魍魎の婚約

野沢 響

序章

 あちこちから人間たちの慌ただしく走り回る足音と悲鳴が聞こえてくる。

 辺りでは何件もの家々が燃えていた。風が強いため、火の勢いは増すばかり。

 逃げ惑う者たちとは反対に少年だけは逃げるでもなく、恐怖におののくでもなく、ただじっと人家が燃える様を眺めていた。

 背中まで伸びた赤黒い髪に真っ赤な瞳、少しだけ赤みを帯びた肌に長い耳。その姿は人間とはまるで違う異形のそれだ。

 魍魎もうりょうの身である彼は、熱さも息苦しさも感じることはない。

 山にばかりいるのは退屈だから、人里に下りてやろうと思ったのが間違いだったかもしれない。

 本当は山に続いている道などいくらでもあるのだから、わざわざこんな場所を選んで通る必要はない。

 それでも自分に被害が及ぶわけでもないから、このまま歩いて山まで戻ろうと思ったのだ。

 魍魎の少年がそのまま眺めていると、今度は隣の人家に火が移った。

 (あっ、また燃えた……)

 人間たちの阿鼻叫喚に混じって、後ろから誰かの足音が聞こえてきた。

 振り返った先にいたのは、十二、三歳の人間の少女。

 駆け寄ったはいいが、少年のその見た目に恐怖を覚えて、その場を動けずにいるようだった。

 少女は一度目をつむり首を横に振ると、意を決して彼に向かって言った。

 「ここにいたら死んでしまうわ。早くこっちへ来て」

 少年の手を掴むと、勢いよく走り始めた。

 「え? お、おい……」

 俺は魍魎だから、大丈夫だ。焼け死んだりしない。

 少女の必死な様子に呆気に取られて、その言葉を口にすることが出来ない。

 そのまま走っていると、少女の着物の袖に火が移った。突然の出来事に狼狽うろたえる彼女の袖を少年が思い切り掴むと、ジュッという音とともに火が消えた。

 少女の目が大きく見開かれる。

 彼が手を離すと、今しがた掴んでいた箇所は見事に濡れていた。

 ゆっくりと顔を上げてこちらを見つめる少女は呆然としたままだ。

 少年は少女の頭を両手で優しく挟むと、自分の額を彼女の額にくっつける。

 「俺に会ったことも今見たことも誰にも言うな」

 少女が口を開いた時、人間の女の声が聞こえてきた。

 必死に彼女の名前を呼んでいる。

 彼女もその声に気付き、声のする方へ振り向いて、

 「母さま……」

 「母親が呼んでいる、早く行け」

 「でも……」

 「いいから!」

 少年は少女を回れ右させると、その背中を押し出してやる。

 「俺は大丈夫だ。行け!」

 迷うような素振りを見せていた少女は母親の声のする方へ走って行った。

 その様子を見守っていた少年が背を向けて再び歩き出そうとした時、どこかで何かの倒れる音が聞こえた。

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