第56話 激昂 ②

 一心不乱に逃げる近重このえは、繁華街を抜け人家の並ぶ一帯を抜けて、明かりが全くない場所へ出た。そのまま逃げていると、

 「待て、近重!」

 清流はそう叫んだ後、水の玉を出して彼女目がけてそれを放った。

 人間の大人の頭と同じくらいの大きさを持つそれは勢いよく回転しながら、近重の腹部を直撃した。

 「ぐぅっ!」

 そのまま廃寺へ身体をしたたかに打ち付ける。

 腹部を抑えながら、近重は苦しそうに顔を上げてから、

 「お、お許し下さい。清流さま……」

 しかし、怒りの収まらない清流は彼女の謝罪を無視して更に歩み寄って行く。その時、丁度近重の背後にある廃寺の引き戸が開いた。

 「うるせえな、誰だよさっきから」

 中から出て来たのは毒丸だ。

 うずくまる近重にぎょっとしつつ、目の前にいる清流に顔を向ける。

 「お前、もしかしてあん時の水芸人か?」

 「あんたはあの時の……」

 清流の脳裏に毒丸と初めて会った時のことが蘇る。

 人里で迷った際に出会った男。ボロボロの着物も背中に付くぐらいに伸ばしっぱなしになった髪も、涼し気な切れ長の目に端正な顔立ちも。

 人間に化けていた自分の正体を一発で見破った男で間違いなかった。

 「近重、ずいぶんと派手にやられたな」

 「ええ、そうね……」

 「こいつはお前の知り合いか?」

 「同じ山に住む魍魎さまよ。前に話したでしょう? 紅蓮の逢瀬のお相手よぅ」

 「へえ、相手が魍魎とは。なるほどねえ、だから女はを欲しがったって訳か」

 「人魚の灰のことを知っているのか?」

 「ああ、俺がこいつに渡したからな」

 「お前の仕業か?」

 清流の顔が一層険しくなる。毒丸に詰め寄ろうとした時、一羽の烏がものすごい勢いでこちらに向かって来た。

 すると、やかましく清流の周りを飛び回り始めた。手で払おうとしても、一向に彼から離れる気配はない。

 流石さすがにうっとうしく思っていると、続いて聞き覚えのある声が飛んで来た。

 「清流殿!」

 おぼろがこちらに向かって飛んで来た。

 それを合図のように烏はぴたりと清流の周りを飛ぶのをやめて、何事もなかったように朧の元に戻って行った。きっと朧が清流の元へ行くように指示したのだろう。

 朧は着地すると、腹部を押さえてぐったりしている近重に気付いて目を丸くした。彼女の様子を見て、何があったのか察したらしい。

 「近重、お前に同情はしないぞ。全て自分が招いた結果だ」

 「まあ、朧ったら酷いわ……」

 絞り出すような声でそう答える彼女に、朧は何も返さなかった。

 「しかし魍魎ってえのは、ずいぶんと荒々しい性分なんだな?」

 「うるさい、お前のせいで紅蓮が」

 「清流殿、少し落ち着け」

 朧が彼の両肩を掴む。

 「近重、あの女子おなごに何を渡した?」

 清流を抑えながら、近重に尋ねる。

 「人魚の灰よ。ずっと一緒にいたいと言うから、協力したの。でも、それを知った清流さまの逆鱗に触れて……」

 「その有様というわけか」

 朧はそこまで聞いてから、今度は彼女の隣にいる毒丸に顔を向けた。

 「人魚の灰というのは、八尾比丘尼伝説やおびくにでんせつに出て来る灰のことか?」

 「ずいぶんと詳しいな。そんなものまで知ってんのか?」

 「ああ、一応な。あたしはお前さんを何度か見たことがあるぞ。行商たちに随分とふざけた真似をしているな?」

 「ほう、まさか見られていたとはな。だが、ふざけた真似なんざしたことはないぜ?」

 (背中に黒い羽……。 こいつ、何者だ?)

 自分を訝しんでいる毒丸に対して、朧は薄っすらと笑みを浮かべる。

 「さて、どうだろうな? それから、もう一つ知っているぞ。

 決まって夜になると、お前さんが廃寺を抜け出して何をしているのかもな」

 それを聞いた毒丸の目が大きく見開かれた。彼の目に怒りの色が濃く映し出される。「それ以上言うな」、と朧を睨む。

 朧はそれを無視して、清流を見ると、

 「清流殿、帰るぞ。人里で暴れたことが知れ渡ったらどうするんだ? おさの怒りを買うつもりか?」

 「それは……」

 「近重、今回のことは絶対に他の者には言うな。いいな?」

 「ええ。もちろんよぅ」

 朧は再び清流に顔を戻すと、山へ向かって歩き出した。


 ※※※


 「お前、いつまでここにいるつもりだよ?」

 「好きにさせてちょうだい。もう繁華街には戻れないし、今は山にも戻りたくないわ」

 廃寺に背を預けたまま不貞腐ふてくされる近重を前に、毒丸はいかにも面倒くさそうな面持ちで彼女を見下ろしている。

 「勝手にしろ」、と言おうとして口を開いた時、ちょうどきりが引き戸を開けて出て来た。腹を抑えて苦しそうにしている近重を目にすると、仰天した声を出して慌てて彼女に近付いて行く。

 「姉ちゃんどうしたんだ? おい、毒丸。お前、姉ちゃんに何したんだよ?」

 次に毒丸に鋭い視線を向けたまま、尋問する。切のその目は完全に毒丸を疑っていた。

 「俺がやったんじゃねえよ、人聞きわりいこと言うな」

 「そうよ、毒丸じゃないわ。山から下りて来たイノシシにやられたのよ」

 「え? イノシシ?」

 「ええ。少し休めば、よくなるわ。だから、心配しないで」

 「でもよ、姉ちゃん……」

 「本当に大丈夫よぅ。ねえ、毒丸?」

 近重は毒丸の名を呼ぶと、肩を貸してくれるように頼んだ。

 「今日は泊めてちょうだい。礼ならちゃんとするわ」

 彼は溜息を吐いてから、

 「ったく、しょうがねえな。ちゃんと掴まれよ?」

 「俺も手伝うよ」

 近重は毒丸と切に支えられながら、廃寺の中へ入って行った。

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