第8話 ミーシャ

 怪文書に名前を乗せられた事など知るよしもなく、喪服に身を包んだミーシャは、雪が降り積もるのを曇った窓ガラスを手で拭いて眺める。階下から聞こえるマルコイ伯父とマルガレータ伯母の喧嘩をする声を両手で耳を塞ぐと、1ヶ月前の祖父が倒れる原因となった言い争いを思い出して涙を零す。


 ルドルフ国王の側室だった母上が亡くなってから、祖父母の屋敷で育てられたミーシャにとって、伯父のマルコイは苦手な存在だ。引退した竜騎士のジニアス・フォン・ヘンダーソンには生活に困らないだけの恩給があったし、ルドルフ国王からミーシャの養育費も渡されていた。


 マルコイは竜騎士の素質を持たず、大学をどうにか卒業して下級官僚になっていたが、賭け事と酒と女に溺れる日々を送ってクビに何度もなりかけていた。ルドルフ国王の元側室の兄ということで、どうにかクビにはならずに済んでいるという状態だったのに、あの日も賭け事で借金を作って金の無心に屋敷に訪ねて来たのだ。


「父上、今回のお金は可愛い孫達の家庭教師代ですよ。あの子達も、じきに大学生になるので、馬や服装も相応しい物が必要なのです」


 賭け事の借金を孫達の教育費だと誤魔化そうとするマルコイに、ジニアスはうんざりした。これまで何回も、妻に懇願されて渋々お金を融通してきたが、我慢の限界だと思った。


「もう、お前に渡す金は無い! とっとと出ていけ!」


 オロオロする妻を宥めようと椅子から立ち上がった時、ジニアスの頭の中で血管が怒りのあまりプチッと切れた。


「ジニアス、貴方しっかりして下さい! マルコイ、お願い、お医者様を呼んで!」


 賭け事や酒や女の誘惑に弱いマルコイだったが、根っからの悪人では無かったので父親が倒れたのに狼狽え、召使いに医者を呼びに行かせたが、医者が雪道を難儀しながら駆け付けた時には、なすべき事は死亡宣告だけだった。


 こうしてミーシャは真面目な後ろ盾だった祖父を失ってしまったのだ。


 祖父の葬儀が済むや否や、マルコイ伯父夫婦と従兄弟達が引っ越して来た。外から眺める分には、祖父母とミーシャだけの寂しい生活より、伯父夫婦と従兄弟達との賑やかな暮らしの方が幸せそうに見えたかもしれないが、実際は大違いだ。


 元々身体の弱かった祖母は、祖父の死に耐えられず寝込んでしまい、マルコイ伯父夫婦と従兄弟達が屋敷の全てを一月の間に無茶苦茶にしてしまった。


「こんなに沢山の使用人は要らないだろう」


 ミーシャを赤ちゃんの頃から育てた乳母や、ヘンダーソン家に忠実な召使い達を殆どクビにして、前の屋敷で使っていた召使い夫婦に取り仕切らせた。前からの召使いで残っていたのは、下働きの女中ぐらいで、ミーシャは心細く思う。


 伯母のマルガレータも元は悪い人間では無いのだが、マルコイ伯父の度重なる浮気と借金に現実を見るのを止めて朝から酒を飲む有り様だったので、小さいながらもキチンと掃除の行き届いていた屋敷は無残な姿になっていた。


 伯父夫婦は年中喧嘩ばかりしているのに何故か子沢山で、5人の従兄弟達は行儀も悪く、食卓で一緒に食事を取るのも弱肉強食だ。


「お~い、ミーシャ! 飯だぞ!」


 騎士階級とも思えない従兄の下品な口のきき方にミーシャは眉を顰めたが、朝から酔っぱらっているマルガレータ伯母に育てられたら仕方ないかもと溜め息をつく。 


「フン、私生児なのにお高くとまって!」


 非難するような目に気づいた従兄弟の悪口が、グサリとミーシャの胸をえぐる。ミーシャも13歳になり、自分が日陰の身である事は従兄に言われなくても知っている。


「何よ! 私の養育費で、貴方達も食べているくせに!」


 そう怒鳴ってやればスッキリするのかしらとは思ったが、そんな恐ろしい事はできないミーシャだ。


 その夜も食べ盛りの従兄弟達はミーシャの皿から肉や魚を取っていったので、野菜とスープとパンしか口に出来なかった。人数が増えたとはいえ、何故このように貧しい食卓になったのか、世間知らずのミーシャにはわからず、前にいたコックの美味しい料理を懐かしむだけだった。


「お祖母様が元気になられたら、こんな不作法はお許しにならないと思うのだけど。マルコイ伯父様は、また賭け事をしに出掛けたのかしら? マルガレータ伯母様が止めたから、怒鳴っていたのね」


 先程の喧嘩の後でお酒を飲んだマルガレータ伯母は、酔っ払っているのを誤魔化そうと努力はしていたが、椅子に座っているのが精一杯で、今にも手を付けていないスープに顔を突っ込みそうだったのを思い出し、ミーシャは深い溜め息をつく。



 こんな窮状にミーシャが陥っているとは、ルドルフ国王は勿論のことだが、養育費を支払っている官僚も知らなかった。マルコイ・フォン・ヘンダーソンは一応は下級とはいえ官僚だし、祖母と伯母の庇護の元でミーシャは養育されていると誰もが考えていた。


 だがヘーゲル男爵は、前からマルコイがギャンブル依存症だと気づいていた。


「邪魔なジニアス卿が亡くなったのは好都合だ。あんな覇気のないルドルフ国王や、カザリア王国の雌犬が産んだアレクセイ皇太子などに、ローラン王国を好きにさせてたまるか!

