で見る笑顔はぎこちないものには変わりなかったが、最初よりはマシになったのではないだろうか。

 彼女の反応はというと、きょとんとしていて完全に失敗したと思った。その証拠にほら、彼女は立ち上がっちゃったじゃないか。

 とにかく分からないが謝ろうとしたとき、彼女は口元に手を当てて笑った。


「初めて笑ったところを見ました…笑っていた方が、素敵ですよ。」


 そう言ってから「では」と付け加えると、彼女は走って公園を出ていった。

 勘違いだと思うけど、彼女の顔が心なしか赤かったような気がした。そしてその顔を思い出しては、また甘酸っぱくなり、なぜかその甘酸っぱさに涙が出て来た。

 公園で大人が一人泣いていて、世間的には怪しいことこの上ないが、俺が人間らしさを取り戻した瞬間で間違いなかった。


 俺は自分磨きをさらに加速させた。母ちゃんとはちゃんと会話する、仕事を毎日探して、姿勢は伸ばすし、学生のときに貯めていた金で私服にも少し気を使うようになった。なんだか、恋する乙女みたいだったが、毎日が輝いていた。彼女に出会って半年、名前は「リエコ」さんと言うらしかった。そして俺は決めていた。仕事が見つかったら、彼女をデートに誘おうと。そのために、母ちゃんに「気持ち悪い」と言われつつも、日々を前進し続けた。


 ひとり茫然とした。目に映る「内定」の二文字。何かの間違いではないかと思って紙を光に透かして見たり、宛名を確かめたりとしたが、間違いなく俺宛だった。経験したことのない感情があふれ出してきて、口がハクハクとさせた。ひとしきり悶えた後、大声で拳を突き上げた。

 母ちゃんへの報告もそこそこに、夜に寿司を食べに行く約束をして家を飛び出した。目指す先はもちろん公園だった。そして高鳴る鼓動を深呼吸で抑えつつ、タマとリエコさんを待った。

 先に来たのはリエコさんだった。いつものように手を振って、僕の隣に座った。


「今日、ごきげんだね。何かあったの?」


 雰囲気を察したのかリエコさんがそんな質問をするが、それだけは絶対に答えることはできない。うまい具合に躱して、話題を変えた。とりとめのない会話をしてから、俺は本題に入るため、リエコさんの方に向き直った。


「え、どうしたの?」


 ふふっと笑うリエコさんに、息を吸い込んで一気に言った。


「リエコさん、俺とデートに行きませんか」


 俺はいつも言ってから気づく。どこに行くかも何をするかも全く決めてないじゃないか。というか、誘い方はこれで合ってるのか…? 

 またぐるぐると考え始めた俺に、彼女はとびきりの笑顔を見せた。


「もちろん!」


 俺は本日二度目のガッツポーズを繰り出した。


 クリスマスが近いということで、ショッピング街にイルミネーションを見に行く約束をして、その日はお開きにすることになった。早くタマにも報告がしたかったが、今日に限って公園には現れなかった。彼女が「では、また」と言って歩き出すと同時に、「にゃー」という声が聞こえた。

「タマ?」

 向かいの街路樹の影からタマが飛び出してきた。こんなところにいたのか、と思ったとき大きな音が聞こえ、嫌な予感が走る。一直線に走ってくる、トラック。俺は足に鞭打って駆けだした。全速力でタマを抱き上げ、よかった、と思ったのも束の間、今度は自分の影がトラックの影に飲まれた。

 最後に見たのは何かを叫んでいるリエコさんだった。


「ハルくん!」


 その姿に既視感があるのだが、すぐには分からない。

 俺のこと、ハルくんって呼ぶことにしたのかな…気が早いや、リエコさん。

俺は重く強い力で吹き飛ばされた。


‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


 あれから数日後。

 幸いトラックがそこまでスピードを出していなかったことや車に当たった場所が良かったのか命に関わることはなく、俺はすぐに退院することができた。

病院で目を覚ましたとき、リエコさんと母ちゃんが目に涙を貯めていて、これでもかというくらい抱きつかれて、泣かれた。タマも無事だったということで俺は心の底から神様に感謝した。


