第1話 俺はこいつの奴隷だよ
「ハァ……ハァ……ブラン、お前もやるようになったな」
俺の前でダラダラと汗を流しながら木刀を構えている男はローリエ・トリケラトプス。
この国を治めているトリケラトプス家の王子だ。
そして俺が奴隷として人生を捧げてきた男でもある。
「旦那様に随分と鍛えられましたからねっ」
ご丁寧に汗を拭おうとする王子の隙をつき、胸元に木刀を突き立てる。
「ハハッ……今のはずるいぞ」
ローリエは剣身を転がるようにして避け、俺の胸元に木刀を突き返してきた。
「グッ……」
俺は気づいたら数メートル吹っ飛ばされて地面に叩きつけられていた。
ローリエの戦う姿を見ていた女性たちの黄色い声が遠くから聞こえてくる。
飛んできた汗が光に当たってキラキラしてらぁ……
俺はやられる時、そんなことを考えていた。
「どうだ、今のは見切れなかっただろ?これはブラッキオが教えてくれた技なんだ」
「はい」
いや、実際は避けようと思えば避けられた。ローリエには将軍ほど技の切れが無い。
……でもいいんだ。
俺にはあの時点で避ける気なんて無かった。
もし俺が勝っちまったら、王子は機嫌を悪くするかもしれねえ……
ご主人様の機嫌を損ねるのは奴隷の仕事じゃない。
それに王子が機嫌を悪くして彼に仕えることが出来なくなったら、と思うと勝とうなどという気は1秒たりとも湧いては来なかった。
俺はローリエが新しい技を自慢したいということが十分わかっていた。
少しおべっかでも言っておこう。
「旦那様の剣技があれば、例え相手がどんなに恐ろしい獣であろうと敵いません」
「そうか……剣闘士ギガノトスでもか?」
王子は少し考えた後、照れを隠すかのように闘技場で最強の男の名前を出してきた。
「左様でございます」
「ははっ、いくら私でも奴は無理だ。闘技会で2匹のトラ相手に素手で勝ったそうじゃないか。しかも意識を失った状態でトラの首を噛みちぎったとか。奴は本物の野獣さ」
「今は難しくとも、旦那様ならいずれ奴にも敵いましょう」
「私にできるというのなら、その私と渡り合うお前でもやれるだろう。奴を呼んでみるか?奴を倒せばお前も市民権を得られるぞ」
ローリエは、俺が褒めすぎたせいか皮肉交じりに聞いてきた。
ギガノトスをここに呼ぶのはまずい。奴はきっと王子を殺してしまう。
確かに、闘技場で最強と認められれば市民権を得られるかもしれないが
噂を聞く限り、一対一で奴に敵う人間はいないだろう。
「彼を呼んだとして、誰も彼と戦うことは無いでしょう。旦那様の威光に恐れをなしたギガノトスはたちまち逃げ帰ってしまうからです」
「そこまで言うか。なら呼んで試してみるか」
俺は返す言葉に困った。
「なに、冗談さ。お前が闘技場の神にならなくとも、俺が王になればお前にもっと自由を与えてやる」
ローリエは俺をからかうのをやめて爽やかに言った。
そしてさらに、真剣な表情で付け加えた。
「お前は私の奴隷だ。奴隷だが、仲良くやっていきたいし、いつか兄弟のようになれたらいいとさえ思っている。今お前は私が命じるまでもなく私を助けてくれるが、感謝しているんだ。いつか国王になってお前と世界を旅をすることが私のささいな夢なのだが……ふふっ、気持ちが先走りすぎたな」
王子の笑顔が雲一つ無い空で輝いていた。
「そのようなお言葉をいただけるなんて何と言ったらよいのか」
トリケラトプス家の人間の中で、ローリエは唯一、人徳の高い人だと思う。
彼に仕えることができた俺は幸運と呼ぶべきなのだ。
ローリエの爽やかな性格はよく理解しているつもりだったが、まさかここまでとは思わなかった。
奴隷の俺が自由になれるなど夢のような話であった。
「ブラン、もう汗が止まらん。帰って風呂にしよう」
「はい。そうしましょう」
俺が稽古場の後片付けに取り掛かろうとすると、中庭の方から草木を踏みつける足音と共に声が聞こえてきた。
「今日も剣の特訓とは、志が高いですなぁ。若君」
そう言って現れたのは、ブラッキオ将軍だ。
大柄な背丈に引き締まった体が目に留まるが、それ以上に今日は全身ボロボロな様子が目立っていた。
「おおっ、戻ったかブラッキオ。狩りの調子はどうであった。例の大熊はいたか?」
「ええ。そりゃもう大熊どころか見た事も無いような巨体のやつが。3メートルはあったでしょうな」
「そこまでの大物か。で、どうした。やったのか?」
ローリエはかつてない大物に目をキラキラさせていた。
「そいつを見て俺の仲間はびびってみんな逃げちまって……んで俺が一人で生け捕りに」
ブラッキオは骨が折れたと言わんばかりに、自分のズタズタな装備品に目をやった。
んなこと普通一人でできるかよ。化け物か、この男……
ローリエも驚いた様子だ。少し引いている。
「そうであったか……さすがの男だな。わざわざ生け捕りにしてくれるとは、行先の我が父上主催の闘技会に、そんなに華を添えたかったか」
「ええ、あいつはまだピンピンしてる。殺気は十分といったところでしょうな。闘技場に放ったが最後、1人や2人の死人では済まんでしょう」
「では、あの野獣ギガノトスにも戦わせてみたいな」
王子はふつふつと湧き上がる興奮を隠しきれていない。
ローリエは本当に戦いが好きらしい。
「例の野獣……奴は野獣でも最高位の筆頭剣闘士。俺よりも強い。2匹のトラ相手に素手で勝った男となれば、少々でかい熊1匹なんざ瞬殺でしょうな」
ローリエは少しがっかりした表情を浮かべた。
「それでは見ごたえが無いな……」
「うぅむ、それでは、奴は今回の闘技会から除外するよう命じておきましょう」
「それはダメだ。父上主催だぞ。筆頭剣闘士を出さないようなことがあれば民衆は不満を持つ。」
ブラッキオは余計なことを言ってしまったと言わんばかりの表情を浮かべて、どうすべきか当惑した。
ローリエがやれやれといった顔で口を開いた。
「わかった。私がもう1匹狩ってきてやる。1匹でだめなら2匹と戦わせればいい。それで少しは張り合いが出るというものだろう。私に任せろ」
「いや、それはちょっと」
俺とブラッキオは目を合わせた。
大熊を狩りに行くなどローリエにはまだ早すぎる。危険すぎる。
そのことは、ローリエ以外の2人が十分に承知していた。
「なんだ、私には無理だと言うのか?」
「そうではありませぬ。ただ、どんなことにも順序があると申し上げたいのです。かのギガノトスでさえ、最初は子ウサギを狩って経験を積み重ねてきたのです。若君はまだ普通の熊も経験になってなっておりません。どうかご理解を」
王子を必死で止めるブラッキオに、狩から帰った頃のあの堂々たる風情は無かった。
ローリエは久々に不満げな表情をうかべて、ぼやくように答えた。
「なら、ブラッキオ、お前が一緒に来ればよかろう……」
ブラッキオは無言のまま、自分のズタズタな装備品に目を落とした。
ブラッキオ、王子を頼んだぜ……
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