ダウナー

西田彩花

第1話

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 女性の悲鳴が聞こえた。あちこちから鉄を殴る鈍い音がする。こんなの日常茶飯事だ。私も気が狂いそうだし、もう狂っていると思う。全身の震えが止まらない。手にはじんわりと汗が滲む。叫ぶのを堪えるのが限界だ。


「おい」

 鉄の扉が開いた。制服を着た男がそこに立っている。

「今日の3食分だ」

 そう言って、茶碗や皿が乗ったトレーを置いていった。私はそれを一瞥し、再び自分の手に目を戻した。手に滲む汗は、辛うじて私を人間たらしめてくれるような気がした。強い依存性に対する生理現象だ。


 当時、鬱病は珍しい病気ではなかった。ひと昔前は偏見の目が向けられていたが、私が病院を訪れたときにはそんな風潮がなかった。”誰でも鬱病になりうる”。そんな言葉がたくさん出回っていた。人間関係や仕事、家庭のストレスなど、鬱病になる原因はそこかしこに散らばっていたらしい。

 私は職場での人間関係に悩み、眠りにくくなったのをきっかけに通院した。口コミサイトでは評判の良い病院だった。医師は優しく話を聞いてくれ、患者と一緒に考えながら薬を処方してくれる。そんな口コミが多くあった。


 病院に入ると、多くの人が座っていた。老若男女問わず、さまざまな立場の人がいるように見えた。スーツを着た恰幅の良い男性、私服姿で髭を生やした初老の男性、小綺麗な格好をした細身の女性、保護者らしき人に付き添われている制服姿の女子学生。本当に、誰でも鬱病になりうるのだと感じた。ここにいる人たちは全員、心を病んでいるのだ。道端ですれ違う人と何ら変わらないし、どの人も、どこかでコーヒーを飲みながら談笑している姿が想像できる。


 受付に行くと、微笑みながら問診票を渡された。”今悩んでいることはありますか?”。”朝起きられないといった症状がありますか?”。”食べ過ぎてしまう、または食べられないといった症状がありますか?”。日常生活に潜む悩みが事細かに書かれていた。それだけ熱心なんだと思い、私は時間をかけて記入していった。この病院に通っていれば、悩みが解決するかもしれない。


 名前を呼ばれて診察室に入ると、口コミ通り優しそうな医師が座っていた。

「ここ数ヶ月眠れないようですね」

 低くて落ち着く声で、私の悩みを聞いてくれた。微笑みを絶やさないその姿に、私は安心した。

「重度の鬱病になりかけています」

 医師は言った。

「重度…?」

「まだなっていません。心を軽くして、徐々に治していきましょう」

 そう言って、いくつかの薬を処方した。睡眠薬と向精神薬だ。


 その日から、言われた通りに薬を飲み始めた。夜は眠れるようになり、沈んだ心も軽くなった。でも、数ヶ月するとまた眠れなくなった。私はその旨を医師に伝えた。

「薬が合うかどうかは人それぞれなんですよ。今度は別の薬を試して見ましょう」

 睡眠薬は変わり、向精神薬は違う種類のものが増えた。その通りに飲むと、やはり気分が軽くなり、夜眠れるようになった。


 また数ヶ月経った頃、どうしても眠れない日が続いた。病院に行く前に、睡眠薬の量を増やしてみた。すると、眠りに就くことができた。病院に行って薬を増やしてもらったが、眠れない日は自己判断で薬の量を調節した。


 向精神薬も、だんだん効かなくなっているような気がした。あんなに簡単に心が軽くなっていたのに、憂鬱な気分が続く。医師は薬を追加で処方し、なんとか重度の鬱にならないようにしてくれた。

「まずは今の状態をキープしましょう。それから、徐々に治していけば良いんです。焦る必要はありません」

 私はこの言葉を信じ、薬を飲み続けた。


 数年経った頃だった。病院に行くと、突然こんなことを言われた。

「残念ながら、もう薬は出せません。法改正が行われたんです」

 差し出されたのは、法改正に関する文書がプリントされた1枚の紙切れだった。

「そんな…私はどうやって治していけば良いんですか」

「急に断薬すると危険なので、入院をお勧めします」

「入院…?」

 聞くと、私が飲んでいた薬は非常に依存性の高いものだったらしい。飲み続けると耐性ができ、薬をやめるときのリスクが高まるのだと説明された。最悪、死に至ることもあると言われた。


 頭をハンマーで殴られた気がして、帰ってから薬について調べた。私が飲んでいた向精神薬や睡眠薬は、依存性も有害性も、大麻より強いものだった。徐々に減薬してから断薬しないと、重大なリスクがある。睡眠障害や他の精神疾患を引き起こすケースが多々あり、自殺願望が出てくることもあるらしい。さらには、致命的な離脱症状を起こす場合もある。

 鬱病を治すために飲んでいた薬は、一生飲むこと前提だったのだろうか。徐々に減らすことが望ましいようだが、法改正で一切の処方を禁止された。私には、その選択肢がない。


 数日分残っていた薬が切れ、私は酷い恐怖感に襲われた。誰かが家に入ってくるのではないか。1日に何度も何度も鍵がかかっているかを確認した。そんな自分に嫌気が差すのだが、やめられない。玄関への行き来が増え、活用できる時間が減った。そのうち、無気力感が襲ってくるようになり、何も考えず、ぼーっとしている日が増えた。仕事に行けず、電話が鳴っても取らなかった。


 何も食べず、全く眠らず数日が過ぎた日、インターホンが鳴った。私はベッドの側に座ったままだ。ガチャガチャと音がして、ドタドタと数人が入ってきた。

「先日法改正された薬を飲んでおり、強い離脱症状が出ていると考えられます。あなたは施設で療養しましょう」

 1人の男がそう言って、数人がかりで私を運んだ。車に乗っている間もぼーっとしていて、何も考えられなかった。


 着いたのは刑務所のようなところだった。私はそこの独房みたいなところに押し込まれた。鉄格子からは、他の人たちが見える。呻き声や叫び声はBGMみたいなものだ。


 そのうち震えが止まらなくなり、自分が死ぬのではないかと思った。そんなとき、手にかいた汗を見ると、少しだけ落ち着くことに気づいた。私は処方された薬について一切調べてこなかった。その場しのぎで、気分が軽くなれば、眠れれば良いと思っていた。それが甘かったのだと思う。私はこの施設で無事断薬できるかもしれないし、その前に死んでしまうかもしれない。

 そんな恐怖を、ここにいる誰もが抱えているのだろう。


 ”誰でも鬱病になりうる”。そう言われていたあの頃。私は軽い気持ちで病院へ行き、軽い気持ちで薬を飲み続けた。

 今ではきっと、この施設に偏見の目が向けられているだろう。例え断薬できたとしても、果たして私に居場所などあるのか。そう考えると、とてつもなく気が狂いそうになる。離脱症状で震えているのか、未来が怖くて震えているのか、分からなくなった。


 叫ぶのを堪えながら、手に滲んだ汗を眺め続けた。

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