 デート当日、駅で待ち合わせをしていた俺は仕事の面接以上に緊張していた。できる限りのおしゃれをしてきたが、これで合っているのか。雑誌で見た履きなれない形の靴、小さなカバン、今の俺は不格好ではないだろうか。早くリエコさんに会いたい、でも…と落ち着かない。

 そこへ、見慣れた手の振り方をする姿が見えた。白のニットのワンピース、黒のブーツ、ゆるく巻いてある髪がよく似合っていて、俺はそれを見ただけで倒れそうだった。お互い、いつもと違い、少し気合いをいれていることに気づき、顔を赤らめた。


「それ、ハルキさんによく似合ってる」

「リエコさんも」


 一層顔を赤らめリエコさんは、行こうか、と言って歩き出した。

 この場ですぐに手を繋ぐ勇気があったら、と自分の臆病さを憎んだ。


 やはりショッピング街はクリスマスというだけあって人でいっぱいだった。俺たちは互いに見たい店を言い合って一緒に回り、予約していたイタリアンレストランで食事をした。そして通りの一番奥にあるクリスマスツリーまでイルミネーションを見ながら歩いた。リエコさんはクリスマスツリーを見上げ、目をキラキラさせて、「綺麗だねえ」とつぶやいた。

言うなら今しかなかった。男を見せるときだと感じた。


「リエコさん」

「ん?なに?」


リエコさんは優しい微笑みを向けてくれる。

彼女がどこまでも優しいとわかっていても、口に出すのは緊張した。


「俺、リエコさんのことが好きなんです。いつも会えるのを楽しみにしていて、今日のこともオッケーしてくれたの、すごい嬉しかった。だから、あの…俺と付き合ってくれませんか」


 リエコさんの顔を見れなかった。おそるおそる目を開けると、彼女は手で口元を覆っていた。「リエコさん?」と顔を覗き込むと、泣きそうな顔で笑って、


「私も、ハルキさんが好き。お願いします。」


と言った。衝動で彼女を抱きしめた。俺の背にも手が回され、俺は一番の幸せ者だった。

 これから先も、ずっと一緒にいたいと思った。


‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


「ハルくん、タマ連れて来たよー」


 私は特別病棟の一室の扉を開けた。

あの公園前の横断歩道で起こった事故から数ヶ月、こうして毎日のようにハルくんに会いにきている。


ハルくんはトラックに跳ねられた後、救急車によって運ばれたが助からずに意識不明となった。医者から目覚める見込みがないと言われた時、私は医師にあるお願いをした。

一年前、新たに発表された医療技術。意識のない患者に夢を見させながら、延命する方法だった。こうすることで少なくとも本人は自分が生きているように感じるし、いつか目が覚める可能性がどうしても否定できない残された人も、救われるというものだった。この技術は賛否両論で、すぐに中止すべきだという政治家もいた。


ハルくんのお母さんは事情を説明すると、すべての謎が解けたように何度もうなずき、涙ながらにこの方法を承諾してくれた。そうして彼は大きな機械の中で眠っている。


私は最後までハルくんに昔の話をすることができなかった。私たちが出会っていたあの公園、あそこは小さい頃一緒に遊んだ場所だというのに。ハルくんの名前を聞いたとき、笑ったとき目じりにできる皺、この既視感の正体が理解できた。

それに対し、ハルくんは私の名前を聞いても何も言わない様子から、覚えていないようだった。それも仕方ないのかもしれない。昔彼は私のことを「りーちゃん」と呼んでいたのだから。彼がもし思い出自体を忘れていたら、と思うと怖くて言うことができなかった。


私のことをお嫁さんにすると言ってくれたハルくん。

小さい頃から変わらず優しいハルくん。


どうか夢の中で幸せでありますように。








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