紅い瞳のクロニクル
杉浦ヒナタ
1章 ゼフュロス戦役
第1話 戦場を記録する者
夕刻になって降り始めた雨は、次第にその雨脚を強めていった。
先程まで戦場だったその荒野には、多くの兵士が物言わぬ
雨は彼らを清めるように降り続け、流された血はそのまま地面に吸い込まれて赤茶けた泥濘となった。
その中を、修道士のようなフード付きのマントを羽織り、歩く人影があった。
「死んでいるのは軽装の兵士ばかり。指揮官が率先して逃亡した結果か」
簡素な兜に
「”偉大なる”帝国軍とはよく言ったものだ」
エルセス・ハークビューザーは死者の数をカウントしながら呟いた。
帝国軍は、二千人ほどの死者を出し敗退した。敵の10倍にも及ぶ損害だった。
カランドア地方の奪回を目論んだルードベール公国侵攻作戦は、こうして完全な失敗に終わった。
参加した帝国軍の兵数は1万人前後。現在の帝国ではこれが一方面へ動員できる限界だろう。かつては100万を超す兵力を誇った帝国だったが、独立した周辺諸国から蚕食された結果、ここまで衰退していた。
「これは剣や槍の傷じゃない」
しゃがみ込んで、兵士の傷口を見て気付いた。死体に手を掛け、
その背中は大きく
「なるほど、そういう事か」
ひとり、大きく頷く。
「おい、そこの奴」
十人ほどの男が、囲むように近づいて来る。どうやら傷口の観察に気を取られすぎていたようだ。小さく舌打ちする。
死者から金目の物を剥ぎ取るのは、戦場ではよく有る事だ。土地を荒らされ、略奪に遭った住民が報復のために行う場合もあるが、この連中は違う。
戦場を漁り、戦死者を食い物にする。
「薄汚い
「同業者、では無さそうだな。顔を見せろ」
正面に立つリーダーらしき男が抜き身の長剣を突きつける。大方、どこかの戦場で死者から奪ったものだろう。よく見れば着ている服も、帝国軍や他国の軍のものが混ざり合っている。
エルセスはゆっくりと、フードを後方へすべらせた。
頭を軽く振ると、肩までの明るい褐色の髪が大きく揺れた。
端正な容貌のなかで、深紅の瞳が異彩を放つ。
「お前、女か。……これは、いいものを拾った」
男達は獣欲への期待に、醜い笑いを浮かべる。
深紅の瞳が男達を鋭く刺す。
「仕事中だ、後にしろ。と言っても無駄なんだろうけど」
彼女は顔にかかる髪をさっと払う。その左頬には赤い紋章が印されていた。
「戦場をうろついていれば、この紋章は知っているだろう」
クロニクルだ、男が恐怖と共に呟いた。
帝国武装史官、通称『クロニクル』
歴史の記述者にして、自らはその歴史に関与する事を許されない傍観者。
帝国史部寮に所属する、いわゆる文官だった。
「こっちは10人だ。たかが女一人、押さえ込んじまえ」
エルセスはため息をついた。最悪だな、口の中で呟いた。
「黙ってついてくれば悪いようにはしねえよ。楽しもうぜ、なあ」
男が剣を彼女の首元に当てて、にいっ、と笑う。
エルセスのマントが
泥を撥ね飛ばして剣が地面に落ちた。
男の手首と一緒に。
同時に顔の上半分を斬り飛ばされた男の口から絶叫があがった。隣に立つ男は胴体を両断され、剣を握った上半身がズルズルと滑り落ちる。
彼女を中心にして、剣の旋風が巻き起こった。
優美にも見えるその動きが止んだとき、生き残った男は3人になっていた。
這いずるようにして逃げ出す彼らを見送って、エルセスは考え込んだ。
足元を見やる。自分が切り刻んだ男どもを。
「こいつらは、どっちの死亡者数に入れれば良いのかな」
どこの国の者か訊いておけばよかった。
「そうだ、忘れるところだった」
この一方的な会戦結果を呼んだもの。
調査結果を石版に書き込むと、背中の袋に仕舞う。
「それにしても、雨がもっと早く降り出していれば……」
彼女は、恨めしげに空を見上げた。
雨はさらに激しく彼女に降りかかる。
エルセスはフードを被り、戦場を後にした。
※
歩き続け、雨が上がった頃、前方に帝国軍の陣営が見えてきた。
赤々と燃やされた篝火に衰えぬ戦意が覗える。
潰走した帝国軍にあって
陣営の入り口で
兵士が礼をするのに答え、彼女は陣営へと入っていった。
あちこちに兵士がうずくまり、仮眠をとっている。その横をできるだけ音を立てないように通り、隊長を捜す。
焚き火の周りに数人の兵士が集まっていた。その中の一人。大きな岩に背を預けていた若い男が手をあげた。
「待っていてくれたの?」
エルセスは渡された布で髪を拭いながら小首をかしげた。敵軍が撤収した事は、斥候の報告で分かっている筈だが。
「ああ。お前がここに滞在する限り、護衛するのが俺の役目だからな」
バード・ボウレインは焚き火で手を暖めながら言った。
「夜が明けたら、帝都に向かって出発する。史上最強の戦士が華麗なる敗走という訳だ。しっかり記録してくれ」
この自称 ”史上最強” が彼の口癖だった。
「いいよ。無事に連れて帰って貰えたら、ご褒美にね」
エルセス・ハークビューザーはその紅の瞳を細めた。
これは滅び行く帝国と、その歴史を記述する事を宿命づけられた『
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