少女と竜の呪い

羽壬ユヅル

第1話

 ――夢を見た。

 まだ十分に子どもと言える手のひらが、己の弱った身体を撫でる。その感触は非常に柔らかく、また、温かかった。

「これからは、おぼれちゃわないように気をつけるんだよ」そう声を掛けてくる声の主の顔は、靄がかかっているようにぼやけていて、辛うじて弧を描く唇だけが認識できた。

 もっとよく相手の顔を見ようと、こちらの鼻先を相手に近づけようとすると、ふいに優しく撫でていた柔らかな手のひらの温もりが離れたことに気づいた。

 じゃあね、もうこっちに来ちゃいけないよ。なかまのところへお帰り。

 霞んだ視界に映るのは、茶色の髪をした子どもの、去りゆく背中だった。

 今でも、その茶髪の子どもに会いたいと思う。


 ロン・スーは、緊張し固くなった足取りで、屋敷の門をくぐった。

 流石、貴族のお屋敷。今まで住んでた家の何倍あるだろう。ロンは全てが物珍しく、きょろきょろと辺りを見回した。

「待っていましたよ。公爵様のもとへ案内します」

 門を通って数歩といかない場所に、使用人風の初老の男性が立っていた。どうやら、彼について行けば公爵に会えるようだ。ロンは男性に挨拶をし、踵を返した彼の後に続いた。


 ロン・スー。ここ、緑豊かなフィオニア王国のノースブリカ地方出身。小さな村で母親と二人暮らしをしていたが、その母が病気で急逝してしまい、彼女が世話になっていたことがあるという、王都センタブリカのカナル公爵家に使用人として雇われることになったのだ。

 北部の、森が広がる中に小村が一つ二つある程度のノースブリカとは違い、センタブリカは王都なだけあって様々な建物が並び、常に賑わいを見せている。フィオニア王城の周囲には貴族の屋敷が城を囲むようにして建っており、その中の一つに、カナル公爵の屋敷はあった。


 ロンの母が死んで間もなく、カナル公爵の使者が村にやってきた。使者がロンに告げた内容は、実の娘のように可愛がっていたロンの母が亡くなったことを知り、身寄りのなくなったその娘の引き取り手になろうといった公爵の申し出であった。

 ロンは、会ったこともない貴族の娘として生きることはできないと使者に言った。

 ロンの返答を使者から伝え聞いた公爵が、どうしても彼女を引き取りたいのだろうか、使用人として屋敷で住み込みで働くという案を再び使者越しに伝えてきた。このあまりにも熱心……というより執拗な公爵の要求に、ロンはついに折れた。

 そして、荷物をまとめて村を出た。村から公爵の屋敷までは、馬車で丸二日の道程である。


 壁に掛けられた絵画の中の女性は、庶民のロンには理解できない美しさをもってこちらを見下ろしていた。床に敷かれた葡萄色の絨毯は、おっかなびっくり進むロンが歩む度、それを笑うようにさわさわと音を立てる。


「失礼します。彼女を連れて参りました」

 男性が二度扉をノックしそう申せば、「入りなさい」と優しげな声がした。

 ドアを押し開け入室した男性の後に続き、ロンは部屋に入る。

 高さが床から天井付近まである大きな窓の前、立派な執務机の後ろに、使用人よりも年上であろう老人が立ってこちらを見ていた。すっかり白くなった髪が、生まれて半世紀をとうに過ぎたことを物語っている。

 老人は、ロンに孫を見るような慈しみに満ちた瞳を向けた。

「やはり、ランシュエに似ておるな。目元などそっくりじゃ」

 笑顔の老人に何も言えず、ロンは挨拶をしようと開きかけた口を中途半端に開けっ放しにしていた。

 公爵様、と案内役の男性が老人を促せば、老人は我に返ったのか「ああ、すまない」と困ったように笑った。

 老人はロンを真っ直ぐに見つめた。

「わしは、オルド・フォン・カナル。カナル公爵と皆は呼んでいるよ」

「わっ、私、ロン・スーといいます。あの、よろしくお願いします」

 老人――カナル公爵が名乗ったのに倣うようにして、ロンも名乗る。

「ランシュエ……母上のことは残念に思うよ。これからはここで働いて暮らしなさい。不便があれば何でも言ってくれ」

 カナル公爵の悲しそうな声音と表情、そして母の名に、ロンは俯いて小さく返事を返した。


 

 公爵の執務室を退出し、また先程の男性に続いて行く先は、自分の住むことになる部屋だという。

 通された部屋は、白い布が敷かれた寝台、小さな机と椅子がそれぞれ一つずつあるだけであった。

「今日からここが、貴方の部屋です。何を置いても構いません。貴方の好きに使ってくださいね」

 男性はそれだけ言うと、部屋を去った。取り残されたロンは、とりあえず部屋に入る。

 ここが自分の新しい部屋。これから使用人として、屋敷で働く毎日が始まるのだ。

 母の死の悲しみも、働けば失せていくかもしれない。

 どうしようもなく無気力になり、ロンは寝台に倒れ込んだ。それは、たかだか使用人にあてがわれる程度とは思えないほどの弾力で、ロンの身体を軽く跳ねさせた。

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