第3話3部 会議は踊り 酒は回る

 吉祥寺に看板を立てた時から、調べモノはメシの種だった。

 一応、『浮気調査から国家機密まで』がモットーだったが、仕事の殆どは国が関わらない奴だった。

 ということで、素行調査はお手の物なのである。

 プロですから。


「で、調べてみたら出るわ出るわ。昼日中に工作員に接触するわ、通常郵便で報告送るわ、欺瞞工作していないわという具合で」

「ほらやっぱり。アタシが言った通りでしょ~」


 人でごった返す酒場の隅。

 酒瓶片手にご機嫌に言うテーダさん。

 今日はいつもに増してのおめかしモード。

 黒いドレスは腰をキュッと締め上げて、身体ひとつ分突き出た胸を下から支えているばかり。

 北半球から肩も首筋も肌色が露わになっていて、視線の置き場に困ってしまう。


 昔、ある男が言った。

 少年が男になる時は、フェチズムを知った時だ、と。


 何故だろう。

 歳を食うほどに。

 物事を知るほどに。

 胸の膨らみそのものよりも、露わになった脇とか肩とかにエロスを感じるようになるのは。


 ちなみに俺は首派。

 鎖骨から首筋のラインがどうにもたまらない。

 正直、全裸より駄目だ。

 駄目になってしまう。


「どうしたのよ? 目つきがいやらしいじゃない。そんなんじゃあ、色仕掛けに簡単に引っかかっちゃうわよ」

「もう引っかかってるかもしれませんね」

「そりゃ良くないね。その、デラとか言うのにアンタが籠絡されたりしたら、アタシの仕事がやりにくくなっちゃうわ」


 素行調査で正体が知れたのはテーダさんではなかった。

 正体が知れたのは、先に紹介されたベッピンさんの方だ。


 そう、スパイだったのはテーダではないのだ。

 いや、テーダさんもスパイではある。

 ただ、ベッピンさんとは別の国から来たスパイのテーダが俺に告げ口をしたと言う塩梅だ。


 まさに、各国の陰謀渦巻くスパイVSスパイ。

 まるで映画の世界である。

 なんだか、とんでもない事になってしまったぞ。


「そんなに暗躍しなきゃ駄目な所なんですかね。ここ」

「そりゃ、竜皇国からしたら背後の守りになるからね。必死にもなるわ」


 魔王が降臨し【暴食フードファイト】が支配するようになったこの大地。

 内側にいると気付き辛いのだが、その”外側”が存在する。


 この大地……正確には大陸だが……の外側は海である。

 大洋。としか呼ばれていない広大な海だ。

 それを何ヶ月と船で進んだその先に、二つの大陸と、それを結ぶように浮かぶ弓形列島がある。

 かつては、その大地だけが人間の領域だったらしい。


 何度か名前の出ている竜皇国は、弓形列島と大洋に浮かぶ幾つもの島々。


「っていうか、大洋全部が領土。ってのがあいつらの主張ね」


 竜皇国はその名の通り、永世始原深淵竜皇エターナルエンシェントエンペラーシャドウワームが治める海洋国家である。

 列島と大洋に浮かぶ島々。

 それに、大洋の海底には、魚人や深海種ディープワンズの国家が存在するらしい。

 それらを統べるのが、永世始原深淵竜皇エターナルエンシェントエンペラーシャドウワームと言うことになる。

 どうでもいいが、凄い名前である。


「こちらへの移民も殆どは竜皇国からの人ですよね。それだけ人口が多いと言う事ですかね」

「そうね。それに、地上人口の十倍くらいの魚人が海の中にいるらしいわ。竜皇の居城も海ん中だもん」


 海の中の都か。

 うーん、ファンタジー。

 タイヤヒラメが舞い踊っていそうだ。


「逆に言えば。ここを押さえれば竜皇国の背後を取れるんだから。他の国も必死になるって寸法」


 二大陸は群雄割拠の戦国時代の様相で、統一的な国家は存在しない。

 今この時も、どこかの国が亡びて新しい国が出来ている。

 そんな状況であるらしい。


 なお、ヘリアディスの故国のモノスタンもそんな国の一つだったそうだ。

 竜皇国との戦争に負け、国力が低下したところを革命が起きて国が滅びたのだそうだ。

 今は共和制国家として、結構上手くやっているらしい。


「テーダさんはどこの国から来たんですか?」

「アタシ? スパイにそれ聞いちゃう? まあいいけどねー」


