やがて空は晴れ

@miura

第1話

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第一章

「あんな奴ら、殺されて良かったんだよ」

 光田進のこの一言で記者会見場は一瞬にして凍り付いてしまった。

「首、首相、そ、それは、首相自らの手で・・・と、ということで・・・」

「ああ」

 光田進はほんの一時間前に首班指名を受けたばかりだった。

「たまたま俺が手を下しただけで、いずれあいつらはああいう目に遭う運命だったんだ」

 衆議院総選挙で初の過半数を獲得した次の日“次期首相、光田党首に殺人歴!!”という衝撃的なスクープがある週刊誌に掲載され、それを受けての記者会見に集まった百を優に超える報道陣や記者はペンを持った手を止め、カメラマンはシャッターを切るのを忘れた。

「少年法に救われたんだ」

 言いながら光田進は、今だ掌に残る“あの時”の感触を確認した。

 

 光田進は幼稚園に入る前に父親を亡くした。母親はそんな一人息子の進を溺愛した。

 ところが、生活保護を受けながら勤めていたパート先の小さなタオル工場の社長と懇ろになると、状況は一変した。

 社長はちょくちょく進の家に遊びに来るようになり、はじめのうちこそ「進ちゃん」と言って進を可愛がったが、そのうち進の存在が疎ましくなり、手土産を持ってくる代わりに千円札を進に渡すと「しばらく帰ってきちゃだめだぞ」と家から進を追い出した。

 進が幼稚園を卒園する頃には、自分のことを「お父さん」と呼ばせ、たまに進に、暴力を振るうようになった。

 母親は最初のうちは社長の暴力を止めていたが、ある日、パチンコに負けて社長と少し酔っぱらって帰ってくると、二人で進の体に火の点いたタバコを押し付けた。

 タバコの火の熱さより、進は、それまで見せたことのなかった、母親の鬼のような形相にショックを受けた。

 そして、二人の進への暴力が日に日にエスカレートするなか“その日”は三人の前にするりと現れた。

 明日から始まる夏休みを前にして、終業式を終えた進は家の玄関の扉を開けた。

 母親はそのころには進への興味など全くなく、あすから夏休みが始まろうが、今日は終業式でいつもより早く進が家に帰ってこようがそんなことはもうどうでもよかった。

 いつもは開いている居間と寝室を隔てる襖が閉まっていたので進は勢い良く開けた。

 すると、体に何も纏っていない母親と社長が、これまで人間の口から聞いたことのない声を発して抱き合っていた。

 社長は激昂した。

 布団から出てくると、いきなり進の腹をけり上げた。

 進は吹っ飛んだ。

「この餓鬼―っ、とっとと、出ていけーーっ」

 社長はテーブルの上に置いてあった財布を手に取ると、ありったけの小銭を進に投げつけ、襖を乱暴に閉めた。

 進は体から痛みが引くのを待った。そして、口元の血を拭うと台所に行った。

 何のためらいもなかった。

 出刃包丁を手に取ると、居間に戻り、襖をそっと開けた。

 気がつくと、社長が血まみれになって倒れていた。

 そして、その脇で命乞いをする母親を、進は口元に笑みを浮かべて見下した。

「おまえなんかもう俺の母親なんかじゃないっ」

 進は血のついた出刃包丁を思い切り振りおろした。


「他に何か質問は?」

 報道陣からは何も出てこなかった。

「じゃあ、これで」

 言うと進は会見場を後にした。

「せやけど、訳のわからんやつが首相になったよなぁ」

 清は部屋の備え付けの冷蔵庫に、裸のまま缶ビールを取りに行った。

「ちょっと、何か着なさいよ」

 紘子が乱れた髪を整えながら言った。

「何をいまさら言うてんねん。さっきまでおまえも・・・」

「もういいの。それより私もウーロン茶とって」

 言うと、紘子は裸の体にバスローブを巻いてソファに腰を下ろした。

〈子供は国の宝です〉

 壁に張り付けてある畳一畳分くらいはある液晶テレビの中で、ついこの間行われた、選挙運動中の光田進の姿が映っていた。

「今時、子供は国の宝、って。もう死語やで」

 清はビールを喉に流し込みながら言った。

〈その子供たちが、今ひどい目に遭わされています〉

 2038年を迎えた日本では、児童への虐待相談件数が年間20万件を超え、誘拐、および暴行事件はこの10年間で3倍になった。

 また、離婚率はアメリカを追い越す勢いで、女性一人が生涯で産む子供の数、出生率に至ってはとうとう1を切り0.99となってしまった。

〈この選挙で勝利した暁には私達、子守党は全ての人知を尽くし子供たちを守ることをここでお誓いいたします〉

「子供を守るで“子守党”か。もうちょっとええ名前なかったんかなぁ」

 清はソファから立ち上がりながら言った。

〈国民の皆様の思いのこもった1票を心からお待ちしております〉

 液晶テレビの中で光田進は額の光る汗を純白のハンカチでぬぐった。

「このおっさんマジやなぁ。せやけど“人知を尽くす”っていい言葉やねぇ。さあ、俺も人知ん(じんちん≒ちんちん)を尽くそうか。

 いつまでウーロン茶飲んでんねん。2回戦いくでぇ」

「なにつまらないこと言ってんのよっ」

 言うと紘子は、何も履いていない清のお尻を思いっきり抓った。


        ③

「どうだった?」

 竹男はネクタイをはずしながらリビングに入ってきた。

「また・・・ダ・・メ」

 直子は言いながら、男性の精に効くからとここ五年間毎日の晩御飯の食卓に並べてきたゴマを煎ったものをテーブルの上に並べた。

「そうか・・・今回は自信があったんだけどなぁ」

「自信って、どんな自信?」

「いや、なんとなく、いつもの病院の部屋で射精をした時に、こう、なんていうのか、腰にぐっと力が入って、いいのが出たーーっていう感じがしたんだ」

「本当に?」

「ああ」と答えながら、竹男はいつもより直子が落ち込んでいることに気づいた。

「もう、やめない?」

 竹男に背を向け、ご飯をお茶椀によそいながら直子が言った。

「どうしてだよ?」

「だって、もう、お金も掛っちゃうし・・・」

「お金なんかどうでもって言うか、別にいくら掛ってもいいよ。自分たちの子供の顔が見れるんなら俺はいくらだって頑張るよ」

「だけど、もう五年もやっているのよ。もうダメなんじゃないかなって最近思うんだけど」

「そんなこと言うなよ。もう一回だけ頑張ろうよ。今度やってダメだったら俺も諦めるからさぁ」

「そう?」

 渋々、といった感じで直子は答えた。

「今度ダメだったら犬でも飼おうよ。会社の近くのペットショップで可愛い奴見つけてあるんだ」

 言うと竹男は煎ったゴマを指で摘み、大きく開けた口の中に粉薬を飲むようにして流し込んだ。


「幸子、哲夫さん来てるよ」

 里子は、半年前に三歳の孫を連れて出戻ってきた娘の幸子を呼んだ。

「すぐ行くから、愛美理でも会わせといて」階上から声が返ってきた。

「ちわーっす」愛美理の元父親で幸子の元夫である哲夫が居間に入ってきた。

 里子が愛美理を離すと「パパっ」と言って愛美理は哲夫のもとへ駆けていった。

「どう、仕事は見つかった?」

「なかなか見つからないんですよ」

 幸子と哲夫は出来ちゃった結婚だった。

 二年前に脳梗塞で亡くなった幸子の父一徹は、娘を貰いにきた哲夫を罵倒した。

 哲夫は定職につかない、いわゆるフリーターだった。

「どこの馬の骨かもわからない奴にうちの娘はやれん!」

 哲夫はあわてて運送会社に就職し、寝る間も惜しんで働いた。

 愛美理が生まれると一徹のもとに報告に現れ、二人で熱い握手を交わした。

 ところが、一徹がこの世を去ると、哲夫は働くことを辞めてしまった。

 そして、暫くすると、未亡人となった里子のもとを訪れ「僕たち離婚します」と笑顔で言った。

「このままじゃあダメだと思うんで」と何がダメなのか説明することなく、幸子と愛美理を里子に預けた哲夫は、その後、別れたはずなのに、毎週、週末になると二人に会いに家を訪れるようになった。

「今日もパチンコで十万ほど勝っちゃって。

 もうこのままパチプロにでもなろうと思って」

 一徹が生きていると、おそらくぶん殴っているんだろうなと里子が思っていると、幸子が「お待ちーっ」と言って居間に入ってきた。

「今日もまた勝ったんだよ。飯でも食いに行こうぜ」

「オッケー」幸子が言うと二人は愛美理を里子に預けて家を出ていった。


⑤ 

「もう五年だよな」

 寺田真は一人呟き、朝露で濡れた娘の墓石を抱くようにして白い布で拭いた。

 寺田真の娘、奈々は八年という短い生涯を突然閉じた。

 忘れもしない、ただの月曜日だった。

 朝一緒に家を出て、小学校の前でバイバイと手を振って別れるまでは。

 会社に連絡が入ったのは、午後一番から始まった会議が、決められた一時間を過ぎてやっと終わって一杯のコーヒーを飲んでいる時だった。

 事務員の女性から「警察からですが・・」と言われ受話器を手に取ってから後、何も覚えていない。

 気がつくと、蝋人形のような娘が目の前に横たわっていた。

 顔には傷一つなく、奈々、と呼びかけると今にも起きてきそうだった。

 犯人は三十歳の無職の男で、過去に幼女へのいたずらで四度の逮捕歴があり、動機について、ただ「可愛かったから」と警察の取り調べに対して述べただけだった。

 真は極刑を望んだが、結局、一人しか殺していないからという法律のバカげた前例崇拝主義のおかげで、無期懲役で結審した。

 妻は精神を病み、奈々の一周忌を前にして、真に離婚を懇願し、仕方なく受諾した真と、奈々の弟の俊介を残して実家に帰ってしまった。

 今は、地元の病院で寝たきりの状態だということを、真は風の便りで聞いたことがあるが、詳しくは知らなかった。

 真は何度か挫けそうになりながら、残された俊介と二人で必死に暮らしを続けた。

 そんなとき、被害者遺族の会を通じて、光田進の存在を知った。

 初めて会った時の光田進の印象は、自分と同じ、ただの中年のおやじ、だった。

「はじめまして」

 腰を下ろした光田は、ずっと持ち続けている自分の考えと、次の衆議院選挙で、子守党という名前の党を結成し出馬することを寺田の前で話した。

 但し、一度も寺田の目を見ることはなかった。

「すいません。

 子供の時に親から受けた虐待で、トラウマなのか人の目を見て話すことが、何というか、とにかく怖いんです。いまだにいい歳こいてカウンセリングを受けてるんですよ」

 そのあと、光田は自分の生い立ちを簡単に真に話した。

 見た目も同じ、考え方も同じ、唯一違っていたのは、殺した側と殺された側、ただそれだけだった。


           第二章

          ①

「寺田さん、独身税ってどうだろう?

 三十を過ぎても結婚しない奴らの収入から一律二十%をぶんどるだ。

 ちゃんと結婚して子供も作って家のローンに苦しみながら頑張っている人たちと、気楽だからって、いつまでも結婚せず、親と同居して、一年に何回も海外旅行に行ったりする奴らの電気代や水道代の公共料金が同じっていうのがそもそも不公平だと思わないか。

 それに、少しは少子化の解消にもなるかなと思って」

 光田は寺田の目を見てそう話した。

「いいと思いますよ。だけど、少子化の解消に役立つかは正直疑問です。

 とりあえずは、法律でそうなったんだからって結婚する人は増えるでしょうけど、今までの生活レベルを維持したいだとか、私は子供はあんまり好きじゃないからとわけのわからないことを言って子供を作らない夫婦は減らないと思いますよ」

 寺田も光田の目を見て話した。

「そうだよなぁ・・。じゃあ、こうしよう。子供を作らない夫婦にも税金を課すんだ。

 子無し税。

 但し、欲しくてもどうしても子供のできない夫婦に限っては、医師の診断書をつけるという条件で免除する」

「いいんじゃないですか。要は、生きている限りは、ちゃんと結婚して、ちゃんと子供を作りなさいっていうことですよね?」

「その通りだ。寺田さん、国民の三大義務ってあるよな」

「労働の義務、納税の義務、そして、子女に義務教育を受けさせる義務」

「その最後の“子女に義務教育を受けさせる義務”ってあるだろ。俺はそれを、年が来ればちゃんと結婚して、子供も作って、そして、物心つく、そうだなぁ、高校を卒業する頃くらいまではちゃんと責任を持って育てる、そう理解しているんだよ」

「そうですよね。憲法で歌われている義務を守る。ただ、それだけなんですよね。

 それができていないから、こんな変な世の中になっちゃったんですよね」

「子供が増えてくれば少子化が原因で苦戦していた企業にも元気が出てくるし、そこいらで子供の可愛い笑顔が見られるようになるんだ。そうなればこの国も元気が出てくるよ。

 三人以上の子供がいる家庭は子供が十八歳になるまで医療費はただ、学費もただにする。

 そして、ちゃんと産んでくれた子供は国が責任を持って守る。

 児童への犯罪履歴のある者の氏名と居場所はすべて公表する。

 それでも児童犯罪が起きた場合は、罪の大きさ小ささにかかわらず、加害者に対して無期懲役または極刑をもって臨むことにする。自分の子供への虐待も同じだ。もう二度と自分の子供とは会えないようにする。残された子供は、そんな子供ばかり集めた施設、名前は“チャイルドタウン”にしようと思っている。そこに入れて、国が責任を持って育てていく。単に甘やかすんじゃなくて、きちんと躾も行う。

 あと、そうだ、離婚した親にも刑罰を与えようと思っている」

「えっ!?」寺田は大きな声を出した。

「だってそうだろう。自分たちの都合だけで簡単に別れて、子供たちをつらい目にあわせるんだぞ。立派な罪じゃないか。

 俺たちが子供のころ、真面目だった子が急にグレたりしたことがあったけど、そのほとんどは、親が離婚した子供たちだったよ。

 そら、今みたいに、離婚することを恥ずかしくも何とも思わない時代と違って、そのころは、離婚でもしようもんなら、頬被りして実家に帰ったくらい滅多な事じゃなかったから、分母が今よりはうんと小さかったんで一概には言えないけど、やっぱり親が別れるってことは子供にはショックなんだよ」

「そうですよね」言いながら寺田は、亡くなった娘の奈々ではなく、離れて暮らす息子の俊介の顔を思い浮かべた。

「バツイチで懲役三年。バツニで五年だ」

「両親ともですか?」寺田が光田に聞いた。

「もちろんだ。もし、バツサンがいたら極刑だ。ただし、DVが原因で別れた場合は別だ。

 奥さんは無罪、その代り、手を挙げた親父さんには奥さんの分まで入ってもらう。

 子供達はさっきのチャイルドタウンで預かる」

「結構な数の人が収監されると思うんですが、経済に与える影響なんかは大丈夫でしょうかねぇ」

「初めは多少影響が出ると思うけど、企業も人を雇わざるを得なくなるから、逆に失業率の改善につながると考えている。それに、何も凶悪犯じゃないから、刑務は所内だけじゃなく、メーカーの製造ラインに立たせようと思っている。コストが下がって、中国に出て行っている企業を呼び戻せるかもしれないし、国際競争力は間違いなく上がる。

 ただし、彼ら受刑者にはみんな同じ刑務服を着させ、メーカーの従業員からは白い目で見てもらい、自分たちが犯した罪の重みだけは身をもって感じてもらうつもりだ」

「刑期を終えた後は?」

「そうだなぁ、一番いいのは、もう一度夫婦よりを戻してもらって、チャイルドタウンに自分たちの子供を迎えに行ってもらうってとこなんだけど、実際はそうはいかないと思うよ。子供はたいてい母親が引き取るだろう。問題は残された父親だ。三年か五年の刑期を終えて会社に戻っても、まあ、居場所はないだろう。とにかく“前科者”なんだから。

 だから、とりあえずはチャイルドタウンで働いてもらおうかなと思っているんだ。

 子供を捨てた自分が、捨てられた子供の面倒を見る。

 もう一度、自分の子供への愛情が蘇ってこないかなと期待するんだけどな」

「そうですよね。自分の子供を可愛くないって思う親なんて絶対にいないと思うんです。

 ただ、なんらかの事情があって、自分の子どもを愛せなくなった。

 何かの本に書いてましたけど、虐待を“受けた”子供は虐待を“覚えて”しまい、今度はそれを自分以外の他人、しいて言えば自分の子供に“施して”しまうらしいですよ」

 言った瞬間寺田はしまった、という顔をしたが、光田は少し笑みを浮かべると、寺田にこう返した。

「大丈夫だよ、寺田さん。俺は結婚する気なんかさらさらないし、それに、まだ、寺田さん以外の人の目をじっと見て、ましてや女性の目を見てプロポーズの言葉なんかを垂れることなんかできやしないよ」


         ②

「この間、また課長にやられてたわね」

 たった一杯のビールで顔を真っ赤にした紘子は清の背中をポンと叩きながら言った。

「そうやねん。ちょっと客に出す見積もりの金額が間違ってたから言うてぐたぐた言いやがって。結局は呑みに誘うネタを探してるだけなんや」

「そうなんだ」

「そうやで。で、自分から誘っといたくせに、急に娘さんから電話かかってきた言うて帰りやがって。あの、辻野のおっさん、四十でまだ子供三歳やねんて。だからか知らんけどはよ若いうちに結婚して子供産めって何回も言われたわ」

言いながら清は周りに目を配りながら紘子の手に自分の手を絡めた。

「今日はええんやろ?」

「うん」紘子は恥ずかしそうに首を縦に振った。

「そしたら早よ行こ。週末やからホテル難民になるで」

 言うと清は伝票を持って立ち上がった。


 清の予想は当たった。

 行くとこ行くとこ、どこも満室でホテル街は若いカップルで溢れかえっていた。

「なぁ、言うた通りやんか」

 二人は一時間ほど歩いて、やっと、一昔前のいかにも“ラブホテル”といった感じのホテル“王将”に入ることができた。

「高いよなぁ、これでお泊まり一万円やもんなぁ」

 ビジネスホテルのシングルルームに無理矢理放り込まれたダブルベットの枕元に置かれた花瓶には、白い塵がうっすらと積もったドライフラワーが活けられていた。

「なんか、やってる最中にベッドの下から足引っ張られそうやなぁ」

 言いながら清がリモコンの電源ボタンを押すと、光田進が現れた。

「なんや、このおっさん、こんな時間に」

「首相就任の演説じゃない」

「なんで、こんな遅い時間にするんや?」

「知らないの?」

「知るわけないやん。

 毎日毎日、仕事や飲み会やで部屋に着いたら日付けは変わってるし、朝は起きるのがもう精一杯やから、テレビは見いへん、新聞は読まへん、世の中で何が起こってるのか全然知りましぇ~ン」

「出来るだけ多くの人に聞いてもらいたいからって、わざわざ、週末のこの時間にしたのよ」

「誰も、この国になんかもう何も期待してへんよ。年寄りだらけのこの国に明るい未来なんか絶対ないって。まあ、子供を守るってのはええことやけど」

〈マニフェストに基づき具体的な方策を今日は国民の皆様にお伝えしたいと思います〉

 光田進が清と紘子の目を見つめて言った。

「はいはい、わかりました」言うと清はテレビのチャンネルをバラエティー番組に変えた。

「ちょっと、見てるのよ」

 紘子は清からリモコンを取り返すと、再びテレビの画面に光田進を映しだした。

「そんな真剣に見てどうすんねん? 誰がどうやったってこの国はもうどうにもなれへんて。先、シャワー浴びんで」

 清は紘子の前で素っ裸になると、真剣に光田進の演説に耳を傾けている紘子の頬にキスをし、浴槽と便器が一緒に収まった、名ばかりのバスルームに体を滑り込ませた。


「申し込んできたのか?」

 テーブルの上にずらりと並んだ、ゴマを使った料理を前にして竹男は直子に聞いた。

「うん。先生には、今度で最後にしますって言ってきたわ」

「そうか・・」

 竹男は煎ったゴマを大口を開けて喉の奥に流し込んだ。

「なんか今度はうまくいきそうな気がするなぁ」

「また、そんな根拠の無いこと言って」直子は納得いかない表情で竹男に聞いた。

「火事場のクソ力って言うだろう。いよいよ最後かな、これで終わりかな、って思った俺の精子が神がかり的な力でお前の卵子に向かって…」

「何バカなこと言ってんのよ」言いながら直子は笑った。

 竹男は直子が笑うのを久しぶりに見た。

「どうだ、久しぶりに?」

 竹男が聞くと直子は「それこそ、最後の決戦に大事にしまっておいてよ」と言って、湯気を立てたマグカップを竹男に差し出した。

「ニンニクが入ってるから。熱いうちに飲んでよ」

 竹男は残念そうにマグカップを口に運びながらテレビをつけた。

 光田進が喋っていた。

「そうか、就任の演説だったよな。

 子守党か・・うちも守ってもらう子供を早く作らないとなぁ・・・」

 竹男は直子には聞こえない声でそうつぶやいた。


         ④

「仕事はどうやねん?」

 横田たかしは二歳になる“元”娘の頭をなでながら“元”妻の朝風凪に聞いた。

「おかげさまで順調よ。今度、あなたとの生活を綴った本を出版するの」

「マっ、マジかよっ!」

 たかしの声の大きさに“元”娘はどんぐり目を更に大きくした。

「夢の印税暮らしよ。五十万部は堅いって出版社の人は言ってたわ」

「堅いって、お前小説なんか書けんのかよ?」

「ゴーストライターに決まってるじゃない。芸能人が出す本なんていかにも自分が書いているように見せかけてるけどほとんどがゴーストライターが書いてるのよ。だいたい、腰を据えて小説なんか書く時間なんてあるわけないし、あなたも知ってるでしょうけど、漢字が書けない読めない芸能人なんて掃いて捨てるほどいるのよ。ましてや、小説なんか自分で書けるわけないじゃない。何を書いたんじゃなくて、誰が書いたかなのよ、今の本ってのは」

「ま、まぁそうやろうけど、内容は正味書くんか?」

「あたりまえじゃない。

 読者は、私達、芸能人同士の夫婦生活を見たくてしょうがないのよ。

 毎日どんな食事をして、どんな会話をして、休みの日はどうやって過ごしているんだろう。私たちみたいにスーパーへ買い物に行って試食のウィンナーなんか摘まんだりしてるんだろうか?って。期待に応えてあげなくちゃ」

「せやけど、あんまり露骨なことは書かんといてや。俺も所詮お笑い芸人やけど、イメージってもんがあるからな」

「かまわないじゃない。それが芸の肥やしになるんだったら」

「パパ、肥やしってなに?」“元”娘がたかしに聞いた。

「肥やしか?

 肥やしいうたら、ほら、ラーメンとかに入ってる、細長くて、シャキシャキとして、うーんこの肥やしうまいっていう・・・」

「それはもやしでしょ」凪は冷たく言った。そして「メインディッシュ出してちょうだい」と、たかしのくだらないボケにくすくすと笑って、三十畳はある広いダイニングの隅で立っていたお手伝いの女性に命令口調で言った。

「で、話ってのはなんなの?」凪は机の上のリモコンを手にしながら続けた。

「いやなぁ、今、こいつと会えるの月に一回だけやろ」

 突然、壁に貼り付けられた畳一畳分くらいはある液晶テレビに光田進が現れた。

「それがどうかしたの?」凪は娘の口の周りに付いたソースをナプキンで拭いてあげながらたかしに聞いた。

「せめて月に二回、いや、できたら毎週でも顔見させてくれへんか?」

「別にかまわないけど、そんな時間作れるの?」

「できるっていうか無理矢理作るよ。レギュラーの本数も減らしてええと思ってる。こいつの顔、もっと見たいんや」

「わかったわ。その代り、私も暇な女優じゃないから、会いたい日が決まったら前もってちゃんと連絡頂戴ね」

「わかった、すまんなぁ」

“国民の三大義務、労働の義務、納税の義務、そして、子女に義務教育を受けさせる義務。

 私はこの三つ目の『子女に義務教育を受けさせる義務』を次のように理解しております。

「このおっさん、こんな時間に何やってんねん?」たかしは“元”娘の頭をなでながら凪に聞いた。

「首相就任のあいさつよ」

「誰が首相やったってこの国はもうあかんよ」

「だけど、子供を守るってこれまでの与党よりははっきりとしたビジョンは持っているじゃない」

「みんな最初はええこと言うねん。時間が経ったら、あれ?俺そんなこと言うたっけ?って言うのがオチやんか」言いながらたかしは腕時計を見た。「すまんけど、打ち合わせにいかなあかんからもう帰るわ」

「あら、美味しいお肉用意したのに。もうすぐできると思うから食べていけば」

「ええわ。どうしてもいかなあかん打ち合わせやねん」

「そう」

「すまんなぁ、無理言うて」

「別にいいのよ」

「また、会いたい日決まったら連絡するわ」

 たかしは席を立つと“元”娘の頭を撫で「ほんなら行ってきます」と、どこかせつないギャグを言ってダイニングルームから出ていった。

“若い皆さん、結婚をして、ちゃんと子供を産んで、そして、ちゃんと育ててください”

「お待たせしました」

 さっきのお手伝いがステーキの乗った皿をもってテーブルにやってきた。

「あなた結婚してるの?」凪がお手伝いに聞いた。

「いえ・・・」

「じゃあ、彼氏は?」

「い、いちおういますけど・・」

「そうなの。実は私もあの人には内緒だけどいるのよ、彼氏が」

「え!?」

「私、常に恋をしていないとだめな性質なの」

“その代り、産んで頂いた子供さんは国が責任を持って守ります。三人以上の子供さんをお持ちいただくと十八歳までの医療費と学費は国がすべて負担いたします“

「で、いずれは結婚を考えているの?」凪はステーキにナイフを入れながらお手伝いに聞いた。

「え・・ええ、私は、そ、そうしたいと思っているんですけど」

「新しい総理大臣も、若い人は結婚してどんどん子供を産んでくれって言ってるんだから早くそうしたら」

“但し、子供にハンディキャップを負わせるような親には刑を持って処します”

「うん? この人何言ってるの?」

“子供が物心つくまでに離婚をした親には懲役を科します”

 凪はステーキを口に銜えたまま凍りついてしまった。


第三章

 ①

「首相、野党からの突き上げがすごいですよ」寺田真は笑いなが光田進に言った。

「しょうがないよ。国民は俺たちを選んだんだから。どうせ野党も労働組合からつつかれてるんだろ。高学歴の奴ら、特に女性のキャリアなんかからすれば、どうして結婚しておまけに子供まで作らなきゃなんないのよってとこだろ。あとは、訳のわからない婦人団体が『女を冒涜している』って騒いでんだろ。自分たちの権利ばかり言いやがって。まずはちゃんと子供を産んで義務を果たしてから言えっていうんだ。いくら世の中が変わっても男には子供は産めないんだから。平等、平等と言っても何でもかんでも同じになんかできるわけないんだよ」

「うちの息子に聞いたんですけど、今の小学校は、男のことを君付けでは呼ばず、女の子と一緒に、さん付けで呼ぶらしいですよ。

 それに出席簿も、昔は男の子が先に呼ばれて、そのあとに女の子が呼ばれたんですけど、今は男女平等ってことで全員ミックスらしいです。

 男の“渡辺君”は『渡辺さん』って呼ばれるし、おまけに出席を取られるのもいちばん最後になってしまいました。

 運動会の騎馬戦も、子供の数が減ったのも原因ですけど、男の子と女の子が帽子を取り合います」

「男にしかできないこと、女にしかできないこと、それぞれがあるんだから、お互いに尊重しあわないと。

 それを目くじらを立てて『女性は決して男性に劣っているわけではありません』と言って自分達の権利ばかり主張して、自分の娘の躾もろくにしないでいたから、今のこの国の女性の質がこんなに落ちてしまったんだ」

「そうですよね。

 それより、首相、離婚経験者に刑を科す件なんですけど、あれは本当にやるんですか?」

「やるよ」光田はサラリと言った。

「刑務所が足りなくなるんじゃないですか?」

「各都道府県に増設する。

 チャイルドタウンもあるから少しは雇用の件も含め各地方に元気が出るんじゃないかな」

「かなりの人が収容されますよね」言いながら寺田は鼻の頭をかいた。

「しょうがないよ、罪と罰だ」

「絶対ですか?」

「ああ。通常国会のうちに絶対に成立させる」


        ②

「とうさん」

 居間に入ると俊介が駆け寄ってきた。

「ちゃんとお婆ちゃんの言うこと聞いてるか?」

「うん」

「そうか、えらいな」

俊介の頭を撫でていると「おかえり」と言って母が奥の台所からお盆に湯気の立った湯呑を乗せて居間に入ってきた。

「たいへんだねぇ」

 選挙で勝って以来、テレビでの露出が格段に増えた。

「こっちこそ、すまないなぁ、俊介の面倒見てもらって」

「そんなことないよ。奈々ちゃんに似て素直でいい子だよ」

 母が指さした先には、一人で住んでいる自宅のマンションに置いていてもご飯一つ供えてあげることができないと思い、母の家に持ってきた奈々のほほ笑む遺影があった。

「昨日の光田さんの演説聞いた?」母に聞いた。

「いいや。やってるのは知ってたけど、毎日八時になるともう俊介と寝てるから」

「そうか」言いながら湯呑に口をつける。

「どうせ、子供を守ってくれるってことなんだろ?」

「そうだけど、それだけじゃないんだよ。

 確かに、子供は国が責任を持って守るし、三人以上産めば十八歳になるまでの学費と医療費は国が面倒を見る。ただ、それだけじゃないんだ」

「それだけじゃないって?」

「三十歳までに結婚していない人には独身税、結婚しても子供を作らない夫婦には子無し税を課すんだ」

「いいじゃない。

 いい歳して結婚もしないでいつまでも親の脛かじっている人間がいなくなるし、自分たちの生活のことだけ考えて、子供も作らず、毎年二人で海外旅行に行って『子供の代わりなんです』と言って高価な子犬をバカ可愛がりする訳のわからない夫婦がいなくなって。

 それにお前は関係ないじゃない。ちゃんと結婚して子供もいるんだから」

「それはそうなんだけど、ただし、子供が十八歳になるまでに離婚した親は罰せられるんだ」

「罰せられるって?」

「懲役を科せられるんだ」

「えっ!?」

 目が点になった母に、昨日光田進が全国民に向かって話したことをかみ砕くようにして詳しく話して聞かせた。

「俊介はどうするのよ?」

「チャイルドタウンというのを作って国が責任を持って面倒を見る」

「なんとかなんないの?」母は涙目で言った。

「ダメだよ」諦め混じりに言う。

「だって、あんたの場合は事情があるじゃない」

「光田さんには、あいつと別れたことは言ってないんだよ」

「すぐの話なのかい?」

「次の通常国会で法案は通る。だから、公布されて施行されるまで二年はかからないよ」

「そうなの・・・」

 言ったきり母は黙り込んでしまった。


「どうすんのよ?」

 内線の電話を出ると、紘子からだった。

「なんやねん、このくそ忙しい時にっ。珍しく課長が休みでそれどころやないんや、切るぞっ」

一方的に電話を切ると、清は目の前で鳴り続けている別の電話の受話器を取った。


        ④

「良かったよな」

「なにが良かったのよ?」竹男の言葉に直子は冷たく反応した。

「なにがって、うちはちゃんと理由があるから子無し税はかかんないじゃないか」

「そういう問題じゃないでしょ」

「なにが気に入らないんだよ」

「だって、なにか負け犬みたいじゃない。

 子供ができないの? あっそっ、いいよ別に、許してあげるから、って」

 結局五年間の苦労は実らず、二人の間にコウノトリはやって来なかった。

「しょうがないじゃないか。二人で頑張ってきたんだから。前にも言ったけど、可愛い子犬でも飼おうよ」

「嫌よ。お金で買えるのなら買ってでも絶対に子供が欲しいわ」

「そんな無理なこと言うなよ・・・」


         ⑤

「どうすんだよ?俺、刑務所になんか入んのいやだぜっ」哲夫は銀玉が弾かれる音に負けじとばかり、大きな声を幸子に向かって吐いた。

「海外にでも逃げる?」言うと幸子は缶コーヒーに一口だけ口をつけ、タバコに火をつけた。

「金がいるじゃん。それに愛美理はどうすんだよ?」

「お母さんに任せるわ。

 あっ、激熱よ激熱、このリーチっ!」

 幸子は台についている“チャンス”と書かれたボタンを連打した。

「お義母さんか・・・」

 哲夫はボツリと呟いた。


         ⑥

「どうして昨日にやらなかったのよっ」朝風凪は声を荒げ、更に「今日は新しい法律の話ばっかりで誰も私の結婚のことなど聞こうとしなかったじゃないっ」と続けた。

「はっ、す、すいません」

 マネージャーはただ頭を下げるだけだった。

「海外の例の件だけはちゃんと頼むわよ。刑務所に入んのなんか絶対に嫌だからね」

 言った瞬間、凪はお腹に違和感を覚えた。何かが動いたような、気がした。


第四章

       ①

「あっという間でしたよね」

 首相官邸のソファで向かい合って缶ビールを飲む光田進に寺田真は言った。

「寺田さんをはじめ、子守党のみんながよく頑張ってくれたよ」

 子守党がマニフェストで掲げた法案はすべて通常国会を通過し、公布を終えた今、施行まであと一カ月を残すばかりとなっていた。

「一時はどうなるかと思いましたけど・・・」

 法案がすべて国会を通ると、日本は騒然と化した。

 結婚をしていない若者を中心として各地でゼネストが起こり、それに便乗してか、1960年代以来の学生運動が各地の大学で勃発し、何の関係もない左翼団体がわけのわからない人権保護団体と結託して騒動に加わった。

「口では反対だと言ったって、腹の底ではみんな俺たちがやろうとしていることが正しいってわかっているんだよ。じゃあ、海外に出て行って見ず知らずの土地で一人で仕事を見つけて向こうの人間に混ざってバリバリとやっていけるかって言うと、そんな活きのいい若い奴なんてこの国にはもういないよ」

 離婚経験者は騒動に加わる余裕などなく、海外移住や逃亡を企てようとした者もいたがすべて水際で阻止された。

 そして、各都道府県の児童相談所に寄せられていた、児童虐待が行われていたと思われる家庭にはすべて警察が踏み込み容疑者を一人残さず逮捕した。

「だけど、よくあれだけの数の刑務所の建設が間に合いましたよね」

 すっかり冷えて石のように硬くなったアタリメを齧りながら寺田真は光田進に聞いた。

「おかげさまで、これまで全く元気のなかった地方都市に元気が出てきたよ。

 事実、ある生命保険会社が実施したアンケートで、景気が良くなってきたっていう回答が70%を超えたっていうんだよ。

 これまでみたいに、国民の誰もが実感を持たないのに、好景気だ好景気だって政府が煽動してきたのとは違って、今度のは本物だよ。

 笑い話だけど、ひきこもりの数が減ったらしいよ。

 これはヤバイって、さすがのあいつらも部屋を出てゼネストに参加したんだって」

「嘘みたいな話ですよね」

「ああ。あとは、大金を持っている離婚経験者の奴らがあらゆる手段を使って海外へ逃亡するのをとっ捕まえるだけだ」

 離婚経験者、離婚、離婚・・・・

 寺田真が銜えていたアタリメがプツリと音を立ててちぎれた。

「首相」

「なんだよ寺田さん。そんな神妙な顔して」光田進はそう言って缶ビールを煽った。

「実は・・」

「なんだよ寺田さん?なにかあったのかよ」

「実は私、妻と・・・」

「ああ」

「別れたんです」

「えっ!?」

「正確に言うと『別れていた』なんです。

 首相にはずっと黙っていたんですけど、娘が亡くなってから妻は精神的に病んでしまって、頼むから別れてくれと懇願されまして・・・」

「じゃあ、息子さんは?」

「母親にお願いしているんです」

「そうか・・」

「すいません、ずっと黙っていまして」寺田真は缶ビールをテーブルの上に置くと光田進に頭を垂れた。

「奥さんは?」

「故郷へ帰ったとは聞いたんですけど、そのあとは・・」

「そうか・・」

「ほんとうにすいません。野党からの突き上げがかなり激しくなってしまうと思うので」

「そうだ、特例を作ろう。

 子供がいない夫婦でも、作ろうとしてるけど、どうしてもできない夫婦には医師の診断書を提出するという条件で子無し税を免除することにしたけど、それと同じで、訳あってどうしても別れざるを得なかった場合、罪を免除することにしよう。

 DVは暴力を振るわれた奥さんだけが免除されるけど、寺田さんのようなケースはどちらとも免除だ」

「いえ、私の場合は違います」寺田は垂れていた頭を起こした。

「違う?何が違うんだよ?」光田はこれまでとは違って強い調子で寺田に返した。

「私は俊介に迷惑をかけています。あの子は、愛する姉を亡くし、そして母親まで失いました」

「そんなこと、寺田さんの責任じゃないじゃないか」

「いえ。本来なら私が、親の私が面倒をみなければいけないんですけど、忙しさにかまけて母親にすっかり任せきりで・・・。立派な罪です」

「だけど、それは・・」光田は寺田の目を見つめたが、寺田は目を伏せてしまった。

「わかったよ。寺田さんがそこまで言うんならもう止めないよ。だけど、これだけは約束してくれるか?」

「なんでしょうか?」寺田は伏せていた目を光田に向けた。

「離党は絶対にしないでくれ。

 俺は三年間寺田さんを待っている。それまではどんなことがあっても政権を死守する」

「わかりました。それだけは絶対に約束します」言うと寺田は深々と頭を下げた。

「ところで、寺田さん、いやなことを思い出させてすまないんだけど、あの男は確か無期懲役だったよな?」

「え・・ええ」

「そうか」

 言うと光田進は空になったビールの缶をグイッと握りつぶした。


         ②

「なんやねん、この人の多さはっ!」

 清は、市役所の入り口で溢れかえる人の群れを見て大きな声を上げた。

「しょうがないじゃないの、もう一カ月もないんだから」紘子は冷めた口調で言った。

「今日は有給取ってきたけど、一日で終わんのかよ。ていうか、こいつらほんまにみんな結婚すんのかよ?偽装結婚の奴がほとんどなんちゃうか」

「偽装結婚だったとしても、子供ができなきゃ一緒じゃない」言いながら紘子は婚姻届の入った封筒で、汗ばんできた顔を扇いだ。

「せやけど、五十万で買えるらしいで」

「何が?」

「こ・ど・も」

「子供って、人間の?」

「当たり前やないか。犬の子供買うてどうすんねん」

 市役所の入り口が騒がしくなった。

「子無し税払うこと思ったら五十万円なんか決して高い値段やないと思うで」

 清が吐き捨てるように言ったとき、ネクタイをつけずYシャツの上にチョッキを着た、つっかけ姿の男が清の前に進み出た。

「誠に申し訳ございませんが、本日の受け付けはここまでとさせていただきます」

 チョッキ男は大きな声でそう言うと清との間に手刀を落とした。


         ③

 思ったより安く上がった。店員には正直に話をした。

「どうしても子供が出来ないんで、その代りって言えば犬に申し訳ないんですけど」

 セールで十二万円だったところ更に二万円負けてくれ、二十枚用意していた一万円札は十枚が財布の中に残った。

 名前は何にしようかと自宅マンションの扉を開けると部屋の明かりはすべて消えていた。


§§§§§§§§§§§§§§§§

「男の子ですか?それとも女の子ですか?」

 何かの本で読んだことがある、五十年くらい前に流行った”ペイズリー“という、中学生の時の理科の時間に習ったゾウリムシに似た模様のネクタイをした、いかにも胡散くさそうな男が、少し嫌味な笑みを浮かべて直子に聞いた。

「べ、別にどちらでもいいんですけど」

 言いながら直子は、昨日の夜、生まれて初めてお腹の底から声を絞り出した光景を思い浮かべた。

「私にもプライドがあるのよっ!!」

 驚いた竹男は、手にしていたペットショップのチラシを床に落とした。

 これまでの辛さが、悔しさに変わり、そして、一瞬にして怒りへと変わり、最後に涙となって瞳からこぼれ落ち、竹男に「ごめんなさい」と言えたとき、日付は変わっていた。

 食事には一切箸をつけず待ってくれていた竹男に促されて行ったファミレスで頼んだクラブサンドウイッチについていたオニオンスープを渇いた喉に流し込んだとき「プードルにしようね」と言ってやっと笑うことができた。

 しかし「名前考えといてくれよ」と寝不足などまったくおくびに出さず出勤していった竹男に一人玄関に残されると、訳のわからない虚しさが体を包んだ。

「昨日、駅のコインロッカーに捨てられていたんです。幸恵ちゃんって言うんです。

 置き手紙にそう書かれてたんです。だけど、嫌味な名前ですよね。“幸”せに“恵”まれるって。コインロッカーに捨てられてそれはあんまりですよねぇ」

 何も知らずに天使のような笑顔を向けている幸恵ちゃんの写真を男は直子に渡した。

「おいくらですか?」

 直子は、八百屋で初松茸を買う、少し生活に余裕のある奥様のように男に尋ねた。

「五十万なんですけど、幸恵ちゃんの未来に“幸”あることを願って、四十万でどうですか?」

 お願いします、と直子が言いかけた時、バタバタバタッと雑居ビルの階段を駆け上がってくる足音が聞こえた。

        ④

「おめでとうって言うていいんかなぁ」横田たかしは久しぶりに会う娘の頭をなでながら二人に聞いた。

「それ以外に何て言うのよ?」

フフと口元を押さえながら朝風凪は、七つ年下の、たかしとはちょうど一回り違う“新しい夫”に体をもたげて言った。

「音楽やってんねんねぇ?」

 たかしは、会ってからずっと無表情の、耳にドクロのピアスをぶら下げた、『朝風凪の夫』、というポストに、今度自分と代わって着任したばかりの男に聞いた。

「今はまだ無名なんだけど」凪が男の代わりに口を開いた。

「将来、間違いなくメジャーになるわよ。この世界で長い間やってきた私が言うんだから、ね」言うと凪はドクロの頬に唇を合わせた。

「そうか、そら良かったわ。

 一応前任者としてどんな男と一緒になるか心配してたんで」

 たかしの言葉に凪は「何くだらないこと言ってんのよ」と笑い、ドクロは相変わらず無表情で何も言わなかった。

「で、今日時間作ってもらったんわ・・・」とたかしが言いかけた時「おしっこ」と娘の蘭が声を上げた。

「パパと行ってきなさい」

 凪が言うと立ち上がったのはドクロだった。

「ちゃんと拭いてあげてね」

「ああ」と吐いたドクロは、蘭の手を取ると、居間の奥の洗面所へと二人で消えていった。

「パパって呼んでんのか?」たかしが凪に聞いた。

「そうよ」

「えらいなついてるやんか」

「ぶっきらぼうに見えるけど、結構子煩悩なのよ」

「そうか・・」たかしは虚空に目をやった。

「で、話ってなんなの?」

「あっ、すまんすまん」たかしは慌てて凪の瞳を見つめた。

「なによ、そんな真剣な顔して」

「いや、実はな、あいつの親権やねんけど、それ、俺にくれへんか?」

「な、なによ、きゅ、きゅうに」

「だって、お前、新しい家庭もったやろ。

 また、子供作るかどうか知らんけど、あいつにとったら環境の急な変化で何かと子供ながらに・・・」

「そんなの心配しすぎよ。さっきも見たと思うけど、二人は結構うまくやってるから」

「せやけど、もし、お前らの間に子供ができたらまた変わってくると思うで。

 お父ちゃんは変わるわ、そこに血の繋がっていない弟か妹ができてみ。

 あいつも子供ながらに動揺するんちゃうか?」

「あなた考えすぎよ。

 それに、あなたが面倒をみるって言ったって、例の件で刑務所に入っちゃうんだから、あの子は何とかタウンに収容されてしまうのよ」

「そ、そら、そうやねんけど・・・」

「私達は、もし万が一私に何かあっても、あの人が初婚だからあの子の面倒はちゃんと見れるし、それに、万全の態勢を敷いているから、万が一、ということはないと思うから」

「せやけど、いずれ、さっきも言ったけど、あいつ、い、いや、あの人も若いんやからお前との間に子供ができたって不思議やないやん。その時に、連れ子やからってあいつ、い、いや、あの人に娘がつらく当たられへんかなって心配なんや。

 よう新聞に載ってるやろ。

 連れ子を可愛がってたおっさんが、自分の子供ができた途端に急にその連れ子が邪魔になって、結果、虐待に走ってしまうって」

「考えすぎよ。さっきも言ったけど、結構うまくやってるから」

「まあ、それやったらええんやけど・・」

「ちゃんと落ち着いたら新しい住居も連絡するから。

 今みたいに週に二回も会うってのは海外だから無理だと思うけど、年に二回くらいは会えるようにするから」

「そうか・・」

「そんな暗い顔しないでよ」

「ほんまにちゃんと連絡だけはくれよ」たかしは、お茶の間の視聴者にはもちろん、凪にも見せたことのない情けない顔で言った。

「大丈夫よ。それより、あなたを驚かせることがあるのよ」

「なんやねん?

 実はもうスピード離婚しました、これで私はバツニでーすって言うんとちゃうやろな」

「違うわよ。私ね・・」

「なんやねん、もったいぶんなよ」

「子供ができたのよ」

「えっ!?」

「私のお腹の中に、あの人との子供がいるのよ」

「マジか?」

「ほうとうよ」

「ほら見ろ、言わんこっちゃないっ!」

「しっ、静かにしてよ」凪は唇に人差し指を立てた。

「あかんぞ。やっぱり、娘は俺が面倒見る。絶対に、あいつ、い、いや、あの人は自分の子供ができたら娘のことを疎ましく思うはずや。

 で、いずれは娘を虐待するようになって・・・」たかしは震える手でテーブルを掴んだ。

「あなた考えすぎよっ。

 何度も言うけど、あの人は子供が好きだから、そんなことは絶対にないって」

「あかん! 娘は絶対に俺が面倒見るっ!」

「大きな声出さないでよ」

「なんであかんねん?」

「あの人にはまだ言ってないよ」

「そしたら俺が全部言うたるわ」たかしは立ち上がった。

「やめてよっ」凪がたかしを制止しようとしたとき、トイレの扉が開く音がして、娘が駆け出してきた。

「ママ、パパがちゃんと拭いてくれた」

 たかしは立ちつくした。

 そうなのよ、あの子の“パパ”はもうあなたじゃないのよ・・・凪は目でたかしに語りかけた。

「そうなんか・・」たかしの唇が小刻みに動いた。

「そろそろ失礼しましょうか」凪が娘とドクロに向かっていった。

「また連絡するから。体に気をつけてね」ドクロには聞こえない声で凪はたかしに言った。

「わかった。お前こそ体に気いつけよ」

 ありがとう、凪がたかしに目で言って、玄関に向かって歩き始めた時、携帯の電子音が鳴った。

「はい」

 鞄から携帯を取り出したのは、凪だった。


         ⑤

「あら、どうしたの?今日はパチンコ屋は休みなの?」

里子は哲夫の顔を見るなり聞いた。

「お義母さん、やめてくださいよ、嫌味は」

「嫌味?だって、あなたパチンコで食べてるんでしょ?だったら、こんな時間にここにいるってことはパチンコ屋が休みってことでしょ」

 その時、大きな欠伸をして幸子がリビングに入ってきた。

「あれっ、今日って、パチンコ屋、休みだっけ?」

 幸子のセリフに里子は声をあげて笑った。

「ちょっと待ってくださいよお義母さん。僕はそれだけの人間じゃないんですから」

 幸子は、お腹を抱えて笑う里子と、困った顔をして頭をかく哲夫の二人を見合い「どうかしたの?」と哲夫に聞いた。

「何もないよ。ちょっと、お義母さんと冗談を言い合ってただけだよ」

「本当?」

「本当だって。

 どっちにしろ今日はお前には用はないんだ、お義母さんに用があってきたんだ」

「用って?」

「色々あるんだよ」


 お昼時までまだ時間があるとあって、ファミレスの店内は、遅いモーニングのトーストを齧る老夫婦と、胡坐をかいで短いスカートの中からこれ見よがしに“見せパン”を見せつける見るからに頭の悪そうな女子校生の三人組しかいなかった。

注文したホットコーヒー二つとオレンジジュースがやってきた。

「愛美理、ジューちゅが来たよ」

 里子はウェイトレスがコースターの上に置いたオレンジジュースにストローを刺した。

「で、用って何?」

 里子が訝しそうに言ったとき、髪を七三に分け、町の信用金庫の行員が、よく自転車の前かごに入れて営業活動しているアコーディオンくらいの厚みのある黒く分厚い革の鞄を持った若い男が二人の前に現れた。

「はじめまして」

男は頭を下げると里子に名刺を差し出した。

“ひまわり生命 販売促進部 金子太郎”

「なんだ、生命保険の勧誘なの。

私、掛け捨ての安いやつ入ってるから申し訳ないけど協力はできないわ」

「お義母さん、こんなこというと縁起でもないんですけど、お義母さんの身にもしものことがあれば、幸子、い、いや、幸子さんと愛美理が途方に暮れてしまうんです」

「あら、それなら大丈夫よ。

 お父さんが残していってくれた家があるから、あの子もパートにでも出れば、愛美理ちゃんと何とか二人でやっていけると思うの」

「だけど、お義母さん、その掛け捨ての保険ってのはお言葉ですけど、それほど大した保険金は支給されませんよねぇ。

 住む家があるからといっても多少は幸子さんと愛美理にいくらか残してあげたほうが、何て言うか、精神的にも幸子さんが楽だと思うんです」

「いいのよ、あの子もちょっとは苦労した方が。好いた惚れたであなたと結婚して、何が原因なのか、こんな可愛い娘がいるのに簡単に別れちゃって。少しは途方に暮れて、愛美理ちゃんのために頑張らなきゃって思う日が来た方が今後のあの子にとってもいいのよ。

 それに、どうしようもなくなった時は、あなたがいるんだから、何とかしてあげてよ」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよお義母さん」

「なによ。別れたっていったって、ほとんど毎日うちに来てるじゃない。

 あの子も一人っ子なんだから、身寄りはあなたしかいないのよ」

「そ、そんな・・・僕にだって・・」

「お母様」金子が割って入った。

「当社がお勧めする保険は、万全の態勢を敷いております。

 まず、どんな条件でも、もし入院された場合、一日目から一万円が支給されます」

「あら、私が今入っている保険もそうなっているはずよ」

「いえ、それはおそらく入院五日目からだと思います」

「そうなの?」

「それに、これが当保険の一番の売りなんですけど、退院後の通院にかかる費用が無制限で保障されるんです。案外、皆様お気づきにならないんですけど、この通院費が結構バカにならないんです。大きなお金ではないんですけど、積み重なると結構な金額になるんです。病院までの交通費はもちろん、いつも最寄りの駅から歩いて病院まで行っていたところ、たまたま雨に降られ、しょうがなくタクシーに乗った。そのタクシー代まで支給されるんです」

「ほんとに?」

「ええ。

 さすがに晴れている日までタクシーに乗られると支給の対象にはならないんですけど」

「至れり尽くせりよね」

「お母様、それだけじゃないんです。

 お母様にもしものことがあった場合、一千万円が支給されます」

「だけど、この歳でそんな保険に入ると月の保険料もすごいんじゃないの?」

「約五万円です」

「それは無理よ。幸子じゃなくて、私がパートに出なきゃいけなくなるわ。

 そら、私の寿命があと三カ月だとわかっていれば喜んで入らせて頂きますけど」

 プハっ、金子の隣の席でコーヒーを飲んでいた哲夫がむせた。

「どうしたの?」

「いえいえ、お義母さんが縁起でもない話をするんで・・」

 哲夫はハンカチで口を拭った。

 そして、金子をフォローした。

「だけど、お義母さん、この保険は掛け捨てじゃないんですよ、ね、金子さん」

「そ、そうなんです、お母様。今、哲夫さんがおっしゃられたとおり、もしずっとご健康だった場合特別ボーナスとして保険料が一部戻ってくるんです」

「どうせ、テレビでよく外資系の保険会社がやっている『十年間ご健康の場合二十万円の特別ボーナスが支給されます』ってやつでしょ。十年なんて、せいぜいもらえてあと三回だわ」

「いえ、お母様。当社の場合は、十年ではなく、一年、つまり毎年支給されるんです。

 昨年の実績で約二十パーセント、ですから五万円の保険料が四万円になる計算です」。

「うーん、でも、やっぱり、いいわ。四万円でもかなり負担になっちゃうから」

 里子が申し訳なさそうな顔を金子と哲夫に向けた時「帰るっ!」と突然、愛美理が大声を上げた。

「愛美理、もう少し待ってよ」

 哲夫がなだめるように言ったが、愛美理は「帰るのっ!」と言って、幼児用の椅子の中で体を揺すった。

「はいはい、わかりました」

 里子は愛美理を椅子から引きずり上げると「悪いけど先に帰るね」と哲夫と金子の顔を見た。

「お母様っ!!」

金子だった。

 里子は驚いて「何?」と金子を見た。

「当社は、この、今、お母様にご説明申しあげた商品に社運をかけております。私も社から拡販の命においてあらゆる手段を一任されております。お母様っ!」

 金子のあまりにも大きな声に女子校生の三人組ばかりか、トーストを齧っていた老夫婦までが顔を向けた。

「初めの三ヶ月間、保険料は無料ということでいかがでしょうか」

「ほんとなの?」と里子が金子に聞き返すと同時に「ママっ!」と愛美理が涙交じりの雄たけびを上げた。

「はいはい、わかりましたよ」里子は愛美理の頭を優しく撫でながら「契約書は?」と金子の顔を見た。

「お、お母様、あ、ありがとうございますっ!」

 イスラム教徒がアラーの神にひれ伏すかのように金子は里子に“ありがたや”のポーズを示し、鞄の中から契約書を取り出した。

「印鑑持ってないんだけど」

「大丈夫です」哲夫が金子に代わって答えた。「あとで僕が幸子さんにもらいにあがりますので」

 里子はぐずる愛美理をあやしながら片方の手で契約書の上にペンを走らせた。

「これでいいかしら?」

 里子が金子に契約書を差し出すと「これで結構でございます」と金子は里子にもう一度ひれ伏した。

「じゃあ、お願いね」

 里子が店を出ていくと哲夫は契約書の保険金額の上に何げなく置いていた肘をずらした。すると¥10,000,000の頭の¥10の後ろにもう一つの“0‘”が現れた。


第五章

「なんやねん、これはっ!」

 会社で首からぶら下げているIDカードのような首輪を紘子から渡された清は思わず声を上げた。

「全員付けてくださいって」

「付けてくれって言うても、こんなもん、恥ずかしいっていうか、アホっていうか・・・」

 清が怒るのも無理はなかった。

 紘子から渡された首輪の先には、社員証の入ったプラスチックケースの代わりに、ゲームセンターのUFOキャッチャーで千円か二千円かけてやっと取れる、いかにもチープな、見た感じは鳥のようなぬいぐるみがぶら下がっていた。

「それに、これどう見ても鶴に見えへんやんか。くちばしも赤いし」

「それ鶴じゃないわよ」

「JALいうたら鶴ちゃうんか?」

「鶴じゃなくて、こ・う・の・と・り。

 それも『べにはしこうのとり』っていう西洋のこうのとりで、童話の中で“子供を連れてくる鳥”っていわれてるの」

「えらい詳しいやんか」

「渡されたパンフレットに書いてあったのよ。要するにハネムーンベビー、何が何でもこの新婚旅行で子供を作りなさいっていう、ある意味脅迫みたいなものよ」

 清は周りを見渡した。

 首から赤いくちばしをした鳥のぬいぐるみをぶら下げたカップル、といっても自分よりはどう見ても歳が上のカップルがほとんどだった。

「せやけど、新婚には一年の猶予が与えられてんねんで」

「そんなの建前よ。このパックだって、申込用紙になぜか、前回の月経の日を記入する欄があって、必修を示す米印が付いてあって。それに、申し込んでから返事が来るまで二週間もかかったのよ。どう考えたって、これまでは“危険日”だったけどこれからは“超推薦日”になるその日にあわせて組まれているのよ」

 ピーーーーっ!!

 突然笛の音が鳴った。

「お待たせいたしましたっ、皆様お集まりくださーいっ」

 赤ちゃんのアニメ絵が描かれた小さな旗を持った女性が金切り声をあげ、空港ロビーのど真ん中に仁王立ちした。

 首から赤いくちばしの鳥のぬいぐるみをぶら下げたカップルがその女性に吸い寄せられていく。

「かっこ悪いのう、みんな見とるで」

 確かに、周りの人間は皆、清達を見ていた、というか、凝視していた。

「これから出国手続きを行います。先ほど私が説明いたしました手順でよろしくお願いいたします」

 首から赤いくちばしの鳥のぬいぐるみを下げた御一行様は、各々身に付けているウェストポーチや、手にしているポシェットからパスポートを取り出し、歩き始めたその女性について行った。

「まるで“初めての遠足”やなぁ」清は吐き捨てるように言った。

 出発ゲートに入ると、搭乗までまだ三十分ほど時間があった。

「ビールでも飲む?」

「うん。なんかあても買うてきて」

「何がいい?」

「別になんでもええけど、そうやなぁ・・当分の間オーストラリアやから、カンガールの肉とかワニの肉食べさせられると思うから、あっさりした竹輪かなんか買うてきて」

「そんなの売ってるかしら。

 それにオーストラリアっていっても日本料理屋なんかいくらでもあるはずよ」

「そうか。そしたらまかせるわ」 

 紘子は売店へと向かった。

 清は周りに群がる首から赤いくちばしの鳥のぬいぐるみをぶら下げた御一行様を見た。

 手を繋いだり、腰に手を回したり、ましてやキスをしたりする、いわゆる、目に余るカップル、は一組もいなかった。

 今さっき空港ロビーで初めて会った、そんな感じのカップルばかりだった。

 法律が公布されてから、登録制の結婚相談所が隆盛を極め、異業種からの参入も相次いだが、各社とも莫大な利益を上げることができた。

 その反面、年間に支払う独身税の約半分の金額を支払えば、どこの誰ともわからない人間と入籍ができ、形だけの夫婦を装える“入籍屋”という闇の商売が誕生し、また、どうしても結婚したい人間の心理をついて結婚詐欺事件が後を絶たなかった。

「お待たせ」紘子が戻ってきた。

「ここの売店すごいわよ、チーちくがあったわ」

 ビールの入った紙コップと一緒に、透明の真空パックにぴちゃりと張り付いたチーちくを紘子は清に渡した。

「センキュー」

 清は真空パックからチーちくを引っ張り出すとガブりとかぶりつき、紙コップに入ったビールをゴクりと喉に流し込んだ。

「せやけど、考えてみぃ、もし、なんかのトラブルで飛行機が墜落したら俺らの最後の晩餐はチーちくやで」

「俺ら、って言わないでよ。私はおにぎりを買ってきたんだから少しはましよ」

「そんなもん、所詮出来合いのおにぎりやねんからチーちくとかわるかよ」言いながら清は三角のおにぎりの封を切ろうとしている紘子の脇腹をつついた。

「ちょっとやめてよ、海苔が切れちゃうじゃない」

 紘子の声に周りの御一行様の何人かが二人を見た。

「おいおい、あんまり刺激したらあかんやんか。みんなピリピリしてんねんから」

「どういうことよ?」

「見てみぃ。いちゃついてるカップルなんかどこにもおれへんやろ。たぶんみんな結婚相談所でひっついたカップルばっかりなんや。せいぜい、今日で、会うのが二回目か三回目くらいやろ。今までしたデートいうたかって、飯食って映画観た程度やと思うで。それが遠路はるばるオーストラリアまで行って、ブロイラーのように密室で子孫を作る行為に耽るんやで。緊張せえへんはずがないやんか。

 せやけど、政府も酷な法律作ったもんやなぁ。

 あそこの二人見てみぃなぁ。どうみても俺らより一回りは上やで」

 清がチーちくを加えながら顎で指した二人は、男は白の開襟シャツに紺のノータックのパンツをはき、女は白い襟付きのブラウスの下に花柄のスカートを履き、化粧っ気のない顔をガラス張りのロビーの向こうに拡がる夜の滑走路に向けていた。

「だけど、結婚したくてもどうしてもなんらかの事情があってできなかった人たちが、この法律ができたおかげですることができたケースもきっとあるはずよ」

「まあ、それはそうかもしれんけど、なんかこう、痛々しいっていうか、なんか、無理矢理っていう感じがすんねんけどなぁ」言いながら清は紙コップに入ったビールを一気に喉に流し込んだ。

「あらっ?」紘子が声を上げた。

「どしたん?」清は、ビールが入っていた紙コップをくしゃくしゃに丸めながら紘子に聞いた。

「あそこの二人は無理矢理っていう感じじゃないんじゃない」

 紘子が指さした先には、三十歳くらいの男とそれより少し若い女性がお互いの腰に手を回して嬉しそうに何かを話していた。

「あれ、あの男の人、どこかで見たような気がするわ」

「昔の彼氏ちゃうんか」

「つまらないこと言わないの」

 紘子が言いながら清の腕を抓った時、搭乗の開始を告げるアナウンスが流れ、みんなをここまで連れてきたさっきの女性が「お待たせいたしました、搭乗チケットをお持ちの上ご順に列にお並びください」と高い声を上げた。

「せやけど、なんぼ考えても間抜けやのぅ。

 これから、頑張って、みんなでナニやってきますっていう感じで」

 言いながら清は、Gパンのポケットからチケットを取り出し、紘子と二人で自動改札を通った。

 席につき、シートベルトをつけ終えた時、紘子が「やっぱり、どこかで見たことがあるわ」と、自分たちの斜め前の席で、足元に大事そうにカバンを置いている、さっきの“無理矢理じゃない”感じのカップルを凝視した。

「お前も未練たらしいなぁ。まだそんなに好きやったら抱きついてキスでもしてこいや」

 紘子は清の頬を思いっきり抓った。

「痛たたたっ!」

 清の声に、隣の席の、首からくちばしの赤い鳥のぬいぐるみをぶら下げた中年カップルが、何騒いでるのよ、といった目で二人を見た。

「冗談やんけ」

 清は抓られた頬を摩りながら言った。

「せやけど、あの二人、足元に置いてある鞄をやたら大事そうにしてへんか。ひょっとして爆弾入ってんちゃうやろなぁ。今度の新しい法律に反対するある組織が新婚旅行の団体に紛れ込んで自爆テロを企ててんとちゃうか。

 悪いけど俺降りるわ。もうちょっとやりたいことも残ってるんで」

 ふざけて立ち上がろうとした清を「やめなさいよっ」と紘子が大きな声を出して止めようとしたとき、さすがに今度は隣の中年のカップルも二人合わせて不快な表情を清と紘子に向けた。

「すいません」紘子が申し訳なさそうに頭を下げる。

「こんな陰気な雰囲気を何とかお笑いで明るぅしようとするんが大阪人の悲しい性なんですよ」清が頭をかきながら苦笑いを二人にむけて浮かべた時、もう一人の大阪人の悲しい性の持主が、さっきまでずっとNHKのニュースが流れていた、真ん中の座席の島の一番前にたらされた白いスクリーンに映し出された。

 横田たかしだった。

「そうか、こいつ離婚したから捕まんのかぁ」

 横田たかしは、お笑い番組の刑務所のコントなどでよく見かける、黒と白の縞々の囚人服を着て、口の周りを黒のマジックで太く塗っていた。

「せやけど、なんか虚しいよなぁ。この期に及んでこんなことせなあかんねんからなぁ。

 まあ、結婚した時点で、すぐに別れるっていうか、捨てられるってのはわかってたけど、で、あの元嫁はんの何とかいう女優は何してんねん?」

「若いミュージシャンと再婚したわよ」

「ほんまか? どうせまたすぐに別れるんちゃうんかよ」

 離陸が近付いているという機内アナウンスが流れた。

「せやけど、再婚いうても、あいつも同じバツイチやねんから捕まるんちゃうんか?」シートベルトを着けながら清は紘子に聞いた。

「週刊誌に書いてあったけど、嘘か本当か海外逃亡を図るって噂よ」

「そらぁ無理やで。法律が公布されてから、警察は絶対に海外逃亡は許さへん言うて躍起になってんのに。この半年でどれだけの離婚経験者が水際で捕獲されたことか」

「だけど、朝風凪はお金だけは持ってるわよ。どんな手段だって取れるんじゃない。

 ひょっとしたらこのツアーに紛れ込んで同じ飛行機に乗っているかもしれないわよ」

「あっ!あの女ちゃうんかっ!」清は自分たちの斜め前に座る“無理矢理じゃない”カップルを指差した。

「ちょっと、指差さないのっ」言いながら紘子は清の手をはたいた。

「せやけど、あの雰囲気なんか胡散くさいねんけどなぁ」

「そうかもしれないけど、朝風凪はもっと綺麗よ。年はあの女性よりは上だと思うけど、美しさのレベルが違うわ」

 紘子が、朝風凪のファンクラブの代表のような言い方をした時、突然、隣の中年カップルの二人が立ち上がった。

「もう離陸しますよ」

清が言うと「ええ、わかっています」と男の方が冷たい表情を清に向け「ちょっと前を失礼」と言って清と紘子の前を通り過ぎ、女もそのあとに続いた。

「なんや、この期に及んで童貞捨てるの怖なったんか」

「しっ! 聞こえるじゃないっ」

 紘子が右手の人差し指を口の前に立てた時、通路に出ていった中年カップルの女の方が“無理矢理じゃない”カップルの前に仁王立ちし、男は通路を機首の方向に向かってヅカヅカと歩いていった。


         ②

 朝風凪は、日本中のファンにも、そして、前夫の横田たかしにも、ましてや、ドクロにも見せたことのない、泣き過ぎて、試合後のボクサーのように腫れた顔を鏡の前でさらしていた。

 耳には「一体どうなってんだよっ!!」と受話器の向こうで叫ぶドクロの声がまだ残っていた。

 そのドクロは、今空港からこっちへ向かっている。

「ママどうちたの?」

 二歳の娘が足元に駆け寄ってくる。

「なんでもないのよ」

 なんでもないことはなかった。

 予兆はあった。

 前夫の横田たかしにドクロを紹介した帰り際、そっと、ドクロとの間に子供ができたことを告げ、玄関を立とうとしたときに鳴った携帯に出たのが、そのマネージャーだった。

「故郷の母親が倒れたんで暫く休みを頂けませんか」

 ダメだと言えるわけがなかった。

 しかし、一週間たっても二週間たってもマネージャーからは何の連絡もなかった。

 普通ならここで何かあったのかと、マネージャーの住処を訪れたりするものだったが、朝風凪は、生まれてこの方、人を疑うということを知らなかった。

 物心ついてから芸能界という世界に住み、周りのどの人間も彼女にひれ伏し、ましてや裏切るという行動をとったものにたった一度として遭遇したことがなかった。

 そして、いよいよ、運命の日、さようなら日本、とマネージャーの携帯を鳴らしたが、誰も出ることはなかった。

 生まれて初めて自分でタクシーを呼び、マネージャーの住処に駆けつけたが、時すでに遅し、もぬけの殻になっていた。

「三週間くらい前だったかなぁ『このまま日本にいてもしょうがないんで海外にでもいってきます』って言って出ていったよ」

 家主はさらりと言った。

 インターホンの音で我に返る。

 朝風凪は一瞬躊躇したが、しばらく考えた後、防犯カメラに写ったドクロの姿を確認するとロックを解除した。

 ドクロは予想に反して無口でリビングに入ってきた。

「ごめんなさい」

 生まれて初めて他人へ謝罪の言葉を吐いた。

 ドクロは何も言わず、冷蔵庫から缶ビールを取り出すとプルトップを無表情で引いた。

「よくやってくれていたのよ。私に付いてもう五年になるかしら。ちょっと、鈍感なところがあったけど、時間にはすごく正確で、遅刻なんか一度もしたことがなかったし、それに礼義もわきまえていて、誰からも評判が良かったのよ、朝風さんのとこのマネージャーはできる人だよねってよく言われたから」

「で、どうすんの?」ドクロは“そんなことどうでもいいんだよっ!!”を省略して言った。

「どうするって、明日の朝には警察が来ると思うから・・・」

「何か切り札はないのかよ?

