2.先輩社員

「あ、えっと、初めまして。私、こういう者です」

 女の子は私に一枚の紙切れを差し出した。それを受け取って、見る。名前が書かれていた。『箱根羽子』……と。名刺だ。その上には『ヒロインワークス株式会社 社員』と書かれていた。

 社員?

 ……。

 女の子はスーツを着ている。そして、名刺を持っていた。

『ヒロインワークス株式会社 社員 箱根羽子』と書かれた名刺を。

 ということは、つまり……会社の、先輩社員、ということ、だろうか。

 そう判断するやいなや、とっさに私は、

「ああ……すいません。私、本日から入社の有馬です。有馬侑」

 と名乗り、にこやかに笑い、右手を差し出した。

「えっと……その前に服着ないの?」

「……あ」

 そうだった。私はテンションが上がったのか下がったのか分からないけれど、無人島で野垂れ死にするものとばかり思い込んでいたので、狂人よろしく下着姿でアクロバティック決めてしまっていたのだった。現在も、下着姿のままだった。

 恥ずかしい。自分の顔が赤くなっていくのが分かる。

 床に投げ捨てて置いておいたスーツを再び着る。運動したということもあって暑い。羞恥や緊張なんかも相まって、体温が上がっている。息を整えて、そして再度、

「私、有馬侑です。よろしくお願いします」

 右手を差し出した。

「あ、ええと、よろしくね」

 箱根さんも右手を差し出した。握り合う。握手。小さな掌だった。改めて見ると、箱根さん自身も大分小さい。私が大きいだけ、ということだけでもない。確かに私の身長は成人女性にしては大きめだけれど、それを考慮しても箱根さんは小さかった。童顔なのも相まって、スーツを着ていなければ女子小学生に見えなくもない。

「いや、でも、よかったです。私、変な夢を見てたみたいで」

「夢? どんな?」

「会社に来たはずだったのに、気が付いたら廃墟に来ちゃってたっていう……変な夢です……緊張しすぎてたんですかね……」

 私は頭を掻きながら、「ははは」と苦笑いをしながら、周りを見渡した。さっきまでと変わらない廃墟だった。

「……え」

 あ、れ……? 

 変わってない。

 どういうことだろう。

 目の前にいる、箱根羽子さんを見た。きょとんとして、「この人、何言ってるんだろう」とでも言いたげな表情をして、私を見つめていた。

 ダメだ。うん。落ち着け。とりあえず、冷静になれ。

「あ。いえ、今のは何でもありません。忘れてください」

 と言い、朗らかに笑っておいた。

「あ、そうだ。ごめんね、有馬さん。もうすぐきずきちゃ……社長も来るはずなんだけど、ちょっと遅れてるみたいでさ。あの子、普段から全然時間守らないから」

 えへへと人懐っこく笑って、腕時計で時刻を確認する箱根さん。

「記念すべき三人目が入って来たってところなのに遅刻するなんて……まあ、私もだけどね。今日から新人さんが来るって聞いてたから、遅刻しないようにって思ってたんだけど、結局寝坊しちゃって。ごめんごめん」

 そう言い、自らの頭をポンポンと叩いて笑う。

 私は、そんな彼女が発した台詞のうちの、とあるワードが気にかかった。

「三人目?」

「うん。そうだよ。社員は全員で三人」

 箱根さんが三本指を立てる。

「私、箱根羽子と、社長の城崎きずきちゃんと、そして君、有馬侑さんの三人だね」

「……ちょっと待ってください」

 社員が全員で三人……とは、いったいどういう……?

 状況を確認する。周囲を見渡し、私が今どこで何をやっているかを把握する。そして、この人の言ったことを頭の中で整理する。

 そこから導かれた結論は。

 おそらく、間違いだ。

 来るところを間違えた。このビルじゃなかったか、それか階が違ったかだ。とにかく、私は社員が全員で二人、私を入れて計三人の会社に入社した覚えなんてない。説明会や採用試験のとき、面接のときも、明らかにもっと人は多かった。私以外の就活生もそうだし、人事の人たちも、面接会場だけですでに四人はいた。まさかこの春、あのときあそこにいたヒロインワークス株式会社の社員が一斉に退社して、新入社員が私を除いて全員落ちて、あるいは内定を辞退して、残り二人になって、私を迎え入れて社員数計三名、そのせいで会社の株は大暴落、事務所は無人島に泣く泣く移転……なんて、荒唐無稽にもほどがある。あり得ない。

 そう結論づけた。

 結論づけるやいなや、きっぱりと切り出すことにする。

「あの、すいません。間違えたみたいなんで、ここで失礼します。これ」

「え?」

 貰った名刺を速攻で返却する。ぽかんとした表情の箱根さんの横を突っ切り、エレベーターへと向かう。籠はない。しかし、先ほど箱根さんが降り立ったのを鑑みるに、一応稼働はしているのだろう。下矢印のボタンを押してしばらく待つ。上がって来るのを待つ。

「え? え? え? 君、有馬さんでしょ? あれ? うちに入社したんじゃなかったの?」

 エレベーター待ちの私の右横、身長差ゆえの下方に来て立って、そう言う箱根さん。私は正面のドアの向こうの暗がりを、まっすぐに見つめながら返答する。

「間違えました。多分、ここじゃないです」

「ヒロインワークスじゃないの?」

「ヒロ……え、今何て?」

 ヒロインワークス、と聞こえた気がしたが。

「ヒロインワークス。正式にはヒロインワークス株式会社」

「……ええと、そうですけど。あ、違います。私が行かなければならないのがそこです。ここじゃありません」

「いや、そこがうちなんだけど……」

「……?」

 右横下に目線を下げる。

 一人の先輩社員(?)が、私の腕を掴んでいた。

「有馬さんが入社した、その『ヒロインワークス』って、うちなんだけど……」

 何を……言ってるのか。一瞬分からなくなった。一瞬が過ぎ去った後も普通に分からない。

 完全に、混乱した。

「いえ、ですから! 私が入社したヒロインワークスは偶然ここと同じ名前だっただけで、実際は違うんです! 大体、何なんですか、ここは? 廃墟? みたいなところですけど」

「だから君が入ったのはうちだよ! きずきちゃんも言ってたよ。うちに新しく入る子が一人いて、その子の名前が有馬侑だって」

「はあ?」

 と、そんなこんなでエレベーターの籠が目の前に現れるまでの数秒間、私と箱根羽子と名乗る女との言い争いは続き、

 混乱に次ぐ混乱の、その最中で、ついつい私が言いすぎてしまい、箱根羽子が泣き始め、

 チーン、プシューという音とともに、エレベーターのドアが開き、

 また新たな女性が一人、私の目の前に現れた。

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