第3章:葛城君
「善哉」
全くの杞憂であった。
すり足を極め、気配を消し、ゼンの寝顔を凝視する九鬼巴。
うつ伏せになっている体勢の寝顔を見ているということは、彼女もまた同様の視点に頭を置いているということ。まるで芝目でも読んでいるかのような体勢。
つまり、凄まじい絵面の不審者が其処にいた。
「葛城君が五臓六腑に染み渡ります」
ありえないほど気持ち悪い発言だが、今意識がある生物は九鬼巴ひとり。恥ずべきことなど何もない。堂々と思ったことを言えるし、やれる。
この状況を彼女は待っていた。
『…………』
ギゾーが起きていることは知る由もないが、彼自身あまりの恐怖体験に言葉を失っておりこの空間を妨げるものは存在しなかった。
「葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君葛城君――」
誰にも届かぬ音量で六年分の葛城君を告げる。
意味は分からない。
そしてギゾーはしっかり聞いている。
深呼吸で肺を葛城君で満たし、うつぶせ状態の不健康そうな葛城君を鼓膜に刻み込み、網膜にて葛城君をこれでもかと焼き付ける。
もはや彼女を止める者は存在しない。
お目付け役のアリエルも、取り巻きのお邪魔虫も、周囲の目すらないのだ。
『……ヒェッ』
まあ、ギゾーはいるのだが。
「何か音がした気が」
『…………』
「気のせいでしょう。蟻一匹、今の私は見逃しませんから」
九鬼巴の能力は先ほどからずっと発動中であった。
ギゾー、造られて初めて自分が『無機物』で良かったと涙ぐむ。
「三名とも起きる気配もないですね。これ、もしかして……!?」
影の如し存在感であった九鬼巴であったが、あまりの状況に僅かな緩みを見せてしまう。それほどの大望が目の前にあったのだ。
味覚と触覚。零距離でなければ手に入らない葛城君。
コンプリートまであと、僅か。
「イケる。イケる。イケるイケるイケるイケる。イケた、はずなのに」
あと一歩、たった一歩で未踏の領域がそこにあった。
しかし――
「お疲れでしょう。安心してお休みください。露払いして参ります」
能力に引っかかった存在、明らかな狙いを察知し、九鬼巴は音もなく立ち上がる。その表情は決して暗いものではなかった。
が、目の奥が笑っていない。
「怒りと絶望を教えてきますね」
朗らかに彼女は言い切った。英雄の言動ではない。
まあ、今更であるが。
〇
男は転生したメンバーの中で最も定着が早かった。
生まれ変わった彼は嬉々として外に飛び出した。圧倒的力、今までが嘘のような全能感。積み上げてきた力など何の意味もなかった。エーリス・オリュンピア上位でありながら満たされなかった何かが満ち満ちている。
疾風の騎士と謳われた姿はそこにない。
「我は風司りしヴェルグ族を喰らいし者。神である!」
暴風の如く吹き荒れるオドの嵐。人族など対峙することすら敵わぬ。
それなのに、その女は悠然と対峙し、力感なく構えた。
「……不敬な」
「数日前まで人族だったのにもう神気取りですか。笑えますね」
「全ての風を司るヴェルグ族の牙、受けるが良い。これは天誅である!」
風の刃が女に押し寄せる。
「大味」
が――
「遊ぶ気もありません」
不可視であるはずの風の刃、その隙間を通り抜け接近――
「脛」
宣言と同時に足へ薙刀を打ち込む。
「籠手」
次は手、
「面」
頭、
「胴」
胴体を薙断つ。
刹那の攻防、無駄のない滑らかな動きに神族となった男はついていけない。
いや、動体視力は付いていっているのに、最も重要な意識がまだ定着し切っていなかった。
「何故だ、何故、我が体に刃が通る!?」
それ以上に男を混乱させたのは、女の攻撃が自らの体を傷つけたことであった。
オドを五体に張り巡らせている以上、生半可な攻撃など通らないはず。
そもそも不可視の攻撃をかわした時点で――
「答え、言う義理あります?」
冷徹極まる視線。男の存在など心底どうでもいいと言わんばかりの視線に、神となったことで得られた全能感は薄れる。
「じゃあ死んでください」