 日本で一番の女優だろ。朝風凪の名前を使えばなんだってできるんだろ?」

「そ、それはそうなんだけど、もう、時間が・・・」

「俺はどうすればいいんだよ?」

「待ってて。三年間、私が戻ってくるまで待ってて」

「チャイルドタウンって言ったっけ。そこへこの子の面会に三年間通えってこと?」

「お願いよ・・・生活費は・・」

 言いかけて朝風凪は、ハッとした。

 今回の海外逃亡のために用意した片道の航空チケットをはじめ、世界中どこでも使える利用額無制限のクレジットカードが数枚と、残高が一体どれくらいあるのか考えたこともない都銀のキャッシュカードがやはり何枚か入った財布は、印鑑などの貴重品と一緒に一つのカバンに入れ、マネージャーに預けたままだった。

「だ、だいじょうぶよ、事務所の社長にお願いして何とかするから」

「世界デビューはどうなるんだよ?

 必ず世界のスターにしてやるっていったじゃないか」

「だから待っててって言ってるじゃない」

「三年てのは長いぜ。それに、あんただって、三年後に戻ってきて今の地位が約束されてる保証なんてどこにもないんだぜ。ただでさえ、移り変わりの激しいこの世界で、三年のブランクてのはかなりキツいと思うんだけどなぁ」

「そんなことないわよ。これまでの実績があるんだから、みんな、きれいさっぱり忘れることなんてできないと思うわ」

「空港から乗ったタクシーの運転手に聞いたけど、子持ちの人間と結婚して、離婚した場合は罰せられないんだって。

 あくまでも自分と血のつながった本当の子供がいる場合が対象だって」

「ちょっと待ってよっ!」朝風凪は大きな声を上げた。

「な、なんだよ、いきなり」

「この子はいったいどうなるのよっ」朝風凪は、何も状況が分からずぽかんと二人のやりとりを見ていた娘を指差した。

「チャイルドタウンの職員がちゃんと面倒見てくれるよ。子守党はそう断言してるじゃないか」

「ちょ、ちょっと、それじゃあ、この子一人ぼっちじゃじゃない。

 この子のことをすごく可愛がってくれてるのに」

「可愛いよ、すごく。俺は元々子供が好きだから、すごく可愛いよ。今でももちろん可愛い。だけど、三年は長すぎる。自分の将来がどうなるかわからない不安な状態での三年は長すぎるよ」

「あなたを慕っているのはこの子だけじゃないのよ。本当の子供だって、あなたのことを・・・」

「本当の子供?」

 ドクロは凪の言ったことが一瞬わからなかった。

「子供ができたのよ・・・」

「えっ?」

「あなたの子供が私のお腹の中、ここの中にいるの」凪は自分のお腹を指差した。

「ちょ、ちょっと待てよ。そんなこと、お、おれ、全然聞いてなかったぜ」

「驚かせようと思って黙ってたのよ」凪は少し開き直って言った。

「驚かせようだって・・・」

 言うと、ドクロは、いきなり、凪の腕を掴んだ。

「なにするのよっ!」凪は大声を上げドクロの腕を振り払った。

「病院だっ。今ならまだ間に合うっ」ドクロは凪に負けないくらい大きな声をあげた。

「何言ってんのよ。明日の朝になったら警察が迎えに来るのよ。いろいろ用意することがあるし、それに、この子をチャイルドタウンへ預ける準備もしておかないと。つまらないこと言ってる暇があったら離婚届でも取りに役所へ行ってきなさいよ。今なら判子ついてあげるわよ。“向こう”へ行ってしまったら、弁護士を通したりして手続きが大変よ」

 朝風凪は完全に“女優 朝風凪”に戻っていた。

「違うっ!!

 病院だっ、病院へ行くんだっ!」

 ドクロは凪の腕をつかもうとしたが凪はその手を振り払った。

「嫌よっ!私はこのお腹の中の子供を産むんだからっ。あなたにとやかく言われる筋合いはないわっ」

「俺は絶対に刑務所になんか行かないからなッ!!」言うとドクロは突然「ギャーーーッ」と断末魔のような声を上げると、凪の髪を掴み彼女を玄関まで引きずって行った。

「やめてよっ!」凪はフローリングの床を引きずられながらもドクロの太ももにガブリと噛みついた。

 ドクロは、ギャッ、とさかりのついた猫のような声を上げ、リビングでは一人残された娘がビーンと人間の泣き声を上げた。


         ③

 一週間、泣くだけ泣いた。だから、今日は絶対に泣かないでおこうと決めていた。

 しかし、目の前に夫の竹男が腰を下ろすと、どこに残っていたのかと思うくらい、直子の瞳からはたくさんの涙があふれ出た。

「ずいぶんと痩せたんじゃないのか」

 二人の間には、口の高さにに小さな穴がたくさんあいた透明な壁があった。

「こんなことなら、もっと早くここへきておけばよかったわ。つまらないダイエットなんかやらなくて良かったのにね」直子は涙を流しながら、しかし顔は笑って言った。

「俺もおまえが一週間会ってくれないっていうから、おかげさまで、履けなかったGパンが履けるようになったよ」

 竹男の眼の下には黒く大きな隈ができていた。

「会社は?」

「辞めたよ。もともと、あまりヤリ甲斐を感じてなかったから。

 部長に、今回の経緯を詳しく聞かせてくれって言われたんだけど、他人の家庭のことだからほっといてくださいって退職願を叩きつけてやったよ。

 俺も大学を出てから、ずっと働きずめだったから、いい休息になるかなと思って」

「ごめんなさい。わたしのせいで・・・」直子はハンカチで目を拭った。

「そんなに気にするなよ。わずかだけど退職金ももらったし、あと三カ月もすれば失業保険も入るし、それも底がついたらアルバイトにでも行くよ。たまには時給八百円で働くのも、お金の有難味がわかっていいよ」

 実際には、不妊治療に莫大な費用を費やしていた二人には蓄えはほとんどなかった。

「で、さぁ、今度の新しい法律あるだろ」

「ええ」

「保険が利くようになるんだよ。当り前だよな。子供を産めよ増やせよっていうんだったらそれくらいはしてくれないとな」

「子供」・・・竹男の言葉に直子は忘れかけていたイヤな光景を思い出した・・・・。 

 バタバタッと、突然、階段を駆け上がってくる足音が聞こえたかと思うと「警察だっ!!」という声が狭い室内に響き渡った。

 ペイズリー柄のネクタイを首から垂らした男は、逃げようとしたのか椅子を蹴って立ち上がったが、すぐにその場で二人の刑事に取り押さえられた。

「ご同行願えますか」

 一人の刑事に腕を取られ立ち上がると、部屋を出て、階段を降り、ビルに横付けされていたワゴン車に乗り込んだ。

 車が発進して暫くすると、幸恵ちゃんが写ったポラロイドフィルムを握りしめていることに気づいた。本当の赤ん坊の手を握っている感触があった。

「この写真は?」刑事が聞く。

「幸恵ちゃんです」

「幸恵ちゃん?」

「昨日、駅のコインロッカーに捨てられていたんです。私が四十万円で買いました。今日から私がこの子のお母さんなんです」

 刑事は慌てて携帯電話を握りつばを飛ばした。

 一週間続いた取り調べでは、何を聞かれたのか何を喋ったのかほとんど覚えていなかった。

「幸恵ちゃんに会わせてっ!!」という悲鳴に近い、しかし誰が吐いたのか分からない言葉だけが狭い取り調べ室の中を漂っていたのだけはなんとなく覚えていた。

「これ飲んでみて」

 白衣を着た女性に渡された白い錠剤を水と一緒に飲んで、暫くすると、自分が犯した罪の重大さを知り、竹男にどうしても会って謝りたくなった。

「で、どうしようかなと思って。一応お前の意見も聞いておこうかなと思って」

 竹男の声に我に帰った。

「そうなの・・・」

言うと直子は少し微笑み、そして少し考え、そして、ゆっくりと口を開いた。

「いいわ」

「そうか、じゃあ、早速、病院に申し込みに行ってくるよ」

「違うの。

 “NO”ってことの“いいわ”なの」

「どうしてだよ?」

「だって、もう、二人で精一杯頑張ったじゃない。これ以上、子供のために苦労するのはやめましょ」

「お前、どうしても子供が欲しいんだろ」

「それはそうだけど、こんな馬鹿なことしてあなたに迷惑かけてしまったし・・もういいのよ。そうだ、ワンちゃん買ったの?」

「買ったよ、だけどさぁ・・」

「何、買ったの?」

「プードル」

「名前は?」

「まだ何も考えてない」

「オスなの?」

「メスだよ」

「じゃあ、ちょうど良かったわ。私、自分に子供ができて、もし女の子だったら『のぞみ』ってつけようと思っていたの。『美』しさを『望』むで『望美』。決まりだわ、そのワンちゃんは今日から『望美ちゃん』よ」

「望美ちゃんはいいんだけどさぁ・・」

 竹男は直子に会いに来る前に担当の刑事と会い、いろいろと、捕まってからの直子のことを聞かされた。

「幸恵ちゃんはどこっ? 幸恵ちゃんに会わせてっ! あの子のお母さんは私なのよっ!」一週間叫び続けたらしい。

「直子さぁ、もうやめようと言ったのは確かに俺の方だけどさぁ、もう一度だけ頑張って、本当の俺達の『望美ちゃん』を作ろうよ」

「う、うん。で、でも・・・」

「あっ悪い、もう時間がないよ」言いながら竹男は腕時計を見た。「しっかり食べないとダメだぞ。体力つけなきゃ元気な赤ちゃんを産めなくなるぞ。じゃあ、また明日来るから」

 言うと竹男は席を立ち、鉄の扉の向こうに消えていった。

 止まっていた涙が、また、直子の瞳からあふれ出た。

 監視官に支えられ立ち上がる。

 二時間ドラマでよく見かけるシーンを今自分が演じている。

 そう思うと、直子は、本当に自分は罪を犯したのか、本当に刑務所に服役しているのか、今帰って行ったのは本当に自分の夫なのか、何が何だか訳が分からなくなった。


         ④

「奥様のお気持ちはよくわかります」

 竹男は、五年間お世話になっているかかりつけの産婦人科医にすべてを打ち明けた。

「今度の法律は、確かに、私どもの患者さんたちには大きな光を与えます。その反面、同じくらい大きな影も落とすことになります。

 奥様は、その大きな影に、誰よりも早く入ってしまったんですよ」

 産婦人科医の温かみのある笑顔を見て、竹男は全てを話して良かったと思った。

「では、予約を入れておきますので。

 ご主人様もその日に備えて体調の管理をよろしくお願いします」

 ありがとうございました、竹男が頭を下げて椅子から立ち上がろうとした時「先生っ!」と、看護婦が血相を変えて診察室に駆け込んできた。

 

 ロビーは騒然と化していた。

 一人の若い男が、三十代半ばの女の腕を掴み「おろせと言ったらおろせっ!」と怒鳴り声を上げ、女も負けじと「絶対に産むんだからっ!」と金切り声をあげていた。

「たまにあるんですよ」産婦人科医はしょうがないなぁと言って頭をかいた。

「だけど,羨ましいですよ。うちなんか、欲しくて欲しくてたまんないのにどうやってもできないのに」竹男は少し自嘲気味に言って目の前の若い男と女を見た。

 男はドクロのピアスを耳からぶら下げ、女はサングラスをかけ、ピンクのキャップを目深に被っていた。

 と、突然、パチンっと乾いた音がロビーに響き渡った。

 男が女の頬を平手で張ったのだ。

 女のサングラスが鼻からずれ落ちる。

「あれっ?」竹男は思わず声を上げた。

そして「朝風凪じゃない?」と、男と女のやり取りを見ていたお腹の大きな妊婦さん達が声を合わせた。

 確か、お笑い芸人の横田たかしと別れて、かなり年の離れた若いミュージシャンと再婚して、すぐに子供ができたって直子に聞いたことがあるよなぁと竹男が記憶をたどっていると「関係ねぇだろっ!」と男の怒号がロビーに響き渡った。

 男は二人を止めに入った産婦人科医の胸倉をつかみ、今にも殴りかからんばかりの形相だった。

 竹男は飛んでいくと、二人の間に割って入った。

「やめろよっ」

三人はもみくちゃになり、やがて、ブチっという音を残して男は産婦人科医の胸倉から手を放し、リノリウムの床にはドグロの形をしたピアスが転がった。

「なんだっ、てめーらっ!」男がいきり立つ。

「どんな事情があるにせよ、女性に暴力をふるうのは良くありませんよ」産婦人科医が声を震わせながら言った。

「さっきも言ったけどてめーらには関係ねぇんだよっ!」

 朝風凪と思われる女は張られた頬をハンカチで押さえながら床にしゃがみ込んでいた。

 真近で見る横顔は、間違いなく、朝風凪、そのものだった。

「そうだ。お前ここの医者だろっ。早くおろしてくれ。もう時間がないんだ」男は産婦人科医に言った。

「奥さんは嫌がってるじゃないか」竹男が言う。

もみ合いになった際に切ったのか竹男の唇の周りには血がついていた。

「折角できた子供さんなんだから、ちゃんと産んであげなきゃ」

「お前いったい誰なんだ?」男は竹男を睨みつけて言った。

「ここの病院に通っているものです。子供が欲しいんですけど、どうしてもできなくって」

「なんだ、種無しかよ」

 男のこの言葉に竹男の体はピクッと反応したが、周りの人は誰も気づかなかった。

「お前と話しているヒマなんかないんだよ。

 おい、先生、本当にもう時間がないんだ。早く頼むよ」男は産婦人科医に言った。

「お前の子供だろっ!!」

突然の竹男の怒鳴り声が、ロビーの中に溜まっていた、ざわざわを切り裂いた。

「自分が愛した女との間にできた子供だろ。

 どうして・・どうして・・ちゃんと産ませてあげないんだ」

「てめぇには関係ないんだよっ!

 子供なんていつでも作れる、今は必要ないんだ、ただ、それだけだっ」

 自分よりずっと若い二十歳くらいの看護婦に「頑張ってくださいね」と言って渡されたプラスチックの容器を持って入ったいつもの個室。

 自然と小さな棚に並べられている、あらわな姿でこっちを見て微笑んでいる女性が表紙を飾る雑誌を手に取る。

 虚しい。

 だけど、いつも通り、カラスがカーと鳴くようになんのザラつきも感じずに射精をする自分、俺。

「またダメだった」

 何度も聞いた、妻の、悲しさを隠すために無理矢理作った笑顔が添えられた、言葉。

 両方の拳が熱くなっているのを感じた。

 足元を見ると、男が血まみれになって転がっていた。

 暫くすると、目つきの悪い男二人がやってきて「ご同行願います」と言って両腕を掴まれた。

 血まみれの男は担架に乗せられロビーから運び出されて行った。

 そして、暫くすると、救急車のサイレンが鳴り響き、やがてその音は遠ざかっていった。


         ⑤

 結局、真は言いだすことができなかった。

 ジェットコースターが坂を上がる時も、コーヒーカップの真ん中のポールを回す時も、観覧車で遠くの景色を見ている時も。

「さあ、火をつけましょ」

 丸いケーキをお盆に載せて母が居間に入ってきた。

 今日は、皮肉にも、俊介の七回目の誕生日だった。

「マッチか何か持ってる?」言いながら母は『ちゃんと言えたの?』と目で聞いてきた。

『ダメだった』

 真も目で答えると「あっ、こんなところにあったわ」と母はわざとらしくエプロンのポケットから百円ライターを取り出し、ケーキの上に立った七本のローソクに火を灯した。

 明かりを消すと、事前に打ち合わせをしていたかのように、俊介は立ち上がるとフーっと一気に七本のろうそくの炎を吹き消した。

「ハッピー バスデー ツーユー」暗闇の中、母が歌い始めた。

 明かりをつけると母の目には涙が光っていた。

「俊ちゃん、おばあちゃんからのプレゼントよ」母は俊介に気づかれないようにさっと目の涙を手のひらでぬぐうと大きな包みを渡した。

「おばあちゃん、ありがとう」俊介は受け取ると早速包みを開け始めた。

「俊ちゃん、お父さんは何をくれるのかなぁ?」

「お、俺?」

 遊園地へ連れて行ってあげたのが俊介へのプレゼントだと思っていたので真はなにも用意していなかった。

「そ、そうだなぁ」

 俊介は何かを期待して包みを開けていた手を止めた。

「じゃあ、びっくりする話をしてあげるよ」

『大丈夫?』母は目で真に聞くと「おばあちゃんお料理してくるから」と言って居間を出ていった。

「父さん、早く話してよ。びっくりするって、どんな話?怖い話? おもしろい話?」

「そうだなぁ、どっちかというと怖い話かなぁ・・・」

「ほんとーっ」俊介は少し興奮し始めた。

 居間の奥の台所からは母がネギを刻んでいる音が聞こえる。

「俊介さぁ・・」

「なに?早く怖い話してよ」

「泣くんじゃないぞ。本当に怖い話だからな」

「わかったよ」言いながら俊介は楽しそうに笑った。

「実は、父さんさぁ・・」

「そんなの違うよ。怖い話は『ある雨の日、だれもいない・・』て始まるんだよ」

「父さんの話はもっと怖いんだよ」

 台所から聞こえてくる母のネギを刻む音が少し早くなった。

「ほんとう?」俊介が少し神妙な顔で聞いた。

「ああ。いいか、俊介。これは本当の話だからな」

 うん、と俊介は頷いた。

「父さんさぁ」

 うん、と俊介はもう一度頷いた。

「明日から刑務所に入るんだ」

「刑務所って悪いことをした人が入るところ?」

「そうだよ」

「父さん、何か悪いことしたの?」

「俊介にいっぱい悪いことをしてきたじゃないか」

 俊介は何の事だかわからず、ポカンと口を開けた。

「自分の子供につらい思いをさせることは“悪いこと”なんだよ」

 俊介はまだ事態を呑み込めないでいた。

「俊介、三年間、三年間だけなんだ。お前はチャイルドタウンというところに入る。

 お前みたいに、親に迷惑を掛けられた子供たちばかりが集まる所なんだ」

「じゃあ、その間、父さんと会えないの?」

「うん」

「そんなのやだっ!!」言うと、俊介は大声を上げて泣き出した。

「さっき、どんな怖い話でも泣かないって約束したじゃないか」

 いつの間にか母が台所でネギを刻んでいた音がやんでいた。

「俊介、 男は・・男の子は・・人前で泣くもんじゃないんだ」

「だって・・・だって、また一人になるんだよ。お姉ちゃんがいなくなって、母さんもいなくなって、今度は父さんもいなくなるんだから」

「俊介っ、泣いちゃだめた、男は泣いちゃだめなんだ」真は必死で涙がこぼれおちるのをこらえながら言った。

「そのかわりさぁ、俊介、お前が三年間辛抱して待ってくれていたら、父さんはこの家でおばあちゃんと一緒に住むことにするよ。

 そしたらさぁ、チャイルドタウンといっても、週に一回は会えに行けるし、毎月一回は家に帰って来られるんだよ。また三人でご飯も食べられるんだ」

「ほんとう?」俊介は涙で赤くなった目を擦りながら顔を真に向けた。

「ああ。絶対に約束する。男の約束だ」

 その時、「お待たせぇ」と母が居間に入ってきた。

「俊ちゃん、唐揚げできたよ」

 母が手にしたお盆には鳥の唐揚げが堆く積まれたお皿が乗っていた。

「わーいっ」俊介は涙で赤く腫れた目を輝かせた。

「さあ、いただきましょっ」言った母の瞳も赤く滲んでいた。

「俊介、たくさん食べろよ」

 うん、と頷いた俊介の傍らには、母からもらった誕生日の大きな包みが半分開けた状態で置かれ、今はどこで何をしているのか分からない妻が大好きだったひまわりの絵がプリントされたTシャツが顔を覗かせていた。


         ⑥

「さすがにフェリー乗り場には礼服姿の人間はいないなぁ」哲夫は額の汗を拭いながら黒いネクタイを緩め「そろそろ、元気出せよ」と幸子に言った。

 パチンコ屋でふんぞり返って鼻からタバコの煙を吐き出していた頃の面影は今の幸子にはなかった。

「気持ちはわかるけどさぁ、今はとにかくこの国から逃げ出すことだけに集中しようぜ。

 とりあえず先ず着替えよう。周りのみんなが俺達を見ているような気がしてしょうがないんだよ」

“俺達”に母の里子が含まれているものだと幸子は信じていた。

 しかし、その里子が一週間前に突然亡くなった。

「お義母さん、愛美理のことよろしくお願いします」

 哲夫はそう言って里子が亡くなる前日に開かれた『お別れ会』の席で頭を下げた。

『お別れ会』といっても四人だけの食事会、食事会と言っても、いつもの食卓で、珍しく哲夫が「たまには僕が腕を振るいますよ」と言って作ったささやかなおかずが二、三品テーブルに並んだだけのものだった。

「愛美理ちゃんと別れるのつらいねぇ・・・今日は飲んじゃおうかな」里子が漏らした。

「そうですよ、お義母さん、今日は飲みましょう」言うと哲夫は里子のグラスにビールを注いだ。

「だけど、チャイルドタウンだっけ、愛美理が預かってもらうところ。そこは大丈夫なの?」

「お義母さん、それは心配ないですよ。今度の政府は子供をきちんと守ってくれる政府ですから。子守党っていうくらいですから、きっと大丈夫ですよ」

「そう・・それならいいんだけど」

「毎週1回は面会に行けますし、月に一度はうちにも帰って来れますし。

 お義母さん、その時はどうかよろしくお願いします」

「それは大丈夫よ。まかせておいて」

 頭を垂れながら哲夫は里子のグラスにビールを注いだ。

「で、子供のことはいいんだけど、私達年寄りはちゃんと守ってくれるのかしら?」

 里子の言葉に哲夫はむせた。

「だ、だいじょうぶですよっ、こ、この国はちゃんとしてますから」

 少し不安そうな表情でグラスのビールを二口で飲みほした里子は、次の日の朝、布団の中で冷たくなっていた。

 医者の診断は急性心不全だった。

 霊安室で眠る母親の青白くなった顔を見た時も、お通夜の席でも、お葬式の席でも、幸子は涙を流さなかった。というか、悲しい、という気持ちが全く湧いてこなかった。

 漠然と“お母さん死んだんだなぁ”ただ、そう思うだけだった。

 ところが、初七日の今日、哲夫からこの国を出ていく計画を聞かされた途端、里子の死が“現実”となった。

 自分が生まれ育った地から離れることの“現実”が、自分を産んで育ててくれた母との別れの“現実”を誘発した。

「悪いけど、俺、先に着替えてくるわ。

 個室取るとヤバいと思ったんでザコ寝にしたからトイレかどこかで着替えてくれ」

 言い残すと哲夫は大きなボストンバッグを提げて、案内板が指さしているトイレの方向へと消えて行った。

「ママ、おなかへったぁ」愛美理が黒いスカートの裾を引っ張りながら顔を見上げる。

 考えてみれば、自分に食欲がないことをいいことに、朝ごはんに小さなおにぎり一つを与えた後は飴玉一つ愛美理の口には入っていなかった。

「何食べたいの?」

「カレーライちゅ」


 フェリーの食堂は初めてだった。

「高校なんか行かないっ」

 中学三年生の夏休み、一番仲の良かった友達がグレ始め、もろに影響を受けた。

 二学期、三学期はほとんど学校に行かず担任の教師も完全にさじを投げた。

「ほっとけっ!!」

 父親は怒り心頭だったが、母の里子は、高校卒業の資格が取れる美容専門学校の願書を幸子のために取り寄せた。

「幸子はいいよねぇ、ママがちゃんと心配してくれてるんだから」一番仲の良かった友達に言われた幸子は何も言い返せなかった。

 いやいや入った専門学校の入学式の後、新入生全員が学校の食堂に案内された。

 動いていない食器自動洗浄機に溜まったプラスチックの食器の上を飛ぶ蝿以外生命を宿したもののいない無機質な食堂を幸子は思い出した。

「お待たせ」と無愛想に渡された、何かの花の模様が消えかかったプラスチックの食器に盛られた、ほとんど具の入っていないカレーライスまでその時とそっくりだった。

「早く食べるっ」愛美理がせかす。

「はいはい」

 結局専門学校は一年で辞めた。

 その後は働きもせず、アルバイトもせず、中学を卒業して、自分と同じように働きもアルバイトもせず毎日ただブラブラしていた一番仲の良かった友達とまた付き合い始めた。

 そんなある日「お母さんも一緒に働くから」と、近くのスーパーマーケットのレジのアルバイトを母の里子は勝手に決めてきた。

「やっぱり幸子はママに守られてんだよ」一番仲の良かった友達はタバコの煙を鼻から吐き出しながら言った。

「そんなことないよ。ただウザイだけ」

 と言いながらも幸子は次の日、里子とそのスーパーマーケットへ行き、二人並んで指導員からレジの打ち方を習った。

 やがて、店の常連だった哲夫と知り合い、父一徹の猛反対に遭いながらも結婚、そして愛美理を産み、そして、離婚、した。

 離婚については里子も猛反対した。

 一徹がもし生きていたら、おそらく許してはくれなかっただろう。

 世間体は勿論、最後まで生活保護費の受給を知らなかった里子はもう一度考え直すよう再三幸子に求めたが「愛美理の将来のことを考えたら…」という言葉に結局最後は折れてしまった。

 里子はきっと許してくれる、幸子はそう確信し、また、その通りになった。

「おいちぃー」愛美理が口の周りをカレーだらけにして喜ぶ。

「ママにも少しちょうだい」言うと幸子はカレーのルーを指先ですくい舌の上に垂らした。

 里子が作るカレーの味だった。

 決して料理はうまくはなかった。

 しかし、哲夫と別れ、出戻ってきてからもずっと愛美理と二人のために食事を作ってくれた。その一方、幸子は台所に立つことはほとんどなく、たまに立ってもお湯を沸かしてインスタントラーメンにお湯を注ぐだけだった。

 完全に頼り切っていた、いや依存していた、というよりか、寄生していた。

「ママ泣いちぇるの?」

「ううん。カレーが辛かったの」

「愛美理はじぇんじぇん辛くないよ」

 得意気な顔で言った愛美理を幸子は抱きしめた。

「そうなんだー、愛美理は強いねーっ」

 カレーのルーが付いてない指で瞳の滴を拭ったとき「なんだ、飯食ってんのかよ」と哲夫が戻ってきた。

 黒の礼服からTシャツにジーンズという軽装に変わっていた。

「それ食べたら早く着替えてこいよ。

 空港よりはましかも知らないけど、そこらじゅうにそれらしき人間がいるぞ」

 哲夫が言うようにフェリーに乗船してから、耳にイヤフォンを突っ込んだ目つきの悪い男と何度かすれ違った。

「ちょっと喉渇いたからジュース買ってくるよ」哲夫はボストンバッグをテーブルの上に置いて二人から離れていった。

 大きなボストンバッグだった。

 荷物は最小限にまとめくれ、と言ったわりには・・・と思い、何気なくそのボストンバッグを見ているとファスナーが少しだけ開いていた。自然と手が動き、ファスナーをスーッと滑らした。

 札束だった。

 それも、一つや二つではなかった。二十、いや、三十、いや、もっとある。

 もうこの国には用がないからと生命保険を解約したとは聞いていたが、それでもこれだけの金額になるのだろうか。

 里子の初七日が行われたお寺からフェリー乗り場へ来るタクシーの中で今回の計画を聞かされた。

 まず、フェリーで沖縄まで行き、そこから密漁船で台湾へ行く。そこで台湾人になりすましタイまで飛行機で飛ぶ。あとはタクシーの運転手でもやりながら悠悠自適に残りの人生を過ごす。

 確かに、闇の社会と関わることだからそれなりの費用はかかると思うが、そんなことより、どうして哲夫がそんな大金を手にしたのかそれが幸子には理解できなかった。

 哲夫が缶ジュースを片手に戻ってきた。

 慌ててファスナーを閉める。

「お前、先に着替えてこいよ。愛美理は俺が見とくからさ」

「そ、そうね」

 幸子は立ち上がるとトイレの行先表示を探した。

「食堂を出て左に行くとすぐに突き当たりがあるからそれを左だよ」

「そう。じゃあ、愛美理のことお願いね」言うと幸子は病人のようにヨロヨロと歩を進めた。

「パパのちゅくったカレーのほうがおいち―っ」

 愛美理の声が背中から聞こえてきた

 そういえば、と、幸子は、里子との最後の晩餐になった“お別れ会”で哲夫がカレーを作ってくれたことを思い出した。

「パパ、ふりかけかけてぇ」

 ふりかけ?

「おばあちゃんのカレーにかけてたでちょ」

 幸子が振り返ると、哲夫が必死の形相で愛美理の口を、しーーーっと人差し指を立てて押さえつけている姿が見えた。


第六章

「はーい、カオルちゃんはこのコアラの形をした石鹸と、個人的に頼まれた口紅ねっ。これ見つけんのん大変やったんやで」

「すいません、無理言っちゃって」カオルが有名ブランドのロゴの入った袋を受け取った。

「次、エミちゃんは、やっぱりこのコアラの石鹸、この石鹸無茶苦茶安かってん。

 いかにも“オーストラリア”って感じでええやろ。団体で餞別くれた人用に大量に買うてきてん。あと、頼まれてたマニキュアね。これも結構探してんでぇ」

「すいません」と言いながらエミは清からさっきカオルが受け取ったのとは違うブランドのロゴが入った袋を受け取った。

「ええねん、ええねん。カオルちゃんとエミちゃんにはいつもお世話になってるから。それよりもっとすごいお土産があるねん。これはカオルちゃんとエミちゃん二人だけへの限定のお土産やでぇ」

「なんなんですか?」カオルとエミが声を合わせて聞いた。

「それでは」と言いながら清は二人に白い小さな箱を差し出した。

「家宝にしてな。あと、嫁入りするときは絶対に持っていくこと。それと死ぬ時は棺桶に必ず入れてもらうように早いうちから遺言を書いておくこと」

 二人は一瞬、えっ?という顔をした後、箱の蓋をそっと開けた。

 中からは白いマグカップが出てきた。

 暫く二人はそのマグカップを眺めていたが、やがてギャーーーッハッハッハッ!!と地獄の底から響きわたってくるような笑い声をオフィスに響かせた。

「こらっ、自分ら笑いすぎやって」

「だ、だって、この作り笑顔・・・」カオルとエミは腹を抱えてマグカップを指差した。

「しゃあないんや。笑わなシャッター押してくれへんねんから」

「これ、わざわざお金を払って作ったんですか?」カオルが目の涙を拭いながら清に聞いた。

「そんなわけないやん。全部セットになってんねん。コアラ抱っこしたらマグカップが漏れなく付いてくるってやつやん」

 二人がまだ笑いに体を震わせながら手にしているマグカップには、初めてテレビのCMに出るスポーツ選手が作る、とってつけたような笑顔を浮かべた清と、同じような笑顔でコアラを抱っこしている紘子が二人並んでプリントされていた。

「一生の不覚や。いや、汚点や。君ら、どう処分しようと勝手やけど、間違っても今日の帰りしなに駅のゴミ箱に捨てんのだけはやめてくれな。誰の目に触れるかわからへんから。

 どうしても処分に困った時はブロックつけて東京湾に沈めてくれ」

 清のくだらい冗談にカオルとエミが声をあげて笑っていると「楽しそうじゃん」と隣の部署の佐藤が三人の輪に入ってきた。

 佐藤は清と同期入社だったがすでに結婚していて子供も二人いた。

「どうだった、子作りツアーは?」

「大変やったわ」

「そんなにやりまくったのか?」

「佐藤さん」カオルが言いながら佐藤の肩を突っついた。

「女性の前で露骨な表現するのはセクハラになっちゃうんですよ」

「だってしょうがないじゃん。明かに、わざわざオーストラリアまで行って子供作ってきまーすっていうツアーなんだから」

「いや、ほんまに佐藤の言う通りやねん。首からコウノトリかなんか訳の分からんぬいぐるみぶら下げさせられて、これから頑張ってやってきまーすって、ええ恥さらしやったわ。

 せやけど、俺が大変やったっていうのはそういう意味じゃなくて、さあ、離陸やいう時に急に俺らの横に座っとったおっさんとおばはんが立ち上がってやな、おっさんは機首の方に向かってずんずんと歩いて行くわ、おばはんの方は、ある男と女の前に仁王立ちになるわ、それで暫くしてから“只今緊急事態が発生いたしました。離陸は当分の間見合わせます”ってアナウンスが流れて。中には機体が爆発でもすんのかと勘違いして、シートベルトはずして走り出す乗客もいてもうパニックや。

 結局、全員飛行機から降ろされてやなぁ、持ち込んだ荷物も全部降ろして再検査や。

 あとでわかってんけど、俺らの隣におったおっさんとおばはんはどうも刑事で、おばはんに目の前で仁王立ちされた男と女が他人の金盗んで国外逃亡しようとしてたみたいやわ。

 おかげで出発が十二時間遅れて、楽しみにしてたタップダンスショーは見られへんわ、ディナー食べそびれてホテルの部屋でカンガルーかワニか訳のわからん肉の挟まった冷たいサンドウィッチ食べさせられるわ、おまけに次の朝、前の日に行かれへんかったコアラ見に行くから言うて朝の四時に起こされて。

 まだ誰もおらへんホテルのロビーに、首から訳の分らんぬいぐるみぶら下げた日本人の団体見てフロントの人ら眼丸くしてたわ。

 やっぱり日本人はクレイジーやと思ったん違うか。

 ダメ押しはアホな添乗員や。

 コアラのおる動物園に着くや否や、いきなり小さなラジカセ取り出して“こんにちは赤ちゃんっ”て訳の分らん歌流し始めて、ほっぺた真っ赤っ赤な現地のガイドのおっちゃんも固まってたわ。

 朝の早うから、訳の分らんぬいぐるみ首からぶら下げて、訳の分らん音楽流して練り歩く表情のない日本人たち・・・オゥっ東洋の小さな島国JAPANっ、オゥっミステリアスっ!!」

「だけど、コウノトリはやってきそうなんだろ?」佐藤は言ってカオルとエミの顔を見た。

「それどころやなかったって、ほんまに。コアラ見たと思ったら今度はワニや。ワニの歯磨き終わったら、今度は長い間バスに揺られて“なんとかロック”言うの見に行って。

 ホテルに戻ってきて晩御飯食べたらもうバタンキューや」

「だけど、疲れ“なんとか”っていうじゃないか」

「ヤダーッ、佐藤さん最低―っ」エミが顔を赤くして言った。

「いや、ほんまにまだや。向こうがまだ欲しない言うてんねん。一年間の猶予もあるし」清は少し真面目な顔で佐藤に言った。

「一年なんかあっという間だぞ。うちは三人目の仕込み完了したから」

「マジッ?」

「ああ。

 来年から子供たちの学費も病院代も全部タダだ。その分俺のこずかいが増えるんだよ。

 子守党バンザイだ。コウノトリの呼び寄せ方ならいつでも教えてやるぞ。なんなら奥さんと一緒にうちに来いよ。わかりやすく、具体的に説明してやるよ」言うと佐藤はハハハと笑いながら自分の部署に戻っていった。

「できるとこは手繋ぐだけでできるっていうからなぁ・・」

「なに感心しているんですか」カオルが清に聞いた。

「いや、佐藤の話聞いてたらウチもちょっとは急がなあかんのかなぁと思って」

「そんなに焦ってもしょうがないんじゃないですか。来る時は自然にコウノトリもやってきますよ」カオルが言った。

「そんなこと言うてるカオルちゃんもエミちゃんも、独身税までそんなに時間ないんと違うの?」

「セクハラーっ」二人が声を合わせた。

「セクハラ違うやんか。早く結婚して、可愛い子供をたくさん産んでねっていう子守党に代わってのお願いやんか」

「だって、この間まで『最近はどこのお客さんへ行っても若い女性社員がいない。お茶を出してくれるのは、みんな、おばちゃんばっかりだ。うちはカオルちゃんとエミちゃんの若い子が二人もいるから恵まれている』って言ってたじゃないですか」

「それはこの間まで。今は新しい法律が施行されたから状況がまた変わってきてん」

 始業を知らせるチャイムがフロアーに流れた。

「ところで課長は?」

「えっ!?」カオルとエミは声を合わせて清の顔を見た。

「知らないんですか?」エミが言った。

「何が?」

「捕まったんです」カオルが冷静に言った。

「えっ? 捕まったって課長が?」

「バツイチだったんです」

「えーーーっ、嘘やろっ!!

 娘さんまだ小さいけど、結婚が遅かったからって俺には言うてたぞ」

「課長だけじゃないんですよ」カオルが声を落としていった。

「他にも誰かおんのん?」

「会長です」

 エミの言葉に清は「マジーーーーっ!!」とフロアー全体に響き渡る声を発した。

「本当です。奥様と結婚されて一番上のお子様がお腹の中に宿っている時に、老舗の料亭の女将さんと懇ろになって・・・」

「そんなん、もう三十年も四十年も前の話やろ?」

「そうなんです」言いながらエミは自分たちの話声が漏れていないか周りを見渡した。「籍も入れていない、いわゆる隠し子なんですけど、会長自らが申し出られたみたいで」

「そんなん黙ってたらわからへんかったのに」

「今まで黙っていた奥様への償いですって」

「ほんまにぃ・・・あれだけ仲睦まじい夫婦やったのに信じられへんよなぁ」

 清が勤める一部上場企業の電子機器メーカーの会長夫婦は業界内だけでなく経済界でも有名なおしどり夫婦だった。

 度々、経済紙にも二人仲良く登場し“夫婦の長持ちする秘訣”などを語っていた。

 また、今回の件も含めて、曲がったことが大嫌いで、かつ、男気な性格で、自分の会社のトップとしてではなく、一人の人間、いや、一人の男として清は会長を尊敬していた。

「芸能人はようさんおれへんようになって、すっきりしてんけど、一般の人間がこんなにようさん持っていかれるとは思ってもみいへんかったわ。

 離婚も“不倫”に続いて日本の一つの文化になってしもったってことやなぁ」

 そして清が「はーっ」とため息をついて席に着こうとしたとき「えーっ!!」と断末魔のような男の声がフロアー全体にこだました。

 声の方に清が顔を向けると、そこには受話器を手にして立っている佐藤がいた。

「三つ子――っ!!

 そ、そりゃそうだけど、も、もちろん俺も手伝うけどさぁ、せっかくこずかい増えても、そ、それじゃあ、使う暇なんかぜんぜんないじゃん!!」

 言ったまま佐藤は受話器を手にしてその場に立ち尽くしてしまった。


         ②

 消灯の時間が近付いてきた。

「毎日毎日精が出るねぇ」源さんだった。

「いえいえ。大したこと書いてないんで」竹男は丸めた頭を撫でながら言った。

「だけど、良く毎日書くネタがあるよなぁ。

 朝起きて点呼取られてメシ食って、刑務が始まったと思ったら終わって、またメシ食ってたまに風呂に入って、また点呼取られてはいお休み。その繰り返しだけだろ」

「いえ。ほんとに大したこと書いてないですから。

 その日にしたこと、思ったことをただ書いているだけですから」

「まぁ、家で待ってくれてる奥さんがいるからなぁ」

 竹男は源さんに妻のことを詳しく話していなかった。

「源さんだって待ってくれている人がいるんでしょ」

「昔はいたけど、ここと外を往復するようになってからは周りの人間はみんな逃げていなくなっちゃったよ。明日の出所も一人寂しくだよ」

 竹男はどう言っていいのか分からず、少しだけ微笑んで、そうなんですか、と言葉は発せず首だけを二度縦に振った。

「まあ、またすぐに戻ってくるけどな」源さんは苦笑い交じりに言った。「ここが一番だよ。俺にとっちゃぁ第二の故郷だ。刑務は確かにだんだん体にきつくなってきてるけど、メシはちゃんと毎日食べさせてもらえるし、第一余計なことを喋らなくていい」

 源さんがどうしてここに入ったのかも、いったい歳がいくつなのかも、竹男は全く知らなかったというか、聞いたこともなかったし、源さんの口からも聞いたことがなかった。

「そうだ兄さん。今度訳のわかんない法律ができて、世の中大変になってるみたいだけど、結婚をうまく偽装させてくれるところを知らないか?」

 竹男がどうしてここに入ってきたのかもちろん源さんは知らなかった。

「あと、そうだ、子供を安く売ってくれて、ちゃんと俺の子供だって戸籍を偽造してくれるところも」

 竹男は鉛筆を握っている右手の拳にあの男の頬の感触が蘇ってくるのを覚えた。

 警察と相手側の弁護士は示談を進めたが竹男は断り、ここに入った。

 自分がやったことは絶対に間違っていなかった。それをあの男に知らしめしたかった。

「おい、兄さん。どこか心当たりあるのかよ」

「あっ、いえ、すいません」

「無銭飲食じゃぁ、再犯だといってもすぐに出されちゃうからな。

実は結婚していました、子供もいました、そして、離婚しました。それなら胸張ってここに戻ってこれるからな。おまけに三年だ。三年あれば、俺もゆっくりと腰を据えてここで暮らせるよ」

「子供はどうするんですか?」

「何とかタウンで預かってくれるんだろ。なぁに、子供なんて親がいなくてもちゃんと育つよ。俺だって、親父の顔なんかほとんど覚えてねえけど、こうやってちゃんと育ってる、まあ、こんなとこに入っている人間がちゃんと育ってるというのはちょっとおかしいけどなぁ」

 源さんは自分のつまらない冗談に笑ったが竹男は笑わなかった。代わりに「うち、子供がいないんですよ」とポツリと吐いた。

「そうか。じゃあ、早く作んないとな。訳のわかんねぇ税金払うのはバカらしいぜ」

「いえ。作ろうとしているんですけど、できないんです。欲しくて欲しくてたまらないんですけど、どうしてもできないんです」

「ほぅ、そうなのか」

「源さん」

「なんだい?」

「さっき、源さん、僕の妻が家で待っていると言いましたけど、実は家にはいないんです」

「いない?」

「僕と同じ、塀の中にいるんです」

「えーっ、一体どういうことだよ?」

「どうしても子供が欲しくて、お金で、生まれたばかりの赤ちゃんを買おうとして・・・」

「なんだよ。やっぱりそういった闇の商売があるんじゃぁねえのかよ。悪いけど、今書いている手紙で奥さんに聞いといてくれないか、だいたいの場所と連絡先を。それで、今度、おいら兄さんの面会にくるからよ、その時にこっそりと教えてくれないか」

「源さん」

「なんだよ」

「それ、本気で言ってるんですか?」

「当たり前だよ。三年間もここにいられるんだぞ。俺だってこの歳だから多少の蓄えはあるから、それを全部吐き出してでもやるつもりだよ」

「源さん」

「なんだよ、何度も」

「子供はどうなるんですか」竹男の声のトーンがさっきより少し大きくなった。

「さっきも言ったじゃねぇか。何とかタウンてとこで預かってくれるんだろ」

「そんなことじゃないんだーーっ!!」

 竹男の怒声は壁に当たり、天井に当たり、狭い部屋の中を弾け回った。

「おいおい、兄さん、何興奮してんだよっ」

 寝支度を始めていたもう一人の住人も何事かと動かしていた手を止めた。

「源さん、僕はそんなことを聞いているんじゃないんですっ。子供の将来はどうなるんですかって聞いているんです。自分の子供にハンディキャップを負わせてどうするんですかっ」ここで竹男は大きく息を吸い込みそして言葉とともに思いっきり吐き出した。

「それが大人の勝手だっていうんだーーっっ!!」

 竹男の叫びは部屋の扉を突き破った。

 すぐに刑務官がやってきた。

「どうしたんだっ!」二人やってきた刑務官のうち背の低い方が声を上げた。

「いやぁ、やっこさんなにか機嫌が悪いみたいで。おいら、明日、待ちに待ったシャバへ出られる日だから今日は先にいい夢でも見させてもらいますか」言うと源さんは手早く薄っぺらな布団を敷き、竹男と二人の刑務官に背を向けて体を丸めた。

「どうしたんだ、俳優?」背の高い方の刑務官が竹男に聞いた。

 朝風凪の夫を殴り倒してここに入ってきた竹男を、刑務官たちは番号では呼ばず、「俳優」と呼んだ。

「ちょっと興奮しちゃって」言いながら竹男は二人の刑務官に頭を下げた。

「今度やったら独居房だからな」言い残すと二人の刑務官は部屋から出ていった。

 ずっと握りしめていた鉛筆を放すと竹男は低い天井を見上げた。

 そこにはしょげた直子の顔が映った。

 顔を横に向けると、源さんが嘘寝かどうか、幽かな寝息を立てて体を微妙に震わせていた。

 竹男はもう一度鉛筆を握った。

「消灯っ」

 突然、天井から暗闇が降ってきた。

 何も書いていない便箋を手繰り寄せると、竹男は呟きながら鉛筆を滑らせた。

「こ ど も  つ く ろ う な 」


         ③

 やっと寝てくれた。

抱っこをして三十分は経っていた。

 起きないように、そっとからみついた腕をほどくと、黒く丸い大きなよだれの染みがトレーナーの肩口にポツリとできていた。

 掛け布団をかけ、汗でおでこにペタリと張り付いた前髪をそっとかきあげてあげる。

 あどけない寝顔を見ていると、末広未沙は泣きそうになった。

 ママに会いたいんだよね、そう呟くのが日課になっていた。

「愛美理ちゃん、寝た?」チーフの斉藤友子に声を掛けられる。

「ええ、やっと」

 チャイルドタウンで働くようになって一カ月が過ぎた。

 毎日毎日たくさんの子供が送り込まれてくる。

 チーフの話によると、ここのチャイルドタウンだけでも、千人は優に超えているそうだ。

「悪いけど今日は帰らせてね。上も下も明日遠足だからお弁当作んなきゃダメなの」言い残すとチーフは駆け足で部屋を出ていった。

“上も下も”の“上”は四年生の女の子“下”は二年生の男の子。

 今度の新しい法律でもう一人作ろうかってチーフ迷っていたっけ。

 食堂に入ると自分の母親と同じくらいの歳のおばさんが二人向かい合って遅い夕食を取っていた。

 チャイルドタウンで若い女性を見ることはほとんどなかった。

 未沙は二年前に私立の外語大学を卒業した。専攻は中国語だった。中国語を話せるとこれからの世の中は就職にしろなんにしろ有利だからと、高校時代から一心不乱に勉学に勤しみ、見事に難関の外国語大学、それも一番競争率の高かった中国語学科に現役で合格した。

 そして、入学してからもアルバイトなどは一切せず勉学に勤しみ、四回生になったころには、あらゆる分野の専門用語をほぼ完璧にマスターしていた。

 ところが、いざ、就職活動を始めると、未沙のそんな苦労に対して日本の企業はあかんべーっと赤く大きく肥大した舌を出した。

 慢性化していた、新卒者を含めた若年層の就職難は予想以上にひどかった。

 一時は就職浪人も考えたが、高い授業料を四年間払い続けてくれた親にもう負担はかけたくなかったので、泣く泣く大学の就職課の扉を叩いた。

「ここなら間違いないです」

 紹介されたのは老人介護ホームだった。

 何のためにこれまで頑張ってきたのか・・・と言って単身で海外へ渡り外国人に交じってバリバリ働くまでの勇気はなかった。

 しょうがなく、卒業するまでの間に介護ヘルパーの資格を取り、桜散る学び舎を巣立った後、老人介護ホームの門をくぐることになった。

 お揃いのピンクのジャージを着せられ、毎日毎日老人の世話をした。

 職場にはチャイルドタウンとは違い、自分と同じ若い子ばかりが働いていた。

 聞くと「ここしかなかった」。

 同じ返事ばかりが返ってきた、

 仕事自体、やりがいがないことはなかった。おじいさんやおばあさんに「ありがとうね」と言われると、この仕事についてよかった、と何度か思ったことはあった。

 しかし、なにか魚の骨がずっと喉に引っかかっているような感じが続いた。

 車いすにおじいさんを乗せて横断歩道を渡っていると、スーツを着た同じ年くらいの女性が通りすがりに、ピンクのジャージを着た自分に憐れみの目を向けていく。

 私は本当はこんなことをしている人間じゃないのよ・・・。

 そんな夜は決まって、同僚の女の子たちと居酒屋で呑めない酒を呑み、カラオケボックスで魂の叫びを皆の前で披露した。

 何度も、今日でやめよう、今日で本当にやめよう、と思った。しかし、やめた後のことを考えると、上司に相談する勇気は、カメが首をすくめるように心の奥に引っ込んでいった。

 そんな悶々とした日々が続く中、子守党が政権を取った。改めて未沙はマニフェストを読んでみた。独身税・・・子無し税・・・。

“チャンス!”

 未沙、いや、未沙だけではない、老人介護ホームで働く若い女の子みんながそう思った。

 各企業のオフィスから、へたな幹部候補生の新入社員よりたくさんの給料をもらっている“お局さん”がいなくなる。つまらない男より仕事を選んだいわゆる“キャリア”の女性社員がいなくなる。結婚をしていても、独身の時の生活レベルを落としたくないからといって子供は作らず、家事は夫と完全に分担し、そのくせ夫の性は名乗らず、年に二回の海外旅行に、一回は夫と、もう一回は学生時代の友人と行き、そんなことなら結婚しなければいいんじゃないかと思う“不思議な”既婚女性社員もいなくなる。

 しかし、またしても日本の企業は未沙たちの思惑に対してあかんベーっと赤く大きく肥大した舌をさらけ出した。

 企業は、子供の手が離れた“元社員”を契約社員として雇ったのだった。

 平成大不況をイヤというほど経験した日本の企業は、某自動車メーカーが招いた外国人社長が打った“リストラ”という手が功を奏した(のちに大失敗だったというのが判明したが・・・)幻想にいまだ囚われていて「人」に金をかけることを悪として捉えていた。

 確かに「人」に金をかけないことは即効性があり、企業の業績は数字だけをみると飛躍的に上昇するが、実際にその企業で働いている従業員はやる気を失くし、しいては国全体が元気を失くした。

 企業の経営者=社長は、そんなことはわかっていた。

 政府が「景気は回復しつつある」と言ってもそんなことは嘘だということは百も承知だった。

 しかし、それを声にする勇気、いや、それ以前に、絶対に曲げない信念を持って企業経営に携わっていた社長が、日本の企業の中にはほとんどいなかった。

 未沙はひどく落ち込んだ。

 これまで、一度も重たいと思ったことのないおじいさんやおばあさんの体が石のように重く感じられた。

 同僚とカラオケボックスに行って声を張り上げることも、ただ虚しく感じるだけになってしまった。

 そんなある日の朝、眠い目を擦ってマンションのエントランスに取りに行った朝刊を拡げると、紙面一面を占拠した“募集”という赤く大きな文字が目に止まった。

 広告の主は、政府、だった。

 チャイルドタウンーー子主党のマニフェストに載っていたっけ。

 出勤すると職場はその広告の話で持ちきりだった。

「どうする?」

 ピンクのジャージに腕を通しながら未沙は周りのみんなに聞いた。

「いいことはいいんだけどね・・・」同僚の一人がこぼした。

 確かに、給料は今より五割もアップする。

「だけど、ほとんど住み込みみたいだもんねぇ・・・」と同僚が続ける。

 週五日の勤務のうち三日が夜勤だった。

「未沙はどうするの?」別の同僚が聞いた。

「うーん、ちょっと迷ってるんだけど・・」

 嘘だった。

 新聞の広告を見た後、すぐに政府のホームページを開け、履歴書と職務経歴書を送付していた。

 それから一週間後、面接を受けた。

 面接官に受験の理由を聞かれた。

「今の仕事に、やりがいを感じなくて」

 二人いた女性の面接官のうち、年配の方、もう六十歳に届いてそうな感じの女性の目がキラリと光った。

「人をお世話するということでは同じような仕事です。

 夜勤もありますし条件的にはキツくなると思うんですけど大丈夫ですか?」

「大丈夫です」サラリと未沙は言った。

「子供には夢があります。それに私たちが世話をしてあげた子供たちが将来輝いて生きて行ってくれると思うと」

「じゃあ、お年寄りには輝く未来がないっていうこと?」年配の面接官は掛けていた眼鏡を外した。

「いえ、そういう意味ではないんですけど」

「今のあなた方が安心して暮らせるのも、お年寄りの皆さんが戦争に負けて何もかも失くしたこの国を必死の思いでいい国にしようとご尽力頂いたおかげなんですよ」

(いい国?どこがいい国なの?努力した若い人間が報われない。それのどこがいい国なの?)

