夫がインフルエンザになりました。そして感じた自分の大変さと、垣間見えた結婚の本質の一部。を、書き記しておく。(中)

(つづき)



 私はそれからしばらく黙っていた。


 普段がとても饒舌なので、友人に言うと意外だと言われることもある(逆にまあわかるって言われるときもあるけどね)のだけど。

 私はそもそも口数が少ないというか、ほんとうに相手と会話をしたいときとかにはすごく黙りがちなほうである。めちゃ考え込んでしまう(普段どんだけひとと会話する気がないんだよという突っ込みならたくさん受けてます。それはまた別のときに自分のこととして書くね)。



 パソコン作業はまだやることがあって、中途半端な状態だったが、思考の邪魔なのでいつのまにか手は止まっていた。

 夫のほうは見れなかった。体調や顔色を気にするべきとわかっていても、いま目を合わせたらなんだか変なことを言ってしまいそうで、意識的に視線をパソコンの画面に固定し続けた。

 で、自分のなかで勝手に得た結論――。



「なんか、もう、わからない。次にするべき行動が。なんかもうなにもわからない」



 夫のほうをこの期に及んでも見てなかったので、夫がどう反応したかもわからなかった。ただそのとき私は体温計を見せられた瞬間に言われた「タイミングが悪くてごめんなさいね」という言葉を思い返していた。私はたぶん、腹が立っていた。



 そんな気軽に謝ってほしくない。それで済むようなことではなかった。きみはそういうのに弱くないからだいじょうぶかもしれないけれど。そもそも私だって普段体調が悪いときがあるけどそういうときでも努力をしている。もちろんつらいとは思うけど、悪くないのはわかるけど。でも。こう。でも、なんというかさ。

 ……とか、思っていた。


 もちろん私の理性的なところは夫が悪くないことなどわかっていた。だが、納得できなかった。どうしても、しきれなかった。

 これが夫の体調不良という理由でなければ、すこしでも彼に非を認められることがあると自分で判断したら、もうこのときに私は彼に言葉を投げつけはじめていたと思う。



 そういう自分が自覚できたから、そのあとひたすら黙っていた。

 その後の自分の行動をどうにか検討しながら。なにせ、店の予約は二時からだ。もうこのときのごたごたで一時を少し過ぎた。私の支度の時間を考えると、もう二時には間に合わない。断るにしろ、遅れるにしろ、いちど店に電話をしなければならない。

 ちなみに、店というのは整体だ。最近身体がきつくて、通いはじめた。自分にとっては確実な効果があるので、定期的に通っている。ちょうど肩こりによる頭痛が気になりはじめた昨日今日でもあった。今日を逃せばしばらくバイトや用事で行ける見込みがない。今日行っとかなければ、また頭痛で夜眠れないかもしれない。


 いまやるべきこと、いまやるべきことは、夫を責め立てることではない。そうではなくて、自分がこの後どうするかだ。リカバリーだ。リカバリー。ひさびさにその言葉思い出