 けらけらと笑って、テーダはジョッキを傾ける。

 ぐびぐびと音を立てて、上下に動く喉仏がなんとも艶っぽい。

 ただ、入れているのはビールでなくてウイスキー。

 酒、強いなぁ。

 さすがはドワーフと言った所だろうか。


「アタシはマーナーン魔王国から来たの」

「魔王国? って事は……」

「そう。マーナーン・アーナーンって名前の魔王が治めている国。こっちに負けず劣らず変な掟がまかり通ってる国でねぇ」


 魔王というのは何人もいるらしい。

 しかし、魔王というものは、妙なルールを作らなきゃいけない理由でもあるのだろうか。

 魔王ならぬ身の俺には分かりかねる問題ではある。

 そして、分からない問題は気にしないのが一番である。


「それでも、国ん中ではなんとなく上手く行ってるのは、ここと一緒よね」

「この街も上手く行ってくれないもんですかね」


 外は他国の侵略の恐れ。

 内は他国のスパイが暗躍。

 さらに市長は素人と来た。

 内憂外患とはまさにこの事だ。


「デラが連れてくるのは、竜皇国が『輸出』してきた政治屋や官僚。ヘリアディスのツテを頼ってモノスタンの亡命貴族達もやってくる。当然市井じゃアタシの工作員が暗躍し、前市長は頼りにならない、と」

「サーティはどうなんですかね」

「あの娘が一番分からないわねぇ。大河を使った貿易ってのは、竜皇国の常套手段なんだけど。水運貿易は竜皇国の専売って訳でもないし」


 同じ国の関係者が別派閥として入ってくるとかあるんだろうか。

 そもそも、列車の売り子がどこかと繋がるのか。

 彼女を雇ったのだって、ほとんど偶然だ。

 となると、雇った後に渡りをつけたのか?


 やれやれまったく、知恵熱が出そうだ。


「ま、裏に誰かはいるでしょね。ゴブリンはバカって訳じゃないけど、18歳なら18年間しか人生経験無いんだから」

「政治の世界は四十五十は洟垂れ小僧と言いますからね」

「でなきゃ歴史に名を残す天才かね」


 盃を重ねてケタケタと笑う。

 そんな天才が、列車の売り子やってる訳は無い、か。


「アタシの予想だと、竜皇国の関係者で。デラと『良い尋問官と悪い尋問官』やる気じゃない?」

「片方が強硬姿勢見せて、もう片方の路線の方を通し易くする。って感じかぁ」

「分かってても引っかかるのよね。あれ」


 どっちを向いても敵ばかり。

 各国入り乱れてのバトルロイヤル。

 市長としての、俺の立つべき位置はどこにあるのか。

 白いマットのジャングルは、一つのミスが命取り。

 毎日嵐が吹き荒れて、明日がどっちかまるで見えない。

 はてさてまったく。どうしたものだろうか。


「なんだかんだって文句言ってるけど、結構真面目に考えてるじゃない?」

「そりゃ、乗ってしまった船ですからね」


 気付けば夜も更けていた。

 一日の労働を終えた男達が、今日の疲れの癒やしを求めて酒場に集まる。

 酒場の熱気と喧騒が、だんだんと大きくなっていく。

 その中には、見知った顔がいくつもある。


「おう! 市長さまじゃねえかよ」


 この間平定した山賊達も、その中に混じっている。

 一際高い場所に牛の頭が見える。

 ミノタウロスの親方は、力仕事に揉め事のまとめにと、色々な所で活躍している。


「市長さまよぉ。こっちでちょっと何か食ってかねえか?」

「そりゃいいや。カレーなんかどうだ」

「けっけっけ。カレーはしばらく勘弁してくれよ」

「遠慮するなよ親方。おかわりもあるぞ」


 付き合ってみれば、気持ちのいい連中だ。

 こいつらの生活を俺が支えていると言われたら、全部を投げ出すわけにもいかないわけで。

 背負った重みも男の甲斐性なわけで。

 投げ出すと何か負ける気がするわけで。


 はあ。

 男はつらいよ。


「まったく。男ってのは面白いわね。バカで」

「女性みたいに賢く立ち回る事が出来ればいいんですけどね」


 市長さま市長さまと酔客共に連れ出される。

 その横を、テーダさんがついてくる。

 美人をエスコートしているようで、ちょっとした優越感。

 羨ましそうにしている男どもに、余裕の笑顔を見せてやる。


「でね。どうにかする方法、実はアタシ知ってるんだけど」


 ……え……?