「それはわかっています。ですけど・・・」

「先に亡くなっていく人間には労を尽くさないということなの?」

「違います。

 なんて言ったらいいのか、自分のやってきたことが無くなってしまうっていうのか見えなくなってしまうというのか・・・子供達はまだまだこれからがありますよね。私のやったことが残ります、ずっと自分のやってきたことが・・・」

「もう結構です」年配の面接官の声で未沙は部屋を出た。

 落ちたな、と思っていたら二週間後、採用決定の通知が来た。

 泣き声が聞こえた。

 愛美理ちゃんだとすぐにわかった。

 ほとんど手をつけていない日替定食を大きな自動食器洗い機の前の溝に流すと、自分のことを待ってくれている愛美理ちゃん、いや、自分の大きな未来に向かって未沙は駆けて行った。


         ④

 冷たい麦茶がこんなに美味しいと思ったのはいつ以来だろうか。

 子供の頃、炎天下の中を一日中友達と駆けずり回り、家に帰ると「ちゃんと手を洗ったのっ!」と言う母の怒鳴り声を聞きながら冷蔵庫の中から冷えた麦茶を取り出しコップに注ぎ喉に流し込んだときのあの快感・・・。

 そうだ、その母は元気でやっているのだろうか・・・俊介はチャイルドタウンでちゃんとみんなと仲良くやっているのだろうか・・・。

 やって来たバスに乗り込む。

 大手電機メーカーの組み立てラインに立つようになって一カ月が過ぎた。

 初めの一週間、この先いったいどうなるのか、と思った。

 作業=刑務を終え帰りのバスに乗り込むとき、わずか三段のステップを上るのに、前を行く人に手を借りなければいけなかった。食事中に箸を銜えたまま眠ってしまい、心臓麻痺でも起こしたのかと周りを騒然とさせたこともあった。用便を足した時、手に力がほとんど入らず下着を汚してしまい、刑務官から注意を受けたこともあった。

 しかし今は違った。

 バスの席に着くときも「よいしょっ」と言わなくなった。

 体が完全に生まれ変わっていた。

 ニコチンとアルコールが体に入らなくなり、適度の運動=刑務をこなし、規則正しい生活を繰り返す。

 朝食を食べるようになったのは高校生以来だった。

 そんなことより、自分と日本国首相である光田進とで作った法律に、自ら屈することは絶対に許されなかった。

 バスが動き始めた。

「では、明日の連絡をしておきます」刑務官が事務的な口調で話し始めた。「朝食の後、七時に出発します」明日は刑務は休みだった。代わりに、隣町の刑務所とソフトボールの親善試合があった。「相手は君たちと違って“普通”の服役囚だ」

 刑務官のくだらない冗談に、私語厳禁のバスの中で、真と同房のタツヤという、十八歳で“出来ちゃった結婚”して十九歳で一人息子がいながら離婚した今二十歳の耳にピアスの穴の跡をたくさん残した少年が「それまずいんじゃないですか。凶悪犯とかいるんじゃないの」と言葉を吐いた。

「いますよ」刑務官がさらりと言った。

「いますよ、って、ソフトボールだから金属バットなんかあるんでしょ」タツヤは声を高めていった。

「大丈夫。ちゃんとヘルメットも用意してあるから」

 刑務官の言葉に、バスの中に笑いが起こった。

 人の生の笑い声を聞いたのは久しぶりだなぁと真は思った。

 刑務所に戻ると、今はすっかり抵抗が無くなった麦飯をお腹に放り込み、二日ぶりの湯に触れると、消灯時間までの間のわずかな自由時間に浸った。

 雑居房でテレビに見入る。

 周りの人間は、本を読んだり、手紙をしたためたり、将棋や碁を指している者もいる。

“ご心配いりません”

 光田進の懐かしい声だった。

“なにかが全く違うものに生まれ変わる時、なにかと支障が出るのは当然のことです”少しこけた頬を微妙に動かしながら光田進がテレビ画面の向こうから語りかける。

 新しい法律が施行されると日本全体が浮足立った。

 会社から突然部長や課長や同僚がいなくなり、昨日まで一緒に遊んでいた学校の友達が突然チャイルドタウンへ連れて行かれた。

“新しい法律の施行から時が経過し、少し落ち着いてきました。国民の皆さん、必ずこの国は良くなります。それを信じて、皆さん一人ひとりの力を合わせて頑張っていきましょう“

 法律が施行されてまず初めのいい兆候として、真たちが役務として勤めるメーカーが、中国に出て行っていた生産工場を撤収し、休眠していた日本国内の工場を再稼働させ始めたことだった。結果、死んでいた町が蘇った。シャッター通りと言われていた商店街が次々と息を吹き返した。

 ただし、中国政府は“これまで安価な労働力を提供してきたのに事情が変わったからと言って手のひらを返したかのような今日の対応は非常に遺憾である”とコメントを発表した。

 光田進も“唯一の懸念材料だ”と、三日前の記者団の質問に答えていた。

「先生、本当にこのおっさんが言っているようにこの国は良くなるんですか?」タツヤが聞いてきた。

「良くなるよ。これまでよりは絶対に良くなるよ、間違いない」

「本当ですかぁ、まあ、先生が言うんだから間違いないんでしょうけど・・・」

 真のことを“先生”と呼ぶのはタツヤ一人だけだった。

 周りの人間は、看守を含め、真が誰なのかを皆知っていたが“先生”と呼ぶどころかほとんど口もきかなかった。

 タツヤのあどけなさと正直な性格のなせる業だった。

「だけど、ここを出た後、どうなるのかすごく不安なんですよ。

 先生はちゃんと戻れる場所があるからいいですけど、俺なんか中学しか出てないし、それに、一応、前科一犯になるわけだから就職って言ったってちゃんとできるんすかね」

「大丈夫だよ。そういったこともちゃんと考えて今度の法律は作ってあるから。

 確かに、小さいわが子に迷惑をかけた罰として刑務所に入れられ、刑務と言って、一般企業の製造ラインに立って、従業員から白い目で見られ、ある種、さらし者のような状態になってるけど、ちゃんと三年間の服役を終えると、社会に戻ってもハンディがないように各企業には指導してあるから。それでも、どうしても就職できない場合はチャイルドタウンか、俺たちが今お世話になっている民間の刑務所にいけばいい」

 新しい法律が施行されて、子供が十八歳に満たないうちに離婚した経歴のある人間が六百万人刑務所に収監され、それに伴って二百万人を超える子供がチャイルドタウンに収容された。

 自ずと、各都道府県に建設された民間の刑務所とチャイルドタウンは皆人手不足に悩まされた。

「もし、チャイルドタウンで働くことになったら、俺の子供が入っているところへ配属してもらえるんですか?」

「それはできない。お互いに甘えが出てしまうから」

「だけどさぁ、先生、どうしても俺はあいつの顔が見たいんすよ。確かに、あいつには寂しい思いをさせて悪かったとは思ってるんですけど、あいつはまぎれもなく俺の子供なんですよ。それは絶対に間違いないんです」タツヤは少し目を潤ませて言った。

「それは、僕も含めて、ここに入っている人間みんな一緒だよ。自分の子供なんだから可愛くないわけがない。だけど、俺たちは子供の都合なんて何も考えずに勝手に離婚したんだ。子供達は、自分の気持ちをまだうまく表現できないから何も言わないけど、かなりショックを受けているはずだよ。急に、自分のお父さんやお母さんが目の前からいなくなってしまうんだから。

 そんなつらい思いをわが子にさせた罪に対する罰なんだよ、少しきつい言い方だけど」

「それはなんとなくわかるんですよ。だけど、だけど、あいつはまだ二歳なんですよ。

 十八になるまで会えないって、ちょっときつすぎると思うし、それに、マリアの野郎、あっ、マリアって別れた嫁のことなんだけど、あ、そうだ、先生っていうか他の誰にも言ってなかったんだけど、俺たちの離婚の原因はあいつの浮気なんですよ。だから、タツマ、タツマって俺の子供の名前、俺のタツヤの”タツ”とマリアの“マ”をとって、タ・ツ・マ・って名付けたんですけど、あいつの顔をマリアが見に行くわけないんですよ。だから、俺が見に行ってあげないとタツマは・・・タツマは・・・」言うと達也の瞳からはとうとう涙がこぼれ始めた。

「ずっと会えないわけじゃないじゃないか。

 三年間頑張って、ここを出ると、毎週一回面会ができるし、月に一回だけど、二泊三日の外泊もできる」言いながら真は俊介との別れの夜の光景を思い出した。

「さぁ、明日早いからもう寝よう」

 タツヤに気づかれないよう濡れた瞳を素早く肘で拭うと、これまでの房の人間の全ての感情を吸って冷たくなった薄っぺらな敷布団を、ささくれ立った畳の上に真は拡げた。

 

翌朝、タツヤは何事もなかったかのような顔で、朝食のあんぱんを「何だ、試合に勝つようにって“カツ丼”かと思ってたのに」と言いながら美味しそうにパクつき、刑務官から私語を注意された。

 罪を犯して収監され、不自由な生活を強いられることはしょうがないことだったが、何をおいても塀の中では“甘み“が絶対的に不足していた。嘘か本当か、昔、ある刑務所で、朝食に出たあんぱんを巡って殺しあいの喧嘩があったと本で読んだことがあった。

「先生、今日は絶対に勝ちましょうね」移動のバスに乗り込むと、タツヤは私語がばれないように、真の方に体を傾け、靴の紐を結ぶふりをして声を掛けてきた。

「活躍すると、ひょっとしたら“元三冠王”にスカウトされるかもしれないし。

 まぁ、先生はもう歳だから無理だろうけど、俺は三年たってもまだ二十三だからまだまだチャンスありますからね」

 くだらないことを言うな、と苦笑いを真はタツヤに向けた。

 タツヤが言った“元三冠王”とは、一番後ろの横つながりの席で一人目をつぶって座っている、髪の少し薄い男だった。

 現役時代、二度の三冠王に輝き、独身のまま引退すると、チームに残り、二年後監督に就任すると同時に元グラビアアイドルと結婚して世間を騒がせた。

 しかし、三年後、元グラビアアイドルの妻の浮気が原因で離婚し、もう一度世間を騒がせた。

 子供がいたとは真は知らなかった。

 バスのエンジンが止まった。

 グラウンドではすでに相手チームが粛々とキャッチボールを行っていた。

「軽くキャッチボールを行った後、すぐに試合を始める。試合は、五回もしくは一時間で終了とする。昼食の後、別のチームともう一試合して今日の“刑務”は終了とする」

 同行してきた刑務官のつまらない冗談に皆が笑うと、何十年かぶりにグラブに手を通した。

 タツヤの球が速い。

「おいっ、もう少し手加減してくれよ」

「何言ってんすか、俺は真剣にプロ入りを狙ってるんですからね」

 試合が始まった。

 一番バッターに抜擢されたタツヤは高校球児ばりに相手ピッチャーに金属バットの先を突き向け「よしっこいーっ」と気合を入れた。

 しかし、このタツヤの気合いに気圧されたわけではないが、相手ピッチャーの投げた球が四球ともホームベースに届かなかった。

「ちょっとちょっと。フォアーボールじゃあ俺の豪打が披露できないじゃない」タツヤは文句タラタラに一塁ベースへと歩いた。

 相手ピッチャーは腕をグルグルと回して次のバッターに向かったが、努力の甲斐もなく、球はホームベースを前にしてグラウンドにキスをした。

「おいおい、今日中に試合終わるのかよ」

 足を引きずりながら二塁ベースにたどりついたタツヤに「少し言葉を慎めっ」と同行してきた刑務官が声を上げると同時に相手ピッチャーがタツヤの方にクルリと顔を向けた。

 すると、帽子の下に髪を短く刈った後頭部が現れた。

 うっすらと雪が積もったような、いわゆる胡麻塩頭だった。

 帽子を目深に被っていてわからなかったが、齢は優に六十を超えていた。

 グラウンドに散らばっている他のナインをみると皆同じようなもので、平均年齢は自分たちのチームよりは十どころか二十は上だった。

 結局、三番バッターもフォアボールで一塁ベースへ歩き、そこでピッチャーは交代となった。

 ところが、次のピッチャーもホームベースに球を届かせるのが精一杯で、二球目に投じた、ハエが止まるのも難しいくらい遅い球を四番バッターの“元三冠王”が痛打し、塁を埋めていた三人のランナー全員がホームベースに帰ってきた。

 そして、一回の表の攻撃が終わったときには、手作りのスコアーボードにはラグビーの試合のような数字が刻まれていた。

「これじゃあ、俺の良さが際立たないじゃないか」とタツヤはぶつぶつ言いながら自分の守備位置に着いたが、あっという間に相手チームの攻撃は終わり、ベンチに戻るとすぐにこの日四回目のバッターボックスに立った。

「ソフトボールじゃあ話にならないから、俺たちの攻撃のときだけピンポン玉投げてよ」

 グラウンドに散らばっている相手チームもタツヤの冗談に皆、肩を震わせた。

 結局、二回の表の攻撃の途中で制限時間の一時間を使い切り、ラグビーの試合でも大差と言われるくらいの点差が開き試合は終わった。

「なんか、勝ったんだけど、へんなストレスが溜まったよなぁ」タツヤは昼食のサンドウィッチを頬張りながら言った。

「いいじゃないか。勝った負けたは問題じゃないんだから。久しぶりに、こうやって太陽の下で体を動かして、日頃の・・・」

「先生さぁ、こんなこと言っちゃあ何なんだけど、そういったところが、向こう側の人なんだよなぁ」

「向こう側ってどういう意味だよ」真は語気を強めてタツヤに聞いた。

「なんか、こう、建前っていうかさぁ、自分が本当に思っていない言葉をどこからかすっと持ってきてさらっと話しちゃうんだから」

「そんなことはないよ。俺は本当にさぁ、みんながこうやって・・・」

真が全てを話し終える前に笛が鳴った。

「昼食が終わればすぐに始める」同行してきた刑務官だった。「今度の相手はさっきとは違ってかなり強くなるぞ」

「本当ですか?」タツヤが刑務官に聞いた。

「本当だ。その代わり、次の試合に勝てば、今日の夕食に一品おかずを追加するよう俺から所長に交渉してやる」

「追加してやるって、試合に勝ってからカツ食ってもしょうがないし、あ、そうだ、朝飯のあんぱんがいいんじゃないですか。俺たちみんな甘いものには間違いなく飢えてますから」

 皆の笑い声と「口を慎めっ」という笑い顔の刑務官の声が混ざった。

「じゃあ、何としてでも勝つようにみんなで力を合わせて頑張りましょう」真の言葉に皆頷き、やがて試合が始まった。

「ストライック!!」

 相手ピッチャーの投げた球があっという間にキャッチャーミットに吸い込まれた。

「これだよっ、これ、俺が待っていたのはっ」雄叫びを上げた先頭打者のタツヤは次の球を鋭くはじき返した。

 しかし、三遊間を破ったと思ったその打球は、遊撃手が差し出した逆シングルのグラブに収まり、そして間髪いれずに矢となって一塁手めがけて飛んで行った。

「アウトっ!」

 雲で覆われた鈍い空に向かって一塁塁審は握りこぶしを突き上げ、「ウソだろっ!」と一塁ベースを駆け抜けたタツヤは同じ鈍い空を仰いだ。

 次の打者は、ただ茫然と、ホームベースの上を通り過ぎた球を三回見送り役目を終えた。

 そして、その次の打者、真は不安げな顔でバッターボックスに立った。

「あっ!」

 声を上げる間もなく一球目の球はホームベースの上を通過していった。

「先生っ」タツヤだった。「先生にその球を打つのは無理ですよっ。目を瞑ってどうかデッドボールでもってお願いしていると、きっとケツかどこかに球が当たりますよ」

 刑務官に私語を注意されたタツヤだったが、そのタツヤの言葉に動揺したのか、相手ピッチャーが投じた二球目の球は本当に真の尻に突き刺さった。

「あふっ!」

 痛いっ!の代わりに出たわけのわからない言葉に自分でも笑いながら真は一塁へと歩いた。

「あんたっ」タツヤの声だった。「誰にぶつけたのかわかってるの。懲役が延びても知らないよ」

 チームメイトの笑い声と、タツヤを注意する刑務官の怒鳴り声を聞きながら真は一塁ベースにたどりついた。

 相手チームの一塁手が、すいません、と頭を下げた。

「どこがソフトボールだよ。結構痛いじゃないか」

 真が言いながらお尻を擦ると、相手チームの一塁手が少しだけへへっと笑い声を洩らした。

 ?・・ 

真の脳みそが何かに反応した。

「三冠王っ、一発頼みますよっ!」

 タツヤの声で視線をホームベースに戻すと“元三冠王”が金属バットをグルグルと回し打席に立った。

 同時に相手チームの一塁手がパンパンと二度グラブを叩き一塁ベースから離れた。何気なく横顔を見る。

 あっ!

 脳みそが再び反応した。

 カキーンッ!!

“元三冠王”のバットが奏でた金属音が、脳みそが反応した?・・を、真に確かな“記憶”として変換した。

 被告席で、自分が犯した罪に対する反省心などおくびにも出さず、ニヤニヤと笑っていた男。自分がこの世の中で最も大切にしていた、最も愛していた、娘、を殺めた男。

 その男が、今、自分の横にいる。

 真は体の震えを覚えた。

 やや吊りあがった男の目を見る。目を見る。目を見る。目をみる。目を・・目を・・目を・・・。

 あっ!!。

 脳みそがもう一度反応した。

 何かの本で読んだことがあった。

 ある国の特殊部隊が素手で敵を殺す方法―――目に指を突っ込み、突っ込んだ指を脳みそに向かって突き上げ、そして、ほじくる。

 よろよろと男に寄っていく。

 遺体安置所で一人横たわる娘の顔が蘇る。

「先生っ!」

 タツヤの声で我に帰る。

“元三冠王”が一塁ベースのすぐ目の前まで迫ってきている。

 慌てて二塁ベースに向かって駆けたが、滑り込む間もなく、二塁手にタッチアウトされてしまった。

「先生、頼みますよっ」二塁ベースの前で立ち尽くしているとタツヤがグラブを持って駆け寄ってきた。

「悪い悪い」

「先生、何か考え事でもしていたんですか」

「ちょっとな」まだ少し痛みの残っているお尻を擦りながらタツヤからグラブを受け取る。

「なにか、フラフラっと一塁手の方に寄って行ったように見えたんですけど」

「リードしようと思ったら足がもつれちゃって」

「そうですか。それじゃあ、しょうがないですよね。守備の方頼みますよ」

 渡されたグラブを手にはめた。キャッチャーミットだった。

「悪いけどさぁ、キャッチャーだけは勘弁してくれないか」

「えーっ」タツヤは不服そうに言った。「だって先生が、走り回るのは苦手だからって自分から申し出たんですよ」

「わかってるよ。だけど、ほんと申し訳ないけど、どこか、そうだ、あそこと変えてくれないか」言いながら真はライトの守備位置を指差した。「あそこならほとんどボールも飛んでこないだろ」

「しょうがないなぁ」言うとタツヤは既にライトの守備位置に着いていた服役囚に声をかけ、走り寄ってきた彼に事情を説明しキャッチャーミットを渡すと「悪いですねぇ」と言ってホームベースへ走らせた。

「すまない」真はキャッチャーミットよりかなり軽くなったグラブをはめると、タツヤに頭を下げ、ライトの守備位置へ小走りで向かった。

 これで良かったんだ。

もう一度あいつが目の前に現れると、自分でも何をしでかすかわからない、自分を制する自信がなかった。

「プレイっ」球審の声にホームベースを見る。

 なんと“あいつ”がバッターボックスに立っていた。

 手が突然震えだす。指を目に突っ込み脳みそをかき回してやりたい。体までが震えだした。

「ストライク」

 球審の声にあいつは苦笑いを浮かべている。あの時、あの法廷で浮かべていた、あの笑い。

 足が前にでる。この手で・・・。

「先生っ!」

タツヤだった。

「いくらあのバッターが打たないからって、前進しすぎですよ」

「悪い悪い」我に帰って元の位置へ戻る。

「ストライク」

 あいつはまた笑っている。

 体がまた震え始めた。

 もう自分を制することは・・・無理だった。

「しまっていこーーーっ!!!」

 グラウンドに散らばった服役囚たちは突然どこからか降ってきた奇声の主を探した。

 しかし、すぐに彼らは、腰に手を当て、もう一方の手で作ったⅤサインを天に掲げ、ライトの守備位置で仁王立ちしている奇声の主、寺田真、を発見した。


         ⑤

 今日も大爆笑のうちにささやかな“演芸ショー”は幕を閉じた。

 食事の後の自由時間になると、自然と横田たかしの周りには人垣ができた。

 今では、同じ罪を犯した服役囚だけではなく、刑務官までもがこの時間を楽しみにしていた。

「御苦労さま。これ今日のギャラね」

 たかしは大好物の栗饅頭をファンの刑務官から受け取ると「さすがにもうネタ無くなってきましたわ」と言って自分の房に向かった。

 房の中は空だった。

“演芸ショー”の後は一人にしてあげる“同じ房の人間の中では暗黙の了解になっていた。

 言ってみれば、臨時の楽屋だった。

 刑務官にもらった栗饅頭を頬張る。

 喋りすぎてカラカラになった喉に白餡がからむ。

 テーブルの上のフォトスタンドに収まる一人娘が「父さん何やってんのん?」と微笑みかける。

 ここに収監される日の前日に前妻に無理言ってデジカメで撮ってもらい、メールで送ってもらった電子データを自宅のプリンターで印刷した代物だった。

 その前妻、朝風凪は、今新しい命を誕生させるべく警察病院で孤軍奮闘しているところだった。

 昨日、栗饅頭を貰った時、刑務官が「特別だぞ」と言ってそう教えてくれた。

 ここを出たら、その新しい生命は自分の子供として面倒を見ていくつもりでいる。

 前妻はバツ2になってしまったので、ここを出るのが自分より二年遅くなる。

 その前妻をバツ2にしてしまった、一度だけ会ったことのある、自分の一人娘に「パパ」と呼ばせていたわけのわからない若い輩は新しい生命を育む義務を放棄する発言をして、どこかの男に産婦人科医院で痛い目に遭い、怪我が治った後、どこかの刑務所に収監されたらしい。

 いずれにしろ、その新しく生まれ来る子供の寝顔をチャイルドタウンに見に行ってやれる人間は自分しかいなかった。

 月に一度だけだが、一人娘と、その新しい家族の一員と三人でご飯を食べ、風呂に入り、一緒の布団で寝る。

 つらい毎日を乗り越えられるのも、そんな暮らしを夢見ることができるからだった。

 三年後ここを出ると、所属事務所を辞めるつもりでいる。同時に芸能界からも引退する。

 一生食べていけるだけの金は稼いだ。

 自分の娘のように、親と離れて暮らす全国のチャイルドタウンの子供たちの寂しさを少しでも紛らすためにボランティアで全国を回るつもりだ。

 そして、二年後、前妻が塀の向こうから戻ってくると、自分達と同じ立場の、塀の向こうにいる、罪の重みを実感しながら自分達の子供と会えない親たちを少しでも元気づけられるように二人で全国の刑務所を回るつもりでいた。もちろん、前妻にはそんな話をしたことはなかった。絶対に嫌がるはずだ。元、日本を代表する大女優のプライドが許すわけがなかった。

 しかし、説得する自信はあった。

 父親が違う二人の子供につらい思いをさせている。受けるつらさも二人分。きっとわかってくれるはずだ。

「失礼」

 顔を上げると、開いた扉の向こうに、さっき栗饅頭をくれた刑務官が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。

「男の子だ」

 それだけ言うと、刑務官は扉を閉め、去って行った。

 そして、頬を伝う涙を拭おうともせず、たかしは、ただ、誰もいない扉に向かって頭を垂れた。


中 篇(前編の十年後)

第一章

        ①

 「おい、そんなに飲むなよ。いくら運転しないからって、俺はウーロン茶なんだからな」佐藤は不満そうに清に言ってグラスの底に残った氷をがりがりと噛んだ。

「おう、すまんすまん」言いながら清は通りがかったウェイトレスに「おねえちゃん、悪いけどもう一杯だけ生くれへん」と言って空になったジョッキを差し出した。

「ほんとにすまないと思ってんのかよっ」佐藤は吐き捨てるように言うと「先にいっとくぜっ」とテーブルを立った。

 すぐにウェイトレスが持ってきた生ビールをちびちび舐めながら窓の外に目をやると、傾いた陽がフェアウェーをオレンジ色に染めていた。

 もともと日曜日の接待ゴルフは嫌いだった。

 しかし、今は大歓迎。

 今日は接待ゴルフではなく、嫌がる佐藤に「プレーフィーはもつから」と言って無理矢理フェアウェーに立った。

 休みの日に家にいてもしょうがないというか、息が詰まった。妻の紘子とはここ何年かろくに口もきいていない。いわゆる“家庭内離婚”だった。

 オーストラリアへの“こうのとりツアー”の後すぐに元太ができた。

 清は元太の下にあと二人子供が欲しかった。学費がタダになるだとか、医療費がタダになるだとか、そんなことはどうでもよかった。ただ、子供が好きなだけだった。

しかし、紘子は違った。

 元太の首が座って暫くすると「これでいいんでしょ」とばかりに、産休を半分以上残して職場復帰してしまった。元太を近くの保育園に預け、お迎えも近くに住む自分の母親に任せた。

 清としては、せめて元太が中学生になるくらいまでは家にいて欲しかった。

 自分が愛した人と、その愛した人がお腹を痛めて産んでくれた子供が肩を寄せ合い微笑む。そんな光景を見るのが、清は好きだったというか、夢だった。しかし、それは本当に夢に過ぎなかった。何度も離婚を考えたが、元太と別れるのがつらかったし、刑務所に入るのも正直、嫌だった。

 苦いビールがさらに苦く感じた時「いつまで飲んでんだよっ」と、いつの間にか誰もいなくなっていたレストランに佐藤が怒りながらやってきた。

 しょうがなくレストランを出ると、フロントで精算を済ませ、キャディバッグを受け取った。

 割り算が苦手だと言っていたが、今日の参観はうまく乗り切れたのだろうかと元太の顔を思い浮かべる。

 クラブハウスを出ると、早くしろと言わんばかりに佐藤が車の中からクラクションを鳴らす。

 紘子と二人で、教室の真ん中ではにかむ元太に手を振りたかった。

「実現せえへんから夢っていうんやろなぁ・・・」

 酒臭い息を吐くと、目くじらを立てた佐藤が待つ車に乗り込んだ。

   §§§§§§§§§§§

 灰色の校舎の壁が見えてくると宅斗の足は重くなった。

「どうしたのよ?」繋いでいた手をほどくとすぐに姉の蘭が目を合わせてきた。

「行きたくないよ・・・」消え入りそうな声を宅斗は発した。

「気持ちはわかるけどさぁ、だけど頑張んないと・・・何かあったらお姉ちゃんに言えばいいから。ね、わかった?」

 宅斗は首を縦に振らなかった。

「宅斗はん、ほんまにたのんまっせ」

 父親の関西弁を真似た姉のくだらない冗談にも宅斗は笑えなかった。

「あっ来たぞっ、チャイルドだチャイルドっ」

 いつものお決まりの声が二人の頭の上から降ってきた。

「だっせー、なんだよあの髪型っ、服もカバンもみんな一緒だしっ」

 宅斗は無視をして蘭の目を見つめ「パパもママも来ないんだよね?」と聞いた。

「来ないわよ。しょうがないでしょ、パパもママも忙しいんだから」

 今日は月に一度ある“外”の学校との交流会、その中で年に三度ある“父兄参観”の日だった。

 校門をくぐる。

「じゃあね」蘭は宅斗に手を振ると、友達が待つ校庭へと駆けて行った。

「宅斗、おはよう」

 振り向くといつもの“バッタ”がいた。今日も上下緑色のジャージを着ている。チャイルドタウンの先生にはこんなのはいない。みんなきちんと背広を着ていた。

 バッタに背を押されるようにして教室に入る。さっき窓から声をあげていた連中がまた宅斗の姿を見て声を上げる。

 一年生の時、パパとママが一度だけ来たことがあった。

 後でお姉ちゃんに聞くと、パパもママも昔はチョー有名な芸能人だったらしい。二人を見つけた“外”の父兄の連中はパニックになった。奇声を上げ、写メを撮り、中には二人に握手を求める者までいた。

 そして、その興奮は子供たちにまで飛び火し、とうとうバッタが「申し訳ございませんがお帰り願えませんか」と言う前に二人は教室を後にした。

「それでは始めます」バッタの声に、いつも通り、黒板に向かって左側に“外”の子供たち、右側にチャイルドタウンの子供たちがそれぞれ陣取った。

 来ていないとわかっていても、ひょっとしたらと宅斗は後ろを振り向いたが、やっぱり、パパもママも来ていなかった。

 バッタの板書の音に顔を戻すと、また、いつも通りの光景が繰り返えされる。

 立ち上がって教室の中をうろうろと歩く“外”の生徒たち数人。その姿を見ても何も注意しないバッタ。私語をやめない髪の茶色い“外”の親たち。

“外”の世界は一体どうなっているんだろう。

「この問題分かる人?」バッタの声に手が挙がるのは教室の右半分。

 これもいつも通り。

「よしっ、元太やってみろ」

 左半分の、手を挙げていなかった男の子があてられた。

 えっ!?という驚いた顔をすると、その男の子は照れ臭そうに頭をポリポリと掻き立ち上がった。

「こいつにわかるわけないじゃん」隣の席の冷やかしに教室の左半分だけが笑った。

“外”の親たちはまだ私語を続けている。

 教室の右半分はコトリとも音をたてず事の成行きを背筋を伸ばして見守っている。

「えーと、13÷2だから、えーっと、五二(5×2)十で、えーっと六二(6×2)十二だから、あっわかった」

「わかったか。よし、元太、答え言ってみろ」

 バッタの言葉に男の子は得意げに胸を張って、そして、大きく声を張り上げた。

「6余り3ですっ!」

 さすがに教室の右半分からも笑いが起こった。


         ②

「のぞみ、もう遅いから寝なきゃ」竹男が晩酌の水割りを傾けながら言った。

「だめなのよ、最近すっかり夜型になっちゃって」ぱっちりと目を開けているのぞみの頭を撫でながら直子が言った。

「まあ、俺達も毎日遅くまで起きているから、一部非はあるんだけどなぁ」

 空になったグラスに竹男が氷を落とすと、のぞみは直子の手から離れ、しっぽを振りながらテレビの前まで行くとフローリングの床の上で“お座り”をした。

「こいつにテレビなんかわかんのかなぁ」竹男はウィスキーをグラスの中の氷の上にに垂らしながら独り言のように言った。

「わかるんじゃないの。この子ももう十歳なんだから。お笑い番組なんか見ていると、たまに機嫌良さそうにしっぽを振っているわよ」

 直子の声が聞こえたのか、のぞみは立ち上がると左右にしっぽを振り、ワン、と吠えた。

「こいつも結局使い捨てなんだろうなぁ」 

 竹男がアゴで指した先には、白いパンツ一丁になったお笑い芸人が、これまで何度も見たことのある特異な体の動かし方をして、周りのタレントから失笑を買っていた。

「しょうがないじゃない。テレビ局はスポンサーから莫大な広告料をもらっているから視聴率を稼がないとだめなんだから。よその局で似たようなやつをやっているなと思っても、確実にそこそこの視聴率がとれるなら、またこいつか、と思われても旬のタレントを使わざるを得ないのよ」

「だけど、公共の電波だぜ。使用できるのは許された数社、言ってみれば選りすぐりの企業がこんな知性の欠片もないタレントばかり集めた番組を電波に乗せちゃだめだよ」言うと竹男は白いパンツ一丁のお笑い芸人を画面から消し、代わりに、髪を七三に分けたNHKのアナウンサーを画面に登場させた。

 すると、のぞみが突然、野生の血を思い出したかのように、目を血走らせ、むき出しにした歯を竹男に向けた。

「怒ってるのよ、勝手にチャンネルを変えるなって」直子が笑いながら言った。

「のぞみも完全に人間社会に毒されちゃったよな。そうだろ?なんとか言えよ」

 のぞみはワンっと鳴いた。

「はいはい、承知いたしました。あなた様のお望み通り、お笑い番組にチャンネルを戻させていただき・・」言いかけた竹男のリモコンを持つ手が止まった。

「源さんっ!!」

 あまりの声の大きさに、のぞみは直子に駆け寄り、人間の子供のように足にしがみついた。

「ほ、本当にやっちゃったんだよ・・・」竹男のため息交じりの声を聞きとったかのように画面の向こうの源さんが満面の笑みをこちらに向けた。

「源さんて、前に言ってた、あの何回も出たり入ったりの・・・」直子が竹男に聞いた。

「そうだよ。もっとゆっくり入っていたいからって、冗談だと思っていたんだけど、源さん、本気だったんだ」

 NHKのアナウンサーが源さんの罪状を淡々と読み上げた。

“子無税”を払いたくない子供のいない夫婦に、子供がいるように見せかけた嘘の住民票を一枚十万円で売り、この十年間で一億円余りを源さんは稼いだ。共犯の、役所に勤める四十三歳の課長補佐はまだ罪を認めていなかったが、源さんは素直に自分の犯した罪を認めている。稼いだお金は、昔からのホームレス仲間に酒代として配り、残ったお金は、匿名でチャイルドタウンに寄付した。

「源さんて、そんなに悪い人じゃないよね」直子は、不安でしょうがないのか人間の子供のような声で鳴き続けているのぞみを抱き上げながら竹男に言った。

「そうなんだよ。決して悪い人じゃないんだ。ただ、今のこの世の中にマッチしてないっていうか、生まれてくるのが遅すぎたっていうか、ひょっとしたら早すぎたのかもしれないなぁ」

 そこまで竹男が言い終えた時、襖一つ隔てた寝室からもう一人の“のぞみ”が目を擦りながら出てきた。

「うるさくて眠れない」

“のぞみ”はのぞみでも、二人の間にできた、今、幼稚園の年中組の・・・望美、だった。


         ③

 父に嘘をついたのは初めてだった。

 今頃お祖母ちゃんと二人で首を長くして自分の帰りを待っているはずだ。

「寺田様」

受付の女性に呼ばれる。

「申し訳ございませんが、この十年間の履歴を調べましたが、そのような方が入院されていた経歴はございませんでした」

「そうですか。有難うございました」

 この日、五件目だった。

 そして“そのような方”とは、自分を生んでくれた母親のことだった。

 昨日の夜、毎晩聞いているFMラジオのお気に入りのDJが「今日は僕の五十五回目の誕生日です」といつもとは少し違う口調で言った。続いてそのDJは「若い頃は、誕生日と言えば自分が祝ってもらえる日だと思っていたんだけど、齢を取るようになって、誕生日とは自分を生んでくれた母親に感謝する日だと思うようになり、毎年、母親と二人で食事に出かけるようにしています。今日も二人で鮨を食ってきました」

 朝起きると、眠い目を擦りながら管理センターに行き、宿泊届を提出し、財布だけを持ってチャイルドタウンを飛び出した。

 小さな町だからすぐに見つかるだろうと高をくくっていたが、思っていた以上に病院の数が多かった。

 肩を落として玄関の自動扉を出ようとした時「お母さんっ!」と突然、背中から大きな悲鳴のような声がした。

 振り向くと、一人の女性が、お祖母ちゃんくらいの齢の白髪の女性の腕を掴み、今にも泣き出しそうな顔をして突っ立っていた。

「幸子さんっ、その方はあなたのお母さんじゃないのよ」飛んできた看護婦が“幸子さん”の手を白髪の女性から離した。

 白髪の女性は、いったい何が起きたのかと、ポカンと口を開けたまま、看護婦に連れて行かれる“幸子さん”の後ろ姿を暫くの間見ていた。

 自分を生んでくれた母親が精神を病んで、生まれ育った街で入院していると初めて聞いたのは、父が三年間の懲役を終えて自宅に帰ってきたその日、チャイルドタウンで外泊の許可を取り、お祖母ちゃんと三人でお祝いの夕食を食べている時だった。

 少し白髪の混じった坊主頭を擦りながら「実はお前にずっと嘘をついてきたことがあるんだ」と父は突然話し始めた。

 お姉ちゃんが病気で死んだのではなく、ある人間に殺されたんだと聞いたときには、箸を持っていた手から血の気が引いていったことを今でも覚えている。

 それ以来、母親とお姉ちゃんのことは考えないことにしたというか、まだ十歳の幼い脳みその“自動制御装置”が作動した。

「お母さんっ」

“幸子さん”の声がまた遠くから聞こえる。

幸子さんも自分を生んでくれたお母さんを探しているのだろうか。

 母親の写真は一度も見たことがない。家の中のどこを探しても出てこない。お姉ちゃんの写真は仏壇に一枚だけ飾ってある。昔からずっと同じ写真。

 携帯が鳴る。

 父の声だった。

「駅で友達に会っちゃって。今から帰るから」

 自動扉を出ると、朝から何も食べていないお腹が、自分をあざ笑うかのようにグーと鳴った。


 小学生の二人の息子を送り出すと未沙は大きなため息をついてテーブルに片肘をついた。

 愛美理に相談を受けたのは昨日の午後だった。

「下着に何か変なものが付いているんです。今日だけじゃなく、昨日も、その前も・・・」

 初潮だった。

 チャイルドタウンの同じ年頃の女の子たちにはとっくに来ていた。

 家を出るタイムリミットを告げる朝のワイドショーが始まった。

 メインキャスターが嬉しそうな顔をしてくだらないことを言っている。

「いいわよねぇ。

 毎日毎日どうでもいいことばかり喋ってとんでもないギャラをもらってるんだから」

 画面からメインキャスターを消すと、自転車の鍵を人差し指の先にかけ家を出た。


 廊下からいつもと変わらない表情で授業を受けている愛美理の表情を見届けると職員室に入った。

 終業のチャイムが鳴る。

「末広さん」チーフの斎藤さんが駆け寄ってきた。

「愛美理ちゃんが、ちょっと・・・」

 面談室に入ると愛美理が今にも泣き出しそうな顔をして美沙を待っていた。

「血が出たんです・・・」愛美理が消え入るような声で言った。

「そうなんだ」言うと未沙は愛美理を抱きしめた。

「愛美理ちゃん、大人になったんだよ」

“大人”という自分が吐いた言葉に未沙は違和感を覚えた。

 愛美理は見た目は普通の十三歳だった。しかし、精神的にというか、対社会適応力から言うと、まだ小学生、それも低学年のレベルだった。三歳でチャイルドタウンに入ってきて、未沙の目を見つめて初めて笑ったのが、七歳になったばかりの遠足の日の朝だった。

 未沙が苦労して作ったタコの形をしたウィンナーを見て「タコちゃんだぁ」と、百万ドル、いや百万ミリオンの笑顔を未沙に向けた。

 未沙は泣いて喜び、チーフの斎藤さんと抱き合った。

「愛美理ちゃんが私の目を見て笑ってくれたっ!!」

 無理もなかった。

 人は愛情を与えられ、又、与えなければ生きていけない。パパとママに愛され、パパとママを愛す。その対象が突然二人とも目の前からいなくなった。

「寂しい」という思いを言葉に変える技量をまだ持ち合わせていなかった三歳の愛美理は、ただ黙って心の扉を閉ざした。

 チャイルドタウンにやってくる子供達もみんな初めはそうだった。

 しかし、三年という時が経過すると、パパやママが塀の向こうから続々と出てきて、閉ざされた自分達の心の扉をそっと開け始めてくれる。

 週に一度だけのパパとママに会える日を楽しみにして、子供達は大きく目を見開き、溌剌と言葉を発し始める。

 そんな子供達を尻目に、愛美理の心の扉はずっと閉ざされたままだった。六歳になるまで、いくら声を掛けても抱きしめても、愛美理は顔をそむけるだけだった。もう私は誰からも愛されない、愛情を与えられない存在なのだ。六歳にして愛美理は全てを諦めてしまったのだ。

 七歳になったばかりの遠足の日の朝に未沙を大喜びさせた後も、決して心を開くことはなかった。

 友達も何人かはできたが、授業中に急に大きな声をあげて泣き出したりすることが度々あり、誰もがある程度距離を置いて愛美理と接した。

「そうだ、今日は土曜日だからデー・ゲームよ」未沙は愛美理を抱き起こすと手をひっぱり面談室を出た。

“ふれあいルーム”に入ると、畳一畳分くらいはある大きな液晶画面にプロ野球の試合中継が流れていた。

「あっ、愛美理ちゃん、タツヤだよ」

 うなだれていた愛美理が顔を上げた。

「きっと打つわよ」未沙は愛美理の肩を掴んだ。「タツヤは愛美理ちゃんが見ているときは必ず打つんだからっ」

 未沙の興奮した声が届いたのか、タツヤは本当に、打った。

 テレビ画面の下に156Km/時と表示された剛速球を弾き返したタツヤの打球はバックスクリーン目掛けて一直線に飛んで行った。タツヤはダイヤモンドを駆けながら打球を追う。そのタツヤの姿を愛美理が追う。そして、そんな愛美理の表情を美沙が追う。

“ふれあいルーム”の中で、白球―タツヤ―愛美理―未沙、が一本の線で繋がった。


         ⑤

「しかし、すごい選手になったもんだよねぇ」

 テレビ画面の中で、ホーム・インしたタツヤをチームメートが手荒い祝福で迎える。

「サクセスストーリーを地でいってるもんなぁ」光田進は冷えたワインの入ったグラスを傾けながら言った。

「だけど、ほんとにいい奴ですよ。中にいる時もずっと子供の顔が見たい見たいって言ってましたからね」寺田真はビールのプルトップを引っ張りながら言った。

「今も確か、ホームランを一本打つごとに百万円の寄付をチャイルドタウンにしてくれているんだよな」光田進は薄く切ったフランスパンにキャビアを堆く盛りながら真に聞いた。

「親に会えないでいる子供達に少しでも元気を与えたいって。シーズン・オフになると全国のチャイルドタウンを、チームの若手を引き連れて回ってくれていますよ。確か、別れた奥さんとも縒りを戻したはずです」

「みんなそうやって、気づいてくれればいいんだけどなぁ」言いながら光田進はキャビアを堆く積んだ薄く切ったフランスパンを口の中に放り込んだ。

“それではヒーローインタビューです”

 映画館のスクリーンの半分はある大きな液晶テレビにタツヤが現れる。腕には小さな自分の娘を抱いている。

「縒りを戻すだけじゃなくて、あっちの方も戻したのか。

 さすが三冠王、夜の三冠王もあっという間に取っちまったんだよな」

 光田進の冗談に真は声を上げて笑った。

「だけどいいじゃないですか。チャイルドタウンの子供達はこのタツヤの姿を見て早くお父さんに、パパに会いたい。塀の向こうにいるお父さんやお母さん、パパやママは早く自分達の子供に会いたい。失って初めてわかる“何とか”の大切さっていうやつですよ」

「そうだよな」

「それと関係があるのか、実は、先日・・・」

真はこの間の出来事を光田進に聞かせた。

「そうか。俊介君もお母さんと会いたいんだ。俺もやっぱり、自分の親父ってどんなおっさんだったかもう一度会ってみたいよ。ぼんやりとしか記憶に残っていないからなぁ」

 タツヤのヒーローインタビューが終わった液晶テレビの画面にはいつの間にか、十年前の与党、自由民権党党首の大河内善三郎が映し出されていた。

「なんだ、このおっさんまだ生きてたのかよ」光田進は吐き捨てるように言った。

「たしか、もう九十歳くらいでしたよね」

 真が聞くと、光田進は「多分そんなもんだろ。だいたい、長生きしすぎなんだよ。人は七十くらいで丁度いいんだよ。子供がいないのに年寄りがどんどん長生きしていくから、そら、世の中おかしくなるのも当然だよ」と言って、リモコンのボタンを押し、大河内善三郎の声を大きくした。

“確かに子供は大切です。国の宝です。だけど、大人ももう少し大切にしてあげないと。

 この国を今動かしているのは大人なんですから。その辺り子守党はもう少しよく考えてもらわないとね“

 光田進は苦笑いすると「今のおれの言葉が聞こえたんじゃないだろうな」と言って、テレビ画面から大河内善三郎を消した。

「まだまだ元気ですよね。背筋がピンと伸びてますからね」

 真の言葉に嘘はなかった。

 大河内善三郎の背筋は、九十歳になった今でも、確かに、ピン、と伸びていた。そして、政権奪取を、ピン、と伸びた背筋のように真剣に考えていた。

 事実、子守党が与党になってからのここ十年間の政権支持率はずっと右肩上がりだったが、ここにきて少し陰りが見えてきた。

 要因の一つは、一旦下がった失業率が再び上がり始めたことだった。

新しい法律で収監された全国のお父さんとお母さん、そのうちお父さんの方が、無事三年や五年の懲役を終えて職場に戻ると、まったくと言っていいほど居場所がなかった。

 政府は事前に各企業に対してそういったことが起きないよう指導してきたつもりだったが、現実はそううまくはいかなかった。

 欧米諸国のように、二、三週間バカンスをとる習慣が、何年、いや、何十年たってもできない、それどころか、一日の有給休暇を取るのにも四苦八苦する国に、三年や五年ものブランクのある人間を受け入れる深い懐はなかった。おまけにそういった事態が起きた時に受け皿として期待されていた刑務所やチャイルドタウンの数が年々減り始めていた。

 新しい法律の施行後はたくさんの逮捕者が出たが、さすがに刑務所に入るとなると、離婚予備軍は二の足を踏み、自ずと、チャイルドタウンに入る子供達も年々減っていった。

 そして、それ以上に子守党の支持率を下げたのは、国際学力調査で日本の小・中学生の学力が先進国で最下位になるどころか、一部教科においては発展途上国の数カ国にまで抜かれるハメになってしまったことだった。

 日本の企業がどんどんと引き上げ、三十パーセントを超える失業率に悩む中国などは、敵対心を込めて「日本はもはや先進国ではない」と国営放送で大々的に歌ったほどだった。

 確かに、子供の数は、子守党の思惑通り、この十年間で飛躍的に増えた。

 1を割っていた出生率は1.3を超えた。

 しかし、中身が伴わなかった。

 高学歴の独身者は、しょうがないから、と結婚し、しょうがないから、と子供を一人だけ作り、子供のいなかったというかわざと作っていなかった高学歴の夫婦は、これまた、しょうがないから、と同じく子供を一人だけ作り、そして、彼らはその子供達の首が座るや否や、保育園に預けると、また元の職場へと戻って行った。無理して三人の子供を作って、医療費や学費がタダになる程度のことなど、彼らには何の魅力にも映らなかった。

 子供の医療費や学費くらいは彼ら夫婦が貰っているサラリーでは大した負担にはならなかった。それに、もし、三人の子供を作ったとしても、腐敗しきった公立の学校へ、タダだからといって自分達の子供を通わせる気などさらさらなかった。結局、わずかな恩恵を受けるだけで、自分達の生活レベルを下げることに彼ら高学歴のものは「NO」と言ったのだ。彼らにとって生活の主人公は子供ではなく、あくまで彼ら“自分自身”だったのだ。

 では、国の方針に忠実に従い、出生率の向上に貢献したのはいったい誰なのか?

 そう・・・ヤンキー・・・だった。

 彼らは、結婚が早いのが特徴で、二十歳までに子供が一人や二人いるのはざらだった。

 そこにきて彼らは“集会”が好きだった。

 そこで情報が流れる。上下関係も厳しい。先輩に「子供を三人作ると学費も病院代もタダだ。絶対得だから」と言われると、その日の集会もそこそこにして家に帰り、よだれを垂らして寝ている妻を起こし・・・。

 そんな具合で日本各地にヤンキーの子供達がネズミ算的に増殖していった。

 ある地域の小学校などは、茶髪の生徒が黒髪の生徒より多くなり、父の日の授業参観で教室に入った黒髪の父兄が「うちの学校はどこか外国の都市と姉妹提携を結んでいて交換留学が盛んなんだね」と言って周りの失笑を買ったと新聞のコラムに掲載されたりした。

「寺田さん、そろそろ帰んないと」光田進が少し赤くなった頬を擦りながら真に言った。

「そうですよね。まあ、別に、迎えに行くだけですから、少しくらい寝不足だって全然問題はないんですけどね」

 明日は息子の俊介が晴れてチャイルドタウンから“出所”する日だった。

「俊介君、どうするんですか?」光田が真に聞いた。

「とりあえずは、一年だけ浪人して大学を目指すって言ってるんですけど、本心はチャイルドタウンに戻って自分と同じ境遇の子供たちの面倒を見たいようで・・」

「そうか、そう思ってくれてるんだ。

 寺田さん、俺達がやってきたことは間違ってなかったよな」

「そうですね。

 人を思いやる気持ち、人の痛みをわかる人間になる・・・私としては大学にいって欲しいんですけど・・それからでもチャイルドタウンに戻るのは遅くはないと思うんですけど、本人はどうもすぐに戻りたい気持ちが強いようで・・」

「まあ、その辺りは二人でよく話し合ってうまくやってくださいよ」

 光田進の言葉に真は「では失礼します」と言って官邸を後にした。


 何十回、いや、何百回と見る風景だった。

 もう八年目になる。

 俊介とチャイルドタウンで別れ、帰りの車内で、なんてつまらない法律を作ってしまったんだと後悔したことが昨日のように思い出される。

 奇声が耳に届く。

 通路にしゃがみこんだ、髪を茶色に染めた高校生が円陣を組んで騒いでいる。

 兄妹が二人いれば、この子たちの学費や医療費は国が面倒を見ている。

 やっぱり、自分達が作った法律はつまらない法律だったのか・・・思いながら電車を降りる。

 記録的な寒さで開花が遅れていた桜が沿道に咲き誇る。

 もう、この道を歩くのは、今日が最後だ。

“君が代”が聞こえてくる。

 何の個性もない建物が目の前に現れる。

 守衛の男性が「先生」と声を掛ける。

 刑期を終えてから、どんなに忙しくても週に一度の面会には必ずやってきた。

「今日で先生ともお別れですね」守衛の男性が笑顔で言葉を洩らす。

「長い間ありがとうございました。すごく嬉しいんですけど、なにか、寂しい気もするんです」

「私もです。だけど、お坊ちゃまも大きくなられて。

こちらにこられた当初は、もちろん、ご家族の方と離れ離れになられるんで、すごく不安そうな顔をされて、暫くは元気がなかったんですけど、今やあんな立派な青年になられて。早く、晴れ姿を見に行ってあげてください」

 守衛の男性は田代幸三といった。

 子守党が政権を取るまでの長い間、ずっと与党でいた自由民権党の歴代総裁の首席秘書を務めていたが、野党に下野した途端に職を解かれた。再就職を試みたが、歴代総裁のスキャンダルが取り沙汰されるたびに“闇の総裁”と称され、週刊誌に顔写真が掲載されたせいか、どこの面接官も、どこかで見た顔だなぁと思いつつ、履歴書に目を落とすと、やっぱりあの自由民権党の・・・となり、お車代と言って一万円札が一枚入った白い封筒を渡され、面接は終了した。困り果てた田代はチャイルドタウンの扉を叩いた。

 光田自らが面接を行った。収入は十分の一になった。三年の刑期を終えて戻ってきた真は光田に田代を紹介され、一目見て、モノが違うと思った。光田を通して、何度も自分達と一緒に子守党の一員としてやってもらえないかとお願いしたが、返ってくる答えはいつも「国の宝である子供達、これからのこの国を背負っていく子供たちの成長を見届けたい。どろどろした政治の世界へ戻る気は毛頭ありません」だった。


 自分達が建立したチャイルドタウンの本館に初めて足を踏み入れる。

 週に一度来ていた面会は、同じ敷地内だったが別の建屋だった。

 自分達が犯した罪の重さをわかってもらう為、あえて親たちには子供たちが暮らす本館には一歩も踏み入れさせなかった。

“壁”のむこうで、あなた達が罪を犯した結果あなた達と会いたくても会えない子供たちが寂しい思いをしてずっと頑張っているんです、それをどうしてもわかってもらいたかった。

 職員が頭を下げる。

“寺田真”だとわかっていても、けっして目をむいたりはしなかった。

 続いて子供たちが通り過ぎる。地味な制服に地味な髪形。一礼。目が輝いている。服装や髪型で、俺は私はここにいるんですよ、そんな無理矢理な自己主張は一切なかった。そのかわり、目がキラキラと輝いている。人は目で分かる。目でモノを言う。赤道直下のアフリカの貧しい子供達が、先進国の撮影スタッフがむけるテレビカメラを見る“あの”目にそっくりだ。粗末な服を着て、黒い肌には無数のハエがたかっていても、目だけはキラキラと輝いている。

 死んだ魚のような目をしている=日本の子供達・・・。

 やっぱり、チャイルドタウンを作ってよかったんだ。

 会場に近付くにつれ“卒業生”の名前を読み上げる職員の声と、それに応える“卒業生”の「はいっ!!」という声がだんだんと大きく聞こえてくる。

 会場に入る。

 一瞬、だるま落としのだるまが宙に浮かんだような微妙な間が生じた後、カメラのフラッシュが一斉にたかれた。

すぐに職員が光源を制しにかかる。

 記念すべきチャイルドタウン第一回目の“卒業式”には会場に入りきれないほどの報道陣が詰めかけたが、それ以降は、日本人特有の熱しやすく冷めやすい性格が功を奏して、ここ一、二年は新聞の三面記事の片隅に、毎年のことだからしょうがないか、といった感じで掲載される程度だった。ところが、今年は、与党の元No2の長男が“卒業”するのをどこかの新聞社が嗅ぎつけ、久しぶりに賑やかな式となった。

“はいっ”

“卒業生”の声が場内に響き渡る。

 チャイルドタウンを卒業していく子供達は外の世界にいれば、十八歳、高校を卒業する年だった。

 外の高校は、通常、クラス代表の生徒が皆の卒業証書を受け取る。

「人一倍つらい思いをして暮らしてきたんだから、一人一人の苦労を労ってあげないと」

 光田進の言葉だった。

“寺田俊介っ”

「はいっ」

 息子の俊介が壇上に上がる。所長の労いの言葉を聞きながら何度も頷き、卒業証書を受け取る。泣かないでおこうと思ったが、自然と涙がこぼれおちる。姉を失くし、母親がいなくなり、そして、最後の砦の父親との別れ。大きくなった。立派になった。チャイルドタウンに戻ってきたいと言っている。本人の意思を尊重してやろう。

 卒業生全員に証書が渡ると“仰げば尊し”続いて “蛍の光”が唄われた。

 流行歌なんて唄う必要はない、光田進の考えからだった。

 そして、式の終了が告げられると、卒業生は手にしていた制帽を天高く放り投げ、会場から一斉に駆け出て行った。

「苦しみからの解放、未来への飛躍」

これも光田進の言葉だった。

 正門に戻ると、たくさんの卒業生で溢れかえっていた。

 しかし、父兄の姿はまばらだった。

 マスコミの数が年々減っているとはいえ、やはり自分の恥がもし知られたら、ということで、卒業生同士で写真を取りあっている光景がほとんどだった。

 中には、数える程度だが、親子三人で記念写真を取っている姿も見られた。

 キツイお灸をすえ、少しは感じてくれればと思ったが、実際にヨリを戻した夫婦の数は、子守党が考えていた数字には遠く及ばなかった。一度ほつれた糸のヨリが元に戻るのはよほど困難があるのだろう。

 俊介が守衛の田代さんと何か話しながらこっちに向かって歩いてくる。

「お疲れさまでした」田代さんが微笑みながら声をかけてくれる。

「何泣いてんだよ、いい歳こいて」俊介が笑いながら声をかぶせる。

「泣いてなんかいないよ。昨日徹夜だったんだ」

「嘘つけ。式の間、ずっと見てたんだからな」

「お写真撮りましょうか?」田代さんが割って入ってくれた。

 建屋をバックに二人でピースをする。

「大学に行きたくなかったら別にかまわないぞ」

田代さんのカメラのフラッシュが小さく焚かれる。

「ほんとに?」

「ああ。ここに戻ってきたいんだろ」

「うん」

「すこしゆっくりしてから、試験を受ければいい。

 コネは通用しないから、しっかり勉強しないと落ちちゃうぞ」

 二回目のフラッシュが焚かれた時、ズボンのポケットに入れていた携帯が震えた。

“大河内のおっさんが倒れた。とりあえず病院へ行くから、また、何かあれば連絡する”

 光田進からのメールだった。


         ⑥

 十年前の与党党首とは言え、元日本を牛耳っていた人間、病院前には報道人が溢れかえっていた。

 SPに周りを固められエレベーターに乗ると最上階で降りた。

 WAX掛けされテカテカに光った廊下を進むと、薄いブルーのパジャマを着た大柄な老人が、自分の周りにいるSPと同じ目つきをした男達に囲まれ、こっちに向かって手を振っている。

「よっ」

 大河内善三郎だった。

「ちょっと貧血で目を回しただけだってのに大騒ぎしやがって、まったくきょうびの男連中はケツの穴が小さいぜ」

 てっきり、もう大河内は生死の境をさまよっているとばかり思っていたので、何か拍子抜けだった。

「わざわざすまねぇなぁ、日本国首相にお見舞いいただきまして」

「いえいえ。そんなことより、ほんとにもう大丈夫なんですか?」

「大丈夫も何も、さっきからあんまり暇なんでパチンコにでも行こうと思ったら、こいつらがこの俺様をベットに縛りつけようとしやがって」大河内は周りの目つきの悪い男達を指差して言った。

「まあまあ、しょうがないじゃないですか。だけど、あまり無理はされない方がいいですよ」

「なんだ、首相さんまで俺を年寄り扱いかい」

「いえいえ、そういう意味で言ったわけじゃ・・・」

「子守党は名前だけあって、子供は大事にするけど、年寄りなんて何とも思ってねえんだろ。早く死んでしまえ、だいたいお前らが長生きしすぎるから世の中おかしくなっちまったんだ、そう思ってんだろ?」

「やめてくださいよ、大河内さん」

 大河内の嫌味に目つきの悪い男たちの一人が白い歯を見せた。

「まあ、冗談はさておき、折角来てくださったんだから、お茶の一杯くらい飲んで帰っていってくださいよ。SPの皆さん、暫くの間、二人だけにさせてくれねぇか。日本国首相には指一本触れやしねぇ。殺されることはあっても殺すようなまねは絶対にしねぇから、この場はとりあえずお退きを」

 双方の目つきの悪い男達は顔を見合わせたが、しょがないかと言わんばかりに二人から離れた。

「さっ、首相さんよ、狭いとこだけどゆっくりしていってくれ」言いながら大河内は病室に招いてくれた。

 部屋の真ん中には、革張りで肘掛けが両方についている“重役椅子”が置かれていた。

「おい、お茶入れてくれ。それと、林檎も剥いてくれるか」

 大河内が誰に声を掛けたのかわからなかった。

 部屋には自分達二人と“重役椅子”以外、何も存在していなかった。

「か し こ ま り ま し た。 ご 主 人 さ ま 」

 声がしたかと思うと、突然、重役椅子の背もたれの向こうから白衣の女性が現れた。

 思わず「うわっ」と声を上げた。

「そんなに驚かないでくださいよ。なあ、ロビンちゃん」

「はい、ご主人さま」言うとロビンちゃんは形態模写のような動きで目の前を通り過ぎると、ワン・ドアの冷蔵庫の前で腰を下ろし、中から林檎を取りだした。

「ロ、ロボットですか?」まだ信じられないといった顔で大河内に聞く。

「そうだよ。

 自転車に乗るロボットだとかダンスを踊るロボットだとか色々作ってきたけど、最終の目的はこれだったんだよ。われわれ自由民権党もバカじゃないんだよ。人口の減少が止まらず、高齢化はどんどんと進んでいく。経済の成長はもう見込めないから、結婚してきちんと子供を作るといったことをもう若いやつらは“当たり前”だとは考えなくなるだろう。じゃあ、年寄りの世話は一体誰がするんだ。一時、どこかのバカな党が、発展途上国からそういった介護専門の人間をたくさん連れてきたけど長くは続かなかった。そこで俺達は考えた。人間の代わりをできるのは何だ?・・・ロボットだったんだ。たくさんの企業に頭を下げて、何千、いや、何万のサンプルを作ってもらったよ。表向きは、自転車に乗ったり、わけのわかんねぇ踊りのできるロボットを作って話題を振りまいたりしたけど、裏では必死になって、こんな世の中が来ることを想像して、介護ロボットの製作に取り組んでいたんだよ。で、やっと実用化の目処が立ったってわけだよ。これからは我々自由民権党の息のかかった病院に続々とロビンちゃんの姉妹がデビューしていくから楽しみにしておいてくれよ」

「お待たせいたしました」ロビンちゃんが、お盆の上に、湯気の立ったお茶と、ウサギ型に剥いたリンゴを乗せてやってきた。

「ロビンちゃんの淹れてくれるお茶が一番うめぇよ」言うと大河内は、痩せた体がはまってしまいそうなくらいの大きな湯呑をずずっとすすった。

「光田さんよぅ、俺達人間は人の手で取り上げられてこの世に誕生し、そして、人の手によって葬られこの世を去っていったんだ。だけど、これからはロボットの手によって葬られていくんだぜ。いや、ひょっとしたら、取り上げられるのもロボットの手になる日がやって来るかもしれないぜ。

 子守党さんが頑張ってくれたおかげで子供の数は確かに増えた。だけど、役にたたねぇのばっかり増えてもしょうがねぇんだよ。ゼロはいくつ掛けてもゼロだからなぁ」

 大河内の嫌味に苦笑いを浮かべる。

「まあ、とにかく、そういった時代が目の前にというか、もう来ちゃってるかもしれねぇぜ。なっ、ロビンちゃんよ」

言いながら大河内はロビンちゃんのお尻を撫でた。

「イヤーン。ご主人様、それはセクハラです」

 思わず飲みかけていたお茶を吹き出しそうになる。

「だ、だけど、よくできてますよねぇ」

「できてますよねっって、ロビンちゃんに失礼じゃねぇか。ロビンちゃんは立派な人間なんだから。なっ、ロビンちゃん」

「はい。ご主人様の言う通りです」言うとロビンちゃんは「何かございましたらお呼びください」と頭を垂れ「ごゆっくりとなさっていってください」と微妙な笑みを浮かべると部屋を出ていった。

「もう、言葉のやり取りは全く問題ないんですよね」

「それだけじゃなく、他人の会話にも入っていけるようなものもできてきてるよ」

「ロボット同士の会話ってのは?」

「問題ないよ」

「じゃあ、井戸端会議じゃないですけど、ロボット達が病院の片隅で患者の悪口を言ってんじゃないですか『あの爺さんは尻を触るから気をつけないとね』とかって」

「はは、かもしれねぇなぁ。

 それより、光田先生よ。本当にこの国は大丈夫かよ?子供の数は増えたけど、質がなぁ・・・」

「大丈夫です。ちゃんと考えてますから」

「ほんとかよ。どんなものか教えてくれよ」

「また今度、元気になられたらお教えしますよ」

「俺は元気だよ。なに、もったいぶってんだよ」

「まあ、あまり長居しても何ですんで、そろそろ失礼致します」重役椅子から立ち上がると大河内に一礼した。

 その時、同じタイミングで部屋の扉が開き、部屋の外で待機していたSPの一人が顔を覗かせた。

「シーツの交換だと言っていますが」

「ああ、通してくれ」大河内が言うと、一人の中年の男性がぺこりと頭を下げて部屋に入ってきた。

 白衣ではなく、薄いクリーム色の作業服を着ていた。「失礼します」と言って一礼して、ベットのシーツを剥がし始めた。

「首相さんよ、この人はれっきとした人間だからな」

 作業服の男性は何のことかわからず大河内の顔を見た。

「おっ、すまねぇ、つまらねぇこと言って、仕事に専念してくれ」

 作業服の男性は、なんなのかなぁと首を少しかしげながら苦笑いを浮かべ、シーツに顔を戻す瞬間に光田の顔を見た。

 二人の目が合った。

 光田の脳が、あっ、と反応した。

 しかし、光田には、自分の脳が何に反応したのかは、わからなかった。


         ⑦

「そんな陰気臭い顔しなや。子供らの顔まで曇るで」

 横田たかしは、どうらんを塗りながら朝風凪に言った。

「ちょっと考え事してただけよ。それより、読み合わせはもういいの」

「ええよ。後はどんだけ俺のことをあんたが気持ちよくつっこんでくれるかだけや」

「気持ちよくね・・・」

「そ、それが暗いねん。あんたの気持ちはわかるで。日本で一番の女優の看板背負ってやってきたのは尊敬します、英語で言うたらリスペクトや。せやけど、もうそろそろなんていうか、開き直るっていうか、諦めて言うたら怒るかしらんけど、まぁなんて言うたらええんかわからんけど、とにかく俺は、二人だけのときには、最高の女優や、日本一の女優や、っていう態度で接するからさぁ、とにかく舞台の上では・・・」

「・・・」

 二人でチャイルドタウンを回るようになってやっと一年がたった。しかし、まだ、昔のプライドが邪魔をした。子供たちの笑顔を見ると確かに心は安らいだ。だけど、だけど、女優っていうのは・・・。

「なんやったらトークショーでもするか。俺が先に漫談やるから、そのあとで」

「そんなのいいわよ」

 たかしの嫌味を断った時「それではお願いします」とチャイルドタウンのスタッフが控室に入ってきた。先導してくれるマネージャーなどいない。いつもと同じ、子供達しかいない体育館に作り笑顔で登場する。

 拍手で迎えられると、すぐに横にいる元夫兼現夫が嬉しそうな顔をしてくだらない話を話し始める。

 どっと笑いが起こる。お笑い芸人はいい。

「元日本一の女優でございます」

 こんなことを言っても、笑いなどどこからも起こらない。

「すいません、まだ、慣れてまへんので」

 たかしの一言で体育館に笑いの渦が起こる。

 目の前にいる子供達は、ほとんどが自分のことなど知らない。どこかのおばさんかな、そんな感じだと思う。実際、五年の刑期を終えて芸能界に復帰すると、初めのうちは事務所を含めて周りのみんなは気を使ってくれ、わけのわからないバラエティ番組にも出してくれたりした。しかし、何かが違った。無理矢理・・・プライドが許さなかった。一晩考えると、たかしに電話を入れた。

「ええけど、ドサ回りやで。我慢できる?」

 そのときはできると思った。

 しかし、時間がたつにつれ、自分の決意はほころび始めた。

「そろそろ、横の人も疲れてきたんで、このへんで、ほな、さいならーっ」

 爆笑と喝采を受けて舞台を降りる。

「お疲れ様でしたーっ」

 チャイルドタウンのスタッフから渡されたのはペットボトルに入ったぬるいお茶だった。

「今日の客はベタやったなぁ」たかしがそのぬるいペットボトルのお茶で喉をごくごくと鳴らしながら聞いてきた。

「そうかしら。結構笑ってくれたじゃない」

「それが女優やねん。お笑い芸人にしたら今日の笑いやったら満足でけへん」

「そんなものかしら」

そう言って凪がパイプ椅子に腰を掛けた時、控室の扉がノックされたかと思うと、一人の女の子が中に駆け入ってきた。

「すごく面白かったです」女の子は息を切らせながら言った。

「勝手に入ってきちゃぁだめじゃないか」

 スタッフは女の子に注意したが、たかしは「そう固いこと言わんと、ファンは大事にせなあきまへんから」と笑って言った。

「一つだけ質問があるんですけど」女の子は表情を変えずに二人に聞いた。

「なんなん?何でも聞いてや」

 たかしが言うと、女の子は「どうして人を笑わそうとするんですか」と聞いた。

「難しい質問するなぁ。お譲ちゃん、哲学者違うか」

 たかしの冗談にスタッフが笑う。

「そうやなぁ、なんで笑かすんかなぁ・・・これまで考えたこともないなぁ・・・これが俺の天職やと思ってずっとやってきたからなぁ・・・まあ、しいて言うたら、悲しくさせるよりはましやからかなぁ」

 一瞬女の子は、えっという顔をしたがすぐに「わかりました」と言って、たかしと凪に小さくバイバイをして風のように控室から出ていった。

「いつもあんな調子なんです」スタッフが苦笑いを浮かべながら言った。「この間もマジシャンの方が来てくれていたんですけど、今日と同じように『どうしてマジックなんかするんですか』って聞いて、マジシャンの方も返答に困られて、最後は鳩を飛ばしてごまかしてましたけど」

「ははっ、それおもろいやんか、どっかで使わしてもらお」と言いながら、たかしはペットボトルのお茶をぐいと飲んだ。

 その隣で凪がスタッフに「最近、チャイルドタウンに来られたんですか、あの女の子は」と聞いた。

「いえ、ずっと前からなんです」

「ずっと前から?」

「あの子は、訳あって、生まれた時から、ずっと、ここ、チャイルドタウンにいるんです」

「生まれた時からですか?」

「そうなんです。ずっとなんです」


第二章

「課長、少し痩せたんじゃないですか?」焼き鳥の櫛を竹の筒に入れながら清は辻野に言った。

「もう課長はやめてくれ」

「じゃあ、なんて呼んだらええんですか?」

「隊長」

「隊長!?」

「そうだ。今は周りからそう呼ばれている」

「隊長って・・・」

「これでも出世は早い方なんだぞ。数少ない学卒だからって社長も目を掛けてくれてるんだ」言いながら辻野は少し諦めた笑いを浮かべた。「お前さぁ、どんなことがあったって会社は辞めちゃだめだぞ。四十代のおっさんなんか、どんなに前の会社で仕事ができたからって、どんないい大学を出てるからって、どこも雇ってくれないぞ。今の日本の企業にはそんな余裕なんかこれっぽっちもないから」

 辻野は店員を呼び、三本目の熱燗を注文した。

「課長、あっ、違った、隊長、ちょっと飲みすぎですよ」

「いいんだよ、明日は久しぶりの休みだから」

「休みやから言うても・・・」

「お前は知らないと思うけど、俺達の警備員の仕事で宿直ってのがあるんだ。ようは、何かあったときに夜中でも出動できるようにその建物で仮眠を取りながら朝まで勤務するんだ。で、法律で、その宿直の勤務に就いた後は、俺達は“明け”っていうんだけど、必ず休まなきゃならないんだ。だけど、呑気に休んでいたら飯なんか食っていけないんだ。だからみんな“明け”のあとに疲れた体に鞭打って、別の現場に行って、普通に夕方の五時まで働くんだ。見つかれば会社が罰せられるんだけど、そうでもしないと、とても家族を食わしていけないんだ」

「たいへんなんですよね。だけど、うちの会社もひどいですよね。国からちゃんと指導を受けてるのに、課長が、いや、隊長がシャバに戻ってくると、そんな人おったっけって言うような態度で接して」

「しょうがないよ。一週間の有休を取るのにもびくびくしなきゃいけない国なんだから。何年たっても何十年たってもこの国じゃあ無理だ。そういう国民性っていうか民族性なんだよ」

「新しい法律もほんとに良かったんですかねぇ」

 ため息交じりに清が言葉を吐いた時「お待たせしました」とさっき辻野が注文した熱燗を持って店員がテーブルにやってきた。

 名札を見ると“そん”とひらがなで書かれていた。

「お前ももう少し飲めよ」辻野が清の空のグラスを指差して言った。

「じゃあ、レモンハイで」

「かしこまりました」

“そん”君は注文を取ると戻っていった。

「せやけど、飲み屋とかコンビニの店員言うたら中国人ばっかりですもんねぇ。

 学生とか若いやつらはいったいどこでバイトしてるんですかねぇ」

「子守党は少し子供を大事にしすぎなんだよ。だからあんなやつばっかり増えたんだよ」

 辻野が顎で指した先の座敷席では子連れの客がぎゃあぎゃあと騒いでいた。

「もう夜の十時を回ってるんだぜ。子供はとっくに寝る時間だ。あんな奴らの病院代や学校の授業料のために税金を払っていると思うと嫌になるよ」

 座敷席の親達はみんな髪が茶色く、父親も母親も酒を飲み、赤ら顔になって鼻の穴から煙を吐き出していた。

 そして、親達の会話に付き合ってられず退屈になった子供達は座敷席から飛び出て、店内を走り始めた。

 ガチャーンっ!

