貧乏くじ男、東奔西走

流々(るる)

無機質な声

『……ソウダ……ジハンキノマエデコーヒーヲカッテイル……アノ、オトコニシロ。……オマエガカンガエロ。……コノケータイモイッショニワタセ。……ワカッテルナ……』

 ボイスチェンジャーを通した無機質な声が途絶えた。



      *



 今日ばかりは遅刻が許されない。

 スマホのアラームだけじゃ心配で、枕元に置いてある時計のベルも久しぶりにセットしておいた。

 昨夜は遅くまで資料の最終確認をしていたから、またまた朝帰りになってしまった。さすがに徹夜じゃきついので、午前休を貰って会場へは直接向かうことになっている。


 寝坊することなく起き、気合いを入れるために熱めのシャワーを浴びた。

 洗面所で鏡の前に立って頭を拭きながら思わずつぶやく。


「なんで俺がプレゼン担当なんだよ……。普通、PMマネージャーPLリーダーがやることだろ。しかも、こんな大きなプロジェクトで……」


 この期に及んでもまだ、ため息が出てしまう。

 確かに、チーフとして企画立案からデザインコンセプト、ディティールの検討まで俺にしてはよく頑張ったと自分を褒めてあげたい。

 だからと言って――もう、腹をくくるしかないのは分かっているんだけれど――こんな大事なプレゼンなんてプレッシャーにしかならない。

 何で引き受けちゃったんだろう。

 もう、やるしかないよな。

 頼まれると断れないんだよなぁ、俺。

 ここ数日、同じ思いが頭の中をぐるぐると廻っている。

 大好きなミステリーの名探偵がごとく、理路整然とかっこよく説明できるのなら、こんなにも悩まなくて済むのに。



 十四時から我が社ウチの順番だから、会場には十三時過ぎに入ればいいだろう。

 遅い朝食をとって西船橋駅へと向かう。

 バスを降り、ロータリーにある時計を見ると十一時になろうとしている。

 広場の自販機で缶コーヒーを買いながら、向こうの最寄り駅についてから軽く何か食べておくか……と考えていた、その時。


「す、すいませんっ!」


 いきなり男が走り寄って声を掛けてきた。

 何だ?

 おかしな奴かと一瞬身構えたが、年は俺と同じくらい、身なりはごく普通のサラリーマンだ。

 ただ顔色が青白く、十二月だというのに鼻の頭には汗の粒が浮かんでいる。


「あの、具合でも悪いんですか? 駅の医務室まで一緒に行きましょうか」


 心配になって彼の肩に手を掛けようとした俺の右手を、両手で包むように握ってきた。


「お願いですっ、助けて下さい!」


 訳が分からず戸惑っていると、「息子を、息子を助けて下さいっ! お願いします!」

 彼は目に涙を浮かべながら、俺の右手を拝むように額をすりつけた。



「ちょ、ちょっと待って。何を言ってるのか分からないんだけど」


「すいません、でも時間がないんです」


 俺を医者だとでも思っているのか?

 いや、そんな訳はないだろう。

 息子が急病なら救急車を呼べば済むことだ。


「落ち着いて。何があったか話してくれないと、何もしてあげられませんよ」

 ゆっくりと右手を下ろしながら、彼の手から離す。


「そうですよね。すいませんでした、いきなりこんなお願いをして……」


 やっと少し落ち着いたのか。

 でも、彼は熱を帯びたまなざしを俺に向けたまま、一呼吸おいてこう言った。




「息子が誘拐されたんです」




 驚きが大きいと、咄嗟には声が出ないものらしい。

 黙っている俺を見て、話を聞いてくれると思ったのか、彼は言葉を続ける。


「五百万を届けに来たのですが、向こうは警察に通報したんじゃないかと疑っていて……。他人に運ばせろと言いだして、あなたに頼むよう指示があったんです」


「はっ? どっきり企画ですか?」


「本当なんです!」


 彼の表情を見ていれば嘘をついてないと感じる。

 そう感じていても言わずにはいられなかった。

 いきなりこんなことを信じろと言われても――そこへタイミングよく呼び出し音が鳴る。

 彼が取り出したのは黒いガラケーだった。


「はい……いえ……今、代わります」


 黙って私にガラケーを差し出した。

 受け取って、恐る恐る耳に当てる。


「もしもし?」


「オマエニセンタクノヨチハナイ。オマエガヤラナケレバ、コドモハ――」


 聞こえてきたのは、ドラマでよく聞く機械的な声だった。


「ちょっと何勝手なこと言ってるんだっ!」


 訳もなく巻き込まれ頭に血が上った俺は、見えない相手を怒鳴りつけた。


「大きな声を出さないで! 廻りに変に思われたらマズいです」


 彼は本当に警察へは知らせていないのだろう。

 人目を引くことを恐れ、伏し目がちに廻りに目をやりながら、かすれた声で俺をたしなめた。

 

「この人が運ぶと言ってるんだから、それでいいじゃないか。他人を巻き込まないでくれ!」


 彼の言う通り、声を潜めながら抗議の意を伝える。

 俺だって、今日だけは必ず行かなくちゃならないんだ。


「モウ、オマエハタニンデハナイ。コノコトヲシッテシマッタカラナ」


 奴の立場からすれば、この事件を知ってしまった俺に通報されるリスクがあると言うことか。


「いや、それは……。分かった、俺も通報しない。約束する。だから――」


「コンナコトヲシテイテイイノカ? モウジカンガナイゾ」


 そう言い残すと一方的に通話が切られた。




「どういうことですか?」


 何も聞こえなくなったガラケーを閉じ、彼に尋ねる。


「上総一ノ宮駅、十二時三十四分発の東京行き、特急わかしお十二号へ乗れと言ってるんです」


「はぁっ!? ここから間に合うのか?」


「十一時十五分発の総武線に乗れば、船橋で快速に乗り換えて十二時三十分に上総一ノ宮へ着きます!」


 腕時計を見ると十一時十二分になろうとしていた。


「どうかお願いします! 和樹を助けて下さいっ!」


 俺の右腕を両手で掴み、彼は深々と頭を下げた。



 迷っている時間はない。


「あーっ! もうっ!」


 半ばやけくそで、運ぶものを受け取るために左手を差し出す。

 一瞬、PLリーダーの坂崎さんの顔が浮かんだ。


「ありがとうございます! ありがとうございます!」


 お金が入っている小さめのトートバッグと、奴からの連絡用のガラケーを持ち、改札へと急ぐ。


「あっ、私の携帯番号もメモします」


「早く、急いで!」


 メモをひったくるようにして受け取り、ホームへと走った。



 そう言えば、彼の名前さえ知らないぞ、と思いながら。

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