 まじで?


「でも、教えてあげない」

「そりゃあ無い。教える気が無いのにわざわざ言うなんて。そんな殺生な」


 まったくアンタはバカねえと、テーダさんは先に立つ。

 立呑みテーブルの向こうに肘をかけ、手にしたジョッキをドンッと鳴らす。


「そういう相手に言うことを聞かせる方法。あるんじゃない?」


 お、と言う風に周囲の男どもが輪を作る。

 これから起きる成り行きに、期待を込めて注目する。


「飲み物でも出来るんでしょ? 【暴食フードファイト】」


 呑み比べか。

 通常のフードファイトとは別ベクトルの存在。

 しかしそれも、食物を胃の中に収める行為ではある。

 つまりは、【暴食フードファイト】の対象でもあるということだ。


「それにドワーフの女は、呑み勝った相手に惚れちゃうものなのよ?」


 挑発的に唇を吊り上げる。

 上目遣いの視線は笑っていない。

 悪女の笑いだ。

 まんまるい、それでも整った顔に、悪そうな表情が映えている。


「これは、受けるしか無いなぁ」


「よぉっし! 【暴食フードファイト】だぞ!」

「場所空けろ! 席作れ! オッズ決めるぞ!」

「俺、市長に小銀貨3!」

「俺はねーちゃんにかけるぞ!」

「市長には勝てねえんじゃねえのか。オークの前市長やミノタウロスの親方にも勝ってるんだぞ」

「酒にかけちゃドワーフに勝てるワケねえだろ」


 早くも賭けが始まる。

 オッズの方はやや俺が上か。

 とは言え。ドワーフのアルコール耐性は他の追随を許さない。

 これは単なる胃袋の戦いストマック・ウォーではない。

 肝臓の戦いレバー・ブローでもあるのだ。


「それで? 呑むものはどうする? アンタはビールで、アタシはウイスキーでもいいわよ」

「流石にそれはフェアじゃない。同じ酒……ビールで勝負でどうですか?」

「アタシにとっちゃ、水みたいなモノよ? ビールなんて。それでいいならやりましょう」


 純水の致死量は5~10リットル、アルコールの致死量はビールで7~8リットル程度とされる。

 水については、多量の水分によって血中のナトリウム濃度が下がりすぎる事を原因で、不純物が多い飲み物やミネラル分を補給しながらであれば、さらなる量を摂取できるだろう。