 ガラスの割れる音が店内にこだました。

「危ないよっ! 店の中では走ったらだめだよっ」

さっき注文を取ってくれた“そん”君だった。

すると「ばかやろうっ、ガラスで怪我したらどうすんだよっ!」と座敷席から一人の男が出てきて“そん”君に食ってかかった。

「走る方が悪いよっ! こんな狭い店で走っちゃだめだよっ!」

「なにをっ」座敷席から出てきた男は“そん“君の胸ぐらをつかんだ。

 すぐに店員が何人か飛んできて二人の間に割って入った。

「てめーっ、なめてんじゃねえーぞっ」男は鬼の形相で“そん”君を睨んだ。

「悪いことをしたら叱らないとだめです。あなた、親ですよねっ、ほんと、何考えてるんですかっ!」言った“そん”君に男が飛びかかろうとして、それを止める店員を交え店内は騒然とした。

「ほんま、この国はどうなるんですかねぇ」清が聞くと辻野は「すいませんっ、さっき頼んだ熱燗まだですか」と、誰に聞くともなく、疲れきった表情で、店内に向けて手を上げた。


         ②

「じゃあ、のぞみちゃんのことお願いね。

 あまり食べすぎたら、また調子が悪くなるから、エサはあげすぎないでね」

「わかったよ」竹男は寝ぐせでアフロヘアーのようになった頭を掻きながら言った。

「で、今日は一体何の日なんだ?」

「昨日も言ったじゃない。望美の幼稚園の交流会だって」

「交流会って、どこか他の幼稚園と何かするってこと?」

「それも昨日言ったじゃない。チャイルドタウンの子供達と一緒に遊ぶんだって」

「そうだったっけ」

「もう時間ないから。のぞみちゃんのことほんとにお願いね」言うと直子は望美の手を取って家を出た。

 チャイルドタウンへ行くのは初めてだった。

「ママ、今日はどこへ行くの?」望美が聞いてくる。

「今日はチャイルドタウンってところに行くの」

「怖くない?」

「大丈夫よ。何かあってもママがついているから」

 その声を聞いて望美は百万ドルの笑顔を向けた。

ほんとうに産んで良かった。本当にそう思う。これからもずっとそう思っていたい。

 まさか、自分に子供ができるとは思っていなかった。

 諦めていた。

 何年も続けた不妊治療は結局実を結ばなかった。つまらないことをして罰も受けた。

 自分は子供には縁がないんだ。

 そして、夫の竹男に促されて“最後”に挑んだ。

 何の期待もせず、子供代わりにと飼った“のぞみ”と居間でテレビを見ていたある日、夫の竹男が興奮して家に飛び込んできた。

「できたぞっ!」

 二ヶ月後、エコー撮影で映ったミジンコのような我が子を見て涙が止まらなかった。

 流産の危険を避けるため、予定日の一か月前から病院のベッドに横たわった。

 難産の末にこの世に出てきた娘の産声はいまだに鼓膜の奥に残っている。

「ママ、パトカー行ったよ」

 望美の声で我に返る。

「ほんとだよねぇ」

 パトカーが二台、けたたましくサイレンを鳴らし通り過ぎて行く。

 暫く歩くと、チャイルドタウンと思しき建物が見えてきた。

 受付で案内のはがきを見せ、無機質の建屋に足を踏み入れる。

「どこに行くんですか?」

 スリッパに履きかえているとどこからやってきたのか女の子が聞いてきた。

「交流会に来たんだけど」

「あっ、それなら、この廊下をずっとまっすぐに行って突き当りを左に曲がると大きなホールがあるんで」

「ありがとう」

 頬笑みを返すとその女の子は「いくつですか」と言って望美を指差した。

「まだ五歳なの」望美の頭を撫でながら言った。

「じゃあ、来年小学生?」

「五月生まれだから再来年なの」

「そうなの。私、今日、ここから転校するの」

「あら、そうなの」

「普通はチャイルドタウンにいると転校なんかないんだけど、私はパパもママもいないから、何年かに一度違うところに変わるの」

「そうなの?」

 言って女の子の顔を見た時、あっ、と脳が何かに反応した。

「何を話しているんですか」職員と思われる男性がやってきて女の子の顔を少し睨んで聞いた。

「おばさん、交流会に来たんだって」女の子が答える。

「わかった。もうすぐ授業が始まるから教室に戻りなさい」

 女の子は渋々といった感じで、小さなバイバイをすると廊下を歩いていった。

「どうもすいません。いつもあんな感じなんです」男性が頭を下げる。

「いえいえ、そんなことありません。ちゃんと場所を教えてくれたんで」

「悪い子じゃないんですけど、人懐っこいっていうか、おせっかいというか」

「今日、ここから転校するって言ってましたけど」

「そんなことまで言ってましたか」言いながら男性はポリポリと頭を掻き、直子は廊下の向こうで手を振っている女の子の顔を見て、もう一度何かに脳が反応したことを感じた。


         ③

 赤いパトライトを回転させた車が何台も目の前を通り過ぎる。

 事故でもあったのかなと思いながら、寝不足の目を俊介は擦った。

 思った以上にチャイルドタウンの仕事はきつかった。月に10日ほど夜勤があった。自分が入所している時はそうは思わなかったが、悲鳴を上げている子供たちがたくさんいた。 仮眠室に入ってからも三十分置きに起こされる。抱きしめてあげると、安心したのか、どの子供もこくんと頷いて眠りに落ちた。親と離れて暮らすのはやはり小さい子供にはキツイことだった。

 自分の場合は、お姉ちゃんを失い、お母さんもどこかへ行ってしまった。だから、子供ながらにどこか諦めた気持ちがあったのか、チャイルドタウンに入っても、だれかが恋しいという気持ちはあまりなかった。

 そんな中で異質の光を放っている女の子が一人だけいた。

 職員のみんなからその子は「さっちゃん」と呼ばれていた。

 確かまだ10歳だったが、どこか大人びたところがあり、たまにおせっかいが過ぎて職員から注意されることがあった。

 今日、別のチャイルドタウンへ移ると聞いていた。

 携帯が鳴った。

「大変なことになっているんだ」父さんからだった。

「昨日、町の居酒屋で中国人の店員と客の間でいざこざがあって、根に持った客が、さっき中国大使館に火炎瓶を投げ込んだんだ」

「茶色?」

「そうだ」

“茶色”とは、父さんとの間で暗黙の了解になっている、近頃この国で大繁殖をつづけている、子だくさんの元ヤンキーのことだった。

「向こうは黙っていないだろうね」

「当り前だよ。ただでさえ、日本の企業が続々と引き揚げてきたことで関係がぎくしゃくしてるんだから、火に油を注いだみたいなもんだよ」

「月に一回の交流会でもこっちの子供達との学力の差がますます大きくなってきているよ。

 急に立ち上がって教室の中を歩き回っている子供達がいても向こうの先生は注意しないんだって。ほんとに交流会なんかする必要あるのかなって正直思っちゃうよ」

「光田さんともいろいろ考えているんだけどなかなかいい案がなくて」

「まあ、こっちはこっちで頑張って子供達を守っていくよ」

「ああ、頼むよ。ところで、調髪室の研修はもう済んだのか」

「まだだよ。たぶん、一番最後じゃないかなぁ」

「そうか」

「だけど、不思議なんだよなぁ。あそこの職場だけは年寄りばかりなんだよなぁ」

「たまたまじゃないのか。まあ、とにかく頑張ってくれ」

「わかったよ、じゃあ」

 電話を切ると、また一台、救急車がけたたましくサイレンを鳴らして目の前を通り過ぎていった。

 そして、その救急車が通り過ぎていった光景の中に、向かい側の通りを歩く警備の田代さんの姿があった。


         ④

「さっちゃん、ようこそ我がチャイルドタウンへ」美沙がさちえに手を差し出した。

「よろしくおねがいします」さちえは臆せず美沙に笑顔を向けた。

「噂はかねがね聞いています。ひとつお手柔らかにね、さっちゃん」

 さちえは一瞬キョトンとした顔をしたが、すぐに脇でおとなしそうに座っている愛美理を見つけた。

「お姉ちゃん、何歳なの?」

 さちえの問いかけに愛美理はもちろん何も答えなかった。

「十三歳なの」代わりに美沙が答えた。

「それって、東京スターズのタツヤだよね」

さちえは愛美理のトレーナーの胸にぶら下がっていたバッチを指差した。

「そうよ」美沙と消え入りそうな愛美理の声が重なった。

「ファンなの?」

「うん」今度は愛美理だけの声。

「かっこいいよね」

 さちえの声に愛美理は満面の笑みを浮かべて「一番かっこいい」と言って胸のバッチを見せつけた。

「試合はいつも見てるの?」

「全部見てる」

「愛美理ちゃんが見てると必ずタツヤは打つんだよね」美沙の言葉に愛美理はこくんと頷いた。

「野球場で見たことはあるの?」

 愛美理が一瞬、え、という顔をしたので美沙がすかさず「それはまだないの」と助け船を出した。

「そうなの」とさちえが少し残念そうに言った時、一人の職員が三人の前に現れた。

「さっちゃん、散髪しますから」

「またぁ。いつも、転校すると真っ先に散髪っていわれるんだから」

「さっちゃん。新しい所に来たから綺麗にしなくちゃいけないだろ。汚くしてたらみんなに笑われちゃうぞ」

 さちえは少し不服そうだったが、しょうがなくその職員について二人と別れた。


 調髪室に入ると誰もいなかった。

「真ん中の席に座って」職員はさちえに言った。

「この間切ったばかりなんだよ」

「だからさっきも言っただろ、新しい所に来たんだから綺麗にしとかなくちゃって」

「あまり前髪短く切らないでね」

「はいはい」職員は軽く聞き流すとさちえにウサギのキャラクターが描かれたシートを掛けた。

「この間交流会の時に、外の子から『なんだその前髪は』って笑われたんだから、真っ直ぐに切るのはやめてね」

「はいはい、わかりました」

 結局、髪を切り終えるまでの間、さちえはずっとしゃべり続け、職員は「はいはい」と「わかりました」の二言しか発しなかった。

「最後に顔剃りしますから、しゃべらないでね」

 シートがウィーンという音を立てて床と水平になるとさすがにさちえも静かになった。

 顔剃りが終わると、もう一度シートは元の位置に戻され「襟剃りするから動いちゃだめだよ」と職員は剃刀をさっちゃんの前の大きな鏡にきらりと光らせて見せた。

「くすぐったくないようにやってね」

「はいはい」言うと職員はクリームを軽くさちえの襟に塗り剃刀をそっと滑らせた。

「きゃはっ」

 さちえはくすぐったさから体を動かせてしまった。

「こらっ」という職員の声と「痛いっ」というさちえの声が重なった。

「言っただろ」職員は慌ててさちえの項をティッシュで押さえた。

「血が出てるの?」

「少しだけ。薬を塗ればすぐに止まるよ」

 職員が白いクリーム状の薬をさちえの項に塗りつけているとき、別の職員が一人調髪室に入ってきた。

「大丈夫?」その職員はさちえに駆け寄り聞いた。

「大丈夫。ぜんぜん痛くないよ」

「そうか。良かったね」言うとその職員はさちえの項を誤って傷つけてしまった職員をちょっとこっちと手招きし、二人で調髪室の外に出た。  

さちえは目の前の大きな鏡に映る自分の姿を見て「前髪短いよー」と嘆き、その後ろで、部屋を出ていった二人が何か神妙な顔つきで何かを話し合っている姿がその鏡に映っていた。


         ⑤

「先生、少し痩せられたんじゃないですか」   

田代幸三はお見舞い用の果物の詰め合わせをロビンちゃんに渡しながら大河内善三郎に言った。

「そりゃ、わしだってもう九十だよ。これでまだ成長を続けていたら息子達も泣いて逃げていくよ」

 大河内の冗談に病室は三人の笑い声が混じりあった。

「ロビンちゃん、悪いけど外してくれるか。大事な話があるんだ、すまねぇ」

 大河内の言葉にロビンちゃんは「かしこまりました、ご主人さま」と言って病室を出ていった。

「しかし、良くできてますよねぇ。何度見ても、人間にしか見えませんよ」

「そうかい。まあ、掛かった金は半端な額じゃなかったからなぁ。田代さんにも色々と悪者になってもらったしな」

「いえいえ、そんなことはもういいんですよ」

「だけど光田の大将も大変だよなぁ。考え方は良かったんだけど、もう一つ読みが浅かったよなぁ」

 病室の小さな液晶テレビにはいくつもの窓から黒い煙を吐き出している中国大使館が映し出されていた。

「中国が元々我が国の配下にあったことなど今の若い人たちは知らなかったらしい。

 中国って、なんで中国って言うんだ?って聞いたら、アメリカと日本の中間の国だって。

 首都は?って聞いたら、天津だって。安い中華料理屋で天津飯の食いすぎだって、この間テレビでくだらないコメディアンが言ってたよ。

 数の理論って言うけど、多けりゃいいってもんじゃないんだ。ゼロはいくつ掛けてもゼロなんだ。一には間違ってもなりはしねぇ」

「そうですよね」と田代が言った時、病室の扉が開き、ベットのシーツを抱えたクリーム色の作業服を着た中年の男性が入ってきた。

「悪いけど、また後にしてくれるか。今、ちょっと取り込んでるんで」

 大河内が言うとそのクリーム色の作業服を着た中年の男性は無表情で病室を出ていった。

「いつか言うんですか?」

「奴さん次第だよ。今のままなら言わざるを得ないだろうなぁ。このままだと何も良くならねぇ、って言うか中国も今回の件で黙っちゃいねぇだろ」

「確かにそうですね」

「で、奴さん達がやっている我々の二番煎じはどんな様子なんだ」

「とりあえずは順調なようで」

「考えることはみんな一緒だ」

「数的にはかなり集まっているようで、実施の時期はまだ五年後くらいということで」

「何、出し惜しみしてんだよ」

「やはり、できるだけ齢が離れてから放出した方がいいだろうと、何といっても子供を守る党ですから子供達がパニックをおこなさいように最善を尽くしているようです。

 但し、例外が一人だけいまして、女の子なんですけど、どうもその子には身寄りがなくて、その子の分だけはすでに放出されているという情報が入ってきています」

「なんだ、その子は捨て子か何かか?」

「はっきりしたことはわからないんですけど、とにかく親がわからないから、多少ニアミスがあっても大丈夫だろうと」

「安易な考えだな。ほんとに子供のことを大事だと思っているのかクエスチョンだな」

「確かに」言いながら田代は額の汗を拭った。

「齢はいくつなんですか?」

「今年十歳で、正式な名前をさちえ、なぜだか名札にはカタカナで“サチエ”と書かれています。今日、うちのチャイルドタウンから転校していきましたよ」

「そうか。わかったよ」大河内は少しため息交じりに言った。


「田代さんがですか?」

「ああ、間違いないよ。俺も会ったのは面接の時の一度だけだけど間違いないよ」

「単なるお見舞いですかね」

「そう取りたいんだけど、過去が過去だからなぁ」

 言いながら光田進はテレビの電源をつけた。

“いやぁ、どうも、一年間のご無沙汰ですっ”

 テレビの中から笑い声が起きる。

「こいつだけはいつも変わんないなぁ」

 横田たかしがトレードマークの、顔と同じくらいの大きさの蝶ネクタイをおもちゃに周囲の笑いを誘っていた。

「だけど、朝風凪は相変わらず表情が硬いですよね」

「そらそうだろ。元、日本を代表する女優だったんだから。プライドが邪魔しないわけないだろ」

 子供達が笑っている姿が映し出された。

「そうか。今日はチャイルドタウンに慰問しに行ってくれているんですよ。それの生放送です」

「そうか。

 どんどんそうやってアピールしていってもらわないと今度の選挙はかなりきつくなるぞ」   

言いながら光田進はワインの入ったグラスをゆっくりと傾けた。

「で、さっきの話の続きなんだけど、ほんとに大丈夫なのかなぁ」

「なんなら、俊介に一度様子を見させますけど。

 あいつなりには調髪室について少し疑問を感じているのは事実なんですけど」

「悪いけどお願いするよ。俺も疑いたくはないけど、元々こっちの世界にいた人間だからなぁ。まさかとは思うんだけど」

「わかりました。じゃあ、早速、俊介に連絡を取ってみます」

 真が携帯電話を手にした時、さっきよりもっと大きな笑いがテレビから溢れた。


         ⑦

「やっぱりパパは面白いよね」

蘭の言葉に宅斗は正直にうんとは頷けなかった。

「なによ。いつまでもすねていちゃだめよ」

 蘭の言葉に「すねてなんかいないよ」と宅斗は言葉を返した。

「すねてるじゃないの」

「すねてなんかいないよ。ただ・・」

「ただ、なによ?」

「なにかいやなんだよ。パパとママがあんな格好してあんなことして」

「しょうがないじゃん。パパもママも芸人みたいなもんなんだから」

「だけど、何か嫌なんだよ。なんだかバカみたいで」

「そんなこと言っちゃだめだよ。パパもママも私たちみたいな子供達に元気を与えたいからって」

「でもいやなんだよ」言いながら宅斗は泣きべそをかき始めた。

「もうわがまま言わないでよ」

「普通のパパとママでいいんだよ」

「格好は変わってるけど、まったく普通だと思うよ、お姉ちゃんは」

「全然会いに来てくれないじゃないか」

「今日来てくれたじゃん」

「今日は僕達に会いに来たんじゃないよ」

「そんなの関係ないわよ。お姉ちゃんはママと喋ったし、パパとは握手までしてもらったよ、一人のファンみたいに」

「違うよ。みんなみたいに、一週間に一回会いに来てくれて、一カ月に一回、みんな一緒に家で泊まるんだよ。それだけでいいんだよ」

「さっきも言ったけど、二人とも全国のチャイルドタウンを回っているんだからそれは難しいの」

「そんなの僕イヤだよ。お姉ちゃん、僕、本当のパパに会いたい・・・」

「えっ?」蘭の表情からさっきまでの明るさが消えた。

「ねえ、本当のパパはどこにいるの?お姉ちゃんは知っているんだろ。教えてよ、ねえ、お姉ちゃん、教えてよっ」

 宅斗の“泣きべそ”が“泣き”に変わった。


         ⑧

「やっぱり横田たかしはおもろいよなぁ」

 清の言葉に元太は楽しそうな顔をしたが、妻の紘子は声など聞こえなかった、簡単にいえば、無視、の態度を貫いていた。

「芸人やめた言うても、今日はテレビ中継があるいうたらちゃんと意識して張り切ってるやん。ほんまもんのプロや」

 清の言葉に紘子は相変わらず、無視、を続けていた。

「まだまだ十分稼げれるのに、もったいないよなぁ。元太、悪いけど冷蔵庫からビール取ってきてくれへんか」

 元太は自分のお父さんに久しぶりに“使われる”のが嬉しくて「いいよ」と言って立ちあがった。

「やめてよ」紘子の冷たい声だった。

「ここはゴルフ場じゃないのよ」

続けて発せられた紘子の声に元太は動けなくなってしまった。

「それに昼間からお酒なんて子供の教育にも良くないし。第一、この子があなたみたいな人になったら困っちゃうから。テレビもこんなくだらないのは見ないで」言うと紘子はテレビのリモコンを手にすると横田たかしの姿を画面から消した。

「おい、なんやその言い方はっ」

言いながら立ちあがろうとした清を制するように元太は冷蔵庫に向かって走っていくと中から缶ビールを取り出し「お父さん、ビール」と愛想笑いを清に向けた。

「元太、やめなさい。昼間からお酒を飲むぐうたらな人間に気を使う必要なんかないわよ。それより、明日塾のテストでしょ。それもあなたの苦手な算数のテストなんだからちゃんと勉強しときなさい」

「日曜日くらいええやないか。何も東大出て博士になるわけちゃうんやろ」

「博士になんかなってもらわなくていいの。

 ただ、あなたみたいな人間にだけはなってもらいたくないから厳しく言うだけなの」

「なにをっ!」

 清が勢いよく立ち上がった時、ガシャンと何かが割れる音が部屋の中を占拠した。

「もうやめてよっ!!」元太だった。

「いつもいつも喧嘩ばっかりしてっ。もっと仲良くなってよ、お願いだからっ」泣きながら元太はリビングを出ていった。

 清は、元田が投げつけた缶ビールが当たって床に落ちて割れたマグカップをじっと見ていた。その欠片には、コアラを抱いて嬉しそうに微笑んでいる妻の紘子の姿と、同じくらい嬉しそうな笑みを浮かべている自分の姿があった。


第三章

「それでは、今日のヒーロー、タツヤ選手ですっ!」

 ドーム球場は割れんばかりの拍手と歓声で覆い尽くされた。

「打った瞬間、どのような感触でしたか」アナウンサーが興奮した声でタツヤに聞いた。

「いったと思いました」

 タツヤのコメントに再び球場内は沸き立った。

「これで、今シーズン、三本目のサヨナラホームランです」

「ファンの皆さんの声援がボールをスタンドまで運んでくれましたっ」

 球場はファンの歓声で大きく揺れた。

「そして、もう一人のヒーロー、九回までを三安打無失点に抑えた、若きエース、温投手ですっ!」

 ファンの歓声とブーイングがミックスされたへんな交響音がドームを包んだ。

 それを察したのかタツヤがスタンドに向かって“こいつが今夜のヒーローだ”と言わんばかりに温の頭を指差して、観客にもっと讃えろと腕を回して煽動した。

「温投手、ナイスピッチングでした」アナウンサーがお決まりのセリフを吐いた。

「きっと、タツヤさんが打ってくれると思ってました」

 ここでドームは再び大歓声に包まれた。

「これで今シーズンは負け知らずの八連勝です」

「そうですね。チームの皆さんのおかげです」

 少しだけ観客が沸いた。

「さて、いよいよ来週はオールスターゲームです」

 温は中国バッシングが広がるなかファン投票では選ばれなかったが監督推薦で初めてのオールスター出場を決めていた。

「タツヤさんと二人で頑張ってMVPを一緒に取ります」

「一緒にですか?」

 アナウンサーの問いに場内に笑いが起こった。

「温、MVPは一人だけなんだ。

 だから最優秀選手賞、最も活躍した人、一人だけに贈られる賞って言うんだ」

 タツヤの説明にドーム内はさっきより大きな笑いの渦が起こった。

「そうですか。まあ、いいです、とにかく頑張ります、みなさん応援よろしくお願いします」

 温のこのセリフでヒーローインタビューは終わり、その後二人は肩を組んでたくさんのカメラのフラッシュを浴びた。


 シャワー室から出てきたタツヤはロッカーの鏡の前で短い髪にドライヤーをあてている温に「もうオールスターまでは登板はないんだろ。軽く行こうぜ」と声を掛けた。

「少しだけね、タツヤさん」

「なんだよ、こんな時間からなんか用事あるのかよ」

 鏡に映る時計の短針は10と11の間でじっとしていた。

「今日、私のお父さん来てる」

「来てるって、日本に?」

「そうです。球場のすぐ近くのホテルにいます。折角だから、ご飯でも食べようって」

「そうか、それなら、早く行ってあげろよ」

「大丈夫です、少しくらいなら大丈夫、ほんと、気にしないでください」

「いいよ。たまには親孝行してあげろよ。中国でも親を大切にすることはいいことなんだろ」

「もちろんです」

「じゃあ、なおさらだ」

「ほんとにいいんですか?」

「いいよ。酒なんかいつでも飲める。お父さんに何か日本のおいしいものを食べさせてあげろよ」

「はい、ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて失礼させていただきます」

「ああ、お疲れ様」

 温はまだ少しあどけなさの残る顔の上に笑顔を作ってロッカールームから出ていった。

「お言葉に甘えて、か。あいつ日本語を良く知っているよな。まだ、日本に来てから半年もたっていないのに、へたな日本人よりよっぽど日本人らしいよ」

 一人ごちたタツヤは荷物をまとめロッカールームを出た。

 球場に隣接するホテルの地下駐車場に止めたBMWにキーを差し込む。

 チームメイトの車がクラクションを鳴らし前を通り過ぎて行く。

 ラジオから今日のプロ野球の結果が流れる。自分のことが“千両役者”と称されていた。

 サイドブレーキを戻し軽くアクセルを踏み、ハンドルを切る。

 精算所の警備員に会釈をして少し上り坂を走ると地上にでる。

 いつもの癖で、ホテルの車止めを見るとタクシーが3台止まっていた。

 その先頭の一台に温が乗ろうとしていた。車の免許は持っていないと言っていた。生まれてずっと、気がつくと野球しかしていなかったです、そう言っていたのを思い出す。

 タクシーはすぐに出発せず、暫くしてから一人の男性がお待たせと言わんばかりに右手を上げ温に続いて乗り込むと、白い排気ガスをハーっと吐きだし、ホテルを後にした。

 その男性をどこかで見た覚えがあった。

 高速に乗り、ラジオが天気予報を告げ始めた時その男性を思い出した。息子のタツマがいるチャイルドタウンの受け付けの警備員だった。温と何か関係があるのかなと思う間もなくタツマの姿が目に浮かんだ。シーズンが始まるとほとんど会えにいけない。妻のマリアは毎週娘を連れて会いに行ってくれている。寺田さんには何度もお願いした。縒りを戻したんだから、タツマをチャイルドタウンから出してくれ。娘もできたんだから家族みんなで暮らしたいんだ。

 だけど、一度も首を縦に振ってくれることはなかった。

 君が自分の子供とずっと一緒にいたいと思う気持ちはわかるけど、それ以上にタツマ君は君達とずっと一緒にいたいと思っていた。その気持ちを君達は自分達の勝手な思いでないがしろにしたんだ。そのことをしっかりと認識してください。

 ラジオを消した。

 オールスターが終わると暫く試合はない。その時タツマに会いに行こう。

 タツヤはシャツの袖でそっと涙を拭った。


         ②

「もうほとんど見えなくなってるよ」

「ほんとう?」

 さちえは未沙の言葉を聞くと手鏡で自分の項を見た。

「ほんとうだ。

 最初は“9月6日”の9と6の間に入っている/みたいにはっきりと見えてたのに」

「傷が残っちゃうとお嫁にいけなくなるものね」

「それでかな。みんなすごく大騒ぎしてしてたもの。だけど、私はお嫁さんになんかいかないよ」

「どうして?」

「私はずっとここにいるって、前の所長さんが言ってたもの」

「そんなことないよ。

 さっちゃんも十八歳になればここを出て、好きな人をみつけて結婚して、ちゃんと子供を作らないとだめなんだから」

「ほんとなの?」

「ほんとだよ。

 この国は子供の数がすごく減っちゃったから元気がなくなったの。だからこれからはみんなで力を合わせて元気な子供をたくさん作っていくのよ」

「じゃあ、前の所長さんは嘘を言っていたんだ」

 未沙はさちえの言葉を聞くと少し複雑な表情を浮かべた。

「あっ、お姉ちゃんっ」

 さっちゃんの声で振り向くと愛美理ちゃんが部屋に入ってくるところだった。

「早くしないと試合始まるよ。二試合ホームラン打ってないから今日は絶対にタツヤは打つよ」

「うん」愛美理はさちえの言葉に頷くと、手にしていた、未沙が自分とさちえのために作ってくれた東京スターズのユニフォームに似せたはっぴに腕を通した。

「あれ、さっちゃん、表と裏が逆だよ」愛美理がさちえに言う。

「ほんとだっ、ハッハッ」さちえは自分の失敗に笑いながらはっぴを脱ぎ、背番号がキチンと見えるように着なおした。

 愛美理ちゃんも一緒に笑っている。

 ついこの間まで、他人の質問に答えるのが精一杯、それもほとんどが「はい」か「いいえ」だった子が、自分から人に話しかけるようになった。周りは、変わった子だというが、未沙は本当にいい子が来てくれたとさっちゃんに感謝していた。

 タツヤが登場してきたのか、二人でやんやの喝さいを上げている。

「先生、タツヤっ」愛美理が満面の笑みで話しかける。

「ほんとだ。打ったらいいのにね」

 そう答えた時、他の部屋から緊急の呼び出しを告げるアナウンスが部屋に流れた。

「ちょっと、先生行ってくるから」

「うん」愛美理とさちえは声を合わせ二人一緒に頷いた。

     

 タツヤは愛美理とさちえの期待に見事こたえ、二本のホームランを打ち、そのうちの一本はサヨナラホームランだった。

「タツヤかっこいい」さちえが声を張り上げる。

「タツヤ最高っ」愛美理が呟くより少しだけ大きな声、もちろん、自分とさちえにだけしか聞こえない声、を上げた。

「お姉ちゃん、まだ、球場でタツヤを見たことないって言ってたよね」

「うん」

「見に行きたいと思わない」

「うん。見に行きたい」

「私も目の前でタツヤを応援したいんだ。だけど私は外に誰も知っている人がいないし。

 お姉ちゃん、パパやママは会いに来ないの」

「うん」

「どこにいっているの?」

「わからない。ママは病院にいると思う」

「そうなの・・・手紙だけでも書けないかな・・・あっそうだ、確かタツヤの子供も私達と同じチャイルドタウンに入っているって言ってたわよね」

「うん」

「そうだ、いいこと思いついた。お姉ちゃん、わたし部屋に戻るね。じゃあ、明日また、おやすみ」言い残すとさっちゃんはコミュニケーションルームから出て行った。

「手紙か・・」一人残された愛美理はそう呟いた。

 未沙が戻ってきた。

「あら、さっちゃんは?」

「部屋に戻っていった。

先生、あのね」

「何?愛美理ちゃん。何かあったの?」

「先生、私、手紙を書きたいの」

「手紙?」

「ママに」

「ママに? なんて書くの?」

「わからないけど、とにかく、一度書いてみたいの・・・」

「そ、そう・・わかったわ。じゃあ、先生、直ぐにご飯食べてくるから少し待っててくれる」

「うん」

 頷いた愛美理を残すと、未沙は少し首をかしげながら食堂へと駆けて行った。


         ③

「そうか、ありがとう」言うと真は携帯を切った。

 俊介からだった。

「田代さんの様子をしばらく見てくれないか」

 お願いしたのは二週間前だった。

 しかし、今日の俊介の答えは「なにもなかったよ」だった。

 大河内善三郎が入院する病院で姿を見かけたと総理から聞いた時、何かを感じた。

 だけど、杞憂だった。

 少しほっとした気分と、田代さんを疑ってしまって申し訳ないという気持ちが混ざって何か胸の奥にもやもやとした霧がかかったのを真は感じた。

 郵便受けを開けると一通の封筒が入っていた。消印は三日前になっていた。

“先生”でその短い文章は始まっていた。

“先生、でる日がきまりました。先生にはほんとうにいろいろとおせわになりました。ほんというと、もうすこしいたかったんですけど、さいばんしょのえらいひとが、としよりにじょうをかけてくれました。だけどひさしぶりにしゃばのくうきをすうのはたのしみです。でる日にきていただければ幸いです。

 そうだ、きのうのよる、なかなかねつかれなくていろいろかんがえたんです。すこし、わしもあまえてたんじゃないかと。みよりがない、みよりがないっていっても、もっとひどいかんきょうでいきているにんげんはいくらでもいる。せんせいがつくったチャイルドなんとかってなかにもわしよりくろうしているこどもはいくらでもいるんじゃないかって。 せんせいがこどもをおもうきもちがなんとなくわかるようなきがします。ひらがなばっかりのぶんしょうでもうしわけございません。学のないわしにはこれがせいいっぱいです。それでは“

 最後に“かんじんな日にちをかくのをわすれていました”と断って、日にちと時間が書かれていた。

 真はふっとため息をついて手紙を封筒の中にしまった。

 携帯電話を手に取ると、光田進の番号を押した。

 しかし、すぐに真は電源を切った。

「先に報告しておかなくっちゃなぁ・・・」

 誰もいない家の中で一人呟いた真は立ち上がると、娘と昨年亡くなった母親の遺影が並んで立つ仏壇にそっと手を合わせた。

「長かったよ」

 言うと真は手にしていた封筒を仏壇の前に置いた。

 差出人は“高橋 源”となっていた。


         ④

「それじゃあ、この間やった算数のテストを返します」

 教室の半分がギャーッと沸いた。そのギャーッと沸いた方の子供達からテストが返された。

 発狂するもの、答案用紙を床に叩きつけるもの、限界―っと言って教室を出て行くもの、元太はそのどれにも属さずただ黙って答案用紙を見つめるだけだった。

 子供たちの反応にバッタは何も言わない。教室から出て行こうとする生徒を止める素振りも見せない。

今日は父兄がいないただの交流会だった。

 続いて、静かにしている、残り半分の子供達にテストが返される。

 ただ黙って役所の窓口で住民票の写しを受け取るかのように皆、答案用紙を受け取っていく。

 元太は戻ってきた隣の席の宅斗の点数を覗き見した。

 これまで見たことのない数字が答案用紙の右上、ちょうど名前の横に書かれていた。

 すごいじゃん、という元太の目が初めて宅斗の目と合った。

「いつもこんな点数なの?」

 元太の問いにうんと宅斗は首を縦に振った。

「すごく勉強してんじゃないの?」

「そんなことないよ。

 学校の授業だけっていうか、チャイルドタウンだから塾に行きたくったって行けないし」

「それなら僕もチャイルドタウンに入ろうかなぁ」

 元太の言葉に宅斗は初めて“外”の世界で小さく笑った。

「それは無理だよ」宅斗は元太に言った。

「無理じゃないよ。だって、うちのお父さんとお母さんはいつ離婚してもおかしくないんだから。刑務所に入るのが嫌だから二人とも我慢してるだけなんだよ」

「そうなんだ」宅斗はへえーっという顔をしながら言った。「だけど、いいよね。いつもパパとママがそばにいるんだから」

「二人とも仲が良かったらいいんだけど・・・」

「元太っ」バッタだった。「落ち込むのはわかるけど、そろそろ席に着きなさい」

「はーい」消え入るような声を出して元太は席に着いた。

 すぐに、お昼休みの時間を告げるチャイムが鳴った。

 外界との交流会は億劫でしょうがなかった宅斗にとって、唯一の楽しみが給食だった。

 チャイルドタウンのそれとは雲泥の差だった。

 今日の献立は白身魚のフライ。

 チャイルドタウンならテーブルに備え付けられたウスターソースを掛けるか、何もつけづにただ魚の微かな生臭い香りというか匂いを感じながら胃袋へ流し込んでいくだけだったが“外”の世界は違った。

 タルタルソースっ!?

 生まれて初めて聞く言葉だった。見ると色は白で、何か透明な粒粒が混ざりあっていた。

「いただきまーす」

 クラス全員の声がまだ消えさらないうちに宅斗はそのタルタルソールとやらが乗った白身魚のフライを口に入れた。

「うまーっ!」

 テレビの料理番組で、お笑い芸人がわざとらしく吐いている言葉を思わず発しそうになった。

「どうしたの?」元太が不思議そうな顔をして宅斗に聞いた。

「なんでもないよ」言いながら額に浮かんでいる汗を宅斗は拭った。

 あっという間に白身魚のフライをたいらげると具がたくさん入ったみそ汁をすすり、ぷりぷりの白米を口に運ぶ。そして最後にプラスチックの器に横たわっているチョコレートのかかったスライスされたバナナを喉に滑らせ溜飲を下げた。

 給食を食べ終えると宅斗は元太と一緒に校庭の隅っこにあるジャングルジムに上った。

「パパとはいつもどんなこと話してるの?」宅斗は遠くを見ながら元太に聞いた。

「どうでもいいこと」

「どうでもいいことって?」

「担任の先生がウザイだとか最近お母さんの作るカレーライスのジャガイモが前より少し大きくなったとかこの週末マックでチキンナゲットを食べたいんだけど連れて行ってくれないか、みたいなこと」

「そうなの。いいよね」

「別に良くなんかないよ」

「そんなことないよ。話すパパがいつも一緒にいるんだから」

「まあ、それはそうなんだけど・・」

「僕、パパに会いたいんだ・・・」

 宅斗は遠くを見て言った。

 そして、さらに遠くを見て「本当のパパに会いたいんだよ」と言った。

「あ、あ、そうなの・・・」

 元太は宅斗の身の上の話はだいたい知っていた。

 知らないでおこうと思っても、勝手に外野からいくらでも情報が入ってきた。

「そ、そうだ、ぼ、ぼく、オールスターのチケット貰ったんだ。良かったら一緒に見に行かない?」

「パパかママと一緒に見に行かないの?」

「いいんだ。どうせお父さんはは仕事だし、お母さんは野球なんか全然興味ないから。

 なんか、今年は試合前と試合の途中にショータイムがあるんだって。たしか、あ、そうだ、ランドセルの中にチケットとチラシが入っているんだ。見に行かない?」

「いいよ」

 教室に戻ると元太はランドセルの中から「これなんだ」といって一枚のカラーのチラシを宅斗の前に差し出した。

「あっ、ママだ」

 チラシの真ん中に“たかし&凪のお笑いショー!!”の赤い文字が躍っていた。

「一緒に見に行こうよ」元太は目輝かせて宅斗に言った。

「う、うん」宅斗は言葉を濁らせた。

「なんだ、嫌なの?」元太は宅斗に聞いた。

「嫌じゃないんだけど、ただ・・・」

「ただ何なの?お父さんとお母さんに会えるんだからいいじゃん」

「そうなんだけど・・・」

 お昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

「チラシ渡しとくからちゃんとお父さんとお母さんにに連絡取って話しといてよ」

 しょうがなさそうに「わかったよ」と言った宅斗は受け取ったチラシを自分のランドセルにしまおうとした。

 その時、チラシの中の一人の男と目があった。どこかで見たことのある男だった。 ・・・・あっ。

 遠い昔の記憶がよみがえった。

 ママが初めてチャイルドタウンに会いに来てくれたとき、と言っても、その時は、ママが自分を生んでくれた人だとはもちろん知らなかった。

 職員に「ママが来てくれたよ」と言われ、ああ、この人が自分のママなのか、と思いながら、冷凍室から取り出されたマグロのブロックが徐々に溶けて行くようにママに少しずつ慣れかけてきたとき「この人があなたのパパなのよ」と突然ママに写真を見せられた。

 「ミュージシャンなの」

 そのミュージシャンが今、手にしたチラシの中で不敵な笑みを浮かべている。

         ⑤

 携帯に見覚えのある番号が表示されたのは、オールスターゲームのショータイムに出演すると決まった次の日だった。

 いつか消そう、いつか消そうと思いながら、結局消せずにいた。

 出ると聞き覚えのある声だった。

「元気?」

切ろうと思ったが「ええ」と勝手に言葉が出た。

「まだ、諦めずに歌手やってんだよ。

 あの病院で、へんな正義感のある頭のおかしな奴に、ボコられてから、ビジュアル系は断念したけど、まだ、世界に羽ばたくミュージシャンを目指してまーす」

 ふざけた声を残すと電話は突然切れた。が、直ぐに、メール着信の音が携帯から流れた。

“今、こんな顔してまーす・・・”

 添付の写真を開けると、右の眉毛から目尻にかけてズボンのジッパーのような傷跡があるものの、ドクロのイヤリングをぶら下げ、獲物に狙いを定めた鷹のような目をした、その顔は、少し齢は取っていたが、間違いなく“前”夫の顔だった。

 再び電話の着信音が鳴る。

「オールスターゲームのショータイムに出るんだよな」さっきの声だった。

「ええ」

「実は俺も出るんだよ」

「出るって?」

「あんたらの前座だよ。つかみだよ、つかみ」

「本当に?」

「嘘ついてもしょうがないじゃん。控室に挨拶に行ってもいいかなぁ?元、日本を代表する大女優に」

「ちょ、ちょっとそれは・・・」

「なんなら『ずっとファンだったんでーす』って花束を持っていってもいいんだぜ」

 言いながら“前”夫がハハーンと笑った時、たかしがリビングに入ってきた。

 凪は携帯を切り、何事もなかったような顔をして「オールスターゲームはどのネタをするの?」とたかしに聞いた。

「家族連れが多いから、ベタなやつでええと思うで」

「そうよね」

「なんや、珍しいやん、あんたからネタのこと聞いてくるって」

「久しぶりの全国ネットだから」

「大女優の血が騒いだんか?」

「そうかもしれないわ」

 凪がそう言った時、携帯の着信音が二人の会話を割いた。

 携帯の液晶画面には“前”夫の番号が「なんで切ったんだよ」と言わんばかりに表示されていた。

「あらっ、まただわ」

「どしてん?」

「最近、わけのわからない電話が多くって・・・」凪はもう一度、液晶の番号をちらっと見ると着信音を消した。

「気ぃつけなあかんで、最近わけのわからんことが多いから。

 あんたも世間というのを最近になってやっと知ったと思うから、引っかかったりはせえへんとは思うけど」

「そんなことわかってるわよ」少し照れくさそうに凪が言った時、今度は部屋の電話が鳴った。

「珍しいなぁ、家の電話が鳴るって」言いながらたかしは廊下の壁に掛けてある子機の受話器を取りに行こうとした。

「いいわっ、私が出るから」凪はたかしを制すると廊下まで駆け、受話器を手に取った。

「はい、横田でございます」

 凪は返ってくる声に息を呑んだ。

「もしもし、ママ・・・」

 宅斗だった。


         ⑥

 突然、駐日中国大使が「会いたい」と言ってきたのは昨日のことだった。

 用件はわかっていた。

「急に訪問をして申し訳ないです」通訳の女性が、放送部に入部した新入生が、初めて、お昼の休み時間に全校生徒に向けて話すような感じの、何の感情もこもっていない、私はこれを読むのがただ役目なのです、と言わんばかりに棒読みで言った。

「いえいえ、こちらこそ。色々とご迷惑をお掛けして、本来ならこちらか出向かないといけないところをわざわざお越し頂きまして、有難うございます」

「今日お邪魔させて頂きましのは」通訳が相変わらず棒読みで話す。「先般の当大使館への火炎瓶の投げ込みの件で、本国では日本バッシングが起こっています。なんとか抑え込んでいますが、この先どうなるかはまったく予断を許さない状況です」

「それは誠に申し訳ない」光田進の言葉を聞いた通訳は大使に対して少し申し訳なさそうな顔をして中国語に訳した。

「日本という国は紳士な国だったはずです」通訳が無表情で大使の言葉を訳した。

「だった、と言われるのは遺憾です。

 確かに今回の件はほんとうに申し訳ないと思っております。

 但し、ほんの一握りの人間が取った行動でして、まだまだわれわれ国民の品位は落ちていないと自負しております」

「私達は、日本人というのは、真面目で勤勉で非暴力的だとずっと信じてきましたが、今回の件を鑑みますと、それも少しは変わってきたのかなと思わざるを得ません。

 かなり、少子化でご苦労されているとお聞きしておりますが、それが原因でしょうか」

通訳はおそらく“ファック”という意味の中国語を滑らかな言葉に翻訳したのだろう。

「確かに、少子化は深刻な問題になっております。

 しかし、国を挙げて取り組んでおりますので徐々には解消していっております」

「学力テストが後進国にも抜かれたとお聞ききしましたが」通訳が話す。

「一時的なものです。すぐにまた元の日本の姿に戻ります」

「それならいいんですけど」通訳が少し笑みを浮かべて言った。

「そういう御国も、うちとは比べ物にならないくらいの少子化に悩んでいるとある新聞、ニューヨーク・タイムズですけど、拝見しましたが、如何なものでしょうか」

 通訳は笑顔などまったく必要のない会話を満面の笑みを浮かべて大使に訳した。

「御心配はいりません」通訳はまた笑って話す。「労働力不足を心配しましたが、いいタイミングで日本の企業が出て行ってくれましたので、まあ、不幸中の幸いって言うんですか、非常に助かりました」

 大使の顔を見ると嫌味な笑いを浮かべていた。ひょっとして日本語が全部わかっているんじゃないかと光田は疑った。

「しかし、子供は国の宝です」通訳が続けて大使の言葉を訳した。「同時に国の力でもあります。確かにわが国も一時的に人口が爆発的に増え、一人っ子政策といった手も打ちました。確かにいろいろな副作用は出たものの、効果というものはきちんと確認されました。

 しかし、先ほども申しあげましたが、子供は国の宝です。言い換えれば国富の源です。

 少子化対策の先輩でもある御国からご指導頂ければ幸いです」大使の言葉を訳した通訳の横で大使の目がキラリと光るのを光田は見逃さなかった。

「そんな、先輩なんて、おこがましい。これからも、お互いに情報を共有して何かいい対策を講じていきましょう」言いながら立ちあがった光田は握手を大使に求め、大使もそれに応じた。

「わざわざお越しいただきましてありがとうございました」

 光田の言葉を訳した通訳の声を聞いた大使は、そんなことはお気になさらずに、といった笑顔を光田に向け、同時に通訳に何かを言った。

「オールスターゲームの始球式で投げられるそうですね」

 通訳の言葉に「そうなんです。やりたくはないんですけど、あまりにもひつこくお願いされるもので。そうだ、御国の温投手も東京スターズから出場しますよね」

「温はわが国の誇りです。彼は非常に貧しい家庭で育ちました。グラブやバットなど買える境遇ではなかったのですが、他人の道具を借りながらやっているうちに、運動能力の高さからか、国内のプロ球団のスカウトが目をつけだして、やがて、日本のスカウトの耳にも届いたのでしょう、こぞって彼を見に来る日本人の関係者が増え、あっという間に東京スターズに入団し、あっという間に日本球界のスターになりました」通訳が我が子のことを話すかのように目を輝かせながら言った。

「日本にもタツヤという波乱万丈の人生を歩んできたスターがいます。

 温選手と同じチームで、彼も今回のオールスターには選出されていますので、お互いとも活躍できればと思っております」

「ほんとうに。それでは、これで、失礼いたします」

 通訳の言葉を残して、大使は官邸から去っていった。

「おいっ」光田が声をあげた。「塩撒いとけっ、それも、たっぷりとな」

 首相官邸の職員が慌ただしく動き回る中を秘書が駆けてきた。

「オールスターの始球式に向けてプロ野球協会が何かお手伝いをと。タツヤとのキャッチボールなんか企画しますがと言っておりますが」

「全部断っておいてくれ。当日軽く肩を慣らすだけで充分だ」

 言うと光田は携帯をYシャツの胸ポケットから取り出し、睨みつけるような表情でキーに指を滑らせた。


第四章

 目立たないようにサングラスとつばの長いキャップを目深にかぶって店に入った。

 店員が近くに寄ってくる。

「何かお探しですか?」

 まだ幼さの残る顔をした店員が作り笑顔で聞いてきた。

「スタンガンが欲しいんだけど」

「スタンガンにも色々と種類がございまして、どういったものをご希望されますか?」

「そうだなぁ、できるだけコンパクトで軽く、なおかつそこそこの威力があるやつ」

「承知いたしました。少々お待ちください」

 暫くすると店員は、一つのスタンガンを手にして戻ってきた。

「こちらがお客様の希望に一番添えるものかと思われます。女性のお客様にもかなり売れております」

「女性のお客さんも結構多いんだ」

「スタンガンに関しましては女性のお客様のほうが多いですねぇ」

「まぁ、こんな世の中だからなぁ」

 周りを見渡すと、五坪ほどの狭い店内に自分以外に女性客が二人いた。

「じゃあ、これくれる」

「有難うございます」店員は電化製品の量販店の店員がよくする“マニュアルにのっとりました”と言わんばかりの笑顔付きのお辞儀をした。「それでは、ご使用法を説明させて頂きますので」

 説明は五分ほどで済んだ。

 何か身分を証明するものを提示させられるとか、住所や氏名を書かせられるのかと思っていたが、何もなかった。

 店を出て暫く歩くと登山用品の店を見つけ中に入る。

「あまり派手じゃなくてしっかりしたやつありますか」

 百貨店で日傘を売っているような地味な女性の店員がほんとに見栄えのしない土色のリュックをすすめた。

 メンバーズカードの発行を断り、一万円札を渡しておつりを受け取ると、買ったリュックを包装しようとしていた店員に「もうすぐに使うから」と言ってそのまま受け取り店を出た。

 歩きながら、手にしていた、スタンガンの入った黄色いレジ袋をリュックに入れる。

 暑くもないのになぜか背中に汗が滲んでくるのを感じる。

 電車に乗り三つ目の駅で降りると、目の前に大きなホームセンターが現れる。

 ほとんど毎日電車の窓から見ていたが入るのは初めてだった。

 色んなものが売られている。

 テント、折りたたみのイス、自転車、ペットボトルに入った水、のこぎり、画鋲、ボンド、薄い木の板、五個入りのティッシュ・ペーパー、壁紙、金魚の餌。

仕事の途中なのか作業服姿の人が何人かいる。

「ガムテープはどこですか?」そばにいた店員に聞く。

「こちらです」言いながら親切にもその店員はガムテープが置いてある場所まで案内してくれる。

“強力”と書かれた白い半透明のテープを買い物かごに入れる。

 さて、と、次の品物を探しているとそれはすぐに見つかった。

“台所用品”のプレートがかかったコーナーにそれはあった。

 こんなものを、まさか生きている間に自ら買うとは夢にも思わなかった。

「どういったものをお探しですか?」女性の店員が声を掛けてきた。

「お酒が好きで、たまにバーでウィスキーを呑むんですけど、あの丸い氷を自分でも作りたいなと思って」

「そうですか」女性店員が答える。

「今夜、早速これで丸い氷を作ってウィスキーの入ったグラスに浮かべます」

 言うと、女性店員に頭を垂れ、ピカピカに尖ったアイスピックを手にしてレジに向かった。


         ②

 あいにくの雨空の中、室内練習所でひと汗かいて、シャワー室のあるロッカールームへ向かおうとした時、球団職員に呼び止められた。

「タツヤさん。ファンレターが届いていますけど」

「あ、そうなの。一緒に段ボールに入れといて。また、オールスターが終わってからでもゆっくりと読むから」

「それがチャイルドタウンからなんです」

「チャイルドタウン?」

 タツヤは球団職員から一通の封筒を受け取ると差出人を見た。

 まさか、息子のタツマからかと思ったが違った。

 女の子の名前が連名で書かれていた。

 封を開けると、ピンク色に縁取られた、アニメのキャラクターがあらゆるところで微笑みかけている便箋が一枚出てきた。

“タツヤ選手へ”

 便箋はその一行で始まっていた。

“いつも愛美理ちゃんと二人で応援しています。一度でいいから、タツヤ選手の姿を目の前で見てみたいなって愛美理ちゃんといつも言っています。だけど、愛美理ちゃんはママが病気で会いに来てくれることができず、外出することができません。私も、誰も会いに来てくれません。一度チャイルドタウンの人にどうしてですかって聞いたんですけど、お父さんもお母さんも遠い所にいるんでなかなか来れないんだって言われました。だから、私達二人は外に出ることがほとんどありません。だけど、タツヤ選手が活躍しているところは絶対に見たいと思っています。無理かもしれませんけど、もし、オールスターのチケットをもらえたら、二人でタツヤ選手を思いっきり応援したいと思います。よろしくお願いします“

 タツヤは封筒を受け取った球団職員を呼んだ。

「オールスターのチケット余ってない?」

「もう一枚もないんです。今年はうちのドームでやりますから、とにかく前売りもあっという間に売れてしまって」

 タツヤは福祉施設の子供達や交通遺児の子供達をオールスターに招待していたが、チャイルドタウンの子供達は招待していなかった。

 理由は簡単で、自分の息子のタツマがいることで、世間から、えこひいきしていると見られるのが嫌だったのだ。

「どうしても二枚いるんだ。なんとかならないか?球団にかけあえって言えばいくらでも俺はやるよ」

「ちょっと待ってくださいね」言うと、球団職員は携帯を取り出し、暫くすると誰かと話し始めた。

「そうか。それはわかってるんだけど、タツヤさんがなんとかならないかって言われてるんで」

 球団職員が難しい顔をして「そこをなんとかってお願いしてるんだろっ」と語気を荒めた時、一緒にオールスターに出場する温投手が顔じゅうに汗の粒をつけてやってきた。

「タツヤさん、どうした、険しい顔して?」首に巻いたスポーツタオルで汗を拭いながら温はタツヤに聞いた。

「いや、ちょっとな」苦笑いでタツヤは答えた。

「くそっ」球団職員が携帯を切りながら吐いた。「融通が効かないんだよなッ。タツヤさんが言ってるんだぜ、俺たちのタツヤさんが。俺達が飯を食えてるのはタツヤさんのおかげだってなんでみんなわかんねえんだろうな」

「どうした?あなたも怖い顔して」温が球団職員に聞いた。

「いや、オースルターのチケットを探しているんですけど、なかなか見つからなくって」

「私持ってるよ」

「えっ!」タツヤと球団職員は声を合わせた。

「中国の親戚呼ぼうと思ってたけど、急にこれなくなった」

「温、よかったらそのチケット俺に譲ってくれないか」タツヤが温の目を見て言った。

「いいですよ。タツヤさんのお願いなら、全然大丈夫です。ロッカールームに入ってるから後で渡すよ」

「すまない」タツヤは両手を合わせた。

「タツヤさん、そんなことどうでもいいことよ。それより、オールスター頑張りましょう。

 私三振取る、タツヤさんホームラン打つ。そうしましょう」

 言うと温はアハハと笑い、タツヤは、この野郎、と温の頭を息子のタツマの頭を撫でるようにやさしく撫でた。


         ③

「あら、幸子さんに何か来てるわよ」

 病院のメール室で仕分けをしていたパートの女性が幸子の担当看護婦の川邊香代に一通の白い封筒を手渡した。

「珍しいわね、誰かしら」言いながら香代は白い封筒の差し出し人を見た。

『チャイルドタウン 愛美理』

 封筒を裏返すと“速達”の赤い印が押されていた。

 香代は腕時計を見ると「幸子さん、まだ寝てないわよね」と自分に言い聞かせるとメール室を飛び出た。

 幸子はいつもとかわらず、部屋の窓から月と星しか見えない景色を眺めていた。

「幸子さん」香代の呼びかけに相変わらず何の反応も示さなかった。「手紙が来てるわよ」それでもピクリともしない。

「娘さんの愛美理ちゃんよ」

 幸子はちらっと香代の顔を見たかと思うと大きな欠伸をして立ち上がり、窓のカーテンを閉めた。

「どうしたの、もう寝るの?」

 幸子は何も答えない。

代わりに、押し入れを開けると布団を取り出し、ゆっくりと敷くと部屋の明かりを消した。

「愛美理ちゃんから手紙が来てるの。これから読むから、寝ながら聞いていてね」

言うと香代は封筒の中から無地の便箋を取り出し蛍光灯の豆電球のわずかな明かりに照らし出した。

「ママ、元気ですか。愛美理です。愛美理はプロ野球選手のタツヤのファンです。ママはタツヤって知ってますか。いつもホームランを打つ東京スターズのヒーローです。今度オールスターがドーム球場で行われます。見に行きたいんだけど、チケットもないし(チケットは今、チャイルドタウンで一番仲のいいさちえちゃんがタツヤに手紙を書いてなんとかもらえないかってお願いしているところです)愛美理には誰も会いに来てくれないし、さちえちゃんも、ママもパパも遠い所にいてなかなか会いに来てもらえないのでどうしようかって二人で困っています。もし、ママが元気なら、一度会いに来てくれませんか。ママが会いに来てくれたら外に出て泊まることもできます。病院でもいいです。もしチケットが手に入ってタツヤの試合を見に行った後、病院でママと二人で泊まってみたいです。初めてママに手紙を書きました。お返事待ってます。サヨウナラ」

 香代が読み終えると、幸子は、寝返りを打ち、香代に背を向けると、大きな欠伸をして、枕に頭を沈めた。


         ④

「宅斗なんて言うてきたん?」たかしは額から垂れる汗など気にせずに、こてにのせたお好み焼きを口に運んだ。

「プロ野球のオールスターゲームを見に行きたいんだって」凪は口元をナフキンで拭いながら、店員にワインのお代りを告げた後にたかしに言葉を返した。

「オールスターって言うたって、チケットなんか手に入るんかよ」

「友達の元太君が持っているんだって。だから、泊まりに帰るっていう目的でとりあえずチャイルドタウンから出してくれればそれでいいって。試合の前の夜は元太君の家に泊めてもらうからって」

「いつまでにチャイルドタウンに申請したらええんや?」

「明日までだって」

「明日か・・・時間あんのか?」

「出すのは今から書いて速達で出せば間に合うと思うけど、当日は朝からリハがあるから迎えに行くのが・・」

「そんなん適当に言うといたるから迎えに行ったりや。

 宅斗かって、オールスターって言いながら、ほんまはお前に会いたいんちゃうんか」

「そうなのかしら」

「俺はかまへんから、なんやったら、一日二人でゆっくりしてきぃな。どうせ当日は多分家族ずれが多いと思うから、大したこと言わんかってもそこそこうけると思うから」

「かまわないわよ。宅斗とは、また、別の機会にゆっくりと会うから」言いながら凪は、楽屋にニヤニヤと笑いながら入ってくるドクロの姿を想像した。

「そうなん。まあ、あんたがそう言うんやったらしゃあないわな」言うとたかしはグラスの底に残っていたビールを飲み干し、通りがかった女性の店員を呼んだ。

「ねえちゃん、生のお代りちょうだい。それと豚玉もう一枚焼いてくれる。マヨネーズはいらんで。それと、間違ってもからしとかケチャップかけたらあかんで。昔、こっちのある店で“関西風お好み焼き”って看板掲げてるところがあって、一回入ってみたんやけど、皿に載って出てきたお好み焼きの脇にからしとケチャップが乗ってたんや。『どこが関西風や』言うて店のマスターに文句言うたったんやけど、所詮、大阪なんて何にも理解されてへんねん。新幹線でわずか二時間半の距離なんやけど、情報の伝達なんてええ加減なもんや。それを何十年も前から『これからは情報化社会や』言うて、いかにも俺は時代の変化には敏感やって言う顔した、ちょっと気障なおっさん連中が言うとったけど、あんなもん全部ウソやったんや」

「ちょっと、声が大きいわよ」凪がたかしを見て言った。


第五章

 タツヤからオールスターのチケットが速達で届いたのは昨日の午後だった。

 試合まであと二日しかなく、半分諦めていたところに送られてきたので余計に嬉しく、愛美理とさっちゃんと三人で抱き合って喜びを爆発させた。

「外出の許可が出たわよ」部屋に入っていくと、二人はやったぁと両手を突き上げた。「ほんと、奇跡よね。まさか、あのタツヤからチケットを送ってもらえるなんて。よっぽどさっちゃんの手紙の書き方がよかったのよ」

「そうかなぁ」言いながらさっちゃんは少し照れた。

「明日は私も一緒にドームの前まで行って、あなた達二人を見送って、試合が終わるとまた同じ場所で待っているからちゃんと二人とも戻ってくるのよ」

「わかった」明るく頷きながら言ったさっちゃんの横で愛美理ちゃんも、うっすらと笑みを浮かべ一緒に首を縦に振った。

「そうだ、タツヤを応援するボードを作ろうか」

 二人に声を掛けると「うん、やるやる。目立つやつ作ると、タツヤが打席に立ったときなんかに映してもらえるかもしれないよ。愛美理おねえちゃん、何かいいの考えてよ」とさっちゃんが少し声を上ずらせて言った。

「画用紙とサインペン取ってくるね」

 言って部屋を出ようとした時「金色と銀色がいい」と愛美理ちゃんがぼそっと言った。

「わかったわ。愛美理ちゃんって結構派手好きなんだ。それならきっと目立ってテレビに映るわよ」

 職員室に戻ると、自分の席に着いた。

 フォトスタンドには笑っている二人の息子の写真と愛美理ちゃんの写真が寄り添って収められていた。

 ちょうど、愛美理ちゃんがここへ入所したころの写真だった。

 もちろん、表情など何もない。

 まさか、こんなに良くなってくれるとは夢にも思っていなかった。

 タツヤには本当に感謝したい。それと、さっちゃん。

 確かにタツヤは愛美理ちゃんのたった一つの心の拠り所だった。

 だけど、ほんとうに、心を開かせてくれたのはさっちゃんだった。

 別のチャイルドタウンからやってきて、少し変わったところもあるが、おねえちゃん、おねえちゃんと言って愛美理ちゃんに慕ってくれている。

 幼いが芯はとてもしっかりしている。

 家庭の事情で身寄りがほとんどないと聞いているが、暗い表情なんて一度も見せたことがなかった。ひょっとしたら、一人になったとき、寂しさでそっと涙を流しているかもしれないが、そんな涙は私が全部拭きとってあげる。二人に出会えてほんとうによかった。この二人は何が何でも私が守る。ほんとうにこの仕事についてよかった。無表情で、人が必死に話している言葉を聞き流した一流企業の人事課の面接官一人一人に言いたかった。あんた達の会社になんか入らなくてほんとうによかった。今の仕事についてほんとうに良かったって。

「よしっ」と勢いよく立ちあがり、画用紙を取りに行こうとした時、電話の音が部屋の中に響いた。

 暫くすると「美沙さん、お電話です」と電話を取った職員に声を掛けられた。「なんとか病院の看護婦のかたです。すいません、病院の名前がはっきりと聞き取れなくって」

「○○病院のかわべと申します」電話に出ると女性の声が返ってきた。「そちらに入所されています愛美理ちゃんのお母様の幸子さんの担当看護婦をしております」

 あぁ、と思いながら浮かせた腰をもう一度下ろした。

「先日、愛美理ちゃんからお母様の幸子さんに手紙をもらっていまして、私、全てを読んで聞かせましたが、幸子さんは、残念ながら何の反応も示しませんでした」

「そうなんですか」

「愛美理ちゃん、確か、オールスターゲームに行きたいんでしたよね?」

「あっ、それは大丈夫なんです。

 特別な許可が下りたので、オールスターゲームは見に行けるようになったんです」

「オールスターゲームにですか?」

「ええ、そうなんです。大好きなタツヤ選手からチケットをプレゼントしてもらって」

「へーっ、それはすごいですね。

 うちも男の子が二人いるんですけど、野球チームに入っていまして、やっぱり、タツヤ選手の大ファンなんです。この話を聞かせると自分達も行きたいって言いだすと思うので、話さずに心の奥にしまっておきます」