 その上、イルバニア王国のユーリの娘などを皇太子妃にするなんて、狂気のさただ」


 ケイロンの一角でヘーゲル男爵と考えを同じくする狂信的な旧帝国主義者達は、ミーシャと自分達の思い通りに動かせる竜騎士を結婚させる事を画策していた。


「あの怪文書はルドルフ国王やアレクセイ皇太子の目に止まっただろうか? 一度や二度なら、馬鹿げていると笑って済ませるが、何度も繰り返されるとミーシャをどうにかしようと考えるだろう」


 集まったメンバーの一人が、何故このような怪文書などを作って、自分達の作戦をルドルフ国王達に知らせる必要があるのかと質問する。何人かのメンバーも、ルドルフ国王やアレクセイ皇太子を貶めるには面白い手だが、庶子に過ぎないミーシャと竜騎士を結婚させても、王位には遠すぎるのでは無いかと声をあげる。


 ヘーゲル男爵は、この馬鹿共しか仲間がいないのかとウンザリしたのを隠して、心臓の悪いルドルフ国王はいずれ死ぬし、アレクセイ皇太子とナルシス王子はコンスタンスが不義密通して産んだ子供ではないかと言い立てる。


 メンバーはそういえば、コンスタンス妃が離婚された理由は不義密通だったと思い出した。しかし、メンバーすらもそれが真実だとは考えていなかったのだが、ローラン王国の王家の記録にはそう記入してあるとヘーゲル男爵に言い切られると、少しずつ陰謀の筋書きが見えてくる。


「これから何度も怪文書は配られる。初めは馬鹿にしていても、コンスタンス妃の不義密通の件や、カザリア王国の属国にしようとしているアレクセイ皇太子の企み、あの戦犯者ユーリ王妃の娘である魔女の事を何回も繰り返して、不信感を煽るのだ」


「そんな事をしていたら、ミーシャ姫をルドルフ国王がどこかに嫁がせるか、修道女にさせるのではないか?」


 ヘーゲル男爵はルドルフ国王を軟弱者と馬鹿にしきっていた。


「あのルドルフ国王なら、修道女にするのは可哀想だとか甘いことを考えて、家臣の子息に嫁がせようとするだろうが、なかなか信頼できる婿は見つけられないさ。アレクセイ皇太子に忠誠を誓うような物好きは滅多にいないからな。その前にマルコイを借金漬けにするのだ。そうして、ルドルフ国王が愚図愚図しているうちに私達の同志と結婚させれば良い」


 マルコイは連夜ヘーゲル男爵の仲間と賭け事をしていた。最初はかなり勝たせたので、今は負け込んでいてもツキが廻ってくるとマルコイは、賭け金を高額にして借金をどんどん増やしていっている。


「まだミーシャ姫は結婚するのは早いのではないか?」


 ポツリと呟かれた言葉は全員から無視された。


「14歳なら早すぎることは無い! マルコイに説得させれば良いのだ。借金を払わなければ、住む屋敷も、命も取られると言えば、納得するだろう。それに竜騎士と結婚させてやるのだから、文句はあるまい!」

 

 ただし、ヘーゲル男爵は一つだけ思い違いをしていた。


 マルコイは、ヘーゲル男爵が考えていた以上の馬鹿者だった。


 ヘーゲル男爵の仲間との賭け事で負けだしたマルコイは、他のメンバーとならツクだろうと、少し怪しい男達と賭け事もして、巨額な借金を背負ってしまった。


「今夜は今までの借金を取り返すぞ!」


 妻のマルガレータと喧嘩をしてまで出てきたマルコイだったが、懐には支給されたばかりのミーシャの養育費が入っている。マルコイの予定では、これを元手に借金を全部返して、子供達に家庭教師をつけるつもりだった。


 そんな風にいけば、ミーシャは迷惑な従兄弟達とまだ当分は一緒に暮らせたのかもしれなかったが、負けが込んでいるマルコイが勝てるわけもなく、養育費を全て失っただけでなく、屋敷まで失ってしまう。


「屋敷には家族が住んでいるんだ。引っ越し先を見つけるまで、待ってくれ」


 マルコイは必死で頼んだが、相手が許してくれるわけが無い。賭け事をしていた部屋から、裏の小汚い部屋に連れ込まれたマルコイは、この時点になって初めて、大変な事をしてしまったと気づく。


