夜空の碧
ふと夜を見上げた。まんまるの月が出ていて、ひどく大きかった。
シリウスが見えたのでオリオンを探した。ベテルギウスは今日も赤く、けれどシリウスやプロキオンの青白い光に負けないくらい輝いていた。三つの星を直線で結んだものを、冬の大三角と呼ぶ。オリオン座のリゲル、おうし座のアルデバラン、ぎょしゃ座のカペラ、ふたご座のポルックス、こいぬ座のプロキオン、そしておおいぬ座のシリウス。こいつらを一つずつ直線で結んで作った六角形は、冬のダイヤモンドと呼ばれるが、東京の住宅街では、少なくとも僕の視力では、肉眼で見ることは出来なかった。
星を見ていたら、恋人と通話をしたくなった。恋人とは、物理的に離れていた。
チャットで、通話をしようと提案すると恋人は嫌そうにはしなかった。けれど、どことなく眠たそうな雰囲気を感じた。気のせいかも知れないが、少しだけ悪い気がした。
「眠たいなら、今日はやめておこうか」そう送り返そうとした間際に、向こうから「かけてきて」と返信があった。結局、通話することにした。
「もしもし」
恋人の声はやはり、どこか眠たげであった。声はイヤフォンを通して耳のなかに直接届いた。声を聴いて、心が躍った。
「どもども」
思わず、気持ちが声に出た気がして、しまったと思った。僕は、僕のことを他の誰かに知られることに恐怖を抱いていた。それは相手が恋人であっても同じだった。電話越しの彼女は何事もなかったみたいに笑っていた。
今日、何してた?どんなことがあった?楽しかった?嫌なことはなかった?何を食べた?それは美味しかった?まずかった?疲れてるの?そんな風に見えるの?と、互いに互いの近況を訊いた。おかしなことであるが、相手に訊きたがることに、そう違いはなかった。お互いが、お互いの同じような部分を知りたがり、同じような答えが返ってくることに喜び、全然違う答えだったことを素直に驚いた。通りに吹く風は死にたくなるぐらい冷たいけれど、おかげで手先は凍ってしまったみたいに冷たいのだけれど、気持ちだけはあたたかいままだった。
通話をしながら、僕はまだ雲一つない夜空を見上げていた。夜空の色は黒というよりは青に近い。紺碧の夜と歌ったロックバンドが居たけれど、東京の夜は、正しく碧いのだ。
碧い夜に星は数えるほどしか見当たらなかった。実際に数えようとは思えないくらいには多いんだけれど。
東京の星空は、世界の壮大さを再認識できるくらいには迫力のある景色であると、僕は思う。たとえ光害で汚染された星空であったとしても、人工の光に負けない星々はこんなに多くて、いつでもそこにあって、けれど本当はいつまでもそこに在るわけではない。人間やそのほかの動物の一生よりはるかに緩やかな時間の流れの中で、星が生きていることを実感できる。そういう壮大さを理性とは違うところで理解して、自分はちっぽけだけれど、それでも生きているのだなと。世界が動いていて、生きていて、巡り巡って、自分自身も生きていることに気が付いた。
死を考えたことのない人間など、本当はいないのじゃないか。僕は常々そう思っていた。もちろん、これは単なる僕の思い過ごしかもしれないという前提で、だけれど。
これだけ生きている人間が居れば、毎日のように人は死ぬ。自殺者に限っても、日に一人じゃ足りないくらいの人が、自らの意思で死を選択している。何故僕がそんなことを知っているのかと言えば、興味があったから。もっと言えば、僕も死のうと思ったことがあったから。
当然だけれど、死ななかったからこそ、こうして恋人と通話をしているわけなのだから、生きていることに感謝しなければならないのかもしれない。けれど、そう容易く生きていることを肯定できるほど、世の中美しくできていないとも思う。
だってそうでしょう?毎日何人かが、生きることをやめたいと願って、それを実現させてしまえるほどには、この世界は醜いのだから。それが現実だと、僕は思う。
社会とは、多くの死者の屍の上に築き上げられた虚構の要塞なのではないか。というのが、近頃の僕の考えである。幾ら幸せになろうとしても、僕たちが社会性を持った人間という名の動物である以上、幸せは必ず多くの屍の上にしか築き上げられないのだ。生者の幸せを守る城は死者の屍を基礎としている。僕にはそんな風に思えてしまう。
難しいこと抜きにしたって、世界はやっぱり残酷で惨たらしくて醜い。考えてみてほしい。自分の幸せをどんなに渇望していても、どこかで誰かの不幸を目の当たりにしなきゃいけない。ニュースではいつもどこぞの誰かが自殺している。自殺したのが中高生なら、いじめらていたかどうかに焦点が当たる。仮にいじめられていたとしても、それが認定されるかどうかはまた別問題だということを再認識させられる。遺族である親は泣きながら会見をして、少々理性を失ったような発言を繰り返しているし、ニュースキャスターは感傷的なコメントばかりで、高みの見物をしているに過ぎない。こんな世界で、誰がほんとうの幸せを手に入れることができるだろうか。僕にはまったくわからない。
一生のうちに一度くらいは、誰でも死にたいと思うのだろうし、もし不幸中の幸いで死にたい、なんて思ったことがない人が居たとしたら、それはこれまで偶然そう思わなかっただけに過ぎず、これから人生のどこかでそう思うのだろうと、僕は思う。
ほんとうに、僕の思い過ごしなら。ただ僕がひとりでに、こんな風に考えてしまうほど病んでいるというだけなら、そのほうが僕もうれしいのだけれど。
電話越しに恋人の寝息が聴こえた。あと少しで自宅に帰る頃だったから、少しだけ残念だった。会話の途中から声に眠気を隠し切れなくなっていたから、いつ寝落ちても仕方ないとは思っていたから、まあ仕方ない。
家に着く頃には、もう午前零時をまわっていた。月は、気付けば西に傾いていたし、星座の位置も移動していた。ベランダに干しっぱなしの洗濯物があった。取り込むときに、もう一度空を見上げたけれど、部屋の灯りが邪魔をして、さっきまで見ていた星すらどこへ行ったのかよくわからなかった。
隣室の住人もまだ起きているらしく、窓からは明かりが漏れていた。洗濯物を取り込んで、窓を閉めてから気づいたのだけど、隣人はどうやら誰かと酒盛りをしているらしい。テレビの音と、大きめの話し声が壁伝いに聞こえていた。
壁に貼られたカレンダーをみて気が付いたのだが、そう言えば今日は金曜日であった。明日は一日、恋人と過ごすことができる。恋人と過ごす休日は、生きているうちにしか味わえない幸せなことであると、今日の僕は感じ取ることができた。幸せとは、なんて刹那的なのだろう、と思う。そもそも人生なんて、星々の一生に比べれば、ほんの一瞬に過ぎないのだから、それも仕方ないことなのかも知れない。そもそも、人という動物が儚いものなのだから。
了
甘くはない。 雑草文学 @cupoftear
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