「ふふ、ほんと、そうですよね。愛美理ちゃんには行きたくても行けない人の分まで精一杯応援してくるようによく言っておきます」

「私もお母様には伝えておきます。愛美理ちゃんがタツヤ選手の大ファンで、明日、オールスターゲームを見に行くって」

「お願いします。だけど、愛美理ちゃんが一番好きなのは、やっぱりお母さんなんです」

「そうですよね、私もそう思います」言うと、かわべという看護婦は電話を切った。

受話器を置くと、人の影が視界の端っこに映った。

 職員室の入り口で愛美理ちゃんとさっちゃんが、先生早くと口の動きで伝えていた。

 この子たちは絶対に私が守る・・・そう心で誓うと「直ぐに行くから戻っていて」と二人に手を振り、椅子から「よっしゃっ」と言って立ち上がった。


         ②

 ママと会うのは久しぶりだった。

 最後に会ったのがいつか、あまりにも遠い昔の話で思い出すことができなかった。

「ほんとにいいの?」

「いいよ。ずっと前から元太君のうちで泊まるって約束していたし、それに一緒にお風呂にも入ろうって言ってるんだ」

「お昼ごはんどうする?」

「元太君のママがホットケーキを焼いてくれるって」

「明日は?」

「オールスターを見た後は、元太君の家ですき焼きを食べるんだ。だから、明後日の朝に迎えに来てくれたらいいよ」

「わかったわ。じゃあ、その日のお昼ごはんだけ一緒に食べようか」

「うん、いいよ」

 ママと一緒にチャイルドタウンを出ると、窓に黒いスモークを張ったワンボックスカーが止まっていた。

 乗り込むとすぐに車は発進した。

「お姉ちゃんは元気にしてる?」ママが聞いてきた。

「元気だよ。僕と違って勉強もできるし、外の学校にもいっぱい友達がいるみたいだし」

「宅斗は友達はいないの?」

「元太君だけ。外の子供達は何か違うんだよ。頭の色もみんな茶色だし」

「チャイルドタウンには?」

「一人もいない。みんな、何かおとなしいっていうか、地味っていうか」

「元太君とはどうして仲がいいの」

「どうしてって、なんとなく似ているんだよ。勉強もあまり好きじゃないし、運動神経も僕と一緒であまり良くないし。あと、なんて言うか、雰囲気っていうか」

「雰囲気って?」

「何となく元気がないんだよ」

「元気がないって・・・」

「パパとママの中が悪いんだって。だから、オールスターも僕と行くんだよ」

「で、宅斗も元気がないの?」

「お姉ちゃんによく言われるんだ」

「そうなの」言いながら凪は宅斗の頭を撫でた。「明日、ママとパパもオールスターに出るの知ってるでしょ」

「知ってるけど、僕は見ないよ。僕はパパとママのあんな姿見るの嫌いだから。漫才やっている間はどこかトイレにでも行ってる」

「そんなこと言わないでよ」

「僕、本当のパパに会いたいんだ。一度でいいから会いたいんだ」

「そ、そんなこと・・・」

「明後日の昼ごはんは家で食べるから。ママ、オムライス作ってね。元太君のママもオムライスが得意なんだって」

 やがて車は停まり、「さよなら」とママに手を振ると元太君の家の前で車を降りた。


         ③

 何度拭っても手のひらの汗は渇かなかった。

 すぐ目の前で男が笑っている。

 友達なのか周りの人間はみな男に“お“”か“”え”“り”と笑みを投げかけている。

「お飲み物は何にされますか?」

 店員の声にハッとする。

「とりあえず生ビールと冷奴ください」

 壁に掛けてある時計の短針は10の少し下にいて、外にはまだ朝の陽が残っていた。

「乾杯っ!」

 男達の宴が始まった。

 三日間、男の後を追いかけてきたが、ずっとこの調子だった。

「お待たせしました」大衆酒場の店員が生ビールのジョッキと冷奴の入った無機質な器をカウンターの上に置いた。

 生ビールをなめる。生まれて初めて生やした髭に乗った泡を手で拭う。誰が見ても、与党の元NO,2にはもう見えない。

「おい、久しぶりなんだからぐっといけよ。これまでの分、取り戻さなきゃだめなんだから、そんな小さなコップでなんか飲んでんじゃねぇよ。店員さん、すいません,どんぶりもらえませんか」

 どっと男達のテーブルが盛り上がる。

 ちらっと男の顔を見るとすでに顔が少し赤味がかっていた。

 塀の中のソフトボール大会を思い出す。訳もなくニヤリと笑ったあの顔。

 穴があくほど男の横顔を見つめると残っていた生ビールを一気に喉に流し込んだ。冷奴には全く手を付けていない。

「すいません、お勘定」

 店主らしき男性が前掛けで手を拭きながら「ありがとうございます」と言って伝票を持ってレジへ向かうと、店の奥から小さな男の子が駆け足で出てきた。

「おじさん、どこ行くの?」

「ちょっと用事があってね」

「たけしっ、お店の中に入っていなさい」店主らしき男性がレジを打ちながら男の子を叱る。

 おつりを受け取ると「おじさん、ありがとうございました、また来てね」と男の子が顔を見上げて言った。

「僕、しっかりしてるねぇ。これお駄賃だ、お菓子でも買いなさい」手のひらにあった小銭を全部男の子の木の葉のような手のひらに乗せると、恐縮がる店主らしき男性に「ごちそうさま」と言って店を出た。こどもはやっぱりかわいい。

 暫く歩き電車に乗る。

 黒いパンツスーツ姿のまだ表情にあどけなさの残る女性が二人、吊革につかまりながら楽しそうに話をしている。入社して初めての営業にでも向かうのか、空いている方の手に大きなカバンをぶら下げている。

 奈々も、もし生きていれば、同じくらいの齢だ。大学を出て働いていたのか。彼氏ができたのよと妻に聞かされ、やりきれない気持ちを晩酌で紛らわせていたのか。


 電車を降りると、駅の向かいにあるケーキ屋でショートケーキを二つ買い、タクシーに乗る。

 窓から見える景色はこの十五年間ですっかりと変わったが、奈々を思う気持ちは何も変わらない。

 寺の入り口で降りると管理事務所の脇に積まれているプラスチックのバケツと柄杓を手に、いつもの場所へと向かった。

 誰も来ていないのか、誰にももう覚えてもらえていないのか、墓石の周りには雑草が我が物顔で生い茂っていた。

 そんな雑草をむしり取り、柄杓で墓石の頭から水を垂らし素手で抱きしめる。

「奈々、久しぶりだな。悪かった、忙しくてなかなか来れなくて。ほんとうにすまない。今日は俊介と一緒に来たかったんだけど、どうしても父さん今日は一人でお前に会いに来たかったんだ。そうだ、お前の好きなショートケーキ買ってきたんだ。一緒に食べよう」

 箱から二個のショートケーキを取りだす。

 一つをそっと娘の前に置き、もう一つを手で掴みかぶりつく。

 口の周りに生クリームがへばりつく。

 そのクリームの上を涙が伝う。

「すまない。また、暫く来れなくなるんだ」

 ショートケーキにかぶりつく。生クリームと涙で顔がぐちゃぐちゃになる。

「父さん、あいつだけは絶対に許せないんだ。絶対に」

 遠くから何かの鳥の声が聞こえる。

「今度はいつ来れるかわかんないけど、俊介にはちゃんと言っておくから」

 もう一度墓石を強く抱きしめる。

「お前の仇だけは絶対にとってやるからな。法律が裁けないんなら父さんがこの手で裁いてやる。おまえを苦しめたあいつにはお前が受けた以上の苦しみを絶対に味あわせてやるから」

 肘でぐちゃぐちゃになった顔を拭い「じゃあ、奈々、元気でな」深く墓石に一礼し、その場から立ち去ろうとした時、砂利を踏みしめる音がした。

「先生」

目の前に、初老の男が一人立っていた。

「ずっと、お待ち申し上げていました」少し苦笑いを浮かべながら男が言う。

「げ、源さんですよね」震えた声で男に尋ねる。

「初めてお目にかかります」源さんは深々と頭を下げる。

 かなり前に、警察に連行されるときにVサインをした映像をテレビで見たが、そのときよりかなり痩せて小さくなった感じがした。

「どうしてここが?」

「そら、わかりますよ。先生が初めてあっしに手紙をくれ、娘さんの話を読ませて頂いたとき、ピンときましたよ。先生のお立場なら、あんな男のあとなんかいくらでも追える。

それをわざわざあっしみたいな男に言ってきたってことは、先生は、公人ではなく、一個人、寺田真として動かれるんだなと。そして、最後に来るところはここしかない。

 娑婆へ出てきてから色々と調べて、やっと場所を突き止め、それから毎日ずっとここでお待ち申し上げていたんですよ」

「そ、そうなんですか・・・。あっ、それより何かお礼をしないと」

「先生、お礼なんていりませんよ。その代わり、その肩から掛けているカバンていうかリュック、それをあっしにくださいよ」

「こ、これはだめです・・・」

「先生。あんたは人を殺められるような人間じゃありません。それにお嬢さんも悲しみますよ。先生とお嬢さんの無念は私が代わって晴らします」

「そ、それはだめだ。あの男はこの俺の手で・・・」

「先生さぁ、俺には身寄りが一人もいないんだ。誰に産んでもらったのか、誰に育ててもらったのかもわかりゃあしねぇ。そのせいかどうなのか、自分の子供を欲しいだとか、かみさんが欲しいとかって思ったことがねえんだ。ある時、向こうにいる時だったかな、同じ部屋に変わったやつがいやがって、俺が子供を扱ったビジネスの話をしたら突然怒り出しやがって、俺もあんなに他人に怒られたのは最初で最後だよ。確か、子供が欲しくてもどうしてもできないって言ってたっけなぁ。俺にはそんな気持ちなんか全くわかんねぇんだよ。だけど、やっぱり、身寄りのあるやつぁ、その身寄りっていうか、なんて言うか、家族っていうか、親戚っていうか、それは俺が言うのもなんだけど大事にしなきゃなぁ。

 だから、そのリュックは俺が貰うよ」

「げ、源さん・・」

「先生にはやっぱりお国のために頑張ってもらわなきゃな。

 確かに子供は増えて一時よりは国も元気になったけど、訳のわかんねぇ奴がいっぱい出てきやがったからな、自分のことしか考えねぇ、頭の中がおカラの奴がな」

「だ、だけど・・・」

「先生、そんなこと気にするこたぁねえよ」言うと源さんは真の肩からリュックを奪い取った。

「げ、源さん、ほ、ほんとうにすまない」

「何言ってんだ、礼を言うのはこっちだっての。今度はおそらく、長くなるだろうし、それに、もうこの歳だから、こっちに戻ってくることはおそらくねぇだろうからな。どこで住もうだとか何を食べようだとか毎日つまらないことをもう考えなくていいんだ。せいせいするよ。じゃあ、先生、ありがとな」

 軽く手をあげると、源さんは砂利を踏みしめる音だけを残して、静かにその場から去っていった。


         ④

「悪いな、仕事で疲れているところ」光田進は自分で淹いたコーヒーを俊介に差し出しながら言った。

「大丈夫です。夜勤の次の日は『あけ』で休みですし、それに、家でいても何もすることがないですから」

「仕事はだいぶ慣れた?」

「はい」

「彼女は?」

「そんな余裕まだありません」

「そうか。急ぐ必要はないけど、ずっといないってのはだめだぞ。この歳で一人ってのも結構きついもんがあるから、ちゃんと結婚して子供を産むことだ」

「わかりました。それより、総理は野球の経験はおありなんですか?」

「団体競技はほとんどやったことがない。

 未だに人の目を見て話せない奴がどうやってチームの輪の中に入っていけるんだよ」

 え?という顔を俊介はした。

「冗談だよ。そら小さい時に学校の校庭で友達とかとやってた時は四番でエースだったけど、そのあとは・・・もちろん、硬球なんて打ったこともないし投げたこともない。

 で、俊介君はどうなんだ」

「僕も同じようなものです。ですけど、チャイルドタウンにいるときは、対抗戦では四番でピッチャーやってましたから」

「へーっ、そうなんだ。じゃあ、お手並み拝見といこうか」


 久しぶりに嗅ぐ皮の匂いを光田は懐かしく思った。

「俊介君、じゃあ行くよ」

 と言ったものの、光田進が投じた球は、俊介のかなり手前で大きくお辞儀した。

「総理、もっと、思いっきり腕を振ってください」

言われるままに光田進は渾身の力を込め思いっきり腕を振って白球を投げたが、俊介が構えるグラブには届かなかった。

「総理、さっきよりはかなりよくなっています。

 振りかぶった時に右足に重心を掛けて、投げるときにその体重を左足に移しながら思いっきり腕を振ってください。球はどこに飛んでもいいですから、とにかく思いっきり」

 光田進は俊介に言われた通り、振りかぶると右足に重心を掛け、そして、ゆっくりとその重心を左足に移しながら思いっきり腕を振った。

 すると、光田の指先からはじき出された白球は、官邸内の澄んだ空気を切り裂き、俊介が構えるミットにバシッと言う心地いい音を立てて吸い込まれた。

「総理、最高ですっ!今の球ならプロでも打てないです」

「俊介君、君は将来いい政治家になれるよ。

 おべんちゃらをそんなにサラッと言えるのはある意味才能だよ」

「おべんちゃらじゃないです。今のは本当にいい球です」

 俊介は言いながら矢のような球を光田に返した。

「よしっ、そこまで褒めてくれるなら調子に乗って明日はプロから三振でも取ってやろうか」

 そう言ってもう一度放った光田の白球は、俊介の構えたミットに、心地いい音を立てて収まった。

「総理、僕が政治家になる才能があるなら、総理も間違いなくプロ野球選手になる才能がありますよ」

「そうか。総理になんかなるんなら、プロ野球の選手になった方がよかったかもしれないな。金は今の何百倍も稼げるし、綺麗な嫁さんはもらえるし、おまけにこんな苦労しなくて済むもんな」

 二人の間を白球は何度も行きかった。

「俊介君はお父さんとキャッチボールなんかしたことあるのか」Yシャツの袖で額の汗をぬぐいながら光田は俊介に聞いた。

「お父さんも忙しかったから、あまり記憶がないんですけど、お姉ちゃんがまだ生きてた頃に近くの公園で、そうだ、その時は確かお母さんもいたと思います。家族四人です、その時はみんないました、確かにみんないました」

「そ、そうか、なんか悪いこと聞いちゃったな」

「そんなことないです。久しぶりにみんなでいるとこを思い出せました。人間の脳ってのはすごいですよね。ずっと前のことをちゃんと覚えていて、映像も保存しているんですから。

ところで、総理はあるんですか、キャッチボールの記憶は?」

「俺にはないね。本当の親父は顔もほとんど覚えてない。それに“後”の親父ともキャッチボールなんかした記憶なんか・・・」と言いかけたとき、光田進は「あっ」と声をあげた。

「どうしたんですか。何か思い出しましたか?」言いながら俊介は山なりの球を光田に返した。

「いや、いいんだ。何もないよ」球を受けた光田は気のない返事を返したが、記憶のスクリーンにある映像が流れ始めた。

 かなり昔、というか、あの男がまだ光田のことを「進ちゃん」と呼んでかわいがってくれていた頃、一度だけ、母親と三人でどこかへ旅行に行ったことがあった。

 チエック・インした後、夕食までにまだ時間があり、どこか近くへ出かけようと思ったが、これといったところもなく、タオル工場の社長だったあの男が、ホテルのフロントマンをつかまえ「どこも近くに行くところがないから、子供とキャッチボールがしたいんだ。ここにグラブとボールはないのか」と言って、困らせていたことを思い出した。

 結局、暫くして、どこで調達してきたのか、二つのグラブと白いボールをフロントマンはあの男に差し出した。

 勝ち誇ったように戻ってきたあの男は「あそこでやろう」とホテルの中庭を指差した。

「進ちゃん、ボールはこうやって握るんだ」

 そう言って、進の手を掴んだあの男の指の感触が蘇った。

 と、同時に、記憶のスクリーンに映し出されていた映像が変わった。

あの時の光景が蘇ったのだ。

 手には血がどっぷりとこびりついた文化包丁。

 目の前には、体から大量の血を吹き出し、ピクピクと痙攣しているあの男。

「どうしたんですか、総理」

 駆け寄ってきた俊介の声で我に返る。

「いや、なにもない。久しぶりに運動したからちょっと疲れたんだ。俊介君、今日は本当に有難う。これで明日はもう大丈夫だよ。あとで自宅まで遅らせるから、悪いけど先に失礼するよ」

 言うと、光田進は秘書とSPを従え官邸の奥に姿を消した。



第一章

         ①

「おはようございます」

「おっ、ロビンちゃん、おはよう」大河内善三郎は、三十畳はある和室の部屋に湯呑を載せたお盆を持って入ってきたロビンちゃんに言った。

「先生、頑張りますね。昨日もすごかった」

「はっはっはっ。ロビンちゃんに褒めてもらったら俺も嬉しいよ」

「ほんと、私、体持ちません。先生、まだまだ、現役です」

「こいつぁ、まいったなぁ」言って、大河内は一人大笑いした。

「だけど、ロビンちゃんの言う通り、俺はまだまだ現役だ。このままでは終わらんぞ、なっ、」言いながら大河内はロビンちゃんのお尻を擦った。

「いやん、先生、それはセクハラです」

「今のがセクハラなら、さっきのロビンちゃんの発言も逆セクハラだぜ、なっ、伊藤さんよ」

「ええ」伊藤さんはさっきまで大河内が寝ていた布団を片付けながら言った。

「伊藤さんには今日は頑張ってもらわないとな。

 ところで、伊藤さんは野球のことは知ってるよな。スリーアウトでチェンジ、ストライク三つで三振、打ったら一塁に走る」

「大丈夫です」

「それならいいんだ。

 とにかく今日は球審の格好をして、光田進、知っているよね、日本の首相だ、その人にボールを渡してくれるだけでいいんだ」

「はい、わかりました」

「ロビンちゃん、試合開始は昼の一時からだから、途中で食事でもして行くか。景気づけに美味しものでも食べて行こう」

「わーい、すごく嬉しいです」

「その『わーい』はちょっとな。

 まあ、ロビンちゃんには悪気はないんだけどな。今度また技術者に言っておくよ。

 とにかく、伊藤さんも出かける用意をしてくれ」

「わかりました」

「今日はおそらく長くなると思うから」

 ぼそっと吐いた大河内の声はロビンちゃんにも伊藤さんにも聞こえなかった。

         ②

「宅斗君、たくさん食べや」

 清の言葉に「はい」と、か細い声を返した。

 食卓には元太君と元太君のパパと僕の三人。

 元太君のママは昨日のお昼にはホットケーキを作ってくれて夜にはカレーライスを作ってくれたけど、今朝起きると元太君と二人分のお弁当を残して家にはもういなかった。

 代わりにパパがいる。

 こんな朝早くからママはどこにいったのだろうか。

 元太君が言っていたことはまんざら嘘ではないみたいだ。ここの家族は崩壊している。

「宅斗君は、いつもチャイルドタウンで何食べてんのん?」パパが聞く。

「色々です」

「カレーライスとか?」

「はい」

「お鍋とかは?」

「お鍋はあまりないです。焼き肉はたまにありますけど」

「じゃあ、すき焼きはグッドやねぇ」

「はい」

「ええ肉ようさん買うたあるから、今日の夜は楽しみにしといてや」

「有難うございます」

「で、宅斗君はお父さんとはたまに話をするの」

 一瞬「お父さん」という言葉に戸惑ったがすぐに「たまーに話します」とパパに返した。

「僕らの世代はみんな“たかし世代”やからね。

 宅斗君も元太もしらんと思うけど、俺ら子供ん時に“そないに笑ってどうすんねん!”て言う番組があって、僕らは略して“そな笑ら”って言うてたんやけど、“そな笑ら”のメインが宅斗君のお父さんやったんや。とにかく面白うて、番組のあった次の日は朝からその話題で持ち切りや。見てへんかったら話題に付いていかれへんからみんなどんなことがあっても必死で見たんや。だから、僕らにとって横田たかしは神様やったんよ。

 大阪ってとこは、とにかくおもろいやつが一番やねん。どんなにイケメンでも勉強や運動ができてもおもろいやつが一番やねん」

「へぇ、そうなんですか」

「宅斗君、そろそろ行こうか。ホームラン競争も見たいし、何か前座でコンサートもあるみたいだから」

「元太っ。宅斗君、まだようさんご飯残ってんねんからもう少し待ってあげろよ」

「いえ、もうお腹いっぱいです」お腹に手をあて言う。

「ほんまに?元太になんか気ぃ使わんでいいんやで」

「いえ、いっぱい頂きました。すごく美味しかったです」

「そうなん。まあ、こんな朝ごはんでええんやったらいつでも来てよ」

「ありがとうございます」

「宅斗君、じゃあ行こう」元太君に声を掛けられると、元太くんのママが作ってくれたお弁当やおやつが詰まったカバンを手にして二人で元太君のマンションを出た。

 

 球場が近づいてくるとエレキギターをチューニングする音が聞こえてきた。

「ロックバンドのコンサートがあるんだよね」

「そうだよね」気の入っていない返事を元太君に返す。

頭の中はチラシに映っていた男の顔で占領されていた。

「有名なバンドなのかなぁ」元太君が聞いてくる。

「さあ、名前は聞いたことがないけど、オールスターで歌うくらいだからそこそこ有名なんじゃないの」

 入場ゲートに着くとプレーボールまでまだ3時間近くもあるのに人の列ができていた。

「すごいじゃん。やっぱりあのバンド有名なんだよ、宅斗君」

「そうかなぁ」

「きっとそうだよ」

チケットをもぎってもらうまで10分ほどかかった。

 席はバックネットと一塁側の内野席のちょうど中間くらい、階段を十段ほど降りるとネット際まで行ける位置にあった。

「飲み物買ってくるけど、宅斗君は何がいい」

「なんでもいいよ」

「僕コーラにするけど同じでいい」

「いいよ」言うと元太君は上ってきたばかりの階段をまた下りていった。

 何気なくグラウンドに目をやった。

 ユニフォームを着た選手はまだ一人もいなかった。

 チラシを拡げる。

 前座のロックコンサートの後、恒例のホームラン競争があり、そのあとオールスター戦が始まる。

 エレキギターのチューニングの音が外野の方から聞こえてきた。

 目を凝らして見てみると、胸くらいまで髪を伸ばした男が一人、いつもなら控えのピッチャーが投球練習をするスペースでギターを抱え指先を小刻みに動かしていた。

 顔ははっきりとは見えなかったが、チラシに映っている男と雰囲気が似ている。

「宅斗君」

 元太君が両手に何も持たずに戻ってきた。

「すごい人なんだ。あれじゃあ、たぶん二十分くらい待たないとだめだよ」

「いいよ。もう少ししてから又一緒に行こう」

 元太君にそう言った時、突然ドーム内に歓声が上がった。

 グラウンドに、選ばれた選手達がおそろいのユニフォームを着て駆け出てきたのだ。

「練習が始まるんだ」元太君が少し興奮した声を上げた。

 セントラル・リーグの選手たちだった。

「あれ、タツヤがいないなぁ」元太君が大きく目を見開き言った。

「もったいぶっているんじゃないの。俺はスターだって」

 言いながらも視線はずっと外野の方向に向けられていた。

 いつもなら控えの投手が投球練習を行うスペースでエレキギターを弾いている胸まで髪のある男を、ずっと、見つめていた。


         ③

「ご無沙汰してます」

 たかしと談笑していると、その男は入ってきた。齢は取っていたが、昔の面影はまだ残っていた。

「さすが、元スターですね。こんな大きな控室をあてがってもらって。俺達なんか、選手のロッカールームですよ。汗の匂いがほのかに香るロッカールームですよ」

 たかしは男の顔をちらっと見たが、何も言葉は発しなかった。

「あっそうだ、お礼を言っとかないとな。いつも子供がお世話になっております」

 男は自分が言った冗談に大きく口を開けて笑った。

「ちょっと、何か話があるなら、ちゃんとマネージャーを通してからにしてくれる」

マネージャーなどいなかったが咄嗟に言葉が出た。

「話ってよく言うよ。海外デビューをさせてあげるっていう約束はどうなってんだよ。俺はまだちゃんと約束を覚えているんだからな」

「いつの話をしてるのよ」

「いつ?へぇーっ、じゃあ、事細かく説明しましょうか。なんとかって言う高級ホテルで、どんな行為を致しながら、どういう言葉を使って俺に言ってくれたかを」

「もういいわよっ。何が目的なの。お金?」

「お金なんかいらねぇよ。

 ねぇ、たかしさん。

 あんたもよくわかってるよな、この世の中にはいくら金を出したって買えないものがあるってことは」

 たかしは何も話さなかった。

「この人には関係ないのよ。ほんとに大事な話があるのなら今日が終わってからにしてくれない。きちんと時間を取るわよ」と男に向かって言った。

「いやいや、そんなにお忙しいお二方に迷惑を掛けるようなことは致しません」言いながら男の耳にぶら下がっているドクロのイヤリングが、重い室内の空気をあざ笑うかのようにカラカラと鳴った。

「子供には会いに行ってあげてんのん?」初めてたかしが口を開いた。

「なんだ、喋れんじゃん。本番前に喉でも痛めたら駄目だから黙ってんのかと思ったぜ。

 何といっても元日本一の芸人さんだからな」

「ちょっと・・・」二人の間に割って入ろうとした。

 しかし、たかしが「ええねん、ええねん」と目で制した。

「前から一回話したいと思ってたんや。で、にいちゃんな」言うとたかしは普段では滅多に見せない刺す様な視線を男に向けた。「さっきの質問の続きやねんけど、チャイルドタウンには行ってあげてんのんかい?」

「行ってねぇよ」男は吐き捨てるようにして言った。

「なんでや?」

「なんでや?」男は取ってつけたようなアクセントで言った。「このの右下がりのアクセントでいいんだよな、ママ」笑いながら言った男は続けた。「俺、関西弁て言うか大阪の言葉はまだよくわかんないんだよ。ガラが悪いっていうのだけは何となくわかんだけど」

「答えになってまへんで」たかしの口調は変わらなかったが言葉に含まれている意志というか、すごみ、の量は間違いなく増えているのを感じた。

「なんで会いに行ったげまへんねん。あんたの子供でっしゃろ」たかしが言う。

「行く必要なんかないからさ。あの子はママが勝手に産んだ子なんだよ。なっ」言って男はこっちを見た。

「せやけど、あんたの子供やろ。タネは間違いなくあんたのタネなんやから」たかしが男の視線を引き戻す。

「わかんねぇぜ。なんせ、日本を代表する名女優さんだったんだから、男の一人や二人どうにでもなったんだろうから。ひょっとしたら、あんたの子供だってあんたが自分の子供だって思いこんでるだけで実は違うかもしれないぜ」

「やめなさいっ」思わず声を上げる。

「その、上から目線が嫌なんだよな」男が口を曲げて言った。

「もう、ええやんか」たかしがどこを見るともなく言った。「なあ、にいちゃんよ、子供って言うのは親が好きなんや。どんなにあほな親でも好きなんや。そら、何も全国の子供に俺がアンケートして聞いてきたわけやないけど、きっとそうなんや。せやから、今、ようテレビとかで虐待って聞くやんか。あんた、あれどう思う?」

「なんとも思わねぇよ」

「大好きなお父ちゃんやお母ちゃんにどつかれて蹴られて、めしも食べさせてもらわんと一人寂しく冷たいベランダで死んでいくんやで。たまらんでぇ。せやけど、きっとあの子らは、そんなひどい目に遭わされても、最後には、おとうちゃーん、おかあちゃーんって言って死んでいくはずや。可哀そうと思わへんか」

「そんなこと俺には関係ないよ」

「まあ、あんたがどう思おうが勝手やけど、子供のことだけはちゃんとやったってな。子供には親に迷惑掛けられる権利があんねん。せやけど、親には、子供に迷惑をかける、子供の将来を邪魔する、そんな権利なんか絶対にあれへんから。ほんまに頼むわ」

「頼むって言われてもなぁ・・・」

「宅斗君なぁ・・・」

「そんな名前だったっけ」

「今日、ここに見に来てんねんで」

「えっ」という驚いた顔を男はこっちに向け、そうなのよ、と首を縦に振って返した。

「ちょっとええとこ見したりぃや。宅斗君も喜ぶで・・・ほんまに」

 たかしがそう言った時、今日一日の大イベントの開始を告げる花火がドン!!と地面を揺らした。


         ④

 ドン!!という腹の底から響く花火の音で意識を取り戻した。

 と同時に左足に激しい痛みを感じた。

 膝の少し上の腿がどす黒い血で染まり、その下には大きな血溜まりができていた。

 動かそうとしたが、ダメだった。

 早くとどめを刺さないといけない。

 男の体が軽いけいれんを起こしぴくぴくと微動しているのが、だんだんとかすみ始めてきていた目でもわかった。

 油断をしてしまった。

 先生と別れた後、男のいる店を探し出し、カウンターに座ったがそこからが長かった。

 久しぶりの再会だったからか、男達の宴は陽の高いうちから始まり、終わった時には日付はとっくに代わり東の空が白み始めていた。

 おまけに、そのあと、男達は帰り道で見つけた公園で鬼ごっこを始めた。

 そして、全員が疲れ果て、やっと解散となった後、男は公園の中にある公衆トイレに一人で入っていった。待ちに待った絶好のチャンスだった。しかし、スタンガンを手にそっと公衆トイレに入ると、用を足していると思った男が、顔に笑みを浮かべ、目の前で仁王立ちしていた。

「おっさん、何あと付けてんだよ?」

 言うやいなや男はスタンガンを持っていた手に蹴りを入れてきた。

 激しい痛みが手に走り、スタンガンは手から離れた。

 すると男は、どこに隠し持っていたのか、小さなナイフを手にしたかと思うと「おりゃっ」という声と同時に飛びかかってきた。

 もみ合いになったが、すぐに膝のあたりに激しい痛みを感じた。男が手にしていたナイフから血が滴り落ちていた。男に刺されたんだということがわかった。

「死ねやっ!」

 男が続けざまにナイフを振りかざしてきた。

 もうだめかと思った時、手にスタンガンの感触があった。

 さっき手から吹っ飛んでいったのがちょうど地に着いている手の指に触れたのだ。

 間一髪だった。

 男が振りかざしたナイフが胸にたどりつく数センチ手前でスタンガンが初めて仕事をしてくれた。

 男が握っているナイフを手からもぎ取る。

 ジャムのように、さっきまで自分の体の中を流れていた血が刃にぬめり付いている。

 どこだ、胸か、頭か・・・ナイフを手にしたまま狙いが定まらない。先生との約束を果たさなきゃいけねぇ。

ナイフを手に振りかぶったが、振り下ろすことはできなかった。

「所詮、おいら、盗人だよ」一人呟くとナイフを放り投げた。

「先生すまねぇ、俺にはやっぱりできねぇよ」

 声でも聞こえたのか、男の体がぐらっと動いた。

 スタンガンをもう一度男の体に添える。一瞬男の体が浮いた。

「黙って寝てろってんだ」言うと、男の顔につばを吐いた。

「先生、これで勘弁してくれ」

 血の混ざったつばが男の顔をゆっくりと流れ落ちていく。

「ああ、ムショに戻りてぇ」

 呟きながら湿った土の上に腰を下ろす。ズボンのポケットからタバコを取り出す。白いフィルターが血で赤く染まっている。

「かあちゃん」震える手でタバコをくわえる。「助けてくれよ  もうゆっくりと生きてぇよ」

火を付けようとしたがポトリと胸の上にタバコが落ちた。

意識がだんだんと遠ざかっていく。

「なぁ  かあちゃん   一度でいいから会いたかったよ   一度でいいから源って名前を呼んでもらいたかったよ  なあ   かあちゃん  聞いてるかい  」

 エレキギターのジャーンと言う空を切るような音と同時に源さんは湿った土の上に体を横たえた。


         ⑤

 昨日からずっとテレビはつけたままだった。

 しかし、ニュース速報は流れず、新聞でもネットでもそれらしい情報は一切報じられなかった。

 テレビ画面にはオールスター戦のオープニングセレモニーと謳って、わけのわからない歌詞を叫び歌いながら“地球に愛を”と英語で書かれたシャツを着た男が頭をこれでもかと振っている姿が映し出されていた。

 リモコンのボタンを押し番組を変えたが、それらしきニュースはどこのチャンネルでも流れていなかった。

 パソコンのキーボードを叩いても、トピックスの欄に新しい記事は載ってこなかった。

 携帯が鳴った。まさかと思ったが、液晶の画面に映ったのは“総理”という文字だった。

「寺田さん悪いねぇ、留守番なんかお願いしちゃって」

「いいいですよ。どうせ暇でしたから。それよりどうですか?そろそろ緊張してきたんじゃないですか」

「やめてくれよ。やっと落ち着いてきたところなのに」

「いいじゃないですか。

 大概、皆さんホームベースまで届かないですから、気軽にやってくださいよ」

「だめだ。俺はこう見えても完璧主義者なんだ。やるからにはど真ん中に投げ込みたいんだ。それに、俊介君に申し訳ないじゃないか。忙しい所、特訓してもらったし、今日もわざわざ見に来てくれてるんだから」

「そうなんですか?」

「ああ。俊介君から聞いてない?」

「ええ」

「そうか。まあ、楽しみに見といてくれよ。剛速球でプロのバッターをぎゃふんと言わせて見せるから」

 光田との話を終えると今度は俊介の番号を押した。

「もしもし」

「なにぃ」

「今日、オールスター見に行くのか?」

「もう見に来てるよっ」

「声がでかいよ。俺はまだ耳は遠くないんだから」

「違うんだっ、周りがうるさいんだよっ。さっきまで訳の分かんないロックバンドが歌い狂ってんだよ」

「知ってるよ。今、テレビで見てるんだから」

「なんだ、そうなの」俊介が言った瞬間、バーーンンっっと爆弾が爆発したような音が目の前のテレビと受話器の向こうから重ねて聞こえた。

「えらく派手だよな」

「やっと終わったよっ」俊介の声の後ろから観客のざわめきが聞こえる。

「総理、喜んでたよ。お前には色々とお世話になったからって」

「そんな特別なことはしてないんだけどなぁ。それより、良かったら今からドームに来ない。まだ、総理からもらったチケットが一枚あるんだ」

「いいよ。ちょっと用事があるから」

「そうなの。じゃあ、総理を応援してあげてよ」

「わかったよ」

 携帯を切るとテレビの画面をオールスター戦に戻した。

 グラウンドにはライブコンサートの名残か白煙がまだ少し残っていた。

 ホームラン競争がまもなく始まる、と実況のアナウンサーが伝えると、ドーム内に沸き起こった拍手が画面から漏れ伝わってきた。

 タツヤの姿が見えた。たくさんの報道陣が取り囲む。

 しかし、テレビ画面には、それ以外、何の変化もなかった。


         ⑥

 二人の女の子と並んで立つタツヤに一斉にフラッシュが浴びせかけられる。

「えー、それでは、タツヤ選手と、今日のこのオールスター戦、それもこれから行われるホームラン競争を目の前で見ることのできるスペシャルシートに運よく当選された二人の女の子達ですっ」リポーターがドーム内の歓声に負けずと声を張り上げる。

「お譲ちゃん達は今日はどこから来たのかな」リポーターが二人の女の子に聞く。

「近くからです」

 二人のうち明らかに歳が下の方の女の子のコメントにドームが笑い声で包まれた。

 女の子は別に観客を笑わそうと言ったわけではなかった。

 グラウンドに入る前に一人の大人の男の人から「どこから来たのと聞かれたら、『近くから来た』と答えてね。絶対にチャイルドタウンから来たとは言わないでね」と言われていた。

「そうですか、近くからですか。そらそうですよね、あんまり遠いところからだとこれから始まるホームラン競争には間に合わなかったもんねぇ」

 リポーターのくだらないフォローに失笑としか思われない声がドームの中を漂った。

「それじゃあ、お名前聞かせてもらえますか」リポーターが二人の女の子に聞く。

「さちえです」さっきドームに笑いを起こした女の子が先に答える。

 少し遅れて「えみりです」ともう一人の女の子が消えいるような声で答えた。

「さちえちゃんもえみりちゃんもタツヤ選手の大ファンなんですね」

 レポーターのお決まりの口上にさちえという名前の女の子だけが大きく頷いた。

「さちえちゃんとえみりちゃん、タツヤ選手のどこが好きですか」

 レポーターの問いかけに二人の女の子はせぇのうでぇっと体でリズムを取ると「ホームランをたくさん打つとこですっ」と声を合わせて言った。

 観客が沸く。

「タツヤ選手、二人の女の子のためにもホームラン競争ではたくさんのホームランを打つことを約束してくれますかっ」リポーターが興奮してタツヤに聞く。

「約束しますっ」

 さらに観客が沸く。

「ホームラン競争だけでなく、試合でも必ず打つことを約束しますっ」

 言うとタツヤは二人の女の子の小さな肩に手を回し、観客の声援に応えるため、もう一方の手を大きく拡げ、報道陣のフラッシュを自ら吸い取るようにして浴び続けた。


第二章

「幸子さん、どうかしたの?」これまで見たことが無い表情でテレビに食い入る幸子に川邊香代は聞いた。

「えみり、えみり」幸子は震える声でテレビに問いかける。

「どうしたの幸子さん、えみりちゃんがどうかしたの?」

 テレビの画面には、香代の二人の息子が大ファンのタツヤが女の子二人と笑顔で映っていた。

 そうだ、今日はオールスターゲームの日だったんだ。

「えみり・・・えみり・・」幸子はテレビへの問いかけをやめない。

「どうしたの」香代が近づくと、幸子はこっちへ来るなと手を大きく振った。

「えみり・・・えみり」幸子の声がだんだんと大きくなる。

「幸子さん、えみりちゃんがどうか・・」と言った瞬間、香代はテレビに映る二人の女の子を見た。

「幸子さん、この女の子、ひょっとしてえみりちゃんなの?」

 香代がテレビに映る二人の女の子を指差した。

この間、会いたいという手紙が来て、本人に読んで聞かせたが、なんの反応もなかった。そして、そのえみりちゃん、がいま何歳でどんな顔をしているのかなどは全く知らなかった。

「先生っ!」幸子はテレビの画面から目を離したかと思うと香代に目を剥き「会いに行くっ、えみりに会いに行くのっ」と迫った。

「幸子さん、そんなに興奮しちゃだめでしょ。少し落ち着いて」

香代が窘めるかのように言うと、幸子は突然立ち上がり「えみりーーっ!」と奇声を発し、止めようとした香代を突き飛ばし、病院の待合室を駆け出て行った。


        ②

「あれっ」画面に映った女の子を見て直子は声を上げた。

「この子どこかで・・・」

 女の子は、自分より少し年上の感じのもう一人の女の子と一緒に、プロ野球界を代表するスター選手、タツヤと一緒にフラッシュを浴びていた。

「チャイルド」

隣で一緒にテレビを見ていた娘の望美が声を上げた。

「チャイルド?」

一瞬、えっという顔をしたがすぐに「あっ、そうだ、あの時の」と言って直子はその女の子のことを思い出した。いつか、望美を連れてチャイルドタウンへ幼稚園の交流会に行った時、廊下で場所を教えてくれた女の子だった。確かあの時、その日で別のチャイルドタウンへ移るっていうことを女の子は言っていたはずだ。

「望美はえらいねぇ、ちゃんとあの時のことを覚えていたんだ」直子は娘の頭を撫でてあげながらもう一度、テレビの画面に目をやった。

 女の子は屈託のない笑顔で周りの人に手を振っている。

「この女の子達いいわよね、タツヤ選手に招待してもらったんだよ」直子は望美に話しかける。

応えるかのように「タツヤ」と望美がテレビ画面のタツヤを指差す。

「そうよ、タツヤよ、かっこいいよね。望美も将来こんな人と結婚できたらいいよね。お金いっぱいあるし、大きな家に住めるよ」

「悪かったな貧乏で」竹男が犬の“のぞみ”を抱いて居間に入ってきた。

「俺も好きで貧乏やってんじゃないんだよ」竹男が少し不貞腐れて言う。

「そう言う意味で言ったんじゃないわよ。望美が将来貧乏になるよりはお金持ちになっていい暮らしをしてくれたほうがいいって普通の親なら思うことでしょ」

「ほんとかよ。俺には嫌味にしか聞こえないけどなぁ」

「うちは正直、経済的にはきついわよ。だけど、私はこれっぽちも不満になんか思ってないわよ。こんな可愛い娘と家族三人で毎日平穏に暮らせてるだけで充分幸せよ」

 直子が言った時、犬の“のぞみ”がワンっと鳴いた。

「のぞみ怒ってるじゃないか、私も家族の一員だって」竹男が言う。

「ごめんなちゃい、のぞみちゃん、あなたも私たちの立派な家族の一員よ、お腹すいた?すぐにご飯作ってあげるからね」

直子が言うと、竹男の顔にやっと笑みが浮かんだ。

「だけど、タツヤはすごいよ。俺達“同期”の誇りだよ」言って竹男は直子に顔を向け、直子は苦笑いを浮かべ、二人で視線をテレビ画面に移した。

“タツヤ選手っ、ありがとうございました。それではホームランを期待していますっ”リポーターが画面の中で声を上げる。

“そして、えみりちゃんとさちえちゃんにも、観客の皆さん、拍手をお願いします”この言葉でドームは歓声で沸き、暫くして、画面はCMに切り替わった。

 大手自動車メーカーと、同じく大手の生命保険会社のCMが流れる。

「昼ごはんどうする?作るのが面倒ならコンビニでも行ってなんか買ってくるけど」

 竹男が声を掛けたが直子からは何の反応も返ってこなかった。

「おい、どうするんだよ」

返事がない。

「なんとか言え・・」直子の方に振り向いた竹男は言葉を失ってしまった。

「さちえちゃん・・・さちえちゃん・・・」

 お経をよむようにして呟きながら、見開いた瞳から大量の涙を流し、直子がテレビ画面に向かって体を震わせていた。


         ③

「伊藤さんよぉ、やけに似合うじゃねぇか」

 大河内善三郎は湯呑を傾けながら言った。

「昔どこかでやってたんじゃねえのか」

 大河内の言葉に伊藤さんは「そんなことはありません。こんなのを着たのは初めてです」と言って、アメフトの選手のように膨らんだ胸のあたりを軽く擦った。

「伊藤さんよぉ、今日は何も余計なことは話さなくていいんだ。ただ、始球式のボールを取ったキャッチャーからそのボールを受け取ると、ピッチャーズマウンドへ行って、そのボールを投げた光田のおっさん、いや、光田首相にボールを渡す、ただ、それだけでいいんだ」

「わかりました」伊藤さんは表情を変えずに言った。

「まぁ、少し余裕があればボールを渡す時に『進ちゃん』と言ってくれればベターだけどな」

「承知しました」と伊藤さんがコクリと頷いた。

「ところで、伊藤さんはまだ一人もんだったっけ」

「そうです」

「なんだ、そうなのか。誰かいい人はいねぇのかよ」

「いないです」

「家庭を持ちたいっていう気はあるのかよ」

「まぁ、できればなんですけど、もうこの歳なんで」

「そんな悲観するこたぁねぇよ。なんなら、子持ちの未亡人と結婚したらどうだい。

 いっぺんに嫁さんと子供ができるぞ」

「それは無理です」

「何が無理なんだよ?」

「まぁ、奥さんはいいとしても、自分の本当の子供でない子を可愛がる自信はありません」

「どうしでだよ」

「いえ、なんとなくなんですけど」

「へぇ」大河内は薄ら笑いを浮かべた。「やっぱりそうなのか」

「やっぱりとは?」

「いや、何もねぇ、ただの独り言だよ」

 そう言うと、大河内はにやりと笑い、小さな窓の向こうに目を移した。


            ④

「うわーっ、すごいよね」元太が思わず声を上げた。

 白球がピンポン玉のように外野のスタンドに吸い込まれていく。

「宅斗君、次、タツヤだよ」

 元太の問いかけに宅斗は「そうなの」と全く私は興味がありませんと言わんばかりの気持ちがこもっていない返事を返した。

「宅斗君、どうかしたの?」

「うぅん、別に」

「タツヤが終わったら一緒にジュース買いに行こうね」

宅斗は伏し目がちに「うん」とかすれた声を元太に返した。

「宅斗君どうしたの、何か変だよ。お腹でも痛いの」

「うぅん、なんでもない、大丈夫」宅斗が言った時、ドームが突然歓声で沸いた。

 タツヤが矢のような打球を外野スタンドに放ったのだ。

「すごいよっ、」元太は興奮して立ち上がった。

「元太君」宅斗は一人蚊帳の外のような元気のない声を出した。「ちょと、トイレに行ってくるね」

「やっぱり、どこか具合が悪いの?」元太が立ちあがったまま心配そうな眼を宅斗に向けた。

「ううん。大丈夫」言うと宅斗は元太に薄い笑顔を向けスタンドを下りていった。


 どこに行けばいいのかわからなかったが、とりあえず、本番前にギターを鳴らしていた控え投手の投球練習場がある外野席のスタンドに向かって通路を駆ける。

 しかし、内野席と外野席はつながっていなかった。

「また戻ってくるの?」係員の問いかけに二度首を縦に振って手の甲にスタンプを押される。

 一旦ドームの外に出ると、外野席の入場口に向かって駆ける。

 タツヤが又スタンドに球を運んだのか、ドームから歓声が聞こえてくる。

「僕、そのスタンプは内野席のだから外野席には入れないよ」係員に止められる。

「会いたいんだ、パパに」

 宅斗の声に係員はうん?という顔をした。

「さっきギターを弾いていた人、あの人、僕のパパなんだよ。だから、会いに行きたいんだ」

 係員はもう一度?という顔をして「ちょっと待ってね」と言って、横にいた同じような顔をした係員に何かを言いかけた時、宅斗は、係員の腕をすり抜け、ドームの中に駆け込んだ。

 パパに会うんだ。

 宅斗は腕を振り地面を蹴り、風のように通路を駆けていった。       


            ⑤

 田代さんからの電話だった。

「頑張ってください」

 たった一言がなぜか重く心にのしかかる。

 単に野球が好きだった。

 高校の時、二度目の完全試合を達成した後、日本人のスカウトらしき男に声を掛けられ、球場近くの食堂でしばらく話をして、日本へ行くことを決心した。

 契約金は父と母が毎日朝早くから夜遅くまで畑で働いて稼ぐ一年間のお金の百倍を超えていた。

 一年目でいきなり十勝を挙げ新人王に選ばれた。

 国に帰るとヒーローだった。

 海を渡った成功者、として招かれた晩餐会の席では、これまで会ったことのないたくさんの人から握手を求められ、君はこの国の宝だ、という言葉を何度ももらった。帰りがけ、国家主席の側近と名乗る男から、日本に戻った時この男性と会ってほしいと、一枚の写真を渡された。コンタクトは向こうから取ってくるからそれまでは何も自ら動くことはないと言われた。今年のシーズンが始まって暫くすると、その男から電話があり、タツヤさんのサヨナラホームランで勝ち星がついた試合の後、タツヤさんにはお父さんと会うからと嘘を言って、都心から少し離れた料亭へその男と行った。その男が、田代さんだった。

「この手紙をあなたの名前で国家主席に送って頂ければそれで・・」

 丹念に磨きこまれた漆黒のテーブルに置かれた白い封筒が気になり、食事はほとんど喉を通らなかった。

 帰りがけ「あなたの国家と私ども日本の命運が懸っておりますので」と田代さんは漏らし、黒塗りのハイヤーで料亭を後にされた。

 突然、大歓声が起こる。

 ベンチに戻ると、タツヤさんがホームラン競争でドームの最上段にあるビールメーカーの看板を直撃する特大ホームランを打ったところだった。タツヤさんはやっぱり凄い人だ。

 自分も負けないように今日はただいいピッチングをするだけだ、温は自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。


         ⑥

ニュース速報を知らせる電子音が鳴った。

テレビ画面にテロップが流れる。

“ドーム球場近くの公園に男性の死体。足に刺された傷があり、警察は殺人事件とみて捜査を開始”

「源さん・・・」思わず言葉が漏れる。

朝刊を配る自転車のブレーキ音が聞こえ始めた頃「あの野郎、やっと店を出ました。後をつけます」と連絡があった。

テレビ画面には、ホームラン競争で放ったタツヤの特大ホームランに沸き立つドーム球場が映し出されている。

「これで良かったんだよ・・・これで」自分に言い聞かせながら自宅から持ってきたフォトスタンドに収まる娘に語りかける。

「もうこれで終わりにしよう」もう一度娘に語りかけると真は洗面台に向かった。

「こんな汚い顔をしてちゃだめだよな」

シェービングクリームで顔を覆う。髭を削り取る剃刀の音が懐かしい。

 携帯が鳴った。

 慌てて湯で顔を洗いタオルで顔を拭いながら携帯を手にする。

“やっぱりタツヤはすごいよ”

 俊介からだった。

“生で見た方が絶対にいいよ。こっちに来れないの?”

「行きたいけど、今日は光田さんから留守番を頼まれているから」

“そうなの。じゃあ、しょうがないよね“

「悪い。また今度ゆっくり一緒に見に行こう」

“わかったよ”俊介の少しトーンダウンした声を聞いて携帯を切った。

 リビングに戻るとふかふかのソファに腰をおろし飲みかけのワイングラスを手に取る。

 テーブルの上のテレビのリモコンを手に取り、何気なくチャンネルを変える。

“プロ野球のオールスターゲームが行われているドーム球場と目と鼻の先にある小さな公園で男性の死体が発見されました”

口から泡を飛ばして喋る若いリポーターが突然画面に現れた

“男性の死体には膝に大きな刺し傷があり、その男性の脇にもう一人の男性が倒れていたということです”

 口に運ぼうとしたグラスが止まる。

“その、脇に倒れていた男性は病院に運ばれましたが命には別条がないということです。

 尚、亡くなっていた男性の膝に残っていた刺し傷はサバイバルナイフのような鋭利な刃物で切りつけれたものであり、又、二人のそばにはスタンガンが落ちていたということで、警察は病院に運ばれた男性の症状が回復次第事情聴取を行うということです。

 ちなみに、亡くなった男性は年齢が六十歳から七十歳くらい、又、病院に運ばれた男性は四十歳から五十歳くらいで、警察は亡くなった男性の身元の確認を急いでいます。

以上、現場からでした“

 グラスが手から落ち、赤紫のワインがテーブルの上で大きく花を咲かせた。

 体が震えだす。

 チャンネルを戻すと、ホームラン競争が終わったのかドーム球場のグラウンドには選手の代わりにグラウンド整備員が、土の部分にトンボをかけ、バッターボックスの白いラインを慎重に引いていた。

“なに、父さん?試合が見たくなったの?

 まだ、今から出ると、横田たかしと朝風凪の漫才が始まる頃にはこっちに着くよ“

 いつの間にか俊介に電話を掛けていた。

「すぐに公園に行ってくれ」

“公園?どこの公園だよ?それに、何しに行くの?“

「そんなの後で説明する」

“説明するって、いったい何のことなのか全然分かんないよ”

「頼む。頼むからすぐに公園へ行ってくれ。ドームのすぐ近くだ。パトカーがたくさん止まっていると思うから、わかるはずだ」

 一方的に携帯を切る。

 体の震えが増す。

 テレビ画面から大きな歓声が沸き起こる。手にグラブをした選手たちがグラウンドに飛び出てきた。ゴロを取ったり、大きく振りかぶって隣を守る外野手にボールを投げたりする。

 やがて、光田さんが、赤いリボンのついたかごを手にした小さい女の子と手をつないでマウンドに向かって歩き始める。

 しかし、そんなことはもうどうでもよかった。

 なにか人を傷つけられるものを探す。

 子守党の幹事長に電話を掛ける。

「さっきドームの近くの公園で起こった事件の、男が運ばれた病院をすぐに調べてくれ」

 電話を切る。

 テーブルの上に散らばる割れたグラスの欠片を手に取る。首の動脈なら十分切れる。

 ソファから立ち上がる。

 テレビの電源を切ろうとリモコンを手にした時、頭の先から足の指の先までが一瞬の間に凍りついてしまった。

 テレビに映っている、光田さんと手をつないでマウンドに向かう女の子は、間違いなく、自分の娘、奈々、だった。


         ⑦

「おっ、いよいよ始まんねんなぁ。せやけど、ちょっと前座が長すぎるわなぁ。なにもあんたの“元”旦那って言うか“前”旦那やな。“元”は俺のことやから、その“前”旦那のせいやなくて、この催しを企画してる奴やなんやろうけど、本番が始まるまでにあまりにも時間が長すぎて、なんや、だれてしまうわな」

 凪は返事をしなかった、と言うか、控室の壁に掛けられている小さな液晶テレビを食い入るように見ていた。

「どしたんや。なんかええ男でも映ってんのか」

「ううん、なんでもないの」言いながら凪は首を横に振った。

「そうか。何にもないような顔やないけどな」言うと、たかしは液晶テレビに顔を向けた。

「あれっ、宅斗君ちゃうんか?」

 テレビの画面には、外野席のスタンドとグラウンドを隔てるフェンスにしがみついて何かを叫んでいる小学生くらいの男の子を、必死で止めようとしている係員の姿が映っていた。

「そうよ」凪が俯きながら言った。「たぶん、あの人に会いたいんじゃないのかなって・・・」

「それやったら、あんた行ったりや。宅斗君一人やったら可哀そうやで」

「だけど・・・」凪は顔を上げた。

「あんなしょうもない男でも宅斗君からしたらお父ちゃんやんか。で、あんたお母ちゃんやろ。行ったりよ。子供につらい思いさしたらあかんやん。それで俺ら刑務所に入れられてんから」

「でも・・・」

「ええよ。俺は一人でもできるから」

「だけど、スポンサーの人から何か言われたり・・」

「そんなん気にせんでええよ。て、言うか、もうやめとこ。今日からは俺一人でやっていくわ。あんたにはこれまでだいぶ無理言うてやってきてもらったけど、ほんま、すまんかった。もう今日からは宅斗君と、それと蘭のこと頼むわ。二人ともお母ちゃんはあんたなんやから。あの男はちょっと気に入らんけど、そんなんどうでもええわ。もっとチャイルドタウンに会いに行ったって。さっきも言うたけど、子供につらい思いさせる権利なんか親にはこれっぽっちもないんやから。早よ行ったりよ。そのうち係員のやつら警察呼びよんで。

 “元”っていうか俺は今でも“今現在”と思っている“日本を代表する女優”のあんたがちょっと言うたらなんとかなるやろ」

「ほんとにいいの?」

「そんな優しい言い方したん、これまで初めてやなぁ。また、惚れてまうわ」

 たかしの冗談に、つまらないこと言わないの、といった顔を返すと、凪はハイヒールをスニーカーに履き替え、控室を飛び出て行った。


第八章

 野球場のグラウンドに立つのは生まれて初めてだった。

 これまでも何度かオファーはあったが、元来、少年野球を少し齧っていたとはいえ、どっちかというと、やるよりは見る方が好きだったので全てを断ってきた。

 しかし、今回、自分達が作った法律の申し子と言うか犠牲者と言うか、なんと言えばいいのか、とにかく象徴のような存在のタツヤが所属する東京スターズからの申し入れだったので断ることができなかった。

「いま何歳?」

 一緒に手をつないでピッチャーズマウンドまで登ってきた女の子に聞く。

「八歳」

「野球は良く見るの?」

「あんまり」

「タツヤ選手のことは知っているよね?」

「少しだけ」

「じゃあ、おじさんのことは?」

 知らない、と、女の子は少し顔を赤らめて首を横に振った。

「そうか、じゃあ、帰ってお父さんとお母さんに聞いてみて」

「はい」と女の子ははにかみながら今度は首を縦に振った。

 歓声が上がる。

 顔を上げるとバッターボックスに、選ばれし選手がゆっくりと歩を進めていた。

 同時に女の子が赤いリボンの付いた小さな手提げの籠からマッチではなく白球を渡してくれた。

「ありがとう」言うと同時に腕をグルグルと二回回す。

 俊介君が教えてくれたことを思い出す。

 花火が上がる。

 主審が「プレイボールっ」と右手を天に突き差す。

 白球を握りしめ、大きく振りかぶり、右足に乗せた体重を左足に移しながら思いっきり腕を振る。

 山なりに近いボールがキャッチャーミットに収まると同時にバッターボックスに立つ選手が、お決まりの大げさな空振りをしてくれた。

 失笑の混じった歓声がドームを包む。

 観客に向かって大きく手を上げる。

 この動作だけはしたくはなかったが、秘書から、お願いですから、と言われ渋々承諾した。

 ピッチャーズマウンドを降りると主審が白球を手に駈け寄ってくる。

 何も言わずに白球を受け取る。ちらっと顔を見ると目が合った。脳みそが何かに反応した。

「進ちゃん」

 進・・・ちゃ・・体が硬直する。球審の顔の皮がずるずると剥けていく。

 記憶が蘇る。

 受け取った白球が血の付いた包丁に変わる。

 足の裏にはあの家の畳の感触が・・・包丁から滴り落ちる血・・血・・そして、血。

「お願い、進、母さんだけは、母さんだけは・・・」

 母さん!?あなた僕の母さん?いつから?誰に言われたの?僕はそんなこと知らない。

全然知ーらないっと・・・ッつ!!。

 口から泡を噴いて倒れた光田進にドームは騒然と化した。


         ②

 やっと試合が始まった。

 お父さんが今朝「日本で一番偉い人だ」と言っていた人が始球式を終えた途端、口から泡を噴いて倒れた。

すぐに、背広を着た人や審判が駆け付け、あっという間に人垣の向こうにその「日本で一番偉い人」は見えなくなった。

すぐに、救急車がグラウンドに入ってきて、ブルーのシートが人だかりを覆い尽くし、カメラを手にした男が一人そのブルーのシートの上から写真を取ろうとしたが、背広を着た目つきの悪い男に取り押さえられた。

暫くすると、赤いパトライトを灯しながら救急車はそーっとグラウンドを去り、審判の一人がマイクを持って「光田首相は体調を崩され、ただ今病院に搬送されました。情報が入り次第お伝えしますが命に別状はないということです」と伝えた。

この言葉にスタンドから「はーっ」という長い間水に潜っていた人が水面から顔を出した時に吐くような声を出した。

そして「日本で一番偉い人」が“光田首相”と言うことが分かった。

トイレに行った宅斗君がまだ戻ってこない。これだけいっぱいのお客さんがいるから並んでいるのかな。

 一人ぼっち。

 本当はお父さんかお母さんのどっちかと見に来たかった。だけど「宅斗君と見に行くから」と言ってしまった。そんなつもりではなかったが「一緒に行ってよ」と、どうしても言えなかった。

 わーっと歓声が沸き起こる。誰かがヒットを打った。

 お母さんが作ってくれたお弁当を開ける。白いご飯に海苔で顔が描かれている。いつもお母さんに怒っているお父さんの顔に見えた。お箸でくちゃくちゃにつぶす。横でソーセージのタコが笑っている。

「何がおかしいんだっ」

箸で摘まむと口の中に放り込む。泣かないと思ったけど、涙が勝手に頬を伝わる。袖で涙を拭くけど止まらない。

 もう一匹のソーセージのタコを箸で強く摘む。

「痛い」という声が聞こえたような気がした時、顔に涙以外の何か冷たいものを感じた。

 手で拭うと続いて肘のあたりにも同じような冷たさを感じた。

 空を見上げると、シャープペンシルの芯の様な細い雨がいっぱい落ちてきた。

 もっと降れ、いっぱい降れ、全てを流してよ。お願いだから。

 周りの人は傘を開いたり、新聞紙を頭にかざしたり、屋根のあるところまで走って行く人もいた。

 やがて、開いていたドームの屋根がゆっくりと閉まり始めた。

 ドームの中に漂う悲しみや苦しみ、そして、ささやかな幸せを含んだ喧騒を包み込むようにして・・・。


        ③

 父さんからどこにあるのかわからない公園へすぐに行ってくれと頼まれたが、ちょうど始球式が始まるところだった。

 自分が“指導”した総理の投球だけはどうしても見たかった。

 そして、総理の山なりのボールがキャッチャーミットに収まったのを見届け、立ち上がろうとした時、ドームが騒然と化した。

グラウンドに目を移すと総理が口から泡を吹いて倒れていた。

 暫くポカンと開け、立ち尽くしていたが、父さんからの電話を思い出した。

 グラウンドに背を向け近くの出入り口を探しながらスタンドを駆け上がっていく時、見覚えのある男性の顔が視野に入った。

 田代さんだった。携帯で誰かと話していた。顔の表情は少し険しいながらも、口元には小さな笑みがくっついていた。

 ドームを出る。

 降り出していた雨が強くなってきた。

 ドームの近くだと言っていたが、いったいどこの公園だろうと暫く歩くとたくさんのパトカーがパトライトを回して群がっている公園らしきものが目の前に現れた。野次馬の人垣の間から顔を突っ込むと、土の上に大きな血だまりが見えた。何か事件でもあったんだと思って、野次馬の人垣から離れ、父さんにここに駆けつけさせられた理由を聞こうと携帯を手にした時、一人の男性がすごい勢いで公園の向こうから駆けてくるのが見えた。

 だんだんと近づいてきた時、その男性が父さんだということに気がついた。

「父さんっ!」

 通り過ぎようとしていた父さんは急ブレーキをかけ、真っ赤な顔をこっちに向けた。

「おっ、俊介、すまないっ」

「父さん、いったいどういうことなの?」

「人が殺されたんだ。その殺された人が運ばれた病院に行って欲しいんだ」

「行って欲しいって、そんなの・・・」

「そこに立っている刑事に、寺田真の息子だと言えばいい。とにかく早く行ってくれ、お願いだ」言い残すと父さんはまた駆けだそうとした。

「ドームに行くの?」

「そうだ」父さんは顔だけをこっちに向けて答えた。

「総理のこと?」

「総理?総理って光田さんがどうかしたのか?」

「なんだ、父さん知らないの?」

「知らないって、何がだ?」

「総理、始球式のあと、口から泡を吹いて倒れたんだ」


         ④

 何が何だかわけがわからなかった。

 光田進と手をつないで現れた少女は間違いなく死んだはずの奈々だった。

 そして、その光田進が突然、口から泡を吹いて倒れたと俊介に聞いた。

 携帯が震える。

 子守党の幹事長からだった。

“先ほどの、男が運ばれた病院がわかりました”

 都内の有名大学病院だった。

「容態はどうなんだ?」

“意識もはっきりとしており、警察の質問にもきちんと受け答えしているということです。

 ただ、本人にはどうも前科があるようで“

「そうか」言いながら、背中にジーンと電気の様なものが走るのを感じた。

“あと、殺された男性の方なんですが、年齢は七十歳で、身元はまだわかっておりません。

 さっきの男と同じ病院に安置されていて、明日、司法解剖が行われるということです“

「同じ病院か」

“そうです”

「あと、総理の容態は?」

“意識はあるんですけど、かなりの興奮状態ということです”

「そうか。ありがとう。何かあったら、また、連絡を頼むよ」

 雨脚はさらに強くなっていた。クリーム色のジャケットが黒くなり始めていた。

 又、携帯が震える。

 俊介からだった。

“どこの病院かわかったよ”

「そうか」

“だけど、父さんってやっぱり凄いよ”

「何がだ?」

“寺田真の息子だって言ったら、それまで、疑った目で見ていた刑事が敬礼をして病院を教えてくれたよ”

「そうか」

“で、病院に行って何をすればいいの?“

「その、殺され、あの、やっぱり、そうだ、その」

“どうしたの父さん?”

「いや、なんでもない。とにかくその男性の名前を確認してきて欲しいんだ」

“そんなの簡単に教えてくれるの?”

「もう一度言えばいい・・・ 寺田真の息子だって」

“わかったよ”

「あと」

“あと、何?”