 が、アルコールはそうもいかない。

 アルコールは明確に毒だ。

 ビールならば、ジョッキで十五杯前後が致死量になるらしい。

 ドワーフであるテーダならばさらに呑む事も可能だろうが、人間の俺はそうも行かない。

 これはタフな戦いになりそうだ。


「テーダさんこそいいんですか。これまで結構飲んでますよね」

「それくらいはハンデにもならないわよ」


「よぉっし決まった! ビール樽持ってこい! 【暴食フードファイト】開始だ!」


 ミノタウロスの親方の号令。

 お互い手にしたジョッキを打ちつけ合う。

 ガン、と響いた盃の音が、戦いのゴングだ。


「勝ったらアンタのものになってあげるわよ」

「俺が負けたらどうするんですか?」

「アンタがアタシのものになるってどう?」


 小悪魔風に微笑むテーダ。

 その口調に、ちょっと期待が混じっている気もする。

 そう思うのが、俺の期待の為せる技か。

 それとも、どこか何かを期待しているのか。

 男の俺にはよくわからない。


 女心は複雑なのだ。

 まるでそう、今のこの街の政治のように。


「それは何とも。嬉しい申し出ですね」


 二人同時にジョッキをあおる。

 ぐびり、と一気に飲み干す。

 ジョッキは大ジョッキにちょっと足りないくらい。

 500mlと過程すれば、10杯を超えたあたりが勝負の分かれ目だ。


「へぇ。いい飲みっぷりじゃないの? アタシのものになりたいなら、わざと負けてもいいのよ?」

「ハンデまでもらって負けちゃ、男が廃ると言う訳でね」


 二杯目。

 呑み終わるのは同時。

 みるみる顔が熱くなる。

 胃腸から滲み出たアルコールが、血液の中で暴れ始めたのがわかる。

 急速に増えた水分量が、血液濃度を薄めていく。

 一方胃の中では、ビールの炭酸が胃壁を急速に押し広げ始めている。

 ビールと言えど、身体に与える影響は、強い。


「なに? もう顔真っ赤じゃない。もしかして弱かったりする?」


 一方テーダは余裕の表情。

 顔色はあまり変わっていない。

 ただ、テンションはやたらと高い。

 それがアルコールの影響か、それとも【暴食フードファイト】中の緊張によるものか。

 それはまだ、分からない。


「同じペースで飲んでいると、とても勝てそうにないな。こりゃ」

「ふぅん。それじゃアタシは好きにやってるわ」


 ぐびり、と三杯目を一口だけ呑む。

 テーダの方は一気に飲み干していた。


 焦るな。

 焦るんじゃあ無い。

 ただ酒を腹に収めたって、美味い訳じゃあないんだ。

 味を楽しもう。

 ビールならではの、苦味と旨味を楽しむんだ。


 苦味の中にある、わずかな甘さ。

 ビールは麦から作られる。

 かつては呑むパンと呼ばれたのがビールだ。

 その高い栄養分から、太古の昔は疲れを癒やす魔法の薬とされた事もある。

 ピラミッドの職人が、ビールの飲み過ぎで仕事を休んだという記録もあるとか。


 それほどの昔から、ビールは人のそばに居た。

 その、人類の友を、俺は呑む。

 呑む。

 呑む。

 呑む。


「ゆっくり呑むって割には、ちゃんと飲んでるじゃない」


 ゲェッフ、とはしたなくゲップを決めるテーダさん。

 嫁入り前の女性がしていい事ではありません。

 でもちょっと、聞いてて興奮する。


「テーダさんのペースが早すぎるだけですよ」


 ようやく俺は三杯目完食、いや完飲。

 テーダさんは早くも五杯目を飲み干している。


 すげえなぁ。

 うわばみと言うより最早ザルである。

 酒という分野においては、やはり彼女の種族は作りが違うらしい。


「諦めちゃ駄目よ。アタシの身体を逃す手は無いでしょ?」

「出した手が火傷しそうな話だな」


 アルコールが回って敬語で喋る余裕が無い。

 そう言えば、ずっと敬語で喋っていた。

 それを咎められた事は無かったが……。


 ああ、くそ。

 関係ない思考がぐるぐると回ってくる。

 替わりにろれつは回らなくなってくる。


「……ビール以外で何か食べるのは?」

「だめ」


 厳しい。

 そしてきつい。

 せめて、牛乳で胃に膜を作れるならば違っただろう。


 だが仕方ない。

 勝負というものは厳しいものなのだ。

 ペースを守って美味しく飲もう。

 一気呑み厳禁。

 酒は節度を持って呑みましょう。


「ちまちま飲んでないでさ。一気にいきましょ、一気イッキ」

「一気の強要も禁止だぞ」


 四杯目半までようやく呑み終わる。

 テーダは六杯目。

 お互い顔はもう真っ赤。

 呑む程に、彼女のテンションは上がって行き、杯を重ねる速度も上がる。

 呑むほどに、酔うほどに強くなる。

 まさに酔拳だ。


「まあ確かに。ぐびぐびやってるだけじゃ、お酒の美味しさとか分かんないしね」


 そんな事を言いながら七杯目。

 今度ばかりは、一口飲んでジョッキを置いた。


 流石のザルも底が見えてきた。