「やめ――」
微塵の躊躇いなく、神が切り裂かれていく。彼が弱いわけではない。スペックは王クラスに近い力を持っている。
ならば――
「やめる理由、ないです」
九鬼巴が持っているのだ。王クラスに比肩する力を。
だが、男もまたこの都市で上位に連ねる実力者であり、敵の力は対面すれば分かる。分かるのに分からないのだ。この女は決して強くない。
強くないのに圧倒的強者のはずの己を傷つけ、こちらの攻撃を容易くかわす。よしんば見えているとしてもあまりにも流麗な動き。
遅く見える。しかし、早い。それ以上に無駄がない。
「なん、で――」
「無駄だらけ。貴方たちの武は、哀しいほど不完全」
再生力が、尽きる。それと同時に九鬼巴は手を止めた。
まるで再生限界すら見えているかのように。
「児戯」
一言で切り捨てられる、男の人生。喉を裂かれ、再生せぬ五体は言葉を発せない。黄金の血を流し、無残なオブジェとして滅びを待つのみ。
「……さすがに起きましたか。悔やまれますが、またの機会を待ちましょう。葛城君のために死にますし、葛城君より絶対早く死にますが、その間くらいは」
彼女ほどの天才がここまで呼ばれなかった理由は明白。
紙一重で英雄に成った存在は切り捨てた神を歯牙にもかけず去って行く。
「私、バカンスでちょっと大胆になっちゃってますね」
頭の中は葛城君一色。すでに神だった男の存在は、無い。
○
「なるほど、あれがトモエ・クキ、か。怪物だな」
仮面の男は戦闘の様子を窺いながら弓を収めた。援護が必要になるかと思ったが、その必要がないほど彼女の能力と実力は秀でていた。
『愛眼』、彼女が名付けた己の能力。一定範囲のオドを探知し、その流れを見抜く眼である。決して強い能力ではないが、彼女の実力と合わさることで無双の力を有することとなった。正確無比の薙刀捌き、相手の死角を的確に突く。
身体を巡るオドとは流れである。そして血液とは違い一定の循環はあるが、常に全身を巡っているわけではない。それに近い状態に持っていくことは出来るが、全身くまなく網羅出来ているわけではないのだ。
隙はある。そこに意識が介在すればなおそれは大きくなる。人の意識によって循環が行われる以上、相手の意識を誘導すれば隙は生み出せる。
上を意識させれば下段が空く。右ならば左。
意識を散らし、惑わせ、隙間を作る。
それによって意識の外を断つ。ただそれだけを彼女はあの神族に繰り返しただけ。例えば四肢、その末端は意識し辛い部位であろう。足を断ち、其処に意識を向けさせ、次は手を狙う。出来れば指先、それでかき回し混乱を生み、大きな攻撃を打ち込む。痛みが冷静な判断を妨げ、混乱がより大きな隙間を生む。
流れの途切れた部分、薄いところを断ち切るだけ。
それは防御も同じ。この世界の攻撃は全てオドを、魔力を帯びている。だから彼女にとって透明であっても不可視ではなく、捌くのに支障はない。
「無敗、相手に一本すら与えない実力と精神力。傑出しているな」
表舞台に現れたのは高校になってから。まるで誰かに見せつけるかのように自信の天才性を世界に示し、結果を出し続けてきた。
揺らぎはない。揺らぐ気配がない。
「だからこそ、このタイミングってのは解せない。いや、解せなかった。まあ、ようやく彼のおかげでその理由が分かったよ。彼女は――」
仮面の男の視線、彼女の探知範囲より遥か遠くから見つめる先には、起き抜けに何かあったのかと表に出るゼンと、それを死角から覗く九鬼巴の姿であった。
「ギリギリ、英雄ってことか」
その姿、ただのストーカーである。動きもこなれ過ぎている。長年の経験、そうして培った尾行術。あの眼ももしかするとそのために発現したのでは、と思うほど彼女の思考は徹底している。ただ一つに突き抜けていた。
彼女の頭の中は葛城君一色、つまり帰還時間などとうに記憶の彼方。
アリエルが気を揉むだけの時間はまだ継続中であった。
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