「いや、いいよ。とにかく、わかったら連絡をくれるか」

“うん”

 携帯を切る。

 男のことを俊介にお願いしようと思ったがやめた。俊介には関係のないことだった。

 それに、あの男は正当防衛だとか言って又、軽い刑を受けて刑務所に逆戻りするんだ。

 そんなことより、奈々の・・・奈々の・・・奈々の・・・。

息が上がる。

奈々・・・奈々・・・奈々・・・。

 やがて、雨に煙るドームが、来るのを待ち受けていたかのように目の前に現れた。


        ⑤

 やっと着いたドームからは、地鳴りのような低く重い音が、切ったハンバーグから出る肉汁のようにゆっくりと滲み出ていた。

 直子はチケット売り場を回ったが、どこも“完売しました”という悲しい札がぶら下がっているだけだった。

「会わせてーっ!」

 叫び声に反応する。

 顔を向けると、さちえちゃんと出会ったチャイルドタウンの職員の若い女の子達が着ていたようなピンク色のジャージの上下を着た女性が球場係員に取り押さえられていた。

 駈け寄ると、その女性の胸には“幸子”と書かれた白い布が縫い付けられていた。

「会わせてーっ」

 女性の目からは涙があふれ口元には白い泡が付着していた。

 初老の警備員二人がやって来た。

「警察を呼んでください」球場係員が警備員に告げた。

「ちょっと待ってください」直子が声を出した。

「その人、誰かに会いたがっているんじゃないですか。そんな、警察を呼ぶほどのことじゃないと思うんですけど」

「ですけど、他のお客様に危害が及びますと」

「どうみたってそんなことをするような人には見えないんですけど」

 直子が諭すように球場係員に言った時「すいませーん」と一人の女性が駆けこんできた。

 薄いグリーンのカーディガンの下には白衣が見えた。

「すいませんっ、ご迷惑をおかけしまして」女性が周りの人間に頭を下げると、その声を聞いたのか、球場係員に取り押さえられていたピンク色のジャージを着た女性が突然「先生っ、えみりに会わせてっ」とその女性の腕をつかんだ。

「わかったから、幸子さん、とにかく落ち着いて、お願いだから」

「会いたいの、えみりに早く会いたいの」

「わかったから、ちゃんと後で会わせてあげるから、とにかく、今は落ち着いて、お願いだから」薄いグリーンのカーディガンの女性が言うと幸子さんは安心したのか、抱かれる乳飲み子のようにすーっとおとなしくなった。

 球場係員は幸子さんを放し、初老の二人の警備員はホッとしたというか、不思議そうな顔をしてその場を去っていった。

 その後、直子は幸子さんという女性の事情を、その川邊という幸子さんの担当看護婦から聞いた。

「そうなんですか、チャイルドタウンに娘さんがいらっしゃるんですか」言いながら直子はさちえちゃんのことを考えていた。

 自分が“買い損なって”から、ずっとチャイルドタウンにいたんだ。誰にも、お父さんにもお母さんにもなってもらえず、ずっと一人だったんだ。だけど、一緒にテレビに映っていた、幸子さんの娘の絵美理ちゃんよりは明るくて元気そうだった。

「一度だけ、二人の女の子の担当の方と電話で話したことがあるんです。きっと子供たちだけで来てることはないと思うんで」

 言うと、川邊さんは幸子さんに「ちょっと待っててね」と言って体を離すと、携帯を手に取り、やがて、誰かと話し始めた。


     §§§§§§§§§

 ドリンクバーで二杯めのコーヒーをカップに注いで席に戻ると、ウォーっ・・・・と悲鳴のような声が店内に響いた。反射的にオーロラビジョンに目を移すと、打球を追う外野手の姿が映し出され、そして、バックスクリーンに白球が飲みこまれていくシーンに変わった。

 すると、コーヒーカップを手にしたまま立ち上がる人、ハンバーグを突き刺したフォークを手にかざし雄叫びをあげる人、いろんな人がいろんな形でそれぞれの喜びを爆発させた。

 エンターテナー・・・タツヤに一番似合う言葉だった。

 来年はなんとしてでもチケットを手に入れて、子供達を連れて来てあげよう。タツヤの雄姿をぜひ生で見せてあげたい。

 タツヤは歓声に答えながらダイヤモンドをゆっくりと回る。思わずその姿に向かって拍手を送る。

 暫くして店内が興奮から冷めると、テーブルの上に置いていた携帯が、着信があったことを示す青いランプを点滅させていることに気付く。誰だろうと携帯を手にしたとき、振動が手に伝わった。

 チャイルドタウンからだった。

“絵美理ちゃんのお母さんだという女性が今ドーム球場に来られていて、どうしても会わせてくれと”

 絵美理ちゃんのお母さんが? どうして急に会いにやってきたんだろう?

 絵美理ちゃんが一生懸命書いた手紙にも何の反応も示さなかったと担当の看護婦の方から連絡があった。それに一人でどうやって来れたのだろうか?

「わかりました。とにかく向かいます」

 美味しくないコーヒーを又お代わりしなくてすみ、少しほっとした気持ちで美沙は店を出た。


         ⑥

「タツヤさん、ナイスバッティングです」温は狭いベンチでタツヤとハイタッチを交わした。

「センキュー、温のおかげだよ」額の汗を拭いながらタツヤは温に言った。

「そんなことないです。タツヤさんの実力です。招待した子供さんたちが喜んでますよ」

「そうだなぁ。温がチケットを譲ってくれて、子供達が俺のことを応援してくれたから打てたんだよ。みんなのおかげだ」

「タツヤさん」

「なんだよ」

「すごく謙虚ですね」

「当り前だよ。スーパースターに一番必要なのは謙虚さだからな」

 ベンチの中にどっと笑いが起こった。

「わかりました、スーパースター。私も一日も早くスーパースターになれるよう謙虚にやっていきます」

 もう一度、ベンチに笑いが起こった。

「おい、そこの謙虚なスーパースターさん」言いながら、セントラルリーグの監督であって、かつタツヤと温が所属する東京スターズの監督でもある藤田がやってきた。

「なんですか、監督」タツヤが藤田に聞いた。

「どうする、まだ、続けるか?」

「ええ。私の打席を楽しみにしてくれているファンがいると思いますので。ただ、監督が下がれと言えば下がりますけど」

「よっ、謙虚もの」タツヤのセリフに他の選手から声が飛ぶ。

「いやいや、シーズンの疲れもたまっていると思うし、後半戦も頑張ってもらわないといけないからな」

「もう少しだけ出させてください。この雰囲気を楽しみたいんで」

「わかった」言いながら藤田はタツヤの目を見て頷いた。

 オールスター戦はその名の通り、ファンから選ばれた、言って見れば各チームのスター選手で構成されていて、少しでも多くの選手に出場の機会を与えてあげたいとそれぞれの監督は思い、特に、自分のチームの選手に少しでも優遇とみなされる采配を振るうとバッシングされる傾向があったので、藤田はタツヤをスーパースターと認めながら、今のセリフに至ったのであった。

「で、私はいいんですけど、温はいつ出るんですか?」タツヤは藤田に聞いた。

「最後だ」

「最後?」

「そうだ。温には抑えをやってもらう」

「そうですか。じゃあ」と言ってタツヤはベンチの中の選手達に顔を向けた。「みなさん申し訳ないですが、あと十点ほど取って頂けますか。でないと、安心してベンチで試合を見ていられませんので」

 又、ベンチの中に笑いの渦が起こった。

「そんなことないですよタツヤさん。一点あれば十分です。タツヤさんのホームランの一点を僕が守ります。そして、MVPは僕が取りますよ」

「何言ってんだよ、温。おまえ、千両役者っていう言葉知ってるか」

「なんですか、その千両役者って言うのは?」

「さっき言ったスーパースターのことだよ。

 MVPみたいな最高の賞を取るやつのことを日本では千両役者、つまり俺みたいな人間のことを言うんだよ。

 だから次の打席でもう一本ホームランを打って、MVPはもう俺に決まりだよ」

「タツヤさん、一つ聞いていいですか?」

「なんだよ」

「さっき、スーパースターは謙虚でないといけないと言いましたけど、今のタツヤさんの言葉はいいんですか?」

「バカ野郎。それは日本では“言葉のあや”って言うんだよ」

 タツヤのセリフにベンチはまたどっと沸いた。


         ⑦

 扉をノックする音に少し遅れて「失礼いたします」と言って、田代幸三が入ってきた。

 大河内善三郎は「お疲れ様」と言って田代を迎えた。

「それにしても、何もかもうまくいきすぎて怖いくらいですよね」と言って、田代はロビンちゃんに入れてもらったお茶にひとくち口をつけた。

「あとは温君がナイスピッチングをしてくれたらそれで無事完了だ」言って大河内は天井に向かって口を開け大きく笑った。

「タツヤがもう一本打つとさらに盛り上がるんですけどね」

 田代の言葉に大河内は「君も相当のワルだね」と言った。

「先生、私はそんなつもりで言ったんではありません。ただ、この国が本当によくなってもらいたい。ただそれだけです。先生もそうではないんですか?」

「もちろんそうだよ。子守党に任せていたら本当にこの国はダメになる。本当にね」

「何か難しいお話ですか?」二人の会話を聞いていたロビンちゃんだった。

「難しくなんかないよ。この国を本当に良くしようと思っているだけだよ。

 今の光田のおっさんにこのまま任せておくととんでもないことになっちまうんだ」

「光田さんとは先ほど救急車で運ばれた方ですか?」

「そうだよ。天罰が下ったんだよ」

「何か悪いことしたのですか?」

「ああ。やろうとしたことは悪くはねぇんだけど、やり方がまずかったんだ。へたすると、ロビンちゃんだって、髪の茶色い、頭の中に何も入って無いおから野郎に取って代わられるところだったんだよ」

「どういう意味ですか?」

「まあ、話せば長くなるから、今度またゆっくり話すよ。それより、お譲ちゃんに何か食べさせてやってくれ。おそらく、朝から何も口にしていないと思うから」言って、大河内はロビンちゃんに一万円札を一枚渡した。

「かしこまりました、ご主人様。

それでは、お譲ちゃん、何を食べに行きますか?」

 ロビンちゃんが、さっき光田進と手をつないでマウンドに登った少女に向かって言った時、大河内は笑いながら「おい、ロビンちゃん。お譲ちゃんって呼ぶのもいいんだけど、ちゃんと名前があるんだから名前で呼んであげてくれ」

「かしこまりました、ご主人様。

 お譲ちゃん、名前はなんというのですか?」

 ロビンちゃんが少女に聞いた。

「ららです」少女が答えた。

「ららちゃん。すごく可愛い名前です。ららちゃん、何か食べたいものありますか」ロビンちゃんが聞いた。

「カレーライスが食べたいです。あと、ショートケーキも」

「わかりました。じゃあ、食べに行きましょう。ご主人様、では行って参ります」

「ああ。ゆっくりしてくればいいよ。なんなら隣にある遊園地で遊んできてもいいよ」

「本当ですか、ご主人様?」

「ああ」

「前から一度行ってみたいと思っていたんです」ロビンちゃんが答える。

「じゃあ、なおさらいいじゃねぇか。雨が降ってるから足元だけ気をつけてな」

 大河内の声ににこりと笑ったロビンちゃんは、少女の手を取ると、控え室を出て行った。

「感情があって、本当の人間見たいですよね」田代が大河内に言った。

「へたな人間よりよっぽどましだよ。自分の意思ってのをちゃんと持ってるからな」

「そうですよね」

言いながら田代はロビンちゃんと出ていった少女、ららを思い浮かべた。と同時にチャイルドタウンに毎週通ってきていた寺田真の姿を思い浮かべた。悲壮感、そんな言葉がぴったりだった。

 来る時はいつも少し笑みを浮かべて案内所で署名をし、帰っていく時はどことなく寂しげな表情で「有難うございました」と頭を垂れてチャイルドタウンを後にして行った。

 娘さんを亡くしたことは知っていた。

 精神を病んだ奥さんと別れ、自らが作った法律に則って懲役を受けたことも知っていた。

 一人残された息子さんは何としても俺が守るんだ・・・卒業式、お願いされたカメラのフレームに収まる二人の姿は今でもはっきりと記憶のスクリーンに浮かびあがる。

 妻も子供もいない自分には大切な存在を亡くした人の気持ちはわからない。大変だ、可哀そうだ、と思っても所詮、心の中までは沁みてこない。

「田代さん、お茶でもいかないか」

 大河内の声で我に帰る。

「そうですね」

「まだまだ、先は長いんだ。伊藤さん、悪いけど車呼んでくれるか。それと、暫くしてからでいいんだが、この人がおそらくやってくると思うから、来たら応対のほう頼むよ」

 そう言って大河内が伊藤さんに渡した写真は、さっきまで田代の頭の中を占拠していた、寺田真、の写真だった。


第九章

 電話で教えてもらったゲートに美沙が着くと、ピンク色のジャージを着て涙で目を真っ赤に腫らせた女性が、薄いグリーンのカーディガンを白衣の上に纏っている女性に抱き寄せられるようにして立っていた。

 絵美理ちゃんのお母さんと言う人はこの人なのかなと美沙が思っていると「チャイルドタウンの方ですか?」とその薄いグリーンのカーディガンの女性が未沙の目を見て言った。

「そうです」未沙が答える。

「すいません、ご無理申しまして。

私、絵美理ちゃんのお母様の担当看護婦をしております川邊と申します」

「川邊さんって、前に一度お電話を頂きましたよね、絵美理ちゃんの手紙の件で」

「ああ、そうです・・」

「末広と申します、あの時はどうも。で、お母様、どうかなさいましたか?」

 未沙は川邊から事情を聞きながら、その絵美理ちゃんのお母さんだというピンク色のジャージを着た女性を見た。見た感じでは“普通”だった。

「わかりました。じゃあ、二人のいる場所はだいたいわかっていますので連れてきます。もう少しだけ待っていてもらえますか」

言いながら未沙は「だけど、すごい人だからなぁ」と言って何気なく視線を移すと、川邊さんと絵美理ちゃんのお母さんの横で心配そうな表情で立っている女性と目が合った。

「あのう・・・」

聞くと、自分の子供さんが友達と二人でオールスターを見に来たけど、お昼ご飯を食べるお金を持っていくのを忘れたので心配になってやってきた。子供さんは携帯は持っておらず、だいだいどの辺りで見ているのかはわかるけど、入場券が全て売り切れて中に入れずに困っている、何か術はありませんか、ということだった。

「じゃあ、これは嫌な取引なんかじゃないんですけど、私、今、ある子供たちを探しに行くんです。だけど、これだけの観客がいるので、なかなか簡単には見つけられないと思うので、一緒に探してもらえませんか。その代わり、その子達を見つけた後は、子供さんの呼び出しを私が球団係員に掛け合いますので」

「わかりました」

女性が快諾してくれたので未沙は「じゃあ」と言って川邊さんと絵美理ちゃんのお母さんに頭を垂れてドームの中へその女性と二人で踏み入っていった。


§§§§§§§§§§§

 見えてからかなりの距離があった。

 クリーム色のジャケットは完全に色彩を失くしていた。

 最初に目の前に現れたゲートで女性四人が集まって、そのうちの三人が何か真剣な顔つきで話し合っていた。

 残りの一人、ピンク色のジャージを着た女性だけが目の周りを真っ赤に腫らしていた。

 何かわけがあって泣いたのだろうか。胸には“幸子”と書かれた白い布が縫い付けられていた。

 彼女達の姿を視界の端っこに追いやりゲートを通り過ぎる。

 次のゲートが見えてきた時、さらに雨脚が強くなってきた。

「すいません」

 ゲートに駆け入ると、球場係員らしき男性に声を掛ける。

「始球式の時に光田首相と一緒に手をつないでマウンドに上がっていった女の子に会いたいんですけど」

 その球場係員と思しき男性は、世界中の疑問を一人で抱えたような顔で「はぁ?」と口と目を同時に大きく開いた。

「いたでしょ、小学校低学年くらいの可愛い女の子が・・・」

「すいませんが、その前にあなたどちら様ですか?」

「私?」

「そう、あなたです」

「わ、わたしは、寺田と申します」

「寺田さん?その女の子とどういうご関係ですか」

「関係と言っても、そ、そうだ、責任者の方に寺田真が来ているって言って頂いても結構ですけど」

「わかりました」言うとその球団係員らしき男性はゲートの奥に消えて言った。

 無理もなかった。

 現役与党の元NO2と言っても、最近、ほとんどマスコミへの露出はなかった。おまけに“休日のサラリーマン”といった格好に濡れ鼠だ。わかる方が不思議かもしれない。

 暫くすると、さっきゲートの奥へと消えていった球場係員らしき男性が、頭が少し薄くなった年の功なら五十代中盤の男性と一緒に戻ってきた。

「先生、誠に申し訳ございません」五十代中盤が頭を下げる。

「いえいえ、私がもっとちゃんと話せばよかったんですけど」

「本当に失礼をいたしました」五十代中盤が頭を下げる横で、球場係員らしき男性が納得いかない顔をしながらしょうがないといった感じで一緒に頭を垂れた。

「で、先生、その女の子とお会いされたいとのことで」五十代中盤が尋ねる。

「ええ。ちょっと見た感じ、親戚の子にすごく似ていたんで。長い間会っていなかったんで」

「承知いたしました。すぐに関係者と連絡を取りまして、今、どちらにいるのか確認いたします。

 先生、こちらではなんですので、中に控室がございますのでそちらで、連絡が取れるまでの間ご休憩をなさってください。おい、砂川君、先生にタオルをお持ちして」

 砂川君がゲートの奥に駆けていった。

 五十代中盤に連れられ少し歩くと“控室”と書かれたプラスチックのボードが貼ってある部屋へ通された。

「私、連絡を取って参りますので、こちらでしばらくお待ち頂けますか」言うと五十代中盤は部屋を出て行き、代わりに砂川君がタオルを手にして入ってきた。

「どうぞ」砂川君はぶっきらぼうにタオルを渡してくれると、やっぱ俺納得できないよといった表情で頭を垂れると部屋を出ていった。

 暫く奈々を思う。本当に久しぶりだ、本当に。会えるんだよ、会えるんだよな。

部屋の扉がノックされ五十代中盤が戻って来て額の汗を拭いながら言った。

「連絡が取れました。まもなく担当者が参りますので」


§§§§§§§§§§§§

 一つの入れ物の中にこれだけの人が詰め込まれている光景を見たのは初めてだった。

 人が人に見えない。大量のかいわれ大根の先っちょが風に揺れている、そんな感じだった。

 空調が効いているはずなのに、脇の下に汗を感じる。

「これじゃあ、わからないですよね」未沙さんが少し諦めの表情を顔に混ぜて言った。「確か、ライトスタンドにいるって聞いたんですけど」

「何か、目印みたいなもの、好きな選手の背番号が付いている派手な法被を着ているとか、よくテレビとかで見かけますよね」

 言うと未沙さんは暫くでこに皺を寄せて考えていたが突然「そうだっ」と言って眼を大きく縦に見開いた。

「手製のパネルを持っているんです。厚紙を四枚に切って“タ”“ツ”“ヤ”“♡(ラブ)”っていうのを作ったんです。縁に金色の折り紙を張り付けて、かなり派手派手な奴だから目立つと思うんです」

「じゃあ、いったん一番下まで降りましょうか。そこから上を見上げればわかりやすいと思うんです」

 直子の提案に未沙はうんと大きく首を縦に振り、二人はビールや弁当を売っている売り子の間を縫うようにしてライトスタンドの最前列に向かって階段を駆け下りていった。

 

    §§§§§§§§§§§§

 その男は白のワイシャツに黒のスラックスといういで立ちだった。

「お待たせいたしました」言葉の一文字一文字に角があった。

「先生、大変お待たせ致しました」額の汗を素手で拭いながら五十代中盤がその男の後ろから顔を出した。「こちら伊藤と申します。この先にその女の子の控室がございますので伊藤がご案内させて頂きます」

「そうですか。よろしくお願いします」

「それでは」頭を下げた伊藤さんに連れられ部屋を出ると暗く狭い廊下を二人で歩いた。

 すぐにその部屋はあった。

 何とも言えない緊張感で中に入ると、口の形に長机が組まれ、さっきまで人がいた気配を付着させた湯呑が二つ置かれていた。

「申し訳ないですが今食事に出ておりまして」言うと伊藤さんは置かれていた二つの湯呑をさげると、すぐに湯気のたった湯呑をお盆に乗せて戻ってきた。

「女の子はご家族で来られているんですか?」

机の上に湯呑を置いてくれた伊藤さんに聞く。

「お一人です」

「一人で? あんな小さい子が一人で来ているんですか?」

「そのように聞いております」

「ご家族の方はどこかスタンドで観戦でもしているんでしょうね」

「そうかもしれません」

「女の子の名前はご存知ですか?」

「確かららちゃんといったはずです」

「ららちゃん?」

「はい。確かそのように皆さん呼ばれていたはずです」

「皆さんっていうのは?」

「周りの方たちです」

「それはわかっているんです。具体的にどのような人達なんですか?」

「どのようなと申されましても、例えば球場の職員の方ですとか、あとは、そうですねぇ、この部屋にいた人たちとかです」

「ここには誰か他に人がいたんですか?」

「色々な方です」

「ですから色々って誰のことなんですか?」

 矢継ぎ早の質問に伊藤さんが困った表情を見せた時、五十代中盤が「失礼いたします」と言って部屋に入ってきた。

「先生、お昼御飯の方はまだかと」

言うと五十代中盤は手に持っていた真四角の折を机の上に置いた。

 確かに朝からワインと、あてのチーズを少し齧っただけだった。

「すいません、お気を使わせてしまって」言って椅子に腰を下ろす。

 少しほっとした表情の伊藤さんが淹れてくれたお茶を啜り、弁当のふたを開ける。

 鮪といかのお造り、頭の付いた大きなエビフライが二匹、キャベツの千切りを脇に従え横たわっている。

「いただきます」手を合わせるとお箸を割った。

 ゴマのかかった俵型のおにぎりを一つ口に運ぶ。塩加減がちょうどいい塩梅だった。

 鮪といかに漬ける魚の形をした醤油差しの赤いキャップをねじる。

「伊藤さん、ここにおしぼりってある?」五十代中盤が聞く。

「いえ」無表情で伊藤さんは答える。

「取ってきてくれる」

 五十代中盤の言葉に伊藤さんは「わかりました」と言って部屋から出ていった。

「いいですよ、ハンカチで拭きますから」

 指の先に着いた醤油を嘗め、ズボンのポケットからハンカチを取り出すと、さっき雨の滴を拭いたのでぐちゅぐちゅに濡れていた。

「すぐに持って参りますので」少し笑みを浮かべて五十代中盤は言った。

「申し訳ないです、お手数をお掛けして」言いながら女の子を思う。

 今、どんな昼ごはんを食べているのだろう。らら、いや、奈々は・・・。

 奈々はカレーライスが大好きだった。食は細かったが、カレーライスの時はいつもお代りをしていた。

「さっき伊藤さんに聞いたんですけど、その女の子は一人でここへ来ているんですか?」

五十代中盤に聞く。

「すいません。その辺りは私も存じておりませんでして、すぐに確認をお取りいたします」

「いいです、いいです。女の子が戻ってきたら本人から聞きますので」

「そうでございますか。で、先生、誠に申し訳ございませんが、私、職場に戻らなくてはいけませんのでこれで失礼させて頂きます」

 言うと五十代中盤は軽く会釈をして部屋を出ていった。

厚い壁の向こうから聞こえるグラウンドの歓声を耳にしながら箸を運ぶ。

 総理と手をつないでマウンドに登った女の子は間違いなく奈々だった。

間違いない。

 エビフライを箸で掴み持ち上げると頭からガブリと噛みついた。


§§§§§§§§§§§§

「いたーっ」

 突然、未沙さんが大声を上げた。

「あそこです、あそこ。ほらっ、青い帽子を被った売り子の女の子が今ビールを手渡している男の人の横にいる」

 すぐにわかった。タツヤ選手と並んで映っていたさちえちゃんに間違いなかった。

「いきましょっ」

 未沙さんに引っ張られるようにしてスタンドを駆けあがる。観客の顔が次々と目の前を通り過ぎる。

「いたいた」未沙さんは二人に向かって手を振る。

 さちえちゃんの顔がはっきりと見えた。

 目が輝いている。活きている。貧しい国の、顔にたくさんのハエがたかっていても何も気にせずカッと見開いている子供たちの目だ。

「ちょっと待ってください」勝手に言葉が出た。「未沙さん、少しいいですか」

「え、ええ、かまいませんけど」未沙さんは少し戸惑った表情を見せながら歩を止めた。

「さっきの話、あれ、うそなんです」

 未沙さんはえっ?という顔をした。

「う、うそって?」

「自分の子供が心配になってここへ来たってのはうそなんです。本当は、さちえちゃんに会いに来たんです。私、昔、さちえちゃんを、捨てたんです」

 未沙さんは何のことだがさっぱりわからないといった表情をした。

「失礼します」

大きなタンクを背負ってビールを売っている女の子が二人の間を割って入ってきた。

「とにかく、向こうへ行きましょ」未沙さんに促されるようにしてスタンドから通路へ出た。

「どういうことなんですか?」

未沙さんの質問に対して、全てを正直に話した。

「どうしても子供が欲しかったんです。どんなことをしてでも。だけど、できなかったんです。そこに新しい法律ができて、少し焦ったのもあって。だから・・」

「わかります。すごくわかります」未沙さんが肩に手を置き言った。

「だけど、勝手すぎますよね。自分の立場だけ考えてペットのようにお金を出して買おうとしたり、少し時間がたって感傷的になってやっぱり会いたいって、都合が良すぎますよね。さちえちゃんに対して失礼ですよね・・・やっぱり会うのはやめたほうがいいかと」

「そんなこと言わないでください。

 さちえちゃんは強く、確かにすごく強く一人で生きています。だけど、きっと彼女も、どこかで、誰にも見られていないどこかで、寂しいって、一人で泣いていると思うんです。

 だから、是非、会ってあげてください。お願いします」言った未沙さんの瞳が潤んだ。

「私にはそんな資格はありません」言葉を絞り出す。

「そんなことはありませんよ。さちえちゃんにとって唯一のお母さんなんです、あなたは。

 だからお願いします」言うと未沙さんは頭を垂れた。

「だ、だけど・・・」

「子供達を守ってあげられるのは私達、大人だけなんです。さっ、行きましょっ」

 未沙さんに手を引っ張られるとスタンドに戻った。

 歓声が耳に突き刺さる。階段を駆けあがる。さちえちゃんがどんどんと近付いてくる。

 未沙さんが手を振りながら「おーい」と二人に笑顔を向ける。

「暗い顔はしないでくださいね」未沙さんに言われ、こわばった顔の筋肉を緩ませた時、二人の前にたどりついた。

「先生、どうしたの?」

 さちえちゃんが少し驚いた表情をして未沙さんに声をかける。

「うん、ちょっと用事があってね」

「用事って・・あっ、おばさん、前に会ったよね」さちえちゃんがいきなり指を指した。「チャイルドタウンに来てたよね、私、お部屋の場所教えてあげたでしょ」

「えっ、そうだっけ」ととぼける。

「おばさん、何しに来たの?」

「なにしにって、ちょっと・・・」

「一緒にさっちゃん達を探してくれてたのよ。先生一人じゃとてもじゃないけど見つけられないから」未沙さんが助け船を出してくれる。

「探すって、何かあったの?」

「うん、ちょっと、愛美理ちゃんに用事があって」

「だめだよ、タツヤのホームランをもう一回愛美理お姉ちゃんと見るんだから。絶対にまだ帰んない」

「帰らなくていいのよ。少しだけ愛美理ちゃんに会ってもらいたい人がいるの」

「会ってもらいたいって、あっ、ひょっとしてママ、愛美理お姉ちゃんのママだ。そうでしょ?ねぇ、そうでしょっ。愛美理お姉ちゃん、ママが来てくれたのよ、ママが会いに来てくれたのよっ」

 自分のことのように喜んで話すさちえちゃんを見ていると瞳から勝手に涙が溢れ出た。

 未沙さんが「辛抱して」と目で訴える。

 ドームの天井を見上げるふりをして涙を拭く。

「愛美理お姉ちゃん、良かったね、ママが会いに来てくれたのよ」

 興奮するさちえの横で、愛美理は泣きそうな顔をして首を何度も横に振った。


         ②

 部屋に招かれてもう一時間近くが経過していた。

 雨に濡れて黒くなっていたジャケットは元の色を取り戻しつつあった。

 机の上には空になった弁当の折と、さっき、お茶のお代わりはいかがですかと五十代中盤が置いていった二リットルの緑茶のペットボトルが置かれている。

 10分に一回くらい観客の歓声が漏れてきた。

 携帯が鳴った。

“父さん”

 俊介だった。

“わかったよ。殺されていた人の名前が”

「なんて言うんだ?」

“高橋 源。

 前科のある人みたいで、何回も刑務所に行ったり来たりしていたみたいで、ついこの間出所したばかりだったみたいだよ“

「そうか」言いながら、奈々のお墓の前で出会った時の源さんの顔を思い出した。

“父さん、その人は知り合いなの?”

「いや。

 オールスター戦の日に、それも近くの公園で起こったんで、ちょっと気になってな」

“そうなの。だけど、父さんはやっぱり凄いよ。病院に入って、窓口の女性に、来た理由を告げるとすぐにプロレスラーみたいな男が二人やってきて、いったい何しに来たんだという顔をしていたんで、名前を言うと、その二人は小さなトランシーバーみたいなのを取り出して一言二言話すと、又すぐに、今度は、髪を七三に分けた銀行員といった感じの人がやって来て、失礼いたしました、と言って、薄暗い別の部屋に通されて、さっきの高橋源という名前を教えてもらったんだ。明日、司法解剖をするんだって。

「そうか」

“何か、その死んだ男の人の横にもう一人男性が倒れていて、その男性もここの病院にいるみたいだよ。で、警察の事情聴取を受けているみたい“

「わかった。ありがとう、すまなかったな」

“父さんは今何してるの?”

「ドームのVIPルームで懐石料理を頂いたあと、ふかふかのソファーに体を沈めてワインの入ったグラスをくゆらせているところだ」

“本当なの?”

「ああ、本当だよ」

“総理は大丈夫なの?”

「さっき確認したけど、意識ははっきりとしているみたいだ」

“ほんとう、よかったよ”

「コーチとしては心配か?」

“そ、そんなことないけど・・・”

「ドームに戻ってこいよ。VIPルームで一緒にタツヤを応援しよう」

“うん。じゃあ、これからそっちに向かうよ“

「わかった、待ってるよ。色々と悪かったな」

 携帯を切ると、俊介が話す言葉の余韻をかき消すように、扉をノックする音が鼓膜に強く響いた。


§§§§§§§§§§§§

 スタンガンを体に浴びたのはもちろん初めてだった。

 まだ、体の表面に小さな電流がピチピチと跳ねている。

「ちょっとトイレに行きたいんですけど」

 告げると、目つきの悪い男が二人「いいよ」と言って病室の扉を開け、前と後ろを挟まれながら廊下を歩いた。

 小便器に向かってズボンのジッパーを下ろすと、後ろの個室の前と隣の小便器の前に男達がこっちに向かって立つ。

 一瞬緊張したが、すぐに黄金色の放物線を便器に向かって描いた。

 それにしても、いったいあの男は誰だったのだろうか。スタンガンを手にして後をつけて来た。ただの物取りだろうか?それとも、何か他に・・・。

「もういいだろう」隣の小便器の前に立つ男の声で我に帰る。

「ええ」言ってジッパーを上げると小便器の中を勢いよく洗浄水が駆けまわる。

 来た時と同じように二人の男に挟まれて病室までの廊下を歩く。

 まさかあの時の・・・時間が立ち過ぎている。

「体調に問題が無いのなら、これから警察に行って事情を聞かせてもらうが大丈夫か?」後ろの男が聞く。

「ええ、いいですよ」

 適当に答えておけばいい。どうせ、正当防衛で塀の中に戻ったとしてもすぐに出てこれる。誰にも見られていないんだから。

 病室に戻ると、トイレについてきた二人の男よりさらに目つきの悪い男と、生まれつき感情というものを持ち合わせていない、という感じの無表情の女性がベットの脇で立っていた。

“わかっているわよね”といった目で女性が頷くと、ロッカーに掛けていた薄い紺色のジャージを羽織る。

 返り血が黒い点となって残っている。

 どうしてナイフなんか持っていたんだ?

 きっと聞かれるはずだ。

 今の世の中物騒なんで・・護身の為に・・・。

 そんな物騒な世の中をつくったのはおまえだろっ・・・どこからか聞こえてくる“つっこみ”に笑ってしまう。

「では」女性の声で男と三人で病室を出る。

「色々と聞かせてもらうから正直に答えてくれ」

 歩きながら男に言われ「はい」と答える。

 エレベーターに乗り込む。

 扉が閉まるとすぐに下降し始める。

 すーっと、尻から背中に掛けて寒気ではないが何かの気が走る。

「あなた、昔、人を殺したのよね」

 どこからか声が聞こえた。それも女性の声だ。

 隣の女をちらっと見るが、相変わらず感情の気配が全くない表情で前方を見ている。

「また、やったんじゃないの。今度はきっと極刑よ。前は少年法に助けられたけど、今度はもう無理よ。二十年も三十年も独居房に入れられて、ある朝突然に言い渡されるの、お別れです、って」

 やはり女性の声だった。

もう一度隣の女の顔を見る。

 しかし、相変わらず無表情だ。

 突然、エレベーターが上昇を始めた。

「どうして、あんな、小さな女の子を殺したりしたの。いたずらが目的?」

「いや、そ、そんな、ちょっと声を掛けようかと思ったら・・・」口が勝手に動く。

「じゃあ、どうして殺したりしたのよ?」

「い、いや、殺すつもりなんかなかったんだよ。急に騒がれたんで、こ、こわくなっちゃったって」

「まあ、そんなことはどうでもいいわ。どっちにしろ、あなたは一生、死ぬまで、殺された女の子を愛していた人に恨み呪われるわ。それは間違いないわ。絶対に」

 上昇を始めたエレベーターが止まり、再び下降を始めた。それも、スピードは速くなっていた。

 尻から背中に走る“気”がはっきりと“寒気”に変わったとわかった。

 激しくエレベーターが左右に揺れる。壁に手をつき周りを見ると誰もいなかった。目つきの悪い男も、表情のない女も、誰ひとりいなかった。

 突然、エレベーターが止まり、そして扉がゆっくりと開いた。

 男が一人乗りこんできた。前髪が顔を覆って表情が見えない。しかし、泣いているのだけがわかった。涙が頬を伝っている。

その男が近づいてくる。

「な、なんなんだっ」声が上ずる。

 男は何も話さない。

 顔が近づきやがて男の鼻の頭が頬に触れる。そして、手がそっと首に伸びてくる。

「どうしてなんだ。どうして・・・」

言いながら男の手が首に触れる。

「どうしてなんだ、教えてくれよ」男の手が首に食い込む。

 息ができない「やめてくれっ」声を絞り出す。

「どうしてなんだ、言ってくれ、お願いだから言ってくれ、頼むよ、お願いだ、なんとか言ってくれーーっ」

 男の絶叫を耳に残し気を失った、つもりだったがエレベーターが突然止まり、扉が開いた。

「さあ」いつの間にか隣に戻っていた無表情の女が手招きした。

 いったい何があったのか、わけがわからず廊下を歩く。

 額に汗の粒がへばりついているのがわかる。

 玄関の自動扉が開き外に出る。雨を吸って湿った空気が肌にまとわりつく。白いライトバンが赤いパトライトを回しながら停止しているのが見える。あれに乗り込むのか、そう思った時、隣を若い男が過ぎていった。

 携帯で誰かと話している。

横顔を見る。

 どこかで見た顔かなと思った時、古い記憶が、突然、記憶のスクリーンに現れた。

 あの時の少女だった。

 か細い首にそっと触れた手の感触が蘇る。


 男が口から泡を拭いて倒れると、傍らにいた無表情の女が血相を変えて、出てきた病院に駆け戻って行った。


        ③

試合は五回の表を終わった。

タツヤのホームランの後、両チームともチャンスは作るのだが、あと一本が出ず、膠着状態が続いていた。

お母さんが作ってくれたフライドポテトを口にする。軽い塩味がたまらなく美味しい。

たまに友達の家で出されるハンバーガーショップのフライドポテトなんか比べ物にならなかった。

 それにしても宅斗君はどこへ行ったんだろう、と思ってフライドポテトを口に放り込んだ時「元太君、ごめん」と言って宅斗君が戻ってきた。

「どうしたの、どこへ行ってたの?」宅斗君に聞く。

「ちょっと、ママに会ってきたんだ」

「そうなの」

 それ以上は聞かなかった。

「タツヤのホームラン見た?」

 宅斗君は首を横に振った。

「そうなの。でも、この回、又タツヤに回ってくるから一緒に応援しよう」

「そうだね」言って宅斗君は少し笑みを浮かべたが、目は赤かった。

 泣いたのかなと思ってフライドポテトをつまんだ時、お弁当のことを思い出した。

「そうだ、宅斗君、お昼ごはんは食べたの?」

「少しだけ」

「お腹減ってるんだったらお弁当食べれば。このフライドポテトも美味しいよ。お母さんが作るフライドポテトは最高なんだから」

「うん」首を縦に振ったが宅斗君は差しだしたフライドポテトに手を伸ばそうとはしなかった。

「そうだ、何か飲み物買いに行こうか」

「うん」宅斗君はしょうがなさそうに首を縦に振った。

「今ならたぶんすいてるよ。みんなタツヤの打席を見るために席についてるはずだから」

「そうだよね」

 売店に着くと予想通り、人の列はできていなかった。

「宅斗君は何にする?」

「えーっと、オレンジジュースにする。あっ、僕、お金持ってないんだ」

「いいよ。お母さんにお小遣い貰ってきたから。僕は喉が渇いたからコーラにするよ」

 店員から紙コップに入ったオレンジジュースとコーラを受け取り「もうすぐタツヤの打席だよ」と言ってスタンドへ戻ろうとした時、「お願いだからっ」と女の人の声が遠くから聞こえた。

 声の方向を見ると大人の女の人が二人と、自分達と同じ小学生くらいの女の子が二人いた。

「あっ、チャイルドタウンの女の子たちだ」宅斗君が声を上げた。

「そうなの?」

「髪型もそうだし、それに、胸にバッジをつけてるんだ。僕も、ほら」

 宅斗君がシャツの胸のところを引っ張って見せてくれた。

 バッジは白地に小さな赤い玉がいくつも描かれていた。日の丸の真ん中の赤い玉をいくつもに分解した、そんな感じだった。

「それはいつも付けているの?」

「外に出るときだけ」

「そうなんだ」言いながら、視線をさっきの声の方に戻した。

 まだ、二人いる女の子のうち背の高い方の女の子が、大人の女の人の一人に何かを言われ、首を横に振っていた。遠くから見てもその女の子が泣いているのがわかった。

「どうしたんだろうね」宅斗君に聞く。

「久しぶりにママと会ってだだをこねているんじゃない。いつもは、こねたくても、すぐそばにママがいないから、ワザとわがままを言ってるんじゃないのかな」

「そうなのかなぁ・・・宅斗君もそういう時ってあるの?」

「僕はパパもママもほとんど会いに来てくれないから」

「そ、そうなの」言いながらつまらないことを聞いてしまったと思った。

「宅斗君、そろそろ戻ろうか。タツヤの打順がもうすぐ来るよ」

「そうだよね」

 宅斗君がそう言って、二人でスタンドへつながる階段に向かって歩きかけた時、ドッとドームが沸いた。

「タツヤだ。宅斗君、早くいこっ」

「うん」

 宅斗君が頷き、手にしたコーラをこぼさないように慎重かつ俊敏に階段を駆けあがろうとした時「待ちなさいっ」と女の人の声が遠くからだがはっきりと聞こえてきた。

 顔を向けると、さっき泣いていた女の子と、その女の子の脇で立っていた女の子の二人がこっちに向かって駆けてくるのが見えた。


        ④

「それにしてもタツヤはんは酷やわなぁ、こんなとこでホームランなんか打つやなんて。みんなまだ興奮してて俺の笑いなんか聞いても、何の反応もしてくれへんで。モードチェンジすんには十五分では無理や」

 たかしが控室の中で独り吐いた時、扉をノックする音が聞こえた。

「どうぞ」

たかしが言うと扉がゆっくりと開き、朝風凪が「ただいま」と言って中に入ってきた。

「なんや、宅斗君は?」

「一緒に来ている元太君のところに戻ったわ」

「ちゃんと会うてきたんか」

「ええ」

「宅斗君、あいつと喋ったんか?」

「何も」

「なんも喋ってへんの?」

「じっと黙ったままで、今にも泣きそうな顔をして・・・」

「あいつは宅斗君に何も話しかけへんかったんか」

「ええ」

「ああ見えて、案外照れ屋なんや」

たかしのつまらない冗談に朝風凪は口を開かなかった。

「タツヤのホームランは見たんか?」

「ううん」朝風凪は言いながら首を横に振った。

「そうか、そら残念やったな」たかしはそう言うと、トレードマークの大きな蝶ネクタイを手に取り鏡の前に立った。

「僕には二人のパパがいるんだって」

「えっ?」

「二人の漫才を楽しみにしているって。

 私も出るわ」

「出るって、もう時間ないで」

「大丈夫よ。靴を履き替えて、いつもの帽子を被るだけだから」

「ネタはどうすんねん」

「そんなのどうでもいいわよ。宅斗の前で頑張っている姿を見せてあげるだけでいいんだから」

「そういうわけにはいかへんねん。俺はお笑いの神様やねんから何が何でも笑いを取らなあかんねん」

 珍しく少し真剣な顔つきでたかしが言った時「出番でーす」とスタッフが控室に入ってきた。

「うーぅ、よっしゃ、こうなったら開き直って宅斗君の為にも今日は最高のステージ見せたろかっ」

 土俵に上がる前の相撲取りのように頬をパンパンと二度叩くと、たかしは「行くでぇ」と朝風凪に声を掛け、控室の扉を押した。そして、グラウンドの真ん中に設営された特別ステージに向かって地下道を歩く。暫くすると、何か音楽が聞こえてきた。どこかで聞いたことのある音楽だったが思い出すことができなかった。

 しかし、グラウンドの明かりが地下道の先にぼんやりと見えてきた時、その音楽の正体がやっとわかった。

「懐かしいなぁ」

 全盛期の時、どこのテレビ局にいっても、スタジオに入ると必ず流れた、自分が登場するときのテーマソングだった。

 ある番組で、大好きだった外国人のプロレスラーがリングに登場する時に流れる曲を紹介した翌日、その曲は自分のテーマソングになっていた。

 やがて、ぼんやりと見えていたグラウンドの明かりが光の束となり目をくらまし、人工芝の感触を足の裏で感じた時、その音楽の音の質がわかった。

 エレキギターだった。

「やっぱり、あいつ、照れ屋なんや」

 たかしの冗談に朝風凪は「あの人、小さい時、あなたのファンだったんだって」とポツリと言った。


第五章

        ①

「ららちゃん、カレーライス美味しかったですか」

 ロビンちゃんの質問にららは「うん」と首を縦に振った。

「この後どうしますか。先生は遊園地に行って来てもいいと言ってましたけど、どうします?」

「コーヒーカップに乗りたい」

「じゃあ、デザートを食べたら行きましょう」

 うん、ともう一度ららが頷いた時、店の中に笑い声が起こった。

 横山たかしが口から泡を飛ばしながら喋っている姿がオーロラビジョンに映し出されていた。

「ららちゃんはテレビはよく見ますか?」

「あまり見ない」

「お父さんとお母さんに怒られるからですか」

「ららはお父さんもお母さんもいないの」

「えっ」とロビンちゃんは声を上げた。

「では、誰と暮らしているのですか?」

「みんなと」

「みんなとは誰ですか?」

「色んな人。おじさん、おばさん、ゆきこちゃん、のりたけくん、あっ、そうだ、赤ちゃんのまさみちゃん。それに、いとうさんも」

「いとうさんって、さっきまで同じ部屋にいた人ですか?」

「うん。先生も何回か来る」

「そうですか」

 デザートのショートケーキが運ばれてきた。

「美味しそうですね」ロビンちゃんがフォークでショートケーキの角を切る。

「ショートケーキ」ららが昇華しそうな声を出した。

「どうかしましたか、ららちゃん」ロビンちゃんが聞いた。

「お父さん。ショートケーキ。いつも買ってきてくれた。ショートケーキ。いちご、ON。お父さん。お母さん。しゅんちゃん」

「ららちゃん、大丈夫ですか?」

「早くコーヒーカップに乗りたい」声は元に戻っていた。

「わかりました。じゃあ、これを食べたらすぐに行きましょう」

 言うとロビンちゃんはフォークに付いた生クリームをペロリとなめた。


§§§§§§§§§§

 大河内善三郎だった。

 今部屋にノックして入ってきたのは間違いなく、あの大河内善三郎だった。

「いやぁ、先生、ご無沙汰しております」言いながら大河内は不敵な笑みを浮かべた。「どうしたんですか、こんな所へ?」

「い、いや・・・」言い澱んでいると、もう一人、扉の向こうで頭を下げている男がいた。

 田代幸三だった。

「先生、どうも」

 大河内に負けないくらい不敵な笑みを浮かべた田代の顔を見て、何かが繋がったことを脳が感知した。

「光田先生のことですか?」大河内がいまだ衰えない鷹のような目で聞いてきた。

「何を企んでいるですか?」

「企んでいる?

 先生、そんな物騒なお言葉を使わないでくださいよ。我々が何をしたというんです?」

「始球式の女の子もあんたらの仕業か?」

「仕業って、先生、ほんとにそんな言い方をするのは辞めましょう」

「あの女の子はどこに行ったんだ」

「女の子ってららちゃんのことですか、先生?」

「そうだ」

「今、食事に行ってますよ、ロビンちゃんと一緒に。ロビンちゃんって先生ご存じですか。

 前に病院にお見舞いに来て頂いた時に、お会いしたかと思うんですけど」

「いや、私は行っていない。お見舞いは光田さん一人で行ったんだ」

「そうでしたかね、いやぁ、私も歳を取っちまって、少しぼけてきたかな」

 大河内のつまらない冗談に田代幸三が愛想笑いを浮かべた。

現役時代に大河内善三郎の脇で、たまに、訳もなく浮かべていた笑みを思い出した。

「そのロビンちゃんってのは、光田先生にお聞きになっているかと思うんですけど、ロボットなんです。我ながらよくできてると思うです。もう少しで戻ってきますから、もう少しお待ち頂けますか」

「もう少しって、あと、どのくらいなんだ。いったいお前たちはなにをしたんだっ。言え、言ってみろっ!」

 机を思い切り叩くと、大河内と田代の顔から嫌味な笑みが剥がれ飛んでいった。

「先生」大河内は、壁に立てかけてあった折りたたみ式のパイプ椅子を開きながら言った。

「我々は同じ穴のムジナじゃないですか」言うと開けたパイプ椅子に腰を下ろした。

「それはどういう意味なんだ」

「先生、よく、そんなことが言えますよね。

 さちえちゃんでしたっけ。どんな字を書くか知れませんけど、我々の二番煎じをやってるってことはわかっているんですよ。 

 少子化ってのは我々も憂いていたんです。だけど、ここまでひどくなるとは思ってもいなかった。とりあえず、ロボットに着手した。それがロビンちゃんです。だけど、まだ良かったんですよ、ロボットは。なんだかんだ言ったって、見た感じは人間そっくりだけど、所詮はロボット。使えなくなって捨てても誰も何も言わない。機械と一緒ですよ。それにメーカーも開発を競って色々と協力もしてくれた。だけど、もう一つの方はそうはいかなかった。先生もわかっていると思うが、作られる過程が少し違っていても、あれは立派な人間ですから。体には真っ赤な血が流れている。

 我々はどれだけの人間にこれからの高齢化と少子化の危機を説いたことか。

皆、理解はしてくれたが、最後にじゃあご協力を頂けるのかと聞くと答えはみんな同じ、NOだった。結局は“倫理”が邪魔をしたんだ。

その点、先生たちはいいよ。チャイルドタウンでしたっけ。あと、全国に作った刑務所のチェーン店。うまくやってるよ。国全体で人間そのものを囲っているんだから」

「そんなんで作ったんじゃない。本当に子供を守ろう、国を良くして行こうということで作ったんだ」

「先生、もういいですよ。わたしも先生と同じ、国会議員ですよ。腹で何を思っていようが、国の為にやっていますからって言うのが我々の宿命ですから。そんなことより、さっきの話の続きですが、結局我々のしようとしたことは誰にも認めてもらえなかった。そこで、田代さんと色々と考えたんです。先生と同じ、本当にこの国のことを思って。

 なぁ、田代さんよ」

「ええ」田代幸三は無表情で答えた。

「で、行きついた答えが、犯罪関与が明らな場合と疑いがある時に行われる司法解剖だったんだ。遺族の同意が得られなくても裁判所から許可が下りると職権で強制的に行うことができるからな」

「じゃあ、あの女の子はやっぱり、奈々・・・」

「そうです」

 大河内が真の目を見て言った時、扉がノックされ伊藤さんが部屋に入ってきた。

「先生、ロビンちゃんからお電話が入っていますが」

「ああ、すまん」言いながら大河内は伊藤さんから携帯を受け取った。

「おう、ロビンちゃんか、どうした?何かあったのか」

 うん、そうか、そうかと首を振っていた大河内の表情が一瞬、えっ、とこわばった。

「わかった。じゃあ、伊藤さんに迎えに行ってもらうから」

 携帯を切ると大河内は伊藤さんに「悪いけど、ドームの隣の遊園地にロビンちゃんを向かいに行ってあげてくれるか」と言った。

「わかりました」と言うと伊藤さんは入ってきたばかりの部屋を出て行った。

「先生、長い間お待たせ致しました。娘さんがまもなくいらっしゃいます」大河内が久しぶりに表情を顔に張り付けて言った。

「娘って言うなっ!俺の奈々は亡くなったあの子一人だけなんだっ!」

「じゃあ、どうしてわざわざ会いに起こしになったんですか」

「そ、それは・・・」

「会いたいんでしょ。自分の娘さんに。偽物だとわかっていても会いたいんでしょ、そうなんでしょ?」

「違うっ!!

 奈々は奈々であって、俺のたった一人の娘なんだっ!」

 真は立ちあがると大河内に向かって突進した。

「寺田さんっ」田代が間一髪で二人の間に割って入った。「落ち着いてください、先生のお気持ちはわかりますけど」

「どけっ!」

「先生、お願いですから落ち着いてください」田代は必死の形相で真の体にしがみついた。

「寺田先生、そんなに興奮なさらないでくださいよ」大河内が言った。

 娘さんだけじゃないんですっ。

 さっき出て行った伊藤さんですけど、あの人、光田先生が殺めたあの人なんですよ」

「えっ?」真は怒りの眼を驚きの眼に変えた。

「そう、自分が殺めたあの男なんです。寺田先生、トラウマってありますよね。忘れたい忘れたいと思いながら実は思い出したいんですよ。怖いもの見たさって言うんですかね。

だけど思い出すとつらくなる。自分は、今、目の前の現実を生きていかなくてはいけない。だから、あえて、無理矢理、記憶の扉を閉ざしてしまうんです。そして、全く予期していない時、突然目の前にその光景が現れる。そう、壊れてしまうんですよ。

光田先生もそうだ。

口ではあんな奴ら殺されても当然だと言いながら、心のどこかに罪悪感があったんですよ。いや、ひょっとすればあの男のことが好きだったのかもしれない。だけど思い出したくない。だけど、好きだ。狭間で揺れていたんですよ、ずっと、先生の心は。それが突然目の前に現れた。そら、口から泡を拭きますよ、ね、田代さん」

 田代は大河内の問いかけに答えず、真の体にしがみついたまま視線を床に落としたままだった。

「さあ、そろそろ娘さんが戻ってきますよ」

 大河内がそう言った時、扉のノックする音が聞こえた。

「どうぞ」

 大河内の声に、扉がゆっくりと開き、伊藤さん、ロビンちゃん、そして、女の子が部屋に入ってきた。

 真の体は硬直した。そしてすぐに全身から力が抜け、田代の腕からほどけた。

 あの時、あの霊安室に今にも起き上がって来て「お父さん」と言いそうな表情で横たわっていた娘が今、目の前にいる。

「奈々・・・」

 どんどん遠ざかって行く意識の中で真は「ショートケーキ」と呟いた女の子の声だけははっきりと聞きとった。


         ②

“えーっ!”観客席のため息が小さな窓のわずかな隙間から漏れ伝わってきた。

「愛美理お姉ちゃん、タツヤが交代しちゃったよ」

さちえの声を愛美理は背中で受け「そうなの」と蚊の泣くような声を返した。

「もうそろそろ先生のところへ行く?」さちえが続いて愛美理に聞いた。

 いやなの、の代わりに愛美理はさちえに背中を向けたまま首を横に振った。

「だけど、先生すごく心配してるよ。それに、愛美理お姉ちゃんのママもきっと早く会いたがってるよ」

 もう一度、愛美理は首を横に振った。

「どうしてママと会いたくないの、ねえ、愛美理お姉ちゃん、どうしてなの?」

 愛美理はゆっくりと体をさちえに向けた。

「こわいの。会いたいんだけど、さっちゃん、何かすごく怖いの」愛美理は震える声で言った。

「大丈夫だよ、愛美理お姉ちゃん。

 先生もいるし、それに、私がついているから。ねっ、一緒に行こう」

 しばらく思案した愛美理がうんと頷き、薄い笑顔をさちえに向けた時、突然、部屋の扉が開いた。

「しっ」人差し指をさちえは口の前に立てた。

「愛美理お姉ちゃんこっち」さちえは愛美理の手を引くと、部屋の隅にまとめて置かれていた折り畳み式のテーブルまで中腰で移動し、その影に隠れた。

「どうしてあの人は倒れたんですか?」

 女性の声が聞こえてくる。

「どうしてですかね。わたしにはよくわかりません」

 台本を棒読みするかのような男性の声が続く。

「ららちゃんだけ部屋に残っています。どうしてですか?」女性が男性に聞く。

「よくわかりません。先生に何かお考えがあるんでしょうね」男性の方がさっきよりは言葉に抑揚をつけて言った。

「伊藤さん、お茶でも淹れましょうか」女性が男性に聞いた。

「お願いします」

 男性が答えると、女性は「かしこまりました」と言って、短い沈黙が続いた。

 気になったさちえがテーブルの影からそーっと首を伸ばした。

「わっ」

さっき、自分の口の前に人差し指を立てたさちえが声を上げた。

「どうしたの、さっちゃん」愛美理がさちえに聞く。

「え、えみりお姉ちゃん、お、おんなの人が、こ、こっちに来る・・・」さちえは声を上ずらせた。

「どこか隠れるところを探さないと・・・」言いながら愛美理は全く焦る素振りを見せず周りを見渡した。

「愛美理お姉ちゃん、どうするの、何かいい方法あるの、来るよ来るよ、捕まっちゃうよ、どうするの、ねぇっ、愛美理お姉ちゃんっ」

 二人の間に短い沈黙が続いた。

「さっちゃん」愛美理が口を開いた。「私たち、何も悪いことはしていないの」

「そんなの愛美理お姉ちゃん、わかってるよ。わかってるけど・・・」

「ママに会いに行くって言う。ねぇ、さっちゃん、それでいいよね」

「ダメ。お姉ちゃん・・そ、それは、ダメだよ」

「どうして」

「違うの。愛美理お姉ちゃん・・・女の人じゃなくって、ダメなのは男の人なの」

「男の人?」

「そうなの。あの男の人は絶対にダメなの」

「ダメって、どうしてなの?」

「お姉ちゃん、私にはわかるの。あの男の人は絶対にこどもたちに優しくないから」

「さっちゃん、そんなことどうしてわかるの?」

「なんとなく。だけど、絶対に間違いないから」

「そうなの・・・」少し残念そうな顔をした愛美理は「じゃあ、どうするの、さっちゃん」と言ってさちえの目を見た。

 しかし、さちえの目は愛美理の目を見ていなかった。

「どうしたのさっちゃん?」

 愛美理の問いかけに、さちえは目を大きく見開いた。

「こんにちは」

 突然の、さちえではない女の声にビクッと愛美理は体を震わせた。

「あなた方はどなた様ですか」

 愛美理は声の主に恐る恐る顔を向け、そして、その存在を確認するやいなや“ギャっ”と、しっぽを踏まれた猫のような声を発した。

「こんなところで何をなさっていますか?」

 愛美理とさちえは顔を見合わせ、そして、二人で体を震わせた。

「どうされましたか。なにかございましたか。大丈夫でございますか」

 そう言うと、その女は、操り人形のように、そっと、二人の方に向かって近づいてきた。

「ギャーーーッ」

さちえが大声を発した。

 愛美理は手のひらで顔を覆いしゃがみこんだ。

 なにも来ないでお願いだから、何も触れないでお願いだから、私はただママに会いに行くだけなんだから。

空間から音が消えた。そして、再び、短い沈黙の後、そっと顔を覆っていた手を解くと絵美理の目の前には、体を震わせしゃがみこんでいるさちえと、微動だにせず蠟人形のように立っているさっきの女がいるだけだった。

「さっちゃん」

 愛美理はさちえに声を掛けた。

 返事はなかったがすぐにさちえはもぞもぞと体を動かした。

「もう大丈夫よ」

 愛美理の声にさちえはゆっくりと体を起こした。

「止まってるの?」愛美理は目の前で蠟人形のように固まっている女を指差した。

「わからないの。目を開けるとこうなっていたの」

「死んじゃったの?」

「わからないの。触ってみる?」

 うんと頷いたさちえはそっと指を伸ばし女の腕に触れた。

「冷たい」さちえはぽつりと漏らした。

「ほんとに?」言いながら愛美理も女の腕に細い指を立てた。

「ほんとだ」女の腕から離した指先を見ながら愛美理は言った。

「愛美理お姉ちゃん、どうするの、ここからどうやって出て行くの?」とさちえが愛美理に顔を向けた時「どうしたっ、ロビンちゃん、何かあったのか」と男の声がした。

 声の方を見ると男がこっちに向かって歩いて来ていた。

「お姉ちゃん、逃げよっ」さちえは愛美理の手を取って男がやってくる方向と正反対の方向へ足を滑らせた。

 すりガラスをはめた扉が目に入った。運よく鍵がかかっていなかった。そっと扉を押し、二人で体を流し込むと後ろ手でそっと閉めた。

 明かりはついていなかったが、目が慣れてくると狭い空間の奥にもう一つ扉があるのがわかった。

「行く?」愛美理がさちえに聞いた。

 うんとさちえが頷くと愛美理は扉の前に立ちドアのノブに手を添えた。

 ステンレスの冷たさが伝わってくる。

 そっと押すと目の前に下に降りる階段が現れた。

「なにかな?」一人ごちると愛美理はさちえの顔を見て、二人でうんと頷いた。

 一段一段丁寧に降りる。やがて段がなくなる。カビ臭い匂いが鼻に突き刺さる。どこからか漏れ入った光の帯の中で塵が舞っているのが見える。

 そして、二人は、目の前に現れた光景に、立ちつくした。

 さっき、二人の前で突然動きを止めた女が目の前に、二十、いや、三十、いや、もっと、百人は超えていた。

 キャーっと二人は悲鳴を上げたが、止まっている女が、さっきとは逆に動き出すようなことはなかった。


         ③

 監督にブルペン行きを命じられた。

 タツヤさんがベンチに退いた直後のドーム内のざわつきはほとんど無くなっていた。

「温、いくら頑張ってもMVPはタツヤだぜ」投げた球を受けた、ペナントレースで優勝を争っているチームのベテランキャッチャーが言った。

「それはわかっています。だけど、マウンドに上がれば一生懸命投げます」

「優等生だなぁお前は」ベテランキャッチャーは山なりの球を返しながら言った。

 試合は、タツヤが打った二本のホームランが両チームの唯一の得点だった。

「だけど、この回に今投げている奴が打たれて逆転されるとタツヤの二本のホームランが消える。そして、次の回、温が〇点に抑えて、その裏、九回の裏だな、温がサヨナラ逆転ホームランを打てばMVPは温、お前だぞ」

「そんなことは絶対にないです」

 言うと、ベテランキャッチャーは「そんなのわかんねぇぞ」と言って小気味いい音を立てて温が投じた直球をキャッチャーミットに収めた。

「あいつも決して調子は良くないんだから」ベテランキャッチャーはブルペンの壁にかかっているモニターに映る自分のチームのエースを指差して言った。「ほんとはお前んとこと優勝争いが控えているから辞退したかったんだけど、折角ファンに選んでもらったのに断ると今後に響くからって。最近のファンはうるさいからな。あの汗見てみろよ、調子の悪い時のあいつの特徴なんだよ」

 ベテランキャッチャーが言ったことがあたった。

 モニターから歓声が上がり、見ると相手チームの先頭打者が二塁ベースに立っていた。

「ほらな、言わんこっちゃない。おい、ひょっとしたらこの回からあるかもしれないぞ。ちょっと、ピッチ上げて行こうぜ」言いながらベテランキャッチャーはさっきよりは力の入った球を返してきた。

「じゃあ、真っ直ぐ行きます」

 三球、矢のような直球をベテランキャッチャーのミットに投げ込んだ。

「いい球だ。

温さぁ、うちのチームに来ないか。俺、球団オーナーと学校が一緒だから結構かわいがってもらってんだ。お前が本当に来るって言ってくれるんならオーナーに話してみるぞ」

「折角ですけど遠慮しときます。私はやっぱりタツヤさんと一緒に野球がしたいですから」

「そんなこと言うなよ。野球界全体のことを考えると東京スターズばっかり勝っていたらそのうちファンから飽きられるぞ。お前が俺達のホームグラウンドに立ってタツヤを三振に打ち取る。新しい世界が開けると思うんだけどなあ」

 ベテランキャッチャーが言いながら球を返してきた時、又、モニターから歓声が上がった。

「温。さっき俺の言ったこと、ほんとになってきたぞ。早く肩を作ってしまおうぜ」

 モニターに映ったダイヤモンドは、ホームベースを除く三っの塁すべてがランナーで埋め尽くされていた。


        ④

 何度携帯を鳴らしても出てこなかった。

 さっきまで降っていた雨はやんだ。

 濡れた傘が邪魔だなと思いながら歩いているとドーム球場が視界の中に入ってきた。

 そもそもお父さんはドーム球場へ何をするために行ったのだろう。総理が倒れたことを知らなかった。官邸で野球中継を見ていたはずだ。その前に官邸を飛び出したのはなぜだろう。それに、殺人事件があったからと言って僕を被害者が運ばれた病院に行かせたのはなぜだろう。父さんの立場なら、そんなこといくらでも簡単に情報を取れるはずだ。

 もう一度携帯を鳴らしてみる。

 やはり出てこない。

 ドーム球場の前の交差点にたどりつく。

 雨は上がったがドーム球場の屋根は閉じられたままだった。

 入場口から歓声が漏れてくる。

信号が青に変わる。

 ドーム球場の方向からはほとんど誰も来ない。周辺にもほとんど人はいない。興奮が真空パックされた要塞のように思えた。

 交差点から一番近いゲートにたどり着いたとき「ちょっと君たちっ」と男の大きな声が聞こえた。

 見ると、小学生くらいの女の子が二人、係の男性に呼び止められていた。

「お菓子を買いに行ってたら道に迷っちゃって」

 背の低い方の女の子がはっきりと聞こえる声で答えている。

「チケット持ってるの」係の男性がぶっきらぼうに二人の女の子に聞く。

「持ってないの。どこかに失くしちゃった」背の低い方の女の子がもう一度はっきりと言った。

「お嬢ちゃん、ほんとうはチケットなんか持ってないんだろ」

「持ってるよ。タツヤから送ってもらったんだから。ねぇ、愛美理お姉ちゃん」

 背の高い方の女の子がうんと頷いた。

「お嬢ちゃん。“たつや”って今日ホームランを打った“タツヤ”だよね」

「そうだよ」背の低い方の女の子が言う。

「お嬢ちゃん、あんまり変なこと言うとダメだよ」

「変なことなんか言ってないよ。ほんとうにタツヤからもらったんだから」

 背の低い方の女の子が言った時、あっと脳が反応した。

 その女の子はさっちゃんだった。

今は、別のチャイルドタウンに移ってしまったが、自分が今勤めているチャイルドタウンにいた時、話したことは一度もなかったが一人異彩を放っていたのを思い出した。

そして、もう一人の女の子もよく見てみると、髪型と地味な服装、胸に付けているバッジからチャイルドタウンの子供だとわかった。

「何かありましたか?」係の男性に聞く。

「いえ、この子達、どうもチケットを持っていないのに入場しているようで・・・」

「ちゃんと持ってるよ」さっちゃんが目を吊り上げて係の男性に言った。

「君たち、チャイルドタウンの子供だよね」

 言葉を挟むと、うん、とこっちを向いて、さっちゃんが頷いた。

「私、チャイルドタウンの職員なんです」言いながら職員証を係の男性に差しだした。

「そうですか」言いながら係の男性は少しほっとした表情を見せた。

「後は私がちゃんとしますので」

 言うと、係の男性は軽く頭を垂れその場から去って行った。

「ここで何してるの?」二人に聞く。

「道に迷っちゃって・・・」さっちゃんが言ったが、目が若干泳いでいた。

「本当に?」二人に目を向ける。

「さっちゃんは悪くないの」

 初めて背の高い方の女の子が口を開いた。

「私がママに会いたくないって言ったから・・・」

背の高い方の女の子が続けて言うと、さっちゃんが「そんなことないよ」と、さっき泳がせていた目を今度はしっかりと固めて言った。

「ちょっとどんな話なのか聞かせてくれる」

 二人は、うん、と合わせるように首を縦に振った。

 そして、二人とも同じチャイルドタウンにいること、担当の先生の名前は末広未沙ということ、今日ドームへ来れたのは東京スターズのタツヤがチケットを送ってくれたからだということ、スタンドにいると急に先生と、さっちゃんが一度だけチャイルドタウンで会ったことのある女の人がやって来て背の高い方の女の子、名前を愛美理と言った、その愛美理ちゃんのママが会いに来ていると告げたということ、だけど愛美理ちゃんは会うのが嫌なので二人で逃げたということ、逃げる途中で変な部屋の中に入り込み、女の人がやって来て、二人の悲鳴を聞くと急に動かなくなったこと、そのあと男の人がやって来て慌てて逃げると、また変な部屋に入り、さっき話をした急に動かなくなった女の人とそっくりの人が百人以上いたこと、今は愛美理ちゃんはもうママと会ってもいいと思っていること、を聞いた。

