少し長いコメントを書いても良いでしょうか。不都合あれば消しても良いです(笑)
これを読んで思ったのは、自分が本を読めなくなった時のことです。
それはわりと最近のことで3年くらい前かな。
数年前に「なろう」を見つけて、けっこうたくさん読んだんです。検索かけて片っ端から。
そしてある時ひとつの作品に出合いました。
その世界観は魅力的で、登場人物は良くも悪くも自分の考えと全く齟齬がなく、本当に違和感なく世界に入り込める作品でした。
その時ですでに100万字は超えていたと思います。1回読んで、連載に追いついたときは泣きそうでした。最初からもう1回読みました。
3回目は少し飛ばし気味で、好きなシーンを拾い集めて読みました。4回目はもう一度じっくりと。
そして、他の本を読もうと思ったのです。でも、読めませんでした。紙の書籍もです。
無理に読んだけれどなかなか集中できず、物語を素直に楽しめなくなりました。
それから5回目を読んで、やっぱりその作品は大好きで……、字を読むこと自体には問題がないんです。他の物語に入り込めなくなっただけで。
その間、およそ3か月くらいだったでしょうか。
今思えば、そんなに長くはないですね。けど、濃かったです。
どうにか、その世界観から一度自分を切り離さなければと、躍起になりました。
それが私が、拙いながらも小説を書き始めたきっかけです。
作者からの返信
いえいえ、削除なんてそんな。ゆうさんに不都合がなければ、残しておいてください。
まさに、エピソード・ゼロという感じですね。
ぼくはそこまで深くハマった物語はないのですが、あまりに感性が合ってしまうと、そんなことが起こるのですね。
小説を書くことは、ときとして心から血を流すことになりかねません。見るのではなく、読むということ書くということは、それだけ心に影響を与える作業なんでしょうね。ほんのちょっとしたことで、何かが狂う。
でも、正直、そこまで深く入り込めた物語があったことは、羨ましいとも思うのですが、うーん、逆につらそうですね。全身全霊の大恋愛のような感じなのでしょうか。
でも、そこで自分で書き始めてみるというのは、たしかに正解かもしれません。小説を逆の視点から見ることができるから。
読むにしろ、書くにしろ、あの謎の高揚感はいったいどこから来るのか? 家を一歩も出なくとも、不思議な体験ができる。それが読書なのでしょうか。
「自分はこんなものじゃないはず」という思いは厄介ですよね。それは書く時の足かせにもなるし、発表後の姿勢や意見に対する反応にも影響しますし。
けれど、そうした理想が見えていなければまた書くこともできない。その差が苦しい。辛い。それでも書きたい、ならば続けてバランスやコントロール方法という自分の乗りこなし方を学ぶしかない。
続けて行って自分の実力を把握して受け入れてからが本番なのかなという気がしています。だから先人たちは「とにかく書け」というのかなぁと。
作者からの返信
こればっかりは言い切ることが難しいですね。なにが正解なのか? なにが間違いなのか?
書くことが、本当に近道であるかは分からないのですが、他に方法は思いつきません。ほくの場合は、書いて書くことを甦らせました。所詮書くことくらしか能がないのかもしれません。