 そりゃあ、3リットルを一気だもんな。

 アルコールはともかく、もはや胃はパンパンだろう。


「ああもう。お腹がキツいわ!」


 言うが早いか、ドレスに手を突っ込んで、力いっぱい紐を引く。

 ボイィン、と音を立てるように、ぽっこりお腹がドレスを押し上げた。


 お腹と胸がボインボインと揺れている。

 酒を収めた水風船だ。

 触れれば弾けそうなくらいに張り詰めている。


 子供のころ水場で投げあった、暑い夏の日。

 悪ガキ同士で集まって、バカな事を言い合いながら、おっぱいアイスに吸い付いた。

 そんな夏の思い出が、俺の脳裏を駆け抜けた。


「さあさあ。まだまだ入るわよぉ」

「女の子がはしたないぞぉ」

「女の見栄保って、大酒飲みなんてやってられないわよ」


 彼女は勝つ気だ。

 勝負の前の誘惑は、しかし勝負とは関係ない。


 勝った後の、或いは負けた後の。

 その後の事はその時の事だ。


 今はただ、二人の勝負をする者として、戦いに全力を尽くす。

 戦いに、男と女は関係ない。

 ただ、一意専心に。


「分かってきたじゃないか」

「アタシは最初から分かってるわよ」


 軽口を叩き合う。

 俺五杯半。テーダは七杯目半をちょっと超えたくらい。

 じりじりと追い上げる。


 一歩一歩確実に。

 牛歩戦術だ。

 酒のジンギスカン作戦だ。


「それにアレよ。アンタが勝ったら貰ってくれんでしょ。アタシの事」

「っぶっ!」


 突然ペースを崩された。

 精神攻撃も自由自在。

 出来る、この女。


 後、ジンギスカン作戦はやめよう。

 間違いなく負ける作戦だ。


「あーもう。吹いたりしないでよ。それとも降参する?」

「……すみません。継続でお願いします」


 ビールまみれの顔をテーダが拭いてくれる。

 ヒューヒューと冷やかす外野がうるさい事おびただしい。


 何だお前ら、暇人か?

 やんのかコラ?

 喧嘩すんのかコラ?

 俺は喧嘩強いぞコラ?

 やっちゃうぞコラ?


「はいはい。それじゃ勝負再開ね。吹いた分はハンデにしてあげるわ」

「その分追加で飲むよ」

「ま、飲めるもんならね」


 知らず、勝負は後半戦に突入していた。

 常人にとって、3リットルの水分は一つの壁だ。

 大食漢のドワーフはそれを上回るだろうが、八杯目を超えたあたりが物理的な限界だろう。


 それに、俺は待っていた。

 無駄口を叩き。

 最大に呑める速度よりやや抑え。

 時間を稼ぐ遅滞戦術。


 彼女には、もう一つの地獄リミットが口を開けて待っていた。


「…………くぉ…………」


 八杯目を飲み干した後。

 唐突にテーダの手が止まる。


 顔の赤さがさらに増している。

 かと思えば、顔色が青白くなる。


 ぽてっとした唇が、小刻みに震えていた。


「ちょ、ちょっと……」


 目が泳いでいる。

 歯の根が合わない。

 内股にした脚がもじもじと揺れている。


「ちょっと、これを狙ってたの?」


 テーダはもう限界だ。

 涙目になって睨みつけてくる。

 ちょっとドキドキするな、これ。


「ギブアップするなら今だぞ」


 ドワーフの胴は短い。

 となると、内蔵の長さも制限される。

 さらに、女性はとある臓器の長さが男のそれより遥かに短い。

 そして大量のビールである。

 答えは一つ。


「ちなみに、トイレはあっちだぞ」


 利尿作用である。


「ちょっと、これ汚くない? ズルくない?」


 当然、【暴食フードファイト】中の排便は認められない。

 便所に立つ事は、すなわち試合放棄を意味する。


「いや、そんな事ぁねえぜ!」

「やるなぁ市長の旦那!」

「俺らは市長の味方だぜ!」


「サイッテー! アンタらみんなサイテー!」


 震えて我慢する美人の姿は色っぽい。

 男どもはみんな俺の味方だ。

 興奮しきって声を上げている。

 暴動とか起きないだろうかこれは。


 それに、おしっこ我慢も一つの試練だ。

 水を飲みすぎた後の授業、トイレに行きたいと先生に言えなくて。

 脂汗をかきながら休み時間を待った。

 あの小学校の日々を思い出す。

 後、割と毎朝ギリギリだ。

 寝る直前には水は飲めない。

 混んでいない事を神に祈ってトイレに走る。


 おしっこ我慢は、人を敬虔な気持ちにする。

 そう、おしっこ我慢は神事なのだ。


「~~~~~~~っっっっ! ああもう限界!」


 言うが早いかテーダは走り出し。

 俺は勝ち誇って残りのビールを飲み干した。


 そして、男どもはいつまでも、いつまでも、勝者を讃える声を上げていた。


「テーダ! テーダ! テーダ! テーダ!!」


 いや、俺を讃えろよお前ら。


 追記。

 テーダさんには、後でめちゃめちゃ怒られた。


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