第62話 牡丹と寿

 寿はそのまま布団から出ると、引き戸に近付いた。

 ゆっくりと引き戸を開けて、ほんの僅かな隙間から外の様子を伺う。

 でも、そこには誰もいない。

 今、自分が後を追えば、絶対警戒される。最悪、もうここには来てくれなくなるかもしれない。

 でも、確実に近くにいる。気配はどんどん離れているようだが、向かっている先は恐らく紅蓮のいた蔵。

 寿は追い駆けたい衝動を抑えつつ、じっとその場で耐えた。

 そして、少し時間が経った頃。

 (もう、そろそろ出ていいかな……)

 寿は更に引き戸を開けた。案の定、庭園には誰もいない。

 左右を確認して、一応背後も振り返る。女中たちも誰一人起きる様子はない。

 寿は慎重に寝室を出ると、気配の後を追った。


 ※※※


 ここを通れば、あの女の人が住む蔵がある。

 一度しか見ていないけれど、はっきりと顔は覚えている。

 白い肌に真っ黒な長い髪。自分も髪は長い方だけれど、あの人は自分よりもずっと長かった。

 何時だったか、清流は髪を綺麗だと言ってくれた。

 でも、あれは自分に対しての言葉だったのだろうか。それとも、あの蔵の中の女性ひとに対しての言葉だったのか。

 やがて、乳白色の蔵が見えてきた。でも——。

 「え……?」

 牡丹が目にしたのは、真ん中の格子が切り離されてぽっかりと穴が出来た、誰もいない蔵。

 以前、ここに来た時とはまるで違う。

 一体どうなつているのか。

 「どうして、誰もいないの? あの人間の女の人は?」

 まさか、清流が蔵の中にいた女性を連れ出したのか。

 でも、彼は確か洞窟の中にいたはず。

 牡丹は辺りに切り落とされた角材を見つけるとそのうちの一つを手に取った。

 それを持ったまま、蔵の様子をもっと近くで見ようと更にそちらにに近付こうとした時、背後から足音が聞こえてきた。

 角材をその辺に置いてから、急いで茂みに隠れる。

 「ミズハ様、いらっしゃいますか?」

 足音の正体を知り、牡丹はとても驚いた。姿は確認していないが、恐らく——。

 (この声、子ども? 人間の子どもって夜中も外に出るの?)

 驚きつつ牡丹は声を押し殺して、次の言葉を待った。

 「私は寿と申します。あの、紅蓮さまに会いに来られたのだと思いますが、ここにはおりません」

 「紅蓮……」

 牡丹は聞き覚えのある名前をうっかり呟いてしまい、慌てて両手で自分の口を塞ぐ。

 今しがた口にした名前を清流が叫んでいたのを思い出す。自分の腕を取った清流の姿が脳裏に蘇る。

 はっとして、顔を上げると人間の少女と目があった。

 「ミズハさま……」

 寿はそう呟いて、その場にしゃがみ込む。

 牡丹と視線を同じにした彼女は、そのまま続けて、

 「いつもいらっしゃる度に、気配を感じておりました」

 その言葉を聞いて、牡丹は驚いた。いつもここに通っていたのは自分ではないが、目の前にいる少女は確かに人間とは異なる存在の気配を感じ取るようだ。

 「そうでしたか。あの、は何故あちらの蔵の中にいないのですか?」

 牡丹が尋ねると、少女は一度口をつぐんだ後、

 「どこに行かれたのか、誰にも分からないのです。大奥様からは放っておくようにとのご命令で」

  牡丹は顔を上げて、再度誰もいない蔵を見る。

 人里の様子を眺めていた時から薄々感じていたが、何か訳がありそうな気はしていた。

 でも、まさか。忽然こつぜんと姿を消すとは。

 「なので、明日」

 突然、語気を強めた少女に驚いて、牡丹は彼女に顔を戻す。

 「日が昇ると同時に紅蓮さまを探しに行きます!」

 「あの、探しに行かれるのは結構ですが、お屋敷の方々は?」

 「私一人で行きます。屋敷の者には誰にも言っておりません。

 ミズハさま、くれぐれもこのことは誰にも言わないで下さい」

 お願いします、と頭を下げて頼んできた寿に牡丹は頷くしかなかった。

 誰にも言わないで欲しい、と言われても、まずこのことを話す相手がいない。

 牡丹は取りあえず、寿に今日のところは屋敷に戻って休むように伝えた後、自分も屋敷を後にした。

 山を登りながら、牡丹は疑問に思った。清流はこのことを知っているのだろうか、と。

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