 そして、これは二人とも言葉にはしなかった。

二人とも大人に迷惑を掛けられている・・ことを。

「じゃあ、すぐに連絡をとるから」

 チャイルドタウンに電話を入れると、すぐに末広未沙の携帯番号がわかった。

 二回目のコールで末広未沙は出てきた。

 事情を話すと末広未沙は「すぐに行きます」と電話を切った。

 すると、末広未沙は、本当にすぐにやって来た。

「どうもすいません、ご迷惑をおかけしまして」そう言って頭を下げた末広未沙は「どこへ行っていたの?」と視線を二人の女の子に移した。

「愛美理お姉ちゃんと・・・」さっちゃんが言いかけた時「違うの、私がママと会いたくなかったから」と愛美理ちゃんが末広未沙の目を見て言った。

「でも、今は会いたいの。ママと会いたいの」

「そうなの。先生たち心配したんだから。愛美理ちゃんとさっちゃんがどこかへ行っちゃったんじゃないのかって」

「ごめんなさい」二人は声を合わせて頭を垂れた。

「よし、じゃあ罰として、今日、チャイルドタウンに戻ったら二人で先生の肩をもむこと。

 わかった?」

 うん、と二人は嬉しそうに首を縦に振った。

「じゃあ、愛美理ちゃんのママが待ってるから行こうか」

 末広未沙がそう言って、踵を返した時、ドッと観客の歓声でドーム全体が揺れた。


第六章

  ①

「あの野郎、すっとぼけた顔しやがって」大河内善三郎は、一つのアウトも取れずに三つの塁を埋めてマウンドから項を垂れて降りる東京スターズのライバルチームのエースに向かって言った。

「ドラフトで今のチームに指名された時、浪人するって騒ぎましたけど。今回、念願叶って東京スターズに入れるわけですから、どんな演技でもするでしょ」

 田代がそう言って口元に少し笑みを浮かべた時、液晶テレビに温が登場した。

「ここからだよ」大河内善三郎は瞼の上にたくさんのしかかった皺を押し上げるようにして目を見開いた。

「彼ならきっとやってくれますよ。実際に一番脂が乗り切っているときですから。きっとやってくれますよ、きっと」

 そう言って田代が液晶テレビの中で投球練習を続ける温を食い入るように見つめた時、コンコンと扉を叩く音が部屋の中に響いた。

「失礼します」

伊藤さんが部屋に入って来た。

「ロビンちゃんがおかしくなってしまいまして」言いながら伊藤さんは頭をかいた。

「ロビンちゃんが?」田代が聞いた。

「そうなんです。お茶を淹れに行ってくれて、暫く戻ってこないんで見に行ったら、立ったまま動かなくなってまして」

「しょうがねぇなぁ。伊藤さん、すまねぇけどメーカーに電話してくれねぇか。大河内が怒ってるって言ってくれればわかると思うから」

「わかりました」

「着いたらすぐに連絡くれるか。メーカーの野郎、最近、何かあると使い方が悪いだのへったくれだのと屁理屈を言いやがるから。久しぶりにキツイお灸をすえてやるよ」

「ロビンちゃんどうかしたの?」ららちゃんだった。

「大丈夫だよ。少しロビンちゃんも疲れてたみたいだから。それに、代わりはいくらでもいるし・・」

「先生」田代だった。「代わりって、ロビンちゃんに代わって働いてくれる人っていう意味ですよね」

「そ、そうだよ。ららちゃん、先生はたくさん知り合いの人がいるから大丈夫なんだよ。

 な、なぁ、田代さん」

「え、ええ、そうです」

「へぇー、そうなんだ」ららはさらりと言った。

そして「あのおじさんは何してるの?」と、部屋の隅で、折りたたみの椅子をたて横に並べて作った臨時のベットの上で眠る寺田真を指差した。

「疲れたから眠っているんだよ」言いながら田代は大河内を見た。

「疲れた人ばっかりだね。ららが渡したボールを投げて倒れたおじさんもそうなの?」

「そうだよ」田代が言った。

「どうしてみんな疲れているの?」ららは田代を見て言った。

「ららちゃん」大河内が二人のあいだに割って入った。

「大人はみんないろいろと忙しいんだ。おじちゃん達だって暇そうに見えるけど、本当は忙しいんだよ。ねぇ、田代さん」

「ええ。ららちゃんも大人になると忙しくなるから」

「ほんとう? だったら、ららはずっと子供のままでいい」

「おじさん達だって大人になんかなりたくなかったんだよ。なぁ、田代さん」

「ええ」と田代が少し苦笑いを浮かべて言ったとき、何か金属の擦れる音がした。

「うーん」寺田真が臨時のベッドの上で身を拗らせていた。

「奈々・・奈々・・」

「あっ、おじさん、今、ららって言った」ららが寺田真を見ながら言った。

「違うよ、ららちゃん。おじさんは“なな”って言ったんだよ」田代は作り笑顔を浮かべてららに言った。

「奈々っ・・奈々っ」真が声を上げる。

「やっぱり、おじさん、ららって言ったよ」

 言うとららはゆっくりと真に近づいていった。

「ショートケーキ食べよう。俊介も一緒だよ」真がうなされるように言葉を吐く。

 ららは真の前で立ち止まった。そして「お父さん・・」と虚空を見つめ言葉を漏らした。

「田代さんっ」大河内が慌てて声を上げた。

「ららちゃん、試合を見に行こう」言いながら田代はららに近寄った。「おもしろいから、ねっ、一緒に行こう」言うとららの手を取った。

 はっ、と、ららは我に返ったような表情を見せた。

「わかりました。先生、じゃあ、行ってきます」

「いってらっしゃい。これから盛り上がるよ、きっと」

 言った大河内は、頼むよ、と手を上げると田代はららの手を引いて部屋を出ていった。


            ②

 すごい歓声だった。

シーズン中には体験したことのないものだった。マウンドに上がると、ロージンパックを手にした。いつもなら軽く湿った指先に当てる程度だったが、今日は手の平全体でぐいっと握り締めた。

「プレイっ」球審の手が上がる。

 塁上は全て埋まっている。一人もホームに返すことはできない。タツヤさんの二本のホームランが消えてしまう。

 キャッチャーのサインに頷くと、三塁ランナーを目で牽制し、大きく振りかぶった。

 しかし、力が入りすぎたのか、思い切り振った腕から放たれた球は大きくホームベースから外れた。

 しまった、と思ったが、キャッチャーが瞬時に反応し、横っ飛びで球を捕らえた。

「タイムっ」

 慌ててベンチから監督の藤田が飛び出てきた。

「温。そんなに力まなくていいよ。オールスターはお祭りなんだから。もっと、楽しんで投げればいいよ」

 わかりました、と首を縦に振ると藤田はベンチへ戻っていった。

 大きく深呼吸する。

 球審の手が上がる。

 振りかぶって思いっきり腕を振る。

 しかし、またしても球はホームベースから大きくそれた。

 ドーム全体がどよめく。

 キャッチャーが肩の力を抜けと、球を返しながら自分の肩を上下させる。

 足元のロージンパックに指先を付ける。さっきより大きくて長い深呼吸を二度する。

 そして、大きく振りかぶると、キャッチャーミットを目掛けて思いっきり腕を振る。

 しかし、結果はまたしても同じだった。

 どよめきの中には、笑い声とブーイングが混ざっていた。

 ドームがどよめきで揺れる。

 次の球がホームベースの上を通らないと、タツヤさんのホームランが一本消えてしまう。

 相変わらず湿っている指先をユニホームのズボンに擦りつける。

「温っ!」

 突然大きな声が聞こえた。

「温っ、俺のホームランなんか気にするなっ」

 ベンチにいるタツヤさんだった。

「ど真ん中へ投げてやれ。お前のストレートは絶対に打たれないよ」

 言うとタツヤは、左の胸、ちょうど心臓のあたりをドンドンと二度叩いた。

 肩の力が抜けた。

 三人のランナーのことなど気にせず、大きく振りかぶり、大きく腕を振る。

 ホームベースの上を球が駆け抜ける。

 球審の腕が真っ直ぐ上に伸びる。

「ストライっク」

 少しの間を置いてドームがどよめく。どよめきの中に今度は拍手が混じった。

 もう迷いはなかった。

 同じ球を二度続けてキャッチャーミットの中に投げ込み、どよめきを歓声に変えた。

 次の打者にも特別なことは何も必要がなかった。

 三球で仕留めると、その次の打者のバットも球に触れることなく虚しく三度空を切るだけだった。

「ナイスピッチング」

 大歓声に包まれベンチに戻ると、タツヤとハイタッチを交わした。

「すいません、心配かけまして」

「心配なんかしてなかったよ。それより、MVPはお前が取るんじゃないか」

「そんなことないですよ。MVPはタツヤさんです」

「そんなのわかんねぇぞ。次の回、温、お前が三者三振をとってみろ。絶体絶命のピンチから六者連続三振。昔のエナツっていうピッチャーが達成した九者連続三振に匹敵するぞ」

「タツヤさん、私は、かんどう(感動)賞でいいです」

「温。それを言うならかんとう(敢闘)賞だろ。そら確かに人に感動を与えるっていうことからすれば似たようなもんだけど」

「すみません。わたしはそのかんとう(敢闘)賞でいいです。MVPはタツヤさんがお似合いですよ」

「そうか。そこまで言うんならMVPは俺がもらっといてやるよ。

 じゃあ、絶対に打たれるんじゃないぞ。

 お前の敢闘賞どころか俺のMVPまでなくなった時は俺も少し考えさせてもらうから」

「大丈夫です。あとの三人も全部三振に取ります。タツヤさんはMVPをとった時のインタビューで何を話すか考えておいてください」

「わかったよ。じゃあ、髭でも剃って、ユニフォームも新しいのに着替えておくよ」

「お願いします」笑みを浮かべながらペコリとタツヤに頭を下げると監督の藤田に呼ばれた。

「温、お前の打順だぞ。三振を取る前に先に三振に取られてこい」


          ③

 握りしめた幸子さんの手は震えていた。

 娘の愛美理ちゃんが見つかったからと告げてから、虚空の一点を見つめ「愛美理、愛美理・・」と呪文のように呟いている。

 通路の奥から、小さな女の子二人を真ん中に挟んで、手をつないでこっちに向かってくる四人の姿が見えてきた。

「幸子さん、愛美理ちゃんよ」

 幸子さんの手の震えが止まった。

 呪文も止まった。

 四人の姿がはっきりと見えてきた。

 左端が未沙さん、右端がたまたま現場にいあわせて一緒に探しに行ってくれた女性。

 間に挟まれた女の子のうち右側の女の子は満面に笑みを浮かべている。

 もう一人の、左側の女の子、未沙さんと手を繋いでいる女の子は俯いてギュッと唇をかんでいる。

 愛美理ちゃんはきっとこの子だ。ママと久しぶりに会うので子供ながらに緊張しているのだ。

 四人が目の前に立った。

「遅くなりました」未沙さんが軽く会釈する。

「幸子さん、愛美理ちゃんよ」

 言った瞬間、俯いている方の女の子の肩がビクッと震えた。やっぱり、愛美理ちゃんはこの子だ。

 幸子さんはじっとしたまま動かない。

「愛美理ちゃん、ママよ」未沙さんが愛美理ちゃんの背中を押すが、足が前に出ない。

「愛美理お姉ちゃん」もう一人の女の子が声を上げた。「お姉ちゃん、ずっと会いたがっていたママよ」

 言うと女の子は愛美理ちゃんの手を引き、二人で幸子さんの前に立った。

 すると、幸子さんの手が、形態模写を演じているかのようにぎこちなく動き始めた。

 俯いていた愛美理ちゃんが、幸子さんの手と同じスピードで顔をあげた。

「マ マ 」

 言葉が溢れた。

「愛美理お姉ちゃんっ」

 女の子は愛美理ちゃんの手を掴むと幸子さんの手と無理矢理握り合わせた。

「幸子さん、抱きしめてあげなきゃ。あなたの子供よ。あなたの大切な愛美理ちゃんなのよ」言いながら涙が溢れ、白衣の上でその涙は輝きながら跳ねた。

 すると、幸子さんはゆっくりと膝を折り、目の高さを愛美理ちゃんに合わせた。

 そして「愛・・美・・理・・」と言って、つないでいないほうの手で愛美理ちゃんの肩を抱き寄せ、もう一度「愛・・美・・理・・」と言って頬に涙を伝わせた。

 顔の表情が変わった。何かが幸子さんから抜け出ていった。

「やったーっ」女の子が声を上げた。「愛美理お姉ちゃん、良かったよね。やっとママに会えたんだ」

 未沙さんと一緒に二人の女の子を探しに行ってくれた女性が涙を拭いながら「さちえちゃん」と言って女の子の肩を抱いた。

 女の子の名前は“さちえ”と言うんだ。

 未沙さんと目が合う。

 これで良かったよね、とお互いに頷く。

 四人に連れ添ってきた若い男性が真っ赤になった目を何度もハンカチで拭っている姿が視界の隅に映った。。


         ④

 トイレの鏡に映った顔はまだ目の周りが赤く腫れていた。

 親に迷惑を掛けられてきた子供たちをたくさん見てきた。しかし、親も“子供”なのだ。

 自分の“親”にとっては立派な“子供”なのだ。時には“親”であり、時には“子供”でもある。ただ言えることは、子供に辛い、寂しい、という思いをさせることはダメだということだ。それは社会であり親であり同じことだ。

 その肝心の親と連絡が取れない。何度携帯を鳴らしても出てこない。

 こうしてトイレの洗面台で顔を洗っているのも「男は人前で泣くものじゃない」という親の教えを守ってのものだ。

 その親がどこかへ行ってしまった。そもそもドームへ向かったのは何のためなのか。

 総理が倒れたことは知らなかった。それに、公園で殺された男性の身元を確認するため病院に向かわせた。一体何のために。

 額に残った雫をハンカチで拭うとトイレを出た。

 スタウンドに戻るとドームはすごい熱気に包まれていた。マウンドには東京スターズの温投手が仁王立ちしていた。アウトカウントを示す赤いランプが二つ灯っていた。塁上には誰もいない。

“あと一人”コールがドーム内をこだまする。

 温投手が振りかぶったかと思うと、矢のような球がキャッチャーミットに吸い込まれた。

 誰が見ても明らかにワンテンポ遅れてバットを振った打者が苦笑いを浮かべている。

 そして、グラウンドではもう一度同じ光景が繰り返され“あと一人”コールが“あと一球”コールに変わった。

 ダメだと思いながらもう一度携帯携帯を鳴らした時、ドーム内に大歓声が上がった。

 マウンド上で温投手がガッツポーズをしていた。

 続いてセントラルリーグの勝利がコールされた。

 マウンドをゆっくりと降りる温がキャッチャーと勝利の握手を交わし、ベンチから駆け寄ってきたタツヤとハイタッチをしようと右手を挙げたとき、スタンドから飛んできたペットボトルが温の頭に当たった。

 と同時に起こった小さな拍手と小さなブーイングは俊介の耳には届かなかった。


             ⑤

「本当にいいの?」

 トレードマークの大きなつばのついた帽子をかぶった朝風凪が横山たかしに聞いた。

「いいのって、宅斗くんを喜ばしてあげんのが一番やで。旦那さんにはよろしい言うといてな。最高の演奏やったって」

「あなた、これからどうするの?」

「久しぶりに蘭に会いに行ってくるわ」

「事前に予約を入れておかないと会わせてくれないわよ」

「大丈夫や。ギャグの一つや二つ言うたら会わせてくれるやろ。薹はたったけど平成の爆笑王はまだ健在や。途中で土産買うていくから先行くで」

 言い残すとたかしはパイプ椅子と長机だけの“楽屋”を出た。

 通路を歩いていると関係者が「お疲れ様でした」と頭を下げた。

「MVPの発表はもう終わったん?」

「もうまもなく始まります」関係者が答えた。

「まあ、タツヤはんで決まりやろね。あの人はほんまにええとこ持っていくわ。あれは天性のもんやろね」

「多分そうでしょうね」

 関係者がそう言ったとき、何枚ものドーム内の壁をぶち破って大歓声が聞こえてきた。

「いよいよ始まりますよ」

「もう目の前で見せつけられんのはええわ。それより、これから娘に会いにいくんやけど、お土産は何がええと思う」

「お嬢さんですからケーキなんかがいいんじゃないですか」

「もうちょっとひねってや。薹はたっても一時代を築いたお笑い芸人やで。その俺がケーキ持って娘に『はい、お土産』言うたってなんにもおもろないやんか。例えば、牛一頭持って行くとかやなぁってつまらんこと言うてる場合ちゃうわ。ほんならお疲れ」

 関係者の笑い声に送られ通路を進む。

 ドームから出る最後の扉の前に来たとき、三十人ほどの人間がその扉を開けてズカズカと入ってきた。

 全員が男で、球場の関係者という雰囲気はなく、ほとんどがジーンズを履いて、髪の色が茶色だった。

 関係者以外は出入りができない扉だ。どこの団体の人達だろうと思っていると、その中の一人と目が合った。男はすぐに目をそらした。

 他の男達を見る。

 皆、同じような目をしていた。そこには表情はなかったが強い意志を感じた。鮫の目、たかしはそう思った。

 ドームを出るとタクシー乗り場に向かう。

 途中、大きなどよめきのような声がドームから押し寄せてきたが、たかしは気がつかなかった。

 娘のお土産は何にしよう、ただそれだけがたかしの脳を支配していた。


            ⑥

「えーっ、タツヤじゃないのっ!」元太は立ち上がって大声を上げた。

 ホームベース付近に設けられた“お立ち台”には温が上がった。

 ヤジがドーム内を包んだ。

「宅斗くんっ」元太が叫んだ。

「なにっ」宅斗も声を張り上げる。

「晩ごはんどうするのっ」

「えっ」宅斗は?という表情を見せた。

「晩ごはんはどうするのっ。だ・・・れ・・・と・・・食・・・べ・・・る・・・のっ!」

 噛み砕くように元太が宅斗に向かって叫んだとき、ドーム内の負のボルテージが一気に加速した。

 ヤジはシュプレヒコールに変わり、温とインタビュアーに向かって、メガホンや紙コップが次々と投げ込まれた。

「元太くんっ、これヤバイよ。もう帰ろっ。いくらブーイングしたってタツヤにMVPが変わることはないんだからさ」

「そうだよねっ。じゃあ、帰ろっ」

 二人は逃げるようにして席を立ち通路に出ると、自分たちと同じくらいの子供達とその親達とで溢れかえっていた。

 天井からぶら下がっている大きな液晶テレビには、たくさんの警備員に囲まれた温とインタビュアーが映し出されていた。

「元太くん、さっきは僕に何を聞いていたの?周りがうるさくて聞こえなかったんだけど」

「ああそうだ、晩ごはんはどうするのかなと思って。

 朝、お父さんが言ってたけど、美味しいお肉をいっぱい買って、すき焼きの準備をしていると思うんだけど、大丈夫だよね」

「あっ、そうだったよね・・」

「お母さんが迎えに来るのは明日の朝だよね」

「う、うん、そ、そうなんだけど・・」

「どうしたの宅斗くん?」

「元太くん、ごめんっ。急にママがごはんを食べに行こうって」

「えっ、そ、そうなの・・」元太は豆鉄砲を食らった鳩のような顔をして言った。

「元太くん、ほんとうにごめん。今度は絶対にみんなで食べようね。来月もまた泊めてくれる」

 元太は俯きながらウンと頷いた。

「今日はね・・」宅斗はゴクリと唾を飲んだ。「パパも一緒なんだ。それも本当の・・・本当のパパなんだ」

元太が「そうなんだ」と薄々はわかっていたが少し驚いた表情で言った時「いゃだーっ!!」と隣にいた女性が悲鳴に近い声を上げた。

 女性は口に手を当て天井からぶら下がる液晶テレビを見入っていた。

 元太と宅斗は目を液晶テレビに移した。

 そこには、額から黄色と透明の粘着上の液体を垂らしている温が映っていた。

「卵だよっ」元太が声を上げた。

「ひどいよっ」宅斗が続く。

 そう言っている間に、テレビ画面に映る温の前を、どこから飛んできたのか白い物体が通り過ぎた。

「宅斗くん、なんかヤバイよ。早くここから出よう」

 元太が言って二人で通路を駆け出そうとしたとき、バンっと爆音がドーム内を轟き、一瞬にして辺りから明かりが消えた。


第七章


 ①

「それにしても、温もタツヤもたいしたもんだよ」大河内は薄笑いを浮かべながら言った。

「唯一の不安要素だったけど、簡単にクリアしてくれたよ。今年もプロ野球の日本一は東京スターズで決まりだな」

 モニターには非常灯だけに照らされた薄暗いドームが映し出されていた。

「よしっ、そろそろいいか」

 自分に言い聞かせるように言った大河内は携帯を手にした。

「あっ、俺だ」言った後、しばらく相手の言葉にうんうんと頷く。

「じゃあ、始めてくれ」言うと大河内は携帯を切った。

 そして、大河内が吐いた言葉の余韻が狭い部屋から消え去らないうちに、モニターに映った薄暗いドームに突然明かりが戻った。

 そして、そこには一人の男が映っていた。男の手にはハンドマイクが握られていた。

「うまく喋れよ」言いながら大河内は紙コップに入ったお茶を少しだけ喉に流し込んだ。

“どうしてMVPが温なんだっ!!”

 音量を極力絞っているモニターからも彼の声ははっきりと聞こえた。

「いいぞ、その調子だ」

“誰が見たってMVPはタツヤだろっ!!”

 まばらな拍手がモニターから漏れ伝わる。

“俺たちはドームを占拠した。

 MVPをタツヤに変えない限り、俺たちはここから動かない。わかったかっ!“

「よっ、大根役者、いや違った、千両役者だ。バカな奴が賢い奴のふりをするのは簡単だけど、賢い奴がバカな奴のフリをするのは難しいんだ。なっ、先生さんよ」

 大河内は未だ気を失っている寺田真を見た。

「先生さん達がやろうとしたことは正しかったんだ。それは俺も認める。だけど、前にも言ったよな。やり方が良くねえんだよ。今そこで大声出している髪の茶色い男。先生さん達が大量生産した奴らと同じように見えるけど、実は、全然違うんだぜ。このままじゃぁ、本当にこの国はダメになっちまう。お宅らに任せている場合じゃないんだ。国の未来を憂う気持ちは一緒だけどな」

 言うと大河内は携帯をもう一度手にして口を開いた。

「あっ、田代さん。そろそろ始まりますから戻ってきてもらえますか。もちろん、ららちゃんも一緒にね」


           ②

「せやから、横田たかしや言うたらわかるから、ほんまに頼むわ」

 チャイルドタウンの係の女性は首をかしげながら、上司と思われる男性に、あの人が、と、たかしを指差し、何やら話をしていた。

「平成の爆笑王や言うたらわかんねんけどなぁ」舞台の上では絶対に見せたことのない苦虫を潰したような表情をたかしが見せたとき「パパっ」と廊下のむこうから女の子がやってきた。

蘭だった。

「パパどうしたの?」

「お前とご飯食べに行こうと思って来てんけど、事前に申請してへんからあかんて言われてるんや」

「そんなの当たり前だよ。会いに来る人はみんなちゃんと前もってやってるよ」

「そんなつれないこと言うなよ」たかしが眉を八の字にして言った時「蘭ちゃんのお父さんなの?」と係の女性が戻って来て言った。


“特例”という赤い判子が押された外出届をシャツのポケットに入れると「何食べたい?」とたかしは蘭に聞いた。

「特に何もないんだけど」

「お前は母さんに似て愛想ないのう。何か、普段、チャイルドタウンでは食べられへんもんで、あれが食べたい、これが食べたいっていうもんがないんかい」

「あんまりないんだけど・・そうだなぁ・・あっ、串カツが食べたい」

「串カツ?」

「テレビでよく見るんだけど、あの“ニ度づけ禁止”を一度食べてみたかったんだ」

「そんなんでええんか」

 言うとたかしは流しのタクシーを止め、行き先を告げる。

 串カツは大阪以外の街で完全に市民権を得た。若い頃は金のないものの酒のアテだった。

 家族連れや若いカップルが食べるものではなかった。今や東京の街のどこでも食べることができた。

 東京では確か“串カツ”とは言わず“串揚げ”と言ったはずだ。

「宅斗は元太君の家で何食べさせてもらってるのかな」蘭が聞いてきた。

「そうやなぁ、まあ、初めての子供のお客さんやから、無難なとこで焼肉かすき焼きやろなぁ。まぁ、間違ってもみんなで串カツは食べてへんと思うで」

 言いながらたかしは、凪とドクロと宅斗が笑いながら食事をしている風景を思い浮かべた。

「ママはどうしたの?」蘭が聞いてきた。

「宅斗を元太君の家に送りに行った後、久しぶりに友達と会うねんて」

「そうなの」

「蘭は泊まりに行く“外界”の友達はおれへんのか。宅斗よりは友達ようさんおるやろ」

「友達はたくさんいるけど、泊めてくれるっていうか、泊まりに行こうと思うほど仲の良い友達はいないの。

 何か違うんだ。なんて言ったらいいのか、とにかく、何か違うの」

「そうなんか。そしたら、今度、ママと宅斗と四人で、泊まりがけの旅行に行こか」

「そんなのできるの?仕事忙しいんじゃないの」

「そんなん大丈夫や。気にせんでええ」

 蘭は宅斗と違いしっかりしていたのであまり心配はしていなかった。しかし、どこかで寂しさを感じているに違いない。両親と暮らせない寂しさを彼女もきっと感じているはずだ。他のチャイルドタウンの子供に元気を与えるのもいいが、たまには自分の子供にも元気を・・。

 五分も走らないうちにタクシーは告げた場所に着いた。

 ひなびた商店街を暫く歩くと、その店が見えてきた。

 十人ほどの人が店の前で立って待っていた。

「えらい人気やなぁ。そんなたいしてうまい店やないんやけどなぁ」

 実際そうだった。知っている串カツ屋の中から、比較的、いつ来てもそれほど混んでいない店を選んだつもりだった。

「どうする?もっと美味しいもん食べに行くか?」

 たかしの言葉に、列を作っていた中の一人がじろっとたかしを睨んだ。

「ううん、いいの。せっかく来たんだから待つ」蘭は少しだけ微笑んで言った。

「そうか」

 昔の自分だったら店主に声をかけると「どうぞどうぞ」と言って、待っている順番など関係なく店に通してくれただろう。

 だけど、時は流れた。

 自分が“平成の爆笑王”と呼ばれていたことはもうほとんど誰も知らない。チャイルドタウンの係の女性の対応を見れば一目瞭然だ。

 三十分ほどで店に入ることができた。

 席に着くとすぐに山盛りのキャベツが目の前に置かれた。

「これ食べていいの?」蘭がキャベツを指差して言った。

「ええよ。なんぼ食べてもタダやから。その代わり、お前が体験したかった“ニ度づけ禁止”やからな」

 ウンと頷くと蘭は大きなキャベツを一枚取り、ソースに浸すと美味しそうに頬張った。

「うまいやろ」

 ウンと蘭はもう一度頷いた。

「串カツもええんやけど、このキャベツもまたええんや」

 店員が注文を取りに来た。

「蘭、何にする」

「パパに任せる。だけど、ウーロン茶だけは頼んでね。油物を食べた時はウーロン茶がいいってテレビで言っていたから」

「オッケー、そしたら店員さんなぁ」

 生ビールとウーロン茶、そして、5種類の串カツを2本ずつ注文した。

 壁一杯に敷き詰められたサイン色紙を見る。

 串カツの油とタバコのヤニと時の経過で茶色く染まっているのは自分のものも含めわずかで、ほとんどが、真新しく、中にはついさっき店に来て書いていったような色紙もあった。

 生ビールとウーロン茶が運ばれてきた。

「乾杯っ」

 蘭の嬉しそうな顔を見るのは久しぶりだった。

「一体どうなってんだよっ」突然男の声がした。

 声の方向を見ると、真っ赤な顔をした、誰が見ても酔っ払いとわかる男がテレビに向かって声を上げていた。

 テレビの中にはドーム球場のダイヤモンドが映し出されていた。

 ただ、人は一人もおらず、ダイヤモンドには、ペットボトルと紙コップ、メガホンなどが散乱していた。

「こっちにも向こうのサンテレビみたいに試合終了までやってくれるテレビ局があるんや」

 少し笑いながら言った時「お待たせ致しました」とカウンターの向こうから串カツが出てきた。

「せやけど、やっぱりタツヤは千両役者やなぁ。ええとこで打ちよるわ。2年連続MVPやもんなぁ」

「MVPはタツヤじゃなかったんですよ」串カツを目の前の銀のトレーに並べてくれながら店員が言った。

「うそやん。誰がどう見てもタツヤやろ」

「私もそう思ったんですけど、違ったんですよ」

「じゃあ、誰やったん、MVPは?」

「温です」

「温かぁ・・まあ確かにピンチを救ったことは救ったんやけどなぁ・・」

「パパ」蘭。「どの串カツが何なのかわからない」

「あっ、ごめんね」たかしと話していた店員が目を蘭に移す。「右から牛肉、豚肉、その隣が白キス、そしてジャガイモと一番端っこが」

「これはわかる。うずら玉子でしょ」蘭が笑みを浮かべていった。「じゃあ、これから食べる。パパもね」

 蘭から串を受け取る。

「ニ度漬けはあかんからな、一回でたっぷりとソースに漬けるんやで」

 二人で一緒に串をソースにくぐらせかぶりつく。

「うまい」思わず声が出る。

「おいしい」蘭も串を手に持って微笑んでいる。

「やっぱりここの串カツはうまいわ」

 たかしの声に店員が頭を垂れる。

「で、話もどるけど、みんな怒ってしもたってわけやな」さっきからずっと同じ映像のテレビを指差しながらたかしが言った。

「怒るだけならいいんですけど、ドームを封鎖しちゃって」

 店員の言葉に串カツを持つ手が止まった。

「封鎖?」

「ええ。さっきわけのわからない男がハンドマイクを手に突然現れて」

「宅斗まだドームにいるんじゃないの」二本目の串カツを手にしながら蘭が言った。

「たぶんな」

「パパ、元太くんの家の電話番号知っているの?」

「いや、しらん」

「ママは?」

「知らんと思うけどいっぺん聞いてみる。とにかくドームへ行こ。蘭、すまんけど大急ぎで食べてくれるか」

「うん」蘭は大きく頷いた。

「俺も急いで食べるわ」自分に言い聞かせるように言うと、手にしていたうずら玉子の残りを銜えようとした。

 すると、残っていた一個のうずら玉子が串から外れ、コロンとテーブルの上に転がった。


            ③

 セントラルリーグの勝利を見届けると家を出た。

 足りるとは思ったが、食べ盛りの男の子が二人である。元太が滅多に自宅に連れてこない“友達”に楽しんで、そして、喜んで帰ってもらいたかった。

 お肉屋さんに入る。

“サービス品”には目もくれず、見事な霜降りの牛肉を指差し「500ちょうだい」と言う。

 一万円札を渡し、千円札四枚のお釣りと牛肉を受け取り店を出た。すると携帯が震えた。

 液晶の画面に浮かんだ妻の名前を見て、ゴクリとつばを飲み込む。

「なんや」感情をすべて消した声を出す。

「テレビ見てる?」少し苛立った声に感じた。

「テレビってオールスターか?」

「そうよ」

「ちゃんとタツヤの二本のホームランとセントラルリーグの勝利は見届けたよ」

「見届けたって、今は見てないの?」

「肉が足りんかったらあかんから買い出しに来てるんや」

「なに呑気なこと言ってるのよっ」

「呑気ってなんやねん。俺はあいつらのこと思うて・・」

「たいへんなことになっているのよっ。わけのわからない男達が、タツヤがMVPじゃなかったからと言ってドームを占拠したのよ」

「えーっ、て言う前になんでタツヤがMVPちゃうねんっ」

「そんなこと知らないわよっ。

 とにかく私はこれからドームに向かうから、あなたはあの子たちが帰っているかすぐに家に戻って。戻っていなかったらすぐに連絡してくれる」

「わかった。戻ってなかったら俺もすぐにドームに行くわ」

 電話を切ると自宅に向かって走った。

 そして、走りながら、妻と会話のキャッチボールしたん久しぶりやなぁ、と思った。


             ④

 ハンドマイクを持った男が突然現れ、ドームを占拠したことを告げたかと思うと、通路につながるゲートに表情のない男達があっという間に配置された。どこかで練習してきたかのような手際良さだった。

 観衆のボルテージは微妙なものになっていた。皆、何か方向が違ってきていることに気づき始めていた。タツヤがMVPでなかったのは大いに不満だった。しかし、ドームを占拠するまではしなくてもいい。おそらく、よくJリーグのサポーターがだらしないチームに抗議しているあの程度だろうと皆思っていたはずだ。

 それより、さっきの女の子達はどうしているのだろう。今日、登録したばかりの末広未沙の番号に掛ける。三回目のコールで彼女は出た。

“末広です”

 声の後ろには、別のたくさんの声が重なり合っていた。

“タツヤが表彰されるのを見たいからと言って、まだ戻って来ていないんです”

「とりあえずそっちに行きます」

 途中、通路に出るゲートで表情のない男達にどこへ行くのかと聞かれた。

 女の子達に会いにいくんだと伝えると「ドームから出ないように」と言われた。

「出ないように」と言われても、通路に出ると、外につながるゲートや階段は、同じく表情のない男達にガードされていた。明らかにこのドームの中で組織的な何かが起きていた。


「あれっ、子供たちは?」

 待ち合わせた場所に着くと末広未沙が一人おどってぽつんと立っていた。

「まだ行ったきりで」

「そうなんですか。チャイルドタウンには?」

「連絡しました。もうニュースで流れているらしく、何人かがこっちに向かっています」

「そうですか」

「警察とか機動隊なんかもやってくるんですかね」

「いえ、僕にもよくわからないんです。ただ、頭の薄いおっさん達が二、三人出て来て、スタンドに向かって『どうもすいません』と頭を下げる、よくJリーグで見かける風景なんですけど、それだけでは済まないような気がします」

「そうなんですか」言うと末広未沙は顎に手をあて何かを考える仕草を見せた。

「何かありました?」

「いえ、実は、あの子達に今日あったことを色々と聞いていたんです。すると、二人である部屋に隠れていた時に、若い女性が近づいてきたらしいんです。二人がびっくりして大声を上げると、その若い女性は突然立ち止まって動かなくなってしまったらしいんです」

「動かなくなった?気でも失ったんですか?」

「いえ、そうじゃなくって、止まってしまったんです」

「止まってしまった?」

「そのあと二人は怖くなって別の部屋に逃げたらしいんです。すると、その若い女性とそっくりの人が、何百人といたらしいんです」

「何百人といた?」

「ロボットか何かわからないんですけど、同じ顔をした女性がじっと動かずに何百人、いや、何百体と言ったほうがいいのかしら、とにかくいたらしいんです」

 末広未沙の話を聞いて、ますます訳がわからなくなった。ただ一つ言えることは、このドームの中で間違いなく何かが起こっている。それだけは確かだった。

携帯を手に取る。

 それにしても父さんは一体どこで何をしているのか。

 呼び出し音が虚しく鳴り響くだけだった。


             ⑤

「タツヤさん、本当にすいません」言いながら温は頭を下げた。

「何言ってんだよ。お前が頭下げることないじゃないか。あいつらが勝手に怒っているだけじゃないか。お前は頑張ってMVPを獲ったんだからどうして謝る必要があるんだ」

「ありがとうございます。タツヤさんにそう言ってもらうとホッとします」

「あいつらも納得がいかないんなら、こんな形を取らずに、事務局に正式に抗議すればいいんだよ。選手を選ぶのにファンの投票で決めるのなら、MVPもファンの意見も取り入れてくれって言えばいいんだよ。家族みんなで楽しく見に来てくれているファンもいるのにこういうのは本当に迷惑だよ。おい、アナウンサーさん」

 タツヤは、温と一緒にベンチに避難してきていたテレビ局のアナウンサーを呼んだ。

「そのマイク貸してくれるか」

「えっ、これですか?」アナウンサーは目を丸くして言った。

「そうだ。乱暴に使ったりはしないから」

 マイクを受け取るとタツヤはグラウンドに飛び出た。

 静まり返っていたドームが一瞬にして大歓声に包まれた。

 タツヤは観衆に手を挙げ歓声に応える。

「みなさん、今日は試合を見に来てくれてありがとうございます」

 ドーム内がさらにヒートアップする。

「我々は、ファンの皆さんに、喜んでもらおう、楽しんでもらおう、そう思ってプレイしました。結果、温投手がMVPに選ばれました。このことは事実であり覆ることはありません」

 大歓声の中に少しブーイングが混ざり始めた。

「不満があるのなら、こういった形を採るのではなく、正式に自分たちの意思をきちんとした形で伝えればいいんじゃないでしょうか。

 みんな今日は楽しみにこのドームに来てくれていると思います。子供たちは僕達選手を見て、将来、プロ野球の選手になろうと夢を持ってくれたかもしれない。そんな人達が、イヤな思いをして家に帰ってもらいたくない。だから、早く解放してくれ。みんなをここから解放してくれ。事務局との話し合いには俺も入る。それは絶対に約束する。早く、こんなつまらないことは辞めるんだ」

 歓声はさらに大きくなったが、それをブーイングが増さった。

 グラウンドに再び物が投げ込まれ始めた。

 いったん引いていた警備員がグラウンドに流れ出てタツヤの周りを囲む。

「くそっ、一体どうなってんだよっ!」

 吐き捨てるに言ったタツヤは警備員に守られながら、ペットボトルやメガホンが雨のように降る中をベンチへと退散した。

「こんな奴ら本当のファンじゃないよっ!」ベンチに腰を下ろし、額の汗をタオルで拭いながらタツヤは吠えた。

「本当にこいつら今日はここへ野球を見に来たのかよ。最初から言いがかりをつけに来たんじゃないのか。なにかおかしいぞ。そう思わないか、温」

 温からの返事はなかった。

「おい、温。ほんとうにそう思わないか?」

 しかし、返事はなかった。

どうしたんだろうとタツヤがそーっと顔を向けると、温はポカンと口を開けて立ち尽くしていた。目はバックスクリーンの方を見ていた。そして、スコアーボードの横のオーロラビジョンに、いつの間にか一人の男が映し出されていた。

「温っ!」タツヤは大きな声で温を呼んだ。

「はっ、はい」温は眠りから覚めたような顔で答えた。

「なんだよっ、おまえ。何か考えことでもしていたのかよ。さっきから何回も呼んでいるのに」

「す、すいません。ちょっと・・・」

「ひょっとして、あのオーロラビジョンに映っている男が知り合いかなにかなのか?」

「いえ、違います」

「そうなのか。で、あの男が喋っている言葉はどこの言葉だ。なんとなく中国語のように聞こえるんだけど・・」

 オーロラビジョンに映った男は険しい表情をして、キツイ口調で言葉を発していた。

「タツヤさんの言うとおり、中国語です」温が無表情で言った。

「なんて言ってるんだよ。通訳してくれよ」

「大変なことになってます」

「大変なこと?」

「すごく怒っています。私の母国の中国が怒っています」

「怒っているって?」

「我が国の英雄、自分で言うのもなんなんですが、私のことです、その英雄を侮辱した。

 それだけではない。御国にて起きている我が国民への暴力行為。そして、使うだけ使って用が無くなったからといっていとも簡単に捨てた我が国の労働力。街にあふれた失業者は紛れもなく御国が犯した罪である。これ以上、我が国への侮辱行為は許さない。状況によっては武力行為も辞さない」

「温、お前日本に来て、中国語を忘れたんじゃないのか」

「大丈夫です。自分の国の言葉は絶対に忘れませんから」

「なるほどな。よし、わかったよ。温っ」

タツヤの鋭い視線に温は思わず「はいっ」と言って背筋を伸ばした。

「ここから逃げ出すぞ。

 この男の言葉がドームを占拠している奴らに伝わるのは時間の問題だ。

 確か、一度聞いたことがあるんだけと、緊急時に外へ脱出する秘密の地下通路があるらしいんだ。早く行こう、奴ら、何をしでかすかわからないぞ」

「わかりました」

 言うと温は立ち上がり、ベンチの奥へと駆けていったタツヤの後を追った。あのオーロラビジョンの男。あの男は間違いなく、田代という男から預かった封筒を、帰国した時に招かれた国家主催の晩餐会で国家主席に手渡した時に、脇で微笑みながらシャンパンを傾けていた男だ、という確信を持ちながら。


 意識が戻ると真っ先に頭の芯に痛みを覚えた。

 学生の頃、コンパで酒を飲みすぎた次の日の朝を思い出した。

 周りを見る。

 無機質の部屋には、会社の会議室に置いてあるような折り畳みの長机と椅子がいくつか置かれていた。

 カーテン式の間仕切りで仕切られた向こうから大人の男の声と何か金属がぶつかるような音が聞こえる。

 男の声は、大河内と田代さんだろうか。

 奈々はどこへ行ったのだろう。あの子は間違いなく奈々だ。

 一体どうなっているんだろう、考えれば考えるほどまた気が遠くなる。

 音を立てないようにそっとシャツの胸ポケットから携帯を取り出す。

 着信の数が20件を超えていた。見ると、全て息子の俊介からだった。

 とりあえずメールを返そうと封筒のマークのボタンを押したとき、外の廊下をドタドタと駆けてくる足音が聞こえた。

 慌てて携帯をシャツの胸ポケットに戻し、目を瞑る。

 扉の開く音がしたかと思うと、すぐにバタンと閉まる音が続いた。

 そして、カーテン式の間仕切りが開く音がしたかと思うとすぐにパシャンと閉まる音がした。

「準備が整いました」

 若い男の声だった。

「じゃあ始めようか」

間違いなく大河内の声だった。

 一体何を始めるつもりなのか。

 もう一度シャツの胸ポケットから携帯を取り出し俊介にメールを打つ。

“いったいどうなっているんだ?”

 すぐに、メールではなく、電話の着信音が鳴る。

 慌てて切り、携帯をシャツの胸ポケットに戻し、体を硬直させる。

 すると、パシャっとカメラのシャッターを切るような音がして、間仕切りを通してでも、部屋の向こうが明るくなったのがわかった。

 暫く息を殺したが、何の変化もなかったので、もう一度携帯を掴む。

“話せる状況じゃない。メールで連絡をくれ“送信する。

 すぐにメールの着信を知らせるバイブレーションで携帯が震える。

“たいへんなことになっているんだ。オールスターでタツヤがMVPに選ばれなかったからといって、ファンが大騒ぎしてドームを占拠してしまったんだ“

「何っ」と音のない声を出してすぐに返信する。

“そんなのコミッショナーが出て行って頭を下げれば済む話だろ。よく、サッカーの試合なんかでやっているじゃないか“

 送信のボタンを押すとすぐに返事が返ってきた。

“それが、どうも様子がへんなんだよ。やけに統率がとれていて、知らない人達が集まってやっているという感じじゃないんだ。事前にどこかで打ち合わせをしてきたんじゃないかって“

“それは本当か?”と返すとすぐに“ほんとうだよ”と俊介は返してきた。

“それに信じるかどうかは別にして、チャイルドタウンの子供たちがわけあってドームのある部屋に入ったんだ。そこで同じ顔をしたロボットのようなものを何百体も見たって言っているんだ“

“ロボットを?”返しながら脳ミソを働かせる。

“そうだよ。何かよくわからないけど、このドームで何かが起こっているんだよ“

“かもしれないな”脳ミソに加速度をつける。

“総理が倒れたのも、実は、何か関係があるんじゃないの”

 説明はせず“可能性はある”とだけ返す。

“さっきもオーロラビジョンに男が現れて、すごい剣幕で何かをまくし立てていたよ。

 日本語じゃなかった、中国語のような感じだった“

 中国!?

 脳ミソが加速度を増し、沸騰し、そして、任務を終えた。

 すべてがつながった。

“わかったよ”

 俊介にメールを返した時、間仕切りの向こうから「それでは始めまーす  3  2  1 スタートっ」とさっきの若い男の声が響いた。

 そして、少し間があって「ドームにお越しの皆様」と大河内の声が低く、そして重く響いた。

“わかったって何がわかったの?”

 俊介のメールに“今、オーロラビジョンに目つきの悪い老人が登場しただろう”と返す。

“これって確か・・昔、総理大臣だった・・・”

“そうだ。大河内善三郎だ。こいつが全て裏で糸を引いていたんだ“

 すぐに“どういうことなの?全然わかんないよ。それより、一体、今、どこにいるの?”と俊介から返信があった。

“ドームの中のある部屋だ。大河内善三郎のすぐ近くにいる。詳しいことはまたあとで話す。しばらく、連絡はしないから”送信すると、携帯をシャツのポケットにしまった。

 そして、全ての感覚を聴覚に授け、間仕切りの向こうに注いだ。

「まことに憂うべく事態です。ドームにお越しの皆様、いや、国民の皆様と言っていいでしょう。我が国、日本にとって、今置かれている状況は、危機的状況と言っても過言ではありません。皆様もご存知のとおり、皆様が支持されてきた子守党は、少子化の問題に真摯に取り組み、それなりの成果を上げてまいりました。女性一人が産む子供の数はかなり回復してまいりました。確かに、街には子供の姿が増えてまいりました。しかし、残念ながら中身が伴っておりません。やろうとしたことは良かったのですが、やり方が良くありませんでした。今回の事態を招いたのも、原因はそこにあると私は考えます」

 携帯が震え続ける。そっと立ち上がろうとしたが、下半身に力が入らない。

 大河内は続ける。

「万が一、中国と我が国が憂慮される事態に陥ったとき、これは二国間で収まる問題ではなくなってまいります。間違いなく全世界に波及いたします。そこで、皆様に提案がございます」

 ここで大河内は一呼吸置いた。そして、次の言葉を噛み砕くようにして言った。

「中国との交渉、この私に、お任せ願えないでしょうか。もちろん私は元総理大臣にすぎません。本来なら、子守党が交渉すべきところです。しかし、子守党党首、日本の総理大臣である光田先生は皆様がご覧になりました通り、突如、体調を崩されました。そして、事実上のNo2.寺田先生も今すぐにこの交渉の席に付けるとは思えない」

「くそっ」

 全身に力を入れるが下半身はやはりピクリとも動かない。

「時間がありません。そこで、国民の皆様、如何でしょうか。昔とった杵柄ではありませんが、中国とのパイプも、まだしっかりと繋がっております。へたに、不信感を持たれいる子守党と交渉すれば、話が悪い方向へ行ってしまう可能性が非常に高いです。どうですか、国民の皆様。今回のこの一件、私、大河内善三郎にすべてご一任頂けないでしょうか」

 暫くの沈黙の後、ドームの中のいくつもの厚い壁を突き破って、割れんばかりの拍手の音が伝わってきた。

 その時、やっと少し動く感覚を取り戻した左足が勢い余って乗せていたパイプ椅子に強く当たり、そのパイプ椅子が床に倒れ冷たい金属音を発した。

 しまったと、体を硬直させたが、間仕切りの向こうからは誰も飛んでこなかった。

 鳴り止まない拍手がその金属音をかき消してくれたのだ。

「皆様から頂戴しましたこの拍手、この拍手は、国民の皆様から頂戴した拍手、そして、ご了解を頂いた拍手として理解してよろしいでしょうか」

 拍手がさらに厚みを増した。

 左足だけが地面についている状態で必死に体を起こそうともがいたが、無理だった。

 と、突然、カーテン式の間仕切りが開いた。

 体が固まる。

 間仕切りの向こうから伸びでた影に引っ張られるようにして、人が一人、入ってきた。

 設定した視線の高さを少し下に落とした。

 あの女の子だった。

 目が合い、娘は一瞬止まったが、すぐにこっちに向けて歩き始めた。

 心臓を打つ音が早くなる。

 もう一度目が合う。

 距離がどんどんと詰まる。それに反比例して意識がどんどんと遠のいていく。

この子は間違いなく、娘の、奈々だ。

最後の力を振り絞り、寝たままの状態で、体に反動を付け、左側に全体重を傾けると

 パイプ椅子を並べて作った臨時ベットから落ち、床に思い切り体を打ちつけた。

 すると、受けた痛みが、遠のいていく意識を呼び戻してくれた。

 なんとか上半身を起こすと、目の前に女の子が立っていた。

「お父さん・・・」

「お、お・・」言葉が舌の上で滑る。

「ショートケーキ食べた」

「そ、そうか・・・美味しかったか?」

 聞くと、女の子はうんと頷き、そして「俊ちゃん」と漏らした。

「俊ちゃん?」

 うん、と、女の子はもう一度頷き、続けて「おとうと」と言った。

「おとうと?」

 聞くと、女の子は首を横に振った。

「覚えてないの。覚えてないけど、会いたいの。お母さんも、覚えてないけど、会いたいの」

「そうなの」

 言った瞬間、霊安所で横たわる奈々の姿が記憶のスクリーンに映し出された。

 ピクリとも動かない、氷のように冷たかったあの体。

 気がつくと、目の前にいる女の子を抱きしめていた。

「奈々」

 黒い髪を撫でる。体の温かみを感じる。溢れる涙が女の子の手を濡らす。もうこのまま二人で溶けてなくなりたい。

 そう思った寺田真の目に、間仕切りの隙間から黙って二人を見つめている田代幸三の姿など映る由もなかった。


        第八章

「大変なことになってるなぁ」

 テレビの画面で口から泡を飛ばして何かを叫ぶリポーターを見て思わず言葉が漏れる。

 直子もドーム球場で行われていたオールスターゲームを見ていて、急に涙を流したかと思うと、家を飛び出ていった。ドームで一体何がおこっているのだろう。

 ワンっ!!

 犬ののぞみがエサをくれと吠える。

「はいはい、わかりましたよ」

 エサの入った袋をエサ箱に傾けていると、娘(人間)の望美が「おやつ」とズボンの裾を引っ張る。

「いっぺんに言うのはやめてもらえませんかねぇ。お母さんがいなくて大変なんですから」

 それにしても直子はどうして急に家を飛び出ていったのだろうか。

 あの涙はなんだったのだろう。

 ドーム球場の映像に何かが映っていたのだろうか。

“続きまして、今日の午後、都内の公園で起きた殺人事件の続報です”

 別のレポーターが別の背景を背にしてテレビに現れた。

「そういえば、これもドームの近くだったよな。ドームの騒動と何か関係があるのかなぁ」

“被害者の身元が判明しました。

 亡くなられたのは、住所不定、無職の、高橋源さん、70歳です“

 人気キャラクターが描かれているプラスチックの器にコーンフレークの箱を傾けていた手が止まった。

“高橋さんは一週間前に刑務所を出所したばかりで、何かのトラブルに巻き込まれたとみて、警察は、現場でケガを負って倒れていた若い男性の回復を待って事情を聞くことにしています”

「おやつ早くっ」

 望美の声で我に帰る。

「望美っ、おやつは外で買ってあげるから、すぐに行くぞっ」

 望美は何のことだか訳が分からずポカンと口を開け、犬の“のぞみ”は何かあったのかとワンっと大きく吠えた。


§§§§§§§§§§§

 チャイルドタウン、そして、串カツ屋同様“横山たかし”の後光は、ドームを取り囲む警察官にも、何の輝きも示さなかった。

「今日の昼間にここでショータイムやった横山たかしや」

 この言葉で、見るからに万年巡査部長と思われる、耳にかかった髪に少し白いものが混ざる警察官が「ああ」と言ってやっと取り合ってくれた。

「子供がまだドームの中におるんやけど、なんとかならんかなぁ」

「お気持ちはわかるんですけと、完全に封鎖されていますので」巡査部長は申し訳なさそうな表情で言った。

「あんたら警察やねんから『突入っ』言うて雪崩込んでいったらええんちゃうの」

「今、大河内元首相が中国側と交渉を始めたので、かえって刺激しないほうがいいということです」

「大河内のおっさんが中国と交渉?」

「ご存知ないですか。MVPを取った温投手を冒涜したと言って、中国のえらい方がいい加減にしろと怒ってしまって。この間から、大使館への放火とか色々ありましたから、頭にきちゃったんでしょうね。軍事行動も辞さないとまで言ってますからね」

「エラいとこまでいってもうてんねんなぁ。

 せやけど、なんで、大河内のおっさんがやってるわけ?」

「光田首相がああいうことになってしまいましたから」

「NO2とか3が対応したらええんちゃうの」

「大河内さんがたまたまドームに観戦に来られていたみたいで、待っている猶予がないからと自ら名乗り出て」

「ほんまいかいなぁ、なんか胡散臭いなぁ・・・俺は政治家なんか絶対に信用せえへんからなぁ」

「まだまだ中国とのパイプも健在だとおっしゃってましたから」

「まさか、あの歳でこの国のトップへの返り咲き狙ってんのちゃうやろな。そういえば、ドームを占拠したあいつらも妙に統制がとれてるよな。タツヤはんがMVPを取られへんかったからいうて、今日初めてドームで会った人らがあんなに一致協力して手際よう占拠できるかなぁ。やっぱり、裏で大河内のおっさんが糸引いてんちゃうんか」

 たかしのこの言葉に、巡査部長は「そうかもしれませんねぇ」と言って、目尻に皺をつくった。


§§§§§§§§§§§§§§§

「元太はまだ帰ってきてへんわ」

 紘子に伝えると、流しのタクシーを止めた。

 行先を告げると「えらいことになってますねぇ」と運転手は車を走らせた。「だけど、しょせんオールスターってお祭りですよね。それなのに、自分の贔屓にしている選手がMVPを取れなかったからってドームを占拠するって、ちょっと理解できないですよね。そりゃ私だって、たまに球場に行って、贔屓の選手がつまらないプレーをするとヤジを飛ばしたり、アルコールの勢いで空の紙コップを投げたことも昔はありましたよ。だけどそれはチームを愛するがゆえ、それも、一個人として、チームに怒りをぶつけてましたから。今は違いますよね。同じ考えの人間が、一つになって、チームに怒りをぶつけますから。サッカーでもよくやってますよね。負けがこんだからって、オーナーに謝れって。オーナーも馬鹿だから、すいませんって頭なんか下げちゃって。嫌なら応援しなきゃいいんですよ。何も、あいつらが選手の給料を払っているわけじゃないんですから。何か気持ち悪いですよね。同じ考えの元、みんなが一つになって同じ行動をするって。そう思いませんか」

「そうやねぇ」と答えると、タクシーが止まった。

フロントガラスの向こうには、ぎっしりと車が詰まっていた。

「交通規制が始まったかもしれませんね。なにせ国際問題にまで飛び火しちゃったから。

 お客さんは何、マスコミ関係の方?」

「いえ。

 息子が友達とオールスターを見に行ってたんですけど、連絡が取れなくて。

 無茶苦茶、タツヤのファンなんですわ」

 この言葉の後、運転手は一言も喋らなくなった。

 結局、ドームが見えてきたところで、車は完全に動かなくなり、料金を払って車を降りると、紘子との待ち合わせの場所へ向かった。

 その場所は、元太が生まれてまだ一歳にもならない頃、家の中で紘子との会話がまだあった頃、友人にチケットをもらい、会社の帰りに紘子と元太と待ち合わせをしたゲートだった。間違っていないかと心配したが、着くと、紘子はすでにその場所にいて、携帯で誰かと話していた。

「えらいことになっとるなぁ」

 言うと、紘子は「そうねぇ」と準備された台本を読むかのように言うと「置き手紙とかはなかったの?」と無表情で聞いてきた。

「なかったよ」

「ちゃんと調べたの?」

「調べたよ。そんなに信用でけへんねやったら家帰って見てこいや」

「宅斗くんの携帯は?」

「チャイルドタウンの子供らは携帯なんか持ってへんよ」

「だから、元太に携帯を持たせておけば良かったのよ」

「アホか、小学生に携帯なんかいらんよ」

「そういうとこがあなたダメなのよ」

「なにがやねん」

「考え方が古すぎるのよ。携帯があれば、こんな時、すごく助かるのよ。それなのに、子供がそんなものを持つことをすごく悪いように言って。いいものがあれば利用すればいいのよ。合理的にやっていけばいいのよ。いい塾があれば、少し遠くてもいけばいいのよ。

 それを、子供が遅い時間に電車に乗るのはよくないからって、近くのどこにでもあるような塾に通わせて。だから、一向に成績が良くならないのよ。

 少子化になって誰でも大学に行けるようになって、大学のレベルが昔と比べてかなり下がったといっても、やっぱり、それなりの大学には行っておかないとダメなのよ。 

 チャイルドタウンの子供なんかと遊んでいる場合じゃないのよ」

「アホかっ!」

 あまりの声の大きさに、周りの人達が、又何か起きたのかと、視線をまとめて浴びせかけてきた。

「ちょ、ちょっと、やめてよ」紘子は周りの人達に、どうもすいません、と目配せして言った。

「す、すまん。せやけど、元太は宅斗くんと知り合ってから変わったと思わんのか」

「あまりそうは思わないけど」

「俺はすごく明るなったと思うぞ。家の中でも口数増えたやないか。チャイルドタウンとの交流会の前の日なんかすごく嬉しそうにしてるやんか」

 紘子は何も言わなかった。

「俺らがこんなんやから、変な言い方やけど、元太は宅斗くんのことを心の拠り所にしてるんちゃうか。

 本当は今日のオールスターかって、おまえか俺と行きたかったんちゃうんか」

「そうかしら」紘子はぶっきらぼうに言葉を吐いた。

「たっ、頼むわっ!」

 突然の二度目の大声に紘子は「ちょっともういい加減にしてよ」と今度は周りに目配せはせず、怖い顔をこっちに向けた。

「俺も悪いとこは直すから、元太のこともっとちゃんと考えたろうや。

 どうしても俺のことが気にいらんねんやったら、演技でもかまへんからあいつの前では仲ええようにみせてくれよ。なっ、ほんまに頼むわっ。あいつは二人の子供やんかっ」

 ここまで言った時「まあまあ、お二方、そないに熱くならんと」と大阪弁を喋りながら一人の男が現れた。

 その男は間違いなく、子供の頃の大スター、平成の爆笑王『横山たかし』だった。


§§§§§§§§§§§§§§§§

“しばらく連絡しないから”とはどういうことなのだろうか。ドームの中のどこかの部屋にいる、大河内善三郎もそばにいる。いったいどういう状況なのか想像がつかなかった。

 その大河内善三郎が目の前のオーロラビジョンに再び現れた。

「国民の皆様、ご存じの通り、中国は私共日本国がこれまで苦しんで参りました少子高齢化に今正しく直面している状況でございます。二十年、三十年後に深刻な状況が待ち受けているのは火を見るより明らかです。そこで中国は、私共日本国にアドバイスを求めてきております。お力を貸して頂けるなら今回のことは水に流すとまで言ってきております。

 私は、手伝う準備は出来ている、と答えました」

 ドームはしんと静まりかえった。

 大河内が続ける。

「まず、ロボットの製造においての技術供与を行います。ロボット産業におきましては、我が国はこれまで世界のトップを走り続けて参りました。その製造技術のノウハウを提供したいと考えております。

 我らが党、日本民権党が政権を担っていた頃、やがてやって来る、少し言葉としては大袈裟ですが“超高齢化社会”に備えて、各企業のご協力を得て、ほぼ人間に近いロボットの生産に向けて、これも少し大袈裟な言葉ですが“人知を尽くして”参りました。結果、手前味噌でございますが、かなりレベルの高い、ほぼ“人間”の自律型ロボットの製造に成功することができました」

 大河内のこの言葉にドームがどよめいた。

「何か、話の筋が少し違ってきてるように思いませんか」

 隣にいる末広未沙が言った。

「本当、そうですよねぇ」

「何か自分の政党の手柄ばかり言って、本当にこの状況を国民のために打開しようと思っているんですかねぇ」

「ひょとしたら、政権奪回が本当の狙いだったりしてね」

 自分の冗談にハハッと笑ったとき、脳ミソがハッと反応した。

 さっき父さんが言っていた、大河内が裏で糸を引いている・・・間違いない。

 そして、総理がこのドームで突然気を失って倒れたのは、やはり、偶然ではないのだ。

 父さんも、訳は分からないが、こドームのどこかの部屋にいて、その近くに大河内がいる。間違いなくこのドームでとんでもない何かが起こっている・・・ロボット?・・・そうだ、ロボットだ。チャイルドタウンの二人の女の子が見たロボットの大群。間違いない。すべてが繋がった。

「やっぱりそうだっ!!」

 大声を張り上げた時、携帯の着信音が鳴った。

液晶画面に“父さん”の文字が踊った。

「どこにいるんだよっ」声が上ずる。

「そんなことどうでもいいよ。それより、お姉ちゃんがいるんだよ」

「・・・・」

「奈々だよ。奈々が今、お父さんの隣にいるんだよ」

 やっぱりおかしい。普通じゃない。

 公園で人が殺されたからといって現場を見に行かされ、その亡くなった人が運ばれた病院に行ってくれと言われ、途中、いくら連絡を取っても何の返事もなく、やっと取れたと思ったら、ドームのある部屋にいる。すぐそばに大河内善三郎元首相がいる、暫く連絡しないからと、また音信不通になり、どうしたのかと心配していると「お姉ちゃんがいる」

 きっと、何かをきっかけにおかしくなってしまったんだ、と思わざるを得ない。

「電話代わるから」感情のこもっていない声が現実に引き戻す。

「代わるってなんだよっ!」

 返事がなく、暫くすると、幼い女の子の声が返ってきた。

「俊ちゃん」

 わけがわからなかった。そして、気を失いそうになった。

 しかし、二度目の「俊ちゃん」で、水を失った、深い深い井戸の中で眠っていた、からからに乾いた記憶がむっくりと体を起こした。

「お姉ちゃん」

 いつのまにか俊介はそんな言葉を吐いていた。


§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§

「タツヤさん、ここは一体どこですか」温が額の汗をぬぐいながら聞く。

「わからない。正直、迷ったみたいだ」

「その道は本当にあるんですか」温が再び聞く。

「ああ。何度か聞いたことがあるんだけど、地図までは見たことがないんだ。だけど、あいつらもここまでは追っかけてこないだろ」

「そうですよね。あの人たちの目的は、あくまでも、私がもらったMVPを私から奪い取り、タツヤさんに渡すことですから」

「ははっ、本当だよな。

 だけど、そんなことどうでもいいんだよ。みんなが球場に来てくれて、俺たちのプレーを見て楽しんで帰ってもらう。それが俺たちの役目だからな。賞なんかどうでもいいんだよ」

 そこまで言った時「タツヤさん、扉がありますよ」と温が声を上げた。

 その扉には磨りガラスがはまっていた。

「どうしますか?」温が聞く。

「とりあえず入ってみよう」言って、そっと、その扉を押す。

 暗闇が目の前に現れたが、すぐに目が慣れ、部屋の奥にもう一つの扉が見えた。

「タツヤさん、どうしますか」温が聞く。

「行くに決まってるだろう、前へ前へだ」

「わかりました」

 扉の前に立ち、温がその扉をそっと押し中を覗き込む。

「タツヤさん、下へ降りる階段があります。前へ前ですよね」

「もちろんだ」

 温を前に二人でゆっくりと階段を下りる。かび臭い匂いが鼻を占拠する。

「ひょっとしたら、降りたった先が外の世界と繋がっているかもしれませんね」

 温の言葉に「お前、結構、楽天家だよな」と言葉を返すと、最後の一段を降りた温の動きが止まった。

「どうしたんだよ」

「タツヤさん。私、目はすごくいいんです。子供の時からずっと視力は2.0なんですけど、ちょっと今日は目の調子が悪いのか・・・」

「何言ってんだよお前」

 最後の一段を降り、温と肩を並べる。

「こっ・・これは」

 目の前の光景に思わず唸る。

「タツヤさん、これは一体何なんですか?」

「わからない。ただ、一つ言えることは、この先に外の世界はないっていうことだけだ」


§§§§§§§§§§§§§§§§§§

「しっ、誰か来たよ」

 宅斗君の顔を見て、唇に人差し指を立てる。

 薄暗い部屋に黒い影が二つ伸びる。

「僕達を追いかけてきたのかな」宅斗君が消え入るような声を出す。

「わからない。あっ、近づいてくるよ」

 二つの影が動き始めた。

「元太君どうしよう」宅斗君が泣くような声で言う。

「とにかく逃げよう。だけど、そっとだよ。声は絶対に出しちゃダメだから」

 唯一救いだったのは、部屋を埋め尽くしている、同じ顔をした、同じ服を着た、同じ背の高さの女性達は全く動かず、多分、ロボットなんだろうなぁと思う彼女たちの数がすごい数だったことと、そのロボットの背丈が自分たちより高く、腰をかがめて歩く必要がなかったことだった。

 ロボットの隙間から影の主を見る。

「二人とも男だよ。それに二人とも結構体が大きいよ」ひそひそ声で宅斗君に話す。

「僕たち殺されちゃうのかなぁ・・・」

「それはないと思うよ。外に出ちゃだめだって叱られるだけだと思うけど・・・」言いながら少し不安になる。

 訳のわからない人達がドームを占拠して、慌てて宅斗君と逃げた。

 方向もわからず、ただ夢中になって通路を駆け、いくつもの扉をくぐって、この部屋にたどり着いた。

 そして、部屋の暗さに目が慣れたとき、とんでもない光景が目の前に拡がった。

「おいっ、これロボットじゃないのか」影の主の一人が声を上げる。

「ほんとですね。だけどよく出来てますよね、ほとんど人間に見えますから」もう一人の影の主が答える。

「一体、どうしてこんなものがここにあるんだろう。

 あっ、わかったよ、お前のMVPの副賞だよ」先の影の主が言った。

「副賞ってなんですか?」後の影の主が尋ねる。

「よくあるじゃねえか、何かの賞をもらったら缶ビール一年分だとか、米一年分だとかっておまけでもらえるやつ。あれだよ。お前の場合は、ロボット一生分だよ」先の影の主が言って笑った。

「やめてくださいよ。こんなのもらってもしょうがないですよ」後の影の主も言って笑った。

「だけど、本当だったら一台くれよ。子供たちのお土産に持って帰ったらあいつら喜ぶと思うから」

 先の影の主の言葉にに後の影の主が言葉を返した。

「いいですよ。タツヤさんのお願いなら一台でも百台でもあげますよ」

「タツヤっ!!」

「タツヤっ!!」

 宅斗と元太の声が重なった。

     §§§§§§§§§§§§§§§§§§§§

 タッチの差だった。

 幸子さんが愛美理ちゃんに、来週チャイルドタウンに会いにいくからと約束して別れて二人でドームを出た瞬間に、背後から歓声というかどよめきの塊りが聞こえた。

「何かあったの?」幸子さんが心配そうな顔をして聞いてくる。

「何もないわよ。

 絵美理ちゃんが大好きなタツヤ選手が何か賞をもらったんじゃないのかな」

 全く逆だった。

 タツヤが賞をもらえず、とんでもないことになっている。

 ドームを占拠した集団に対し、中国政府が軍事行動も辞さないとまで言っている。

 幸子さんに気付かれないよう、病院の同僚から送られてくるメールを、逐一、携帯でチェックしている。

「やっぱり、もう一度、愛美理に会いにいく」幸子さんが泣きそうな顔をして言葉を吐く。

「来週、また会えるんだから今日はもう帰りましょ。それにお薬の時間だから病院に戻らないと」

 イヤイヤと幸子さんが首を横に振ったとき、携帯が鳴った。

「幸子さん、ちょっと待ってね」

 携帯を手に取り、液晶の画面を見ると“末広未沙”の文字が躍っていた。

「無事に帰れました?」

 ついさっきまで一緒にいたのに、美沙の声が妙に新鮮に感じられた。

「ええ、なんとか」

「こっちはまだドームの中なんです」

「えっ、そうなの?」

「こんな状況なのに二人はまだスタウンドで呑気にお弁当を食べています」

「大丈夫?そっちへ戻りましょうか、と言っても、中に入れないから意味がないよね」

「大丈夫。まあ、命までは取られないと思うから、また、何かあれば連絡します。幸子さんは?」

「もう一度、愛美理ちゃんに会いたいって言ってるんだけど、来週会えるからって慰めているところ」

 と言った時、幸子が突然「愛美理がどうかしたの?」と腕を掴んできた。

「大丈夫。何もないから」

 諭すように言うと、携帯に向かって「一旦切りまーす」と言って未沙との会話を終わらせた。

 その時、上空に轟音が響いた。

 見上げると、輸送用と思われる大型ののヘリコプターの群れが、夕闇の中、森へ帰っていくカラスの群れのように、ドームのある方向へと飛んでいった。


§§§§§§§§§§§§§§§§§§

 ドームが見えてきたと思ったら、その公園は突然左手に現れた。まだ、たくさんの野次馬と報道関係と思しき人達でごった返していた。黄色いテープの向こうに土に染みた大きな血だまりが見えた。源さんは、ここで死んだんだ。一人で寂しく死んでいったんだ。刑務所に戻りたかったんだろう。人を殺めるようなことだけはしない、と言っていた。何かのトラブルに巻き込まれたのだろうか。ごま塩頭の人懐っこい顔を思い出す。

 血だまりに向かって手を合わせ頭を垂れる。

「おやつ」

 望美の声で直る。

「そうだったな、ごめんごめん。どこかコンビニにでも買いに行こうか」

 顔を上げるとドームが見えた。

 直子のことを思い出す。

「そうだ、母さんも誘ってファミレスへ行こうか」

 うん、と頷いた望美の頭を撫で携帯を手にする。

 暫くすると、少し元気のない「もしもし」が返ってきた。

「今どこにいるんだよ?」

「ドーム」

「えっ、そうなの。急に家を飛び出ていったから、心配してたんだよ」

「ごめんなさい」

「いいんだよ、気にしなくて。それより、望美と一緒に近くまで来てるんだけど、どこかファミレスでも行かないか。望美におやつをせっつかれてるんだよ」

「そうなの。だけど、私はちょっと・・・」

「どうしたんだよ。

 ドームなら今すぐ近くにいるから会うのにそんな時間も掛かんないし。

 騒動で警察や報道の人間でごった返してるっていってもしれてるだろ」

「違うのよ」

「何が違うんだよ」

「ドームといっても、ドームの中にいるのよ」

「えっ! その騒動に巻き込まれているわけ」

「そうなの」

「お前どうやって中に入ったんだよ。まさか、オールスターのチケット持ってたのか」

「違うの、そうじゃないのよ」


 直子はすべてを話した。

 テレビを見ていてなぜ急に涙をこぼしたのか、ドームで一体何があったのか、その女の子は間違いなくさちえちゃんだったこと、そして、今、ドームは占拠されているものの、身に危険が及ぶ可能性はほとんど無さそうだということを。

「そうか、わかったよ。とりあえず、望美と二人でそっちへ行くよ。行ったところで何も出来ないけど」

「ごめんなさい、迷惑掛けちゃって」

「そんなことないよ。あっ、それより、源さんが死んじゃったんだよ」

「えっ、そうなの」

「多分、何かの事件に巻き込まれちゃったんだろうなぁ。出てきたばっかりだってニュースで言ってたから、戻るために何かをやろうとしてたのかなって。いいおじさんだったんだけどなぁ」

「残念よね」

 直子が言ったとき、公園の脇に止まっていた一台のパトカーが突然パトライトを赤く回転させ、ドームの方に向かって飛んで行った。


     最終章・・・すべてが終わる。


「さすがですねぇ、寺田先生。もう耐性ができたんですねぇ」

 顔を上げると、大河内善三郎がいた。

「だけど、もう無理をなさる必要はないですよ。話はつきましたから。ちゃんと、国民の皆様の了解も得ています」

「どういう意味だっ」

「あれ、先生、聞いてらっしゃらなかったんですか。あっ、奈々ちゃんと、いや違った、ららちゃんと話していたから私の言葉なんか耳に入らなかったんですよね」

 言うと大河内善三郎は馬鹿にしたような目をこっちに向けた。

「先生達、子守党が怒らせてしまった中国政府をなんとか説得しましたよ。いろんな条件をつけてね」

「最初から全て計画的だったんだろっ」

「何を仰っているんですか、先生。

先生が気絶される前にも言いましたよね。我々は本当にこの国のことを思って、何とか今の状況を打破しようと思っている、ただそれだけです。

 光田先生は、たまたま、自分が殺めた男と出会った。奈々ちゃんは、あっ違った、ららちゃんは、たまたま、ボールを持ってマウンドに上がり、その姿を、たまたま、寺田先生がテレビで目にした。そして、たまたま、タツヤは二本のホームランを打ち、温投手は、たまたま、対戦した選手全員を三振に仕留めた。そして、たまたま、MVPを受賞した。 それを見ていた観客の中に、たまたま、熱狂的なタツヤのファンが何人かいた。そして、ドームを占拠した。そんな態度に中国政府が激怒した。光田先生が倒れ、寺田先生もいない。たまたま、私と田代さんがオールスターを観るためにドームへ来ていた。本当、偶然が偶然を生んだ賜物ですよ」

「よくもぬけぬけとそんなことが言えるな。

 じゃあ、あのロボットはどうなんだっ」

「ロボットって、ロビンちゃんのことですか。ロビンちゃんがどうかしましたか」

「このドームのどこかに、同じ“容姿”のロボットが何百体もいるのも“たまたま”なのか」

「先生、申し訳ないですが、仰っている意味がわからないんですけど」

 言った大河内善三郎は一瞬、田代の顔を見た。

「何をとぼけているんだっ。全てわかっているんだからな」

「あっ、先生、申し訳ないんですけど、時間がないんですよ。早くしないと先生達が怒らせてしまった中国政府が本当に攻めてきたらシャレにならないですから。ヘリもこっちに向かってきていますから」

「ヘリ?」

「ええ。中国の戦闘用のヘリじゃないですよ、先生。輸送用ヘリで、ちゃんと日の丸もついていますからご心配なく」

「どういうことだ」

「どういうことだって、先生、わかってらっしゃるくせに。さっき仰いましたロボットの件、あれは認めましょう。先生の仰る通り、我々が用意したものです。

 あっ、ちょっと待ってくださいね」

 言うと大河内善三郎は田代さんに向かって「伊藤さんに連絡とってくれますか。ロビンちゃんとすぐに戻ってきてくれと。もう時間がないから急ぐようにと」と言い、田代さんは相変わらず無表情で「わかりました」と言って携帯を手にした。

「それと先生」もう一度、大河内善三郎は顔をこっちに向けた。

「もうお分かりでしょうけど、あと一つ」言いながら大河内善三郎は奈々を指差した。

「ダメだ、この子はダメだっ!」奈々を抱きしめながら怒鳴り声に近い声を出す。

「ダメだって言ったって、先生、もう約束したんですよ。もうまもなくここにやって来るロビンちゃんと伊藤さんの三点セットでね。それに、ららちゃんはあくまでららちゃんです。先生の本当の娘さんではないですから」

「ダメだっ、絶対にっ。絶対にダメだからな。この子は、この子は、たった一人の私の娘なんだーっ」

 寺田真の叫び声に、ららは「おとうさん」とつぶやき、大河内善三郎は「早くしないとへそを曲げられちゃ困りますんで、先生とは申し訳ないですけど、これ以上付き合ってはいられません」と言って田代幸三に「田代さん、出発の準備をお願いします」と無表情で告げ、田代はいつも通り「わかりました」と言ったが、表情だけはいつもの無表情ではなく、よく凝視しないとわからないほど、薄い、悲しみの表情をしていた。


§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§

「やれやれ、やっとお嬢様方がお越しになられましたわ」

 美沙のこの声で我に返った。

 二人の女の子は手をつなぎ、何かを楽しそうに話しながら、このドームの中で起こっていることなど何も関係ないわ、といった感じでこっちにやってきた。

「お腹はいっぱいになったの」

 未沙の問いかけに二人は同時にコクりと頷いた。

「いくらみんなで反対したってタツヤ選手にMVPが変わることはないんだから。残念だけど」

「わかってる」さちえちゃんが答えた。「だけど、みんなでお願いすればできるのかなって・・・」言いながらさちえちゃんは少しはにかんだ。

「だけど、ファンなら普通はそう思うよね」

 言うと、「先生もファンなの」とさちえちゃんが聞いてきた。

「さちえちゃんたちみたいにすごいファンじゃないけど、かっこいいとは思っているよ」

「やっぱりタツヤはかっこいいんだ、ねぇ、愛美理お姉ちゃん」

 愛美理ちゃんは嬉しそうな表情を浮かべた。

「だけど、やっぱり、誰が見たってMVPはタツヤだよね。温投手がすごいピッチングをしたといっても、勝ったセ・リーグの得点はタツヤの二本のホームランなんだからね。ファンのみんなが怒るのも無理はないと思うよ」

「だけど、先生、あの人たちは本当のファンじゃないよね。だって、本当のファンだったらタツヤに物なんか投げたりしないもん」

「そうだよね。さちえちゃんの言う通りだよ」

 そうだ、あいつらはタツヤのファンでもなんでもないんだ。

 さちえちゃん、君は勘がいいよ。あいつら父さんが言ったように大河内善三郎が仕込んだニセのタツヤのファンだよ。

「先生」

 消え入りそうな声で愛美理ちゃんがもう一人の先生、未沙、を呼んだ。

「早くチャイルドタウンに帰ろう。遅くなったら怒られる」消え入りそうな声で愛美理ちゃんが言う。

「先生も早く帰りたいんだけど、タツヤに物を投げつけたファンの人達がドームを占拠しちゃったの」

「せんきょって何?」さちえちゃんが美沙に聞く。

「占拠?

 そうねぇ、簡単に言うと、このドームを自分達のものにしたっていうことかなぁ。

 だから、今、その人達がいいよと言ってくれないと、ここから出れないの」

「さっきの妖怪みたいな顔をしたおじいちゃんはそのことをみんなに言っていたの?」

「ま、まぁ、そんなもんだけど」未沙は苦笑いを浮かべて言った。

「じゃあ、チャイルドタウンにはもう戻れないの?」

 さちえちゃんの問いに「大丈夫だよ」と答える。

「もう警察も来てるだろうから、あと少しで出られるようになるよ」

「本当に?」さちえちゃんは今まで見たことがないような弱気な顔をして聞いてくる。

「ああ、本当だよ。心配しなくていいよ」

「よかった」さちえちゃんの顔があっという間に曇から晴れになる。

「そうだ、先生、女の子たちをお願いしてもいいですか」

 未沙は「ええ」と言った後「どこかに行かれるんですか」と聞いてきた。

「ええ、実は父親が・・・」

 未沙には、自分が寺田真の息子であること、そして、さっき話したように今回の騒動は大河内善三郎が裏で糸を引いている可能性がかなり高いこと、その大河内善三郎のすぐ近くに父親がいること、だけど、それがどこなのかわからないこと、その父親をすぐに探しに行きたいこと、を告げた。

 しかし、その父親が、死んだはずのお姉ちゃんと今一緒にいること、そのお姉ちゃんがさっき電話に出て「俊ちゃん」と言ったことは告げなかった。

「じゃあ、私たちはとりあえずここにいますので」

 未沙の言葉に「どうもすいません、何かあれば連絡ください」と言ってその場を立ち去ろうとした時「先生、どこに行くの?」とさちえちゃんの声が背中からした。

「ちょっと用事があって・・・すぐに戻ってくるから」

「私たちも一緒に行く。ねぇ、愛美理お姉ちゃん」さちえちゃんの声に愛美理ちゃんはコクリと頷いた。

「だめよ、さっちゃん。

 寺田先生は大切な用事があるんだから、私たちはここで待っていましょ」

 未沙の声にさちえちゃんは「先生、さっきの“せんきょ”した人達が私達に何か悪いことをしてきたらどうするの。男の人がいてくれた方が安心だよ」と落ち着き払って言った。

「わかったよ、さちえちゃん。じゃあ、いっしょに行こう。そのかわり、絶対に騒いだり、僕から離れて歩いたりしたらだめだよ」

「うん」とさちえちゃんは大きく頷き、愛美理ちゃんに「お姉ちゃん、良かったね」と言って、二人は満面の笑みを浮かべ、手を繋いだ。

「本当にいいんですか」と申し訳無そうな顔で未沙が聞く。

「いいですよ。僕も一人で行くよりは大勢いるほうがなんとなく安心ですから。行きましょ、あまり時間がなさそうですから」

 お弁当や生ビールを売っているフードショップや、選手のサインの入ったTシャツやキャップを売っているキャラクターズショップの前を通り過ぎる。

 通路にはたくさんの人が行き来して、球場内で見かけるごく普通の風景だった。

 暫く行くと左手に階段が現れた。迷ったが下に降りることにした。目つきの悪い男が一人、踊り場でじろっとこっちをを睨んだ。後ろを振り向くと二人の女の子が遅れまいと真剣な表情で手を繋ぎ歩いてくる。踊り場で男とすれ違い、フロアーを二階降り通路に出る。

 視界の片隅に、ドームの外へ出るゲートが飛び込んでくる。

 鉄の扉が閉ざされ、やはり、ここにも目つきの悪い男が二人並んで立っていた。

 通路を進んでいく。

 フードショップやキャラクターズショップなどなく、事務所、といった感じの部屋が並んでいた。

「どこにいるのか全くわからないんですか?」と未沙が聞く。

「ドームの中ににいるのは間違いないんですけど。早く見つけないと、とんでもないことになるような気が・・・」

 そう言って唇をきゅっと噛んだ時、後ろから「きゃっ」と女の子の声がした。

「どうしたのっ」未沙が二人に声を掛ける。

「あれっ、先生、あれっ」

 言いながらさちえちゃんは通路の先を指差した。

 そこには、中年の男性と若い女性がいて、こっちに向かって歩いてきていた。

「あの二人がどうかしたの?」未沙がさちえちゃんに聞く。

「さっき、愛美理お姉ちゃんと見た、たくさんいたロボットみたいな・・・」

「さちえちゃん、本当に間違いない・」

「うん」さちえちゃんが大きく頷く。

「愛美理お姉ちゃん、絶対に間違いないよね」

 愛美理ちゃんはこっちを見て、ウン、と大きく頷いた。

「そうかっ」

 中年の男性と若い女性がどんどんと近づいてくる。

「こっちへ来て」

 さちえちゃんと愛美理ちゃんを呼び寄せ、未沙と二人で覆い隠すように背筋を伸ばした。

 中年の男性と若い女性は何かを話しながら、目の前を通り過ぎていった。

 しかし、どう見ても、その若い女性は“人間”だった。

「先生、もういなくなった?」さちえちゃんが消え入るような声で未沙に聞いた。

「大丈夫だよ。もうかなり向こうに行ったから」

 未沙の声に、さちえちゃんと愛美理ちゃんはホッとした表情で、二人が去っていった方向をじっと見た。

「じゃあ、行こうか」

 言うと、去っていった二人の方向に踵を返した。

「えっ!!」

 二人の女の子と未沙が声を合わせた。

「あの二人の後をつけます。そこに、きっと、父さんがいると思うので」

「やだーっ、怖いよ」とさちえちゃんが声を上げた。

「さっき約束しただろ。騒がない、遅れずついてくる」

 そう言うと、少し駆け足で、前を行く二人を追った。


§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§

「サインもらっていいですか」

「いいよ」

「いいよ」と、今、目の前で言ったのはあの“タツヤ”だった。 日本球界を代表するスーパースターの、あの“タツヤ”だった。

「こんなのにしていいの?」

「うん」目を輝かせ頷く。

 タツヤに差し出したのは、お母さんが作ってくれたお弁当を包んでいたナフキンだった。

「お母さんに怒られないか?」

「大丈夫です」

 言うと、タツヤはナフキンの上に、どうして持っていたのか黒のマジックをすらすらと滑らせた。

「名前はなんていうの?」

「げんたです。元気の“元”に太いの“太”です」

「いい名前じゃないか。よしっ、これで完成だ」

 タツヤから手渡されたナフキンには、なんとなく“タツヤ”とわかる文字と、はっきりと“元太”とわかる文字が、他のいろんな文字と楽しそうに絡み合っていた。

「君はいいの?」言いながらタツヤは宅斗君の目を見た。

「えっ」宅斗君は一瞬言葉を詰まらせた。

「宅斗君もしてもらえれば。こんなこと絶対にこれからの未来には有り得ないと思うから」

「未来って、大袈裟だなぁ」言いながらタツヤは笑う。

「じゃあ、僕も・・・」と言った宅斗君だったが暫くすると頭を掻いた。

「サインを書いてもらうものがないんです」宅斗君がしょぼくれた顔で言った。

 確かに何もなかった。もちろん、色紙など持ち合わせていなかった。

「それでいいじゃないか」

 タツヤは宅斗君の体を指差した。

「それってこの服のことですか?」宅斗君もゆっくりと自分の体を指差した。

「そうだよ。お母さんに怒られるか?」

「ママには怒られないけど、チャイルドタウンの先生に叱られるかも・・」

「チャイルドタウン?宅斗君はチャイルドタウンにいるの?」

「はい」

「なんだ、そうなの。みんな知ってると思うけど、僕の子供もチャイルドタウンにいるんだよ。じゃあ、僕からチャイルドタウンにちゃんと話しておくから大丈夫だよ」

「本当に?」と嬉しそうに言った宅斗君は「じゃあ、お願いします」と言って背中をタツヤに向けた。

 タツヤは膝を折ると宅斗君の背中に黒のマジックを滑らせながらこっちを見た。

「元太君、悪いんだけど、温にもサインをもらってやってくれないか。温も、今日、ドームに野球を見に来てくれた、本当のファンでない奴らにはあまり好かれていないようだけど、立派なスター選手だからな」

「タツヤさん」温が口を開いた。「気を使わないでください。子供達は本当に好きな選手からサインをもらいたいんだと思います」

「元太君、そんなことないよな。温のことも好きだよな。それに、こんなことは絶対に“未来”に有り得ないことだもんな」

 タツヤの冗談に笑みを浮かべ「はい、ファンです」と答えると、タツヤはユニフォームのズボンの後ろポケットから黒のマジックを取り出すと、温にトスした。

「タツヤさんはどうしてマジックなんか持っているんですか?」

「温さぁ、ここが“スター”と“スーパースター”の違いなんだよ。“スーパースター”はいつどこでサインを求められるかわからない。そんな時に、書くものがないんで、と言ってファンをがっかりさせることはできないんだ。だから、試合中であろうと、俺はいつも、ズボンのポケットにマジックを忍ばせているんだ」

「へぇーっ、やっぱり、タツヤさんはすごいですよね」

 温がそう言って、マジックのキャップを外したとき、ギーーっという、長い間動いていなかったゼンマイ仕掛けのおもちゃが急に動き始めたような音がした。

 そして、部屋の中が、突然、明るくなった。

「な、なんだよ、いったい」タツヤが声を上げた。

「タ、タツヤさん、あ、あれっ」

 四人全員が温の指差す方向を見た。

 そこには、さっきまで、ピクリとも動かず、じっと、何かの指令を待っているかのようにしていた何百体もの、見た目はほとんど人間の女性のロボットが、両方の目から煌々と光を灯していた。

「どういうことだよ」

 タツヤが言うやいなや、何百体ものロボット、いや、何百人もの女性が一斉に口を開いた。

「あ  め  ん  ぼ  あ  か  い  な   あ  い  う  え  お  」


§§§§§§§§§§§§§§§§§§

「ちょっと、やめなさいよ、恥ずかしいんだから」

 紘子の声を無視して、横山たかしと肩を組み、ピースサインをして、携帯で自らツーショットを撮る。

「あほかっ。お前なぁ、横山たかしさん言うたら、俺ら子供の時には、神様のような存在やってんからな」

「そんなことどうでもいいわよ。それより周りの人がみんな見てるでしょ」

「そんなもん関係あるかっ。そうや、横山さん、サインもらっていいですか」

 言うと、紘子は「もう知らないから」と、横山たかしの横で黙って立っていた蘭に「男ってよくわらないよね」と言って頬を膨らませた。

 蘭は、うん、と頷いて、笑顔を紘子に返した。

横山たかしが「サインすんのはいいんやけど、どこにしまんの?」と聞いてきた。

「そうですねぇ・・・そうや、トレーナーの後ろにしてもらっていいですか」

 言うと、横山たかしは「ええけど、大丈夫でっか。結構高そうに見えますけど」と言った。

「大丈夫です。それに、もしアカンかったら、洗濯して消しますから」

「そうやねぇ、簡単に消せるもんね・・って、あかんがなぁ。なんの値打ちもないがな」

 周りからどっと笑いが起こった。

「いやー、せやけど、さっき、えらい剣幕でやり合ってはったけど、奥さんですよね」と、たかしがトレーナーの背中に黒マジックを滑らせながら聞く。

「そうです」と答える。

「せやけど、ここに来ているってことは、子供さんがこの中に」

 言いながらたかしはドームを指差した。

「ええ。宅斗君とうちの元太が一緒なんですわ」

「あっ、元太君のお父さんなんですか」

「そうなんです。昨日の夜から泊まりに来てて、今日も一緒にすき焼き食べるんですわ」

「それは、それは、お世話になってます。一応、父親としてお礼申し上げます」

 そう言ってたかしはぺこりと頭を下げた。

「せやけど、大将、大きなお世話ですけど、なんで、あんなけんかしてはったんですか」

「いや、つまらんことなんですけど、ちょっと子供のことで」

「そうでっか。まあ、ご存知ですけど、宅斗も僕の本当の子供やないんですけど、やっぱり可愛いです。親が子供のこと思うて喧嘩することはよくあることですからね」

 たかしの言葉を聞きながら紘子を見ると、楽しそうに蘭ちゃんと話していた。

 ここ何年、見たこともない笑顔だった。

「たかしさんやから言いますけど、ここ何年、ほとんど嫁はんと口聞いてないんですわ。

 さっきの喧嘩なんか久しぶりですよ。あんなに言葉が行き交ったのは」

「寂しいこと言いなはんな」

「ほんまなんですよ。昔は仲良かったんですけどね。元太が生まれた時なんか、二人ですごい喜んで、こんな幸せないなって・・。

 あっ、そうや、たかしさん、今思い出したんですけど、僕らの新婚旅行、無茶苦茶おもしろかったんですよ」

 たかしに“こうのとりツアー”の話をした。

「それ、無茶苦茶おもろいですやん。お宅の姿を想像するだけで笑ろうてまいますわ。

 せやけど、その“こんにちはっ 赤ちゃん”ていう歌、どっかで聞いたことあるなぁ」

 たかしがそう言って少し首をかしげた時、突然、轟音が上空から降ってきた。

「なんや、なんや」

 見上げると、大きな輸送用のヘリコプターが何機もドームの上空にやって来て、やがて、旋回を始めた。

「おいおい、一体、何が始まるんやっ」たかしが大きな声を上げる。

 怖くなったのか、蘭は紘子から離れ、たかしの体にしがみついた。

「パパ、怖いよっ」蘭が声を上げる。

「大丈夫や。そのうち、地球防衛軍がやって来て戦ってくれるんやけど、善戦虚しく、やられてしまうんや、もうあかん、そう思ったとき、突然ドームの天井が開いて“シュワッチ!!”言うて、ウルトラマンが助けに来てくれるんや」たかしが口から泡を飛ばして言う。

「ほんとうに?」蘭が聞く。

「当たり前や。ウルトラマンは地球の危機を救ってくれるんや」

「うそだーっ」蘭が笑いながら声を上げる。

「ほんまやって」

「だってあのヘリコプター、日の丸がついてるよ」

「どてーっ。な、なんや、知ってたんや」

 突然起こった笑いの渦とヘリコプターの奏でる轟音に巻き込まれ、紘子が自分の脇に立っていることに気がつかなかった。

「な、なんやねん。

 俺にウルトラマンになって元太を助けに行ってこいとでも言うんか」

「違うわよ」

 言った紘子の目が、いつもと違って少しとろんとして、正直、気持ち悪かった。

「女の子って可愛いわよね」

「えっ!?」

「蘭ちゃん、すごく可愛い。あなた、もう一人頑張ってみない」

 紘子の言葉を聞いた瞬間、清は「シュワッチ」と言って、曇天の空に向かって大きく両手を拡げた。


§§§§§§§§§§§§§§§§§§

 中年の男性と若い女性はのらりくらりと廊下を進んでいく。何かを話しているが、話の内容までは聞き取れない距離があった。二人の女の子は遅れまいと必死の形相で、手を繋ぎ、後をついてくる。

「どこへ行くんですかね」未沙が聞く。

「わからないです。だけど、あの二人が今向かっている所にきっと父がいると思うんです」

 と言った時、突然、中年の男性と若い女性がある部屋の前で歩を止めた。

 慌ててみんなで柱の陰に隠れ、二人の女の子に「しっ」と人差し指を口の前に立てる。

 歩を止めた二人が、横開きの扉を開けるのが、柱の影から見えた。

 扉と自分たちが隠れている柱の間には、アルミサッシに囲まれたごく普通の窓があった。

 窓の内側には、黒く分厚いカーテンが、この中は絶対に見せないぞ、という強い意志を持ってぶら下がっていた。

 そして、二人が部屋の中に入り、扉が閉まりかけた時、中から一人の男が出てきた。

「あっ」と自分が声を上げる前に、二人の女の子の一人、さちえちゃんが「警備のおじさんだっ」と声を上げた。

 慌ててさちえちゃんの口を塞ぎ、みんなで丸ムシのように体を丸めた。

 男は気がつかなかったようで、廊下の向こう側とこっち側を二度ずつ見たあと、扉をゆっくりと閉めもう一度部屋に戻っていった。

 田代さんだった。間違いなかった。やはり、田代さんと大河内善三郎は繋がっていたんだ。この部屋の中に父さんがいるのは間違いない。

「待っててもらえますか」

 三人を残すとゆっくりと田代さんが入っていった扉に近づく。

 黒く分厚いカーテンが掛かっているとはいえ、腰をかがめ、窓より低い姿勢を保ちながら慎重に前に進む。

 やがて、扉の前にたどり着く。扉の向こうから微かだが人の嗚咽が聞こえる。

 父さんの・・・。

 はーっと、息を吐き、そっと、扉を開ける。

 すると、目の前に、窓の向こうにぶらさがているのと同じ黒く分厚いカーテンが現れた。

 さっきの嗚咽が今度ははっきりと聞こえたが、涙が混ざっているのと、かなり興奮しているようだったので、誰が発しているのかわかならなかった。

 黒いカーテンの切れ目から、そーっと中を覗き込む。

 まず若い男が見えた。身長は百八十センチ以上あり、分厚い胸板からして、ボディーガードといった感じだった。横に目を移すと、さっきまで後をつけてきた中年の男性と若い女性がいた。ボディーガード同様、何も話さず立っていた。さらに目を移すと、田代さんがいた。さっき廊下に出てきた人はやはり田代さんだったのだ。そして、田代さんと少し離れたところに、大河内善三郎がいた。やはり、この男が裏で糸を引いていたのだ。

 そのすぐ隣に、嗚咽の主、がいた。

 父さんっ・・・。

「お願いだっ、それだけはやめてくれっ!」

 父さんは床に膝をつき、ほとんど土下座の格好で大河内に懇願していた。

「寺田先生、何度も言いますけど、もう約束してしまったんです。これを撤回しちゃうと、本当にとんでもないことになってしまいます」大河内が冷静に答える。

「お願いだっ・・頼むっ!。政権はもうそっちへ渡してもいい。光田さんには俺から話をするから、だから、だから、お願いだから、その子だけはっ!!」

 その子?

そうだ、お姉ちゃんだ。

 あとのことなどなにも考えず黒いカーテンをそっとめくると女の子が一人、父さんの後ろにポツンと立っていた。

 遠い昔の記憶が蘇る。

 はっきりとではなかったが、輪郭は間違いなく、お姉ちゃんの、それ、だった。

 死んだはずのお姉ちゃんが、今、目の前にいる。何がなんだか訳がわからなかった。

「先生、本当にしつこいですよ。その子は、見た目は同じかもしれませんけど、先生の本当の子供じゃないんですから」

「違うっ、この子は私の子供だっ、奈々だっ!」

「違いますよ、先生。この子は、ららちゃんです。ねっ」

と言って大河内は女の子を見たが、女の子は何の反応も示さなかった。

「ということで、寺田先生、もうリミットですから」

 言うと大河内は父さんを見下しながら、女の子へ近づこうとした。

「頼むっ! お願いだっ、この子だけは連れて行かないでくれっ!!」

 立ち上がった父さんは大河内の腕にしがみついた。

「ええいっ、しつこいんだよっ、あんたはっ!!」

 大河内は父さんの腕を振り払った。

 振り払われた父さんは尻餅を付いた。

 顔は涙でぐしゃぐしゃになり、くたびれた雑巾のようだった。

「田代さん、進めてくれますか。もう完全にリミットです」

 大河内は背中越しに田代さんに言った。しかし、田代さんは何も反応を示さなかった。

「田代さん」大河内は振り返って田代さんを見た。

「田代さん、聞こえましたか?お願いしますよ」

 田代さんはまたも反応しなかった。

「田代さん、どうかしましたか?」

 大河内が言った瞬間、田代さんは突然脇にあったパイプ椅子を手にした。

「いいかげんにしろっ!!」

 大河内目掛けて振り降ろされたパイプ椅子は、グシャっという鈍い音を発した。

 若い女性がキャっと声を上げた。

 沈黙が空間を支配する。

反射的にそらした目を、恐る恐る元の位置に戻す。

 そこには、顔がひしゃげ、首のちぎれかかった大河内善三郎がいた。しかし、一滴の血も流れ落ちていなかった。

 父さんがふらふらと立ち上がり「田代さん、こ、これは・・・」と声を振り絞る。

「先生、本当に申し訳ないです。先生を裏切る形になってしまって」田代さんは父さんに頭を垂れた。

「そんなこといいんですよ、田代さん。それより、こ、これは・・・」

 言いながら父さんは、首のちぎれかかった大河内善三郎を指差した。

「ロボットなんです」

「ロボット?」

「ええ。寺田先生、大河内先生は、まだまだ、政権奪取を諦めていなかったんです。ですから、万が一、自分に何かがあった場合にと、かなり前からご自分のロボットを・・・」

「じゃあ、あの倒れられた時・・・」

「そうです。あの時、先生は亡くなられたんです」

「そうなんですか」ため息混じりに父さんが言葉を吐いた時、「キャっ」という声が後ろからした。

 いつの間にか、二人の女の子がすぐ後ろに来ていた。

「あの潰れているおじさんはロボットだから、大丈夫だよ」

 言った瞬間「誰だっ」という男の声が部屋の中からした。

 慌てて廊下へ出たが、すぐに男が部屋から飛び出てきた。

「お父さんを探していたんです」

 男がはぁ?と言う顔を向けた時「おぼっちゃん」という声がして田代さんが出てきた。

「どうぞ入ってください」と言われ、黒いカーテンを引き、部屋に入ると父さんと目が合った。

「探してたんだよ、ずっと」

「すまん」言った父さんの目はまだ真っ赤だった。

二人の女の子も、一体何が起こっているんだ、といった顔をして部屋に入ってきた。

「すまないが、片付けてくれないか」

 田代さんが男に声を掛けると、男は首のちぎれかかった大河内善三郎をひょいと持ち上げ、部屋の奥へと運んだ。

 男がそばを通る時、二人の女の子はもう一度「キャっ」と声を上げ、ロビンちゃんは「ご主人様、さようなら」と少し寂しげな表情をして言った。

 そして、田代さんが「さて、これからどうするかですが」と口を開いた時、部屋の天井から吊るされた大きな液晶テレビに球場のオーロラビジョンに現れ、中国語でまくしたてた男が現れた。

 男は軽く咳払いをすると、またもや、強い口調で言葉を吐き散らした。

「ロビンちゃん、男は何て言っているんだ」田代さんがロビンちゃんに聞く。

「早くしなさい。もう時間がない。タイムリミットだ。こちらの要求が飲めないのなら行動に出る」ロビンちゃんは淡々と言った。

「寺田先生」

 田代さんが父さんを見た。

「決断をお願いします」

 田代さんの言葉に父さんは小さく頷き、そして“お姉ちゃん”の顔をちらっと見た。

「三分だけ時間をもらえますか」

 言うと父さんは携帯を取り出し、震える指をキーボードに添えた。


§§§§§§§§§§§§§§§

 主治医と名乗る男から「本当に少しだけにしてください。まだ、ショック状態から完全には抜け出ていませんので」と強い口調で言われてから暫くして、電話口に総理が出てきた。

「お体大丈夫ですか」

「なんとかね。だけどえらい目に遭ったよ。あっ、と思った瞬間にもう意識がなくなっていたから」

「主治医という人から長話はだめだと言われていますので、簡潔に話します。

 今、ドームは、ある団体に占拠されています。

 そして、そのことに対して、中国政府がかなりの不快感を示しています。軍事行動まで示唆しています。しかし、それら全ては裏で大河内が糸を引いていました」

「大河内が?」

「そうなんです。目的は、総理もおわかりだと思いますが、政権奪還です」

「そうか・・で、寺田さんは今どこにいるんです?」

「ドームの中のある部屋です」

「大河内のおっさんと話すことができますか?」

「いえ。ついさっきまで目の前にいたんですけど壊れてしまいました」

「壊れた?寺田さん、それってどう言う意味だよ」

「大河内はロボットだったんです。倒れたってマスコミが大騒ぎしましたよね。あの時、既に亡くなっていたんです。総理もお見舞いに行かれましたよね」

「じゃあ、あの女のロボットの、なんて言ったっけ、えーっと、あっ、そうだ、ロビンちゃんだ、そのロビンちゃんと同じロボットだったんだ。ご主人様と呼ばせていたけど、同じロボットだったんだ」

「そうです。そのロビンちゃんも、今、目の前にいます」

 この言葉にロビンちゃんはこっちを見て、何?という表情をした。

「そのロボットの技術を大河内は中国に・・・」

「そうか。

 自分たちが作った最高の技術をいとも簡単に渡してしまうんだな」

「ええ」

「そこまでして、あのおっさんは政権を取り戻したかったんだ。正に政治の鬼だな」

「ええ。

 それに、あと、総理、大河内はもう一つ中国政府と約束を交わしていたんです」

「もう一つ?」総理がいつもよりワンオクターブ下げた声を出し、そして続けた。

「寺田さん、まさか・・」

「そうなんです」

「なんていう名前だったっけ」

「さちえちゃんです」

 そう言った時、俊介と一緒に部屋に入ってきた二人の女の子のうちの一人が私?と自分のことを指差した姿が視界の隅に入った。

「どうして・・・」総理は言った。そしてすぐに「田代さんか」と付け加えた。

「おそらく。今、私の目の前にいます。代わりましょうか」

「いや、いいよ。何をどう言っていいのか、今の俺の状態では判断できないから」

「そうですか。ですけど、総理。大河内が考えていたというか、中国に進呈しようとしていたのは、さちえちゃんではないんです」

「ではないって、寺田さん、どう言う意味だよ?」

「大河内たち自由民権党も、与党であったとき、我々と同じことを考え、同じことを行っていたんです」

「えっ・・」総理は言葉を詰まらせた。

「同じ穴のムジナだって大河内に言われました」

「そ、それは本当なのか・・・。

じゃあ、寺田さん、俺を気絶させやがったあの親父は・・・」

「ええ。総理が考えてらっしゃる、あの人です」

「あの人、ってそんな丁寧な言い方はいらねえよ。あんな奴“あの野郎”で十分だ。

 だけど、どうして“あの野郎”みたいなやつを・・・」

「当時、採取、この言葉が正しいかどうかはわかりませんが、出来る対象が、刑事事件にからんだものだけだったそうです」

「そうか・・・じゃあ・・えっ、まっ、まさか、寺田さん・・・」

「ええ。今、総理の頭に浮かんだものです、それです、私の娘、奈々です」

「そ、それはダメだ。なんとかならないんのか」総理は声を震わせて言った。

「もう中国政府と約束してしまっているんです」

「約束って・・くそっ・・なんとかならないのかよっ」

「なんとかしたいです、総理。娘をもう離したくはありません。ですけど、この約束を反古にすると、日本どころか、世界中が大変なことになってしまいます」

「だ、だけど、寺田さん・・・あんたはもう充分苦労したじゃないか。普通の人の何倍、いや何十倍と。もうこれ以上苦しむことはないよ」

 総理が携帯の向こうから強い口調で言った時「怒っています。早くしなさい。もうリミットです」とロビンちゃんが抑揚のない声で言った。

 天井から吊るされた大きな液晶テレビの画面には、さっきの、目つきの悪い、生まれつき感情を持ち合わせていないといった感じの男が鬼の形相で何かを語っていた。

「総理、もうこれ以上待てないと」

「そうだ、寺田さん、さちえちゃんだ」総理が声を荒げる。

「総理、それはダメです。奈々は、奈々は・・・しょせん、死んだ人間です。さちえちゃんは生きています。ただでさえ、彼女には、我々は大変なことをしてしまっています」

「それは違うよ、寺田さん。俺達は、この国のことを思ってやってきたんだ。ある意味、大河内のおっさんも同じ思いだったかもしれない。悪いことはやっていないんだ、絶対に」

「ええ、総理、それは私もわかります。ですけど、我々は、国を守ると同時に、子供を守る、ですから“子守党”と名付けたんですよね。これ以上、さちえちゃんには」

「寺田さん、確かに寺田さんの言う通り、奈々ちゃんは亡くって、もうこの世にはいない。だけど、たとえ亡くなったといっても、寺田さんの中では、生きている。現に、今、目の前にいるんだろ。そんな子供たちを守るのも、俺達“子守党”の役目だと俺は思っている」

 そう言った総理の声の後ろから「総理、もうこれくらいで」という声が聞こえた。

「総理、ありがとうございます。お気持ちはすごくうれしいです。ですけど、もう決心はついています。奈々はこの世からいなくなった子供です。私も、何か、変な夢でも見ていたんでしょう。総理、あまり話しますとお体が」

「ああ、わかったよ。もし気が変わったら秘書にでも電話してくれ。

 あと、そうだ、寺田さん、俺んとこのおっさんは、やっぱり中国政府へ進呈するのか?」

「ええ。どうもそういう約束になっているみたいです」

「わかったよ。じゃあ、暫くは、あの国には近づかないようにするよ」

 そう言い残し、総理は電話を切った。

「寺田さん、時間がありません」と田代さんから小さな小指くらいの大きさのマイクを渡された時「お父さん」と“奈々”が近づいてきて空いている手に小さな手を合わせてきた。

 止まっていた涙が、まだ乾ききっていない瞳から再び溢れ出た。

 その時「おじさん、さっき私の名前言ってなかった?」と、俊介と一緒に部屋に入ってきた二人の女の子の一人がすたすたと近寄ってきた。

 すると、その女の子達と一緒に部屋に入ってきた女性が声を上げた。

「ダメよ、さちえちゃん」

 さちえちゃん!?

「ねえ、さっき私の名前言ったよね」女の子は目を輝かせながら言った。

「だめよ、さちえちゃん、こっちに来なさい」女性が声を上げる。

 偶然だろうか。

 いや、さっき、俊介がメールで、自分たちと一緒にいる子供達がロボットを見たと言っていてその子達はチャイルドタウンの子供だと言っていた。

 赤ちゃんの時の写真は見たことがあった。

 総理との間でも“さちえちゃん”という言葉はこれまでも何度か行き交った。

しかし、まるで空想の話をしているかのように、自分たちが作り上げた物語にもかかわらず、実物の彼女を一度も目にしたことがなかった。

 田代さんと目が合う。

「そうです」と目で語り、田代さんは頷く。


§§§§§§§§§§§§§§§§§§§

 少し前を歩いていた幸子さんが突然歩みを止めた。

「どうしたの幸子さん?」と声を掛ける。

 ドームの方向に飛んでいった輸送ヘリの奏でる音がまだ少しだけ残っていた。

「愛美理に会いに行ってくる」

「来週会えるってさっき言ったじゃない」

「だめなの」言うと幸子さんは顔をこっちに向けた。

「愛美理が心配なの。今でないとだめなの。先生、お願いします」

 先生・・・初めて言ってくれた。

「わかったわ、幸子さん。もう止めないわ」

 言うと、幸子さんは微笑みを浮かべ、軽くお辞儀をすると、来た道を小走りで戻っていった。

 その後ろ姿は“幸子さん”ではなく、紛れもなく“幸子”だった。


§§§§§§§§§§§§§§§§§§§

 目の前を、姿、形が全く同じロボット、いや、ロボットには全く見えない、完全に人間の女性が、同じ高さに視線を揃え、腕を振って行進していく。

「温、俺達、夢を見ているんじゃないよな」

「ええ」と答えた温の目が丸くなっている。

「ついさっき、俺がオールスターで二本のホームランを打ったのは間違いないよな」

「間違いないです」温が目を丸くしたたまま答える。

「やっぱりそうだよな」言って何気なく視線を落とすと、さっきサインをしてあげた少年と目が合った。

「元太君だっけ」

「はい」

 元太君は温のように目を丸くしておらず、代わりに、キラキラと輝かせていた。

「俺は間違いなくホームランを二本打ったよな」

「打ったよ。二本ともすごいホームランだったよ、タツヤ選手」

「そうか、じゃあ夢を見ているわけじゃないんだ」

 言うと、元太君の手を取った。

 温を見ると、同じく目を丸くしたままのもう一人の少年の手を取っていた。

「この人たちについて行こう」

 部屋の奥にあることに気づかなかった扉を出ると、階段を2フロアーほど登り、誰もいない静かな廊下に出る。

 行進は粛々と続けられる。

 やがて、廊下の壁に、外をそっと覗き見るような、横に細長い窓が現れた。

 目を向けると、さっき、たくさんのペットボトルやメガホンを投げつけられたグラウンドが視界に入ってきた。

 人工芝の上に、人工の明かりが覆いかぶさっていた。明かりの源を見つめた。煌々と輝くオーロラビジョンに寺田真が映っていた。

「先生っ」思わず声を上げる。

「タツヤさん、知っている人ですか」温が聞く。

「知っているもなにも、俺が向こうに・・・い、いや、と、とにかく、すごく世話になった人なんだ。今はもう表には出て来ないけど、もともとは子守党のNO,2だったんだ」

「そうなんですか。じゃあ、今のこの良くない状況に・・・」

「ああ、多分そうだと思うよ」

 言うと、元太君と握っていた手をさらに強く握った。

「元太君、もう大丈夫だよ。すぐに、ドームの外に出られるよ。宅斗君だったよね、彼の名前は?」

 温と手を握り、不安そうな目をしているもう一人の少年に顔を向ける。

「そうだよ」元太君が、宅斗君の代わりに答える。

「宅斗君、もうすぐここから出られるから大丈夫だよ」

 言うと、宅斗君は、うん、と頷く代わりに、空いている腕をあげ、ある方向を指差した。

「あれ」

 指差した先に、温と元太君と三人で目を向ける。

 そこには、ドームの中にいる人間のすべての苦しみ、悲しみ、喜び、嘆きを封じ込めていた白い無機質の天井が、ゆっくりゆっくりと口を開き、その先には、真っ青ではない、ややくすみがかった青い色の空が顔を覗かせていた。


§§§§§§§§§§§§§§§§§§

 突然、目の前の鉄の扉が開き、中からどっと人が溢れ出てきた。

「とりあえず行きましょや」

 横山たかしの声で、もみくちゃになりながらドームの中になだれ込む。紘子と手を繋いだのはいつ以来だろうか。もう一人子供を作っていいのかもしれない。元太とはかなり年が離れるが、そんなことはどうでもいい。紘子と二人、仲良くしている姿を見せているだけでいいかもしれない。元太には迷惑をかけた。子供が親に迷惑をかけるのはあたり前で、親が子供に迷惑をかけるのはもってのほかだ。

 人の濁流の中に身を預ける。血相を変えた人たちが、ドームから出ていくようにも見えるし、ドームに入ってくるようにも見えた。そして入場ゲートへ繋がる導線からはずれると、一息ついた。

「こら、見つけんのはむりかもしれまへんなぁ」横山たかしが頭を掻きながら言った。

「とりあえず、スタンドへ行ってみましょか」

横山たかしの声で通路を突き進む。そして暫くするとスタンドへ出るゲートに来た。

「よっしゃ、行きまっせ」

 横山たかしが威勢良くゲートに突入する。少し遅れて、三人も続く。

 しかし「なんじゃこりゃっ」という、横山たかしのほとんど怒号に近い声に気圧されてしまった。

「どしたんですかっ、たかしさん」

「あ、あれっ・・」

 横山たかしが差した指の先には、快晴とまではいかないまでも、少し霞がかかったような青空が拡がっていた。

「あっ、いつの間に、雨上がってたんや」声を上げる。

「わーっ、すごい」蘭はドームの天井が開くということに感動していた。

「ち、ちがうって、その下でんがな」

 横山たかしの声に視線を下げる。

 そこには、遠くから見ても、顔、体型、着ている服まですべて同じの女性が、何十人、いや、何百人といた。

「何なのあれ?」思わず紘子が声を上げる。

 女性たちは、同じリズムで歩き、同じタイミングで腕を振った。

 まるで甲子園の高校野球の開会式を見ているようだった。

「一体、何なんや、これはっ!」

 たかしが叫んだとき、突然、轟音が上空から降ってきた。

 顔を上げると、開いたドームの天井の向こうに、大型の輸送ヘリが数機現れた。

「なんやなんや、いよいよ中国と戦争でも始めんのかっ」

 横山たかしが興奮しながら声を上げた時、輸送ヘリが奏でる轟音に負けないくらいの声を蘭ちゃんは発した。

「宅斗だっ!!」

「えっ!?」横山たかしと紘子と三人の声が合わさった。

「どこやっ!」横山たかしが聞くと、蘭ちゃんは女性の集団の方向を指差した。

「ほんまや」

 横山たかしが驚いた顔を見せて言った。そして、宅斗君の横に、元太がいた。

「あなた、元太よっ」

 紘子の声に「わかっとるよ」と返す。

 そして、元太の横に目を移すと、体格のいい男性が、元太の手を握って立っていた。

 初めはわからなかったが、よく見ると、それは、タツヤだった。

 元太が大好きな、あの、東京スターズのタツヤに間違いなかった。


§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§

 映画のワンシーンを見ているようだった。

 ドームのオーロラビジョンに、元総理大臣のなんとかという、ほとんどおじいさんのような男性に代わって、少しやつれた感じの中年の男性が現れ“約束”という言葉を五回使って、最後に頭を垂れた。すると突然、ドームの天井が開き始めた。と、同時に、スタンドにいた観客が一斉に、通路に繋がるゲートに向かって殺到した。そして、暫くすると、同じ顔、同じ体型、同じ服を着た女性が、何十人、いや、何百人と、突然グラウンド上に湧いて出てきた。その時、竹男が携帯を震わせた。「ドームが占拠されていたけど、どうも解放されたようだ。今、どこにいるんだ?」今いるだいたいの場所を告げ携帯を切ると、グラウンドの上に自然の明かりが降り注がれた。顔を上げると、さっきよりさらに開いたドームの天井の向こうに少し霞んだ青空が拡がっていた。やがて、その空に、轟音を轟かせて、大きな輸送ヘリが数機現れた。輸送ヘリには日の丸が標されていた。そして、それぞれの輸送ヘリから、するすると縄梯子が地上に向けて降ろされてきたかと思うと、何百という、同じ顔、同じ体型、同じ服を着た女性たちが、その縄梯子を登り始めた。

 やっぱり、夢を見ているんだ。映画のワンシーンなんかじゃない。そもそも、さちえちゃんと出会えるわけなんかないんだ。

「直子っ」

 竹男の声で我に帰る。

「大丈夫か?」

「ええ。ごめんなさい、心配かけちゃって」

「いいよ。何もなかったんだから。それより、すごい人だよ。途中で、望美が人の波に飲まれそうになったよ。なぁ、望美」

 竹男の言葉に望美はウンと頷き、少し泣きそうな顔をして足にしがみついてきた。

「望美えらいなぁ、頑張ったんだ」

 言って頭を撫でてあげると、泣き顔があっという間に笑い顔に変わった。

「さっ行こう。ちょっと早いけど、晩ごはん食べに行こう。お昼ごはん食べてないから、お腹すいちゃったよ。そうだ、望美、ファミレスに行こうか」竹男が言う。

「ウン」もう望美に泣き顔の欠片もなかった。

「何食べる?」望美に聞く。

「オムライちゅとオレンジジューちゅ」

「美味しそうだねぇ、じゃあ行こうか。あなた、行きましょ」

 しかし、竹男からの返事がなかった。

「どうしたのよ」言って竹男を見ると、体を震わせ、グラウンドで繰り広げられている光景に視線を固定したまま、立ち尽くしていた。

「な、なんだよ、あれは?」

「気にしなくていいわよ。私たち、みんな夢を見ているのよ」

「夢って、お、お前」

「さっ、早く行きましょ。望美もオムライスを食べたがっているから」

「だ、だけどお前、夢って言ったって、さっき電話で言ってたじゃないか。 

“あの子”と会ったんだろ?」

「だから、それも“夢”。会えるわけないじゃない」

 竹男が「そ、そんな・・・」と言ってその場から動こうとしなかったので、無理矢理手を引っ張った。

「行くわよ」

 言って、何気なくちらっと見たスコアーボードの横のオーロラビジョンに体が固まった。

「おい、どうしたんだよ」

 竹男の声に、今度は自分の体が動じない。

「夢の、夢の、続きを、見に行ってくるわ」

声を振り絞ると、スタンドをグランドに向かって駆け下りていった。


§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§§

「田代さん、本当に有難うございました」

「いえいえ、とんでもないです」言いながら田代さんは笑みを浮かべた。

 田代さんの笑みを見たのは久しぶりだった。

 思い出した。

 俊介がチャイルドタウンを巣立つ日、二人の写真を撮ってもらえるうようお願いして、渡したカメラを手にした時の、あの時の笑顔だった。

「私のやったことは間違っていなかったですかね」

「間違っていません。先生のされたことは決して間違っておりません」

 田代さんは笑顔を絶やさずにそう言った。

 スタンドにいて、いったんドームから脱出しようとしたものの、事の成り行きを見守るために舞い戻ってきた野次馬たちは、いつの間にかいなくなっていた。

 その代わり、多くのマスコミ関係者がドームの中になだれ込んでいた。

 しかし、さっきまでドームを占拠していた組織の男達が、田代さんの指示で、今は、ドームに降り立ったそれらマスコミ関係者を制し、たいした混乱は起きていなかった。

 そして今、ロビンちゃんが、何百という女性ロボットの大群の最後の一人として、目の前で垂れている金属製の縄梯子を登り始めた。

「先生、たいへんお世話になりました」と言って頭を垂れる。

 下手な人間より、よっぽど人間らしい。

 大河内がこの国の将来を憂い、真剣に取り組んできたことがよくわかった。

 遠くでタツヤが「先生―っ」と言って手を振っている。

 タツヤの横には、どこかで見たことのある、あっそうだ“平成の爆笑王”と言われた、横山たかし、だった。

 今日のオールスター戦のハーフタイムで、お笑いショーをやると総理が言っていた。

 小さい男の子と女の子のそれぞれの肩に手をやっている。

 そういえば、二人とも子供はチャイルドタウンにいる。我々が作ったチャイルドタウンに。

 自分も俊介がいる時によく提出した外出届を出して、今日のオースター戦のハーフタイムでの晴れ姿を見に来させたのかもしれない。

「こっちやこっち」

 その横山たかしが張りのある声で、誰かを手招きしている。

 誰なのかと思っていると、前妻の“平成の大女優”朝風凪と思われる女性が視界に入ってきた。

 昔、テレビでよく見た姿とは違って、その女性は地味な服装だったが、体の輪郭をまとっているオーラは全くと言っていいほど衰えておらず、朝風凪だと確信することができた。

 その隣には、見るからにロックンローラーといった感じの、朝風凪よりは明らかに若い男が立っていた。

「宅斗っ」

 朝風凪が平成の大女優そのままの張りのある声で、横山たかしの脇にいる男の子に駆け寄り、抱きしめた。

「蘭と串カツ食べとったら、店の兄ちゃんがえらいことになってるって教えてくれたんや」

「そうなの」と言いながら朝風凪は脇に立っていた女の子に腕を伸ばし、頭を撫でながら「蘭、久しぶりね、元気にしてた」と言った。

「うん」と女の子は頷くと、朝風凪に抱きつき「ママ」と声を発した。

 その横でロックンローラーは、相変わらずなにも言わず、ただ立っているだけだった。

「おばさんっ」

 グランドに降り立ってから何も喋っていなかった、さちえちゃんが声を上げた。

「なんだ、また、戻ってきたの」

 一人の女性がさちえちゃんの視線の先に立っていた。

 ピンク色の、パジャマとジャージのあいのこのような服を着ていた。

 そうだ、ドームに駆けつけた時、服に「幸子」と書いた布を縫い付け、目の周りを真っ赤に腫らせていたあの時の女性だ。

少し息を切らせていたが、さちえちゃんとずっと一緒にいるもう一人の女の子に近寄り「愛美理」と言って抱きしめた。

 力のない声だったが、はっきりと聞き取れた。

「愛美理お姉ちゃんのママ」

さちえちゃんが女性に声を掛ける。

「私この飛行機みたいのでお隣の国へ行くの」

 声の大きさに、周りの人間が皆、へっ!?という顔をさちえちゃんに向けた。 

 田代さんを見ると、苦笑いを浮かべていた。そして、目が合った。さちえちゃんへの説得、いや、結果的には、説明となったが、その全ては田代さんが行ってくれた。

「寺田先生、もうこれ以上、苦しむことはありませんよ」

 田代さんは総理と同じ言葉を掛けてくれた。

 さちえちゃんは話し始めたところ、最初のうちは、えっ?、という顔をしていたが、徐々に話の内容が飲み込めていくにつれ、目をどんどんと輝かせていき、田代さんがすべてを話し終えると「警備のおじさん、私、お隣の国に行く。だって、私の妹がいっぱい出来るんでしょ。私これまで、パパもママもいなかったし、お姉ちゃんも、あ、お姉ちゃんは愛美理お姉ちゃんがいたっけ。だけど、妹はいないからすごく嬉しい。絶対にお隣の国に行くっ」と言って満面に笑みを浮かべた、と聞いた。

 本当に、自分たちが行ってきたこと、そして、今、行おうとしていることが正しいことなのかと、ふと考えた。

 もうこの世にはいない大河内善三郎がロボットの殻を借りて言った「同じ穴のムジナじゃないですか」という言葉はまんざら間違っていないのかもしれない。

 大きな警笛が鳴る。

「先生、そろそろ時間です」田代さんが目を見て言った。

 うん、と頷くと田代さんはさちえちゃんに「そろそろ出発だよ」と声を掛けた。

「わかった、警備のおじさん」と言うとさちえちゃんは縄梯子の前に進み出た。

「さちえちゃん、ほんとに行っちゃうの」愛美理という名の女の子が今にも泣き出しそうな顔でさちえちゃんに歩み寄る。

 俊介と二人の女の子と一緒に部屋に入ってきた、チャイルドタウンの職員だと聞いた女性も目を真っ赤にしていた。

 やはり、今、自分がやろうとしていることは、間違っているのか・・・視界の片隅に“奈々”と手を繋いでいる俊介の姿が映る。

すべてを受け入れる・・・神との契りで我々はこの世に生まれでてきた。しかし、あまりにも残酷なことが多すぎる。

「さちえちゃんっ!」

 突然、一人の女性が血相を変えて目の前に駆け出てきた。

「あっ、おばさん」さちえちゃんが声を上げる。

「おばさんもまだ中にいたの?」

 その女性はさちえちゃんの質問には答えず「さちえちゃん、行ってしまうの。本当に行っちゃうの。もう会えないの?」と“悲痛”という言葉がぴったりの表情で言った。

「直子っ」一人の男性が駆けてきた。手には小さな女の子を連れていた。女性のご主人と娘さんだろうか。

「直子」もう一度男性は言って、視線をさちえちゃんに移した。

 暫く、じっとさちえちゃんを見ていたが、やがて、男性は、妖精のささやきを聞き取るかのように、うんうんと頷いた。

 その時「なんや、湿っぽいなぁ」と言って、横山たかしが近づいてきた。

「大河内のおっさんがなんか企んでると思うとったけど、なんや、映画の撮影やったんや。ノーギャラでエキストラやらされて損したわ。それにしても、湿っぽすぎる、暗すぎる。

 監督どこにおんねん、ちょっと話しさせてくれや」

「あっ、おじさん、どこかで見たことがある」

 突然、縄梯子に手をかけようとしていたさちえちゃんが横山たかしに向かって言った。

「そうか」横山たかしが答える。「おっちゃんはお嬢ちゃんのこと覚えてへんけどなぁ」

「あっ、そうだ。

 おじさん、一度、チャイルドタウンに来たよね。すごくおもしろかったから覚えている。

 それに控え室にも会いに行ったし」

「あ、あんときのあの子か、思い出したわ。せやけど、自分で言うのもなんやけど、やっぱりスターは腐ってもスターやねんなぁ。なんか、こう、人に与えるインパクトが、凡人とは違うねんやろなぁ。で、名前なんていうか覚えてる?」

「わからない」

「な、なんや、そ、そのオチは」

 もう一度大きな警笛が鳴り響いた。

「おじさん、私、隣の国へ行くの。この飛行機みたいなのに乗って」

「あっそうかそうか。芝居の台詞はもうええて」

「本当だよ。これから私の妹がいっぱい出来るし、それに、あっ、そうだ、赤ちゃんもいっぱい出来るの」

「はいはい、もうわかったからって」

 横山たかしは半分呆れた顔をして言ったが、チャイルドタウンの職員の女性と、さっきご主人が駆けつけた、直子さんという二人の女性は泣きじゃくり、俊介も今にも落涙しそうな顔をしていた。

「なんやなんや、あんたらいつまで演技やってまんねん。もうよろしいがな、なんか、湿っぽいなぁ、ぱあっと明るい、なんか・・・あっそうや、清はん」横山たかしは一人の男性に向かって手を振った。

「歌うたいまひょや。さっき話してくれた、あの、こんにちはっ、赤ちゃん、てやつ」

 横山たかしは聞いたことのない歌をうたい始めた。

 そして、清さんという男性も一緒に声を上げ始めた。

「私が、マっ、マっよっーー」

 周りの悲しみの輪を作っている人たちも、少し驚きの表情を見せた。

「おい、ドクロの兄ちゃん」

 横山たかしは、朝風凪の隣で、ほとんど表情も変えず、ギターケースを持ってつっ立っているロックンローラーに声を掛けた。

「この歌、聞いたことないか?」

 男は「さぁ、何か、昔どこかで聞いたことのあるような・・・」と言って、ギターケースからエレキギターを取り出し、やがて、キーンと高いが優しさを感じさせる音を奏で始めた。

 始めの頃は横山たかしと清さんの二人の声と合っていなかったが、徐々に、歌声とメロディが重なり合っていった。

「さすがプロやなぁ。

 よっしゃ、みんなも歌いまひょっ」

「はーじーめーましてー  私がマーマーよーっ」

 横山たかしが声を張り上げる。

 やがて歌はシュプレヒコールへと変わり、ドームを占拠した。

 そして、輸送ヘリから垂れ下がった縄梯子がゆっくりと上昇を始めた。

 さちえちゃんが「愛美理お姉ちゃん、先生、おばさん、おじさん、みんなさようなら」と笑顔で手を振る。

 直子さんという女性が、もう我慢できなかったのか「さちえちゃんっ、行かないでっ」と顔をくちゃくちゃにして駆け寄り、夫と思しき男性に制される。

「それじゃあ、伊藤さん、よろしくお願いします」

 伊藤さんは「ええ」と表情を変えずに言った。

「我々もきちんとバックアップしますので、さちえちゃんのこともよろしくお願いします」

 伊藤さんは腕を伸ばし縄橋子に手を掛けると、少し笑みを浮かべて言った。

「わかりました。

 ただ、私、あまり、餓鬼は好きじゃないんですけどね」



             了

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やがて空は晴れ @miura

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