 ヘーゲル男爵達の仲間は貴族や騎士階級で、賭け事をしていても紳士としての行動範囲を越えない人種だったが、目の前にいる豪華な毛皮のロングコートを着た男はどう見てもまともな仕事をしている人種には思えない。


「負けた金を今すぐ返すか、死んで返すかのどちらかを選ばしてやろう」


 一瞬マルコイは自分が死ねば借金はチャラにして貰えるのかと勘違いしたが、周りの男達に大笑いされてしまう。

 

「お前が死のうが生きようが、俺達に何の関係がある? 借金を返すのは当たり前だが、屋敷だけでは足りないから海賊船にでも売り飛ばそうかと思ったのだ。お前みたいな屑にも家族がいるのだろう? 嫁さんや娘は、マルタ公国で高く売れるかな?」


 マルコイは下級とはいえ官僚だったので、生活に困窮した農民達が領地から逃れてイルバニア王国を目指す難民になっているのを知っていた。そして、バロアの国境を越えられない難民達を密入国させてやると騙して、女子供を売り飛ばす海賊が横行しているのも知っていたので、真っ青になって震える。


「屋敷はやるが、家族には手を出させないぞ! そうだ! 我が家にはルドルフ国王の庶子のミーシャ姫がいるのだ! 何かあったら、ルドルフ国王がお前達を逮捕して、処刑するぞ!」


 毛皮を着たボスは、ふう~んとマルコイの話を興味深げに聞く。


「高貴な血筋の姫君かぁ。これは高値で売れるかもなぁ」


 マルコイは牽制する為に口に出したミーシャの事に、びびるどころか売り飛ばす算段をしだしたボスに、そんな事は許されない! と怒鳴ったが、一発殴られて気絶してしまった。


 その夜から、ミーシャの姿は屋敷から忽然と消えたが、訝るマルガレータにマルコイは怪文書を見せて、疑惑を掛けられているからほとぼりが冷めるまで修道院に預けられたのだと嘘をつく。


 マルガレータは酔っ払って寝ていたが、夜中にドタバタと男達の足音と声がしていたのを微かに覚えていたので、官吏がミーシャを修道院に閉じ込めに来たのだと可哀想に思った。


 マルコイは家族は騙せても、いずれはミーシャが失踪したのがバレると、屋敷を売って夜逃げを計画する。残された母親をルドルフ国王は罪にといはしないだろうと、召使いと残して、こんな時ばかりは手早く何処へかと消え失せてしまったのだった。



 ヘンダーソン家の夜逃げに、一番に気づいたのは、ヘーゲル男爵だった。


「しまった! マルコイの馬鹿さ加減を見誤っていた! 屋敷に病気で寝込んでいる母親を置き去りにする程の非道を犯すとは思って無かった」


 マルコイの足取りを調べろ! と怒鳴りながら、ミーシャも一緒なのだろうかとヘーゲル男爵は首を傾げる。


「ルドルフ国王か、アレクセイ皇太子がミーシャを保護しているのか?」


 王宮を見張っている同志からは、東南諸島連合王国の王子との会合と接待しか報告を受けていなかったのだが、ルドルフ国王に何人かの家臣が会いに来ているのが気になった。


「カニンガム伯爵がミーシャを保護しているのか?」


 融通の効かない石頭のカニンガム伯爵では、手足が出ないとヘーゲル男爵は歯軋りをしたが、どうもミーシャを匿っているとは探らせても思えない。ヘンダーソン家の夜逃げのメンバーにも妻以外の女はいないと報告を受け、ミーシャの行方不明に気づいたのも、ヘーゲル男爵が一番早かった。



 しかし、祖母からルドルフ国王に一家が夜逃げしたと詫びの手紙が届き、ミーシャの失踪はじきに知られることになった


 驚いたルドルフ国王は自ら祖母に会いに行って、屋敷の荒廃振りに驚いた。


 ベッドで弱っていながらも、涙ながらに息子のマルコイの所業を詫びる祖母に、ルドルフ国王は初めはミーシャの件で思い違いをしているのに気づかなかった。


 祖母はミーシャは修道院に閉じ込められていると思っていたし、ルドルフ国王はマルコイ達と夜逃げをしたのだと心配していたのだ。


「マルコイにミーシャを預けるのを心配されたのでしょうが、冬の修道院は寒いので身体を壊さないか心配していました。しかし、マルコイが夜逃げをする程追い込まれていたとは存じませんでした。こうなってみたら、国王陛下がミーシャを修道院へやって下さってて良かったのですね」


 身体が弱った祖母の言葉に驚いたルドルフ国王は、いつミーシャが修道院へ行ったのかと質問する。


「マルコイが夜逃げする前の日ですわ。夜中に突然連れていかれたのです……まさか、国王陛下?」


 ルドルフ国王は、ヘーゲル男爵がミーシャを拉致監禁したのだと勘違いした。

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