第19話

 五の月の六日の朝。朝日が昇ると同時に、獣の雄々しい咆哮が大地を揺るがした。

 獅子とも馬ともつかぬ、聞いたことのないその叫びに、仲良く毛布にくるまっていた二人ははっと飛び起きる。

 慌てて住居の外に出ると、入口のすぐ傍にハルエナが立っていた。どうやら彼女は住居の中で眠る二人を待っていたらしく、あと少し経っても起きて来なければ叩き起こすところだった、とむくれた。

「さっきの、雄叫びは……?」

「長が帰ってきたことを、リュッコがあたしたち翼の民に知らせてくれたんだよ」

 ハルエナは頭の後ろで手を組み、北のグレーン山脈を見上げた。リュッコの咆哮は二人を叩き起こしたあの一度きりだった。

「行くぞ、ロン」クオリスは早く長に会ってリュッコを借りる許可を得るため、ロンの手を強く引いて走り出した。いきなり引っ張られたロンは、躓きそうになりながらも足を動かした。


 集落の入口に、翼の部族の長の姿はあった。

「ローエル、おかえりなさい」フュレンは父である長を、笑顔を見せていた。自分の父親を名前で呼ぶのを不思議に思ったロンが後からハルエナに聞いたことだが、翼の部族は、父も母も皆名前で呼ぶのだそうだ。


 わらわらと長ローエルを囲む翼の民の後ろ、もどかしそうな表情のクオリスは、ついに「翼の部族の長よ!」と声を張り上げた。

 彼女の声に気づいた長は、民たちの間を縫うように出てきて、クオリスを見上げた。

 娘よりも小柄で、しなやかな体躯。肩まで伸ばした薄青の髪と真紅の瞳は娘と全く同じ色をしている。そしてその顔立ちは、フュレンをもう少し子どもっぽくしたようにあどけなく、本当に彼女の父親なのかと疑うほどであった。何も知らなければ、十代前半の少年である。

「今、フュレンから話は聞いた。【秘境】に帰りたいのだそうだな」

「ああそうだ、早くリュッコを……」

「イワンに直接訊け」

 ローエルはクオリスの言葉を遮り、視線を北の方へやった。その先にあるのは、グレーン山脈。神獣リュッコの生息する険しい山々が連なる。

「イワン?」

「リュッコの名だ。まだ幼体だが、オルシャン島まで飛ぶことならできよう。彼女ならば、山の中腹辺りにリュッコ族の長といる筈だ」

 あの、人を拒むような険しい岩肌を晒した山を、中腹まで登るというのか。ロンはやや気が引けて、無意識のうちに後退していた。

 一方クオリスは、ローエルに一言礼を言うとすぐさま踵を返し走り出した。ロンは慌てて彼女を追う。

「待って、私も一緒に行くよ!」


 二人して翼の部族の集落を抜け、山の前に来て止まる。やはりやや気が引けるロンは、じっと目の前にそびえる山を見上げた。はっと気づいて隣を見れば、クオリスの姿はなく、彼女は既に山の中に入っていた。

「ロン、何をしている?急ぐぞ」

 クオリスもロンがついてきていないことに気づいたらしく、後ろを振り返ってロンに呼びかけた。

「ごっ、ごめん。今行く」ロンも、はやる気持ちのせいか僅かに苛立たしげな声色のクオリスの方へ、慌てて走った。


 神獣の住む場所なのだから、緑が豊かで恵みに満ちていると勝手な想像をしていたロンは、グレーンの何人たりとも寄せつけぬ裸の山肌に苦しめられた。クオリスは無表情でひたすら崖を伝う。疲労の色など微塵もない。

 断崖を、足を掛けられそうな岩を選んで慎重に上る。ここから落ちればまず、命はないだろう。ロンは不用意に下を覗いてしまい、小さく悲鳴を漏らした。

「上を見て。下を見ちゃ駄目……」自分に言い聞かせるように、そう呟いた時だった。

 ロンの右手右足を乗せていた岩が、音を立てて崩れた。ロンはパニックになり、無事な岩に捕まっている左手を離してしまう。

 自分の下から岩が砕ける音を聞いたクオリスは、まさかと思い視線を下に向けた。

「ロン!」

 悲鳴を上げるロンが、背から下に落下しているのを見た。手を伸ばしてももう間に合わない。

「クオリスーっ!」ロンは、無意識のうちに親友の名を呼んだ。しかしそれで事態が好転するわけもなく。

 風を切って落ちていくロン。死を覚悟し、目を閉じた。


 ロンが目を閉じたのをクオリスが見た直後、獣の咆哮が辺りに轟いた。今朝二人が聞いたのと、全く同じ咆哮。

「え……?」目を閉じて数十秒経った後、自分がまだ生きていることに気づいた。恐る恐る目を開けると、晴れ渡ったギールゥの大空が視界いっぱいに映った。どうやら自分は、仰向けに寝ながら空を飛んでいるようだった。

「私、死んでない……?」

「ご無事で何より。貴方のお連れ様も一緒に、我が一族の住処へご案内しますわ」

 ロンの下で声がした。声のした方を見ようと、首だけ横に向ける。

 ふわふわとした、茶色い獣の毛が揺れている。視界の端には、大きな翼が力強く羽ばたいていた。ロンは慎重に、身体をその場で回転させ、うつぶせになった。

 顔を前に向けてみると、茶色い狐のような頭が目に入る。まさか、と思い、ロンは意を決して口を開いた。

「ね、ねえ、君は……リュッコ?」

「はい。わたくしはイアン。リュッコ族の長ですわ。貴方のお連れ様のもとへ行きましょう」

 神獣リュッコ。言葉を話す、不思議な生き物。

 イアンは「しっかりつかまっていてくださいね」と言うと、大きく羽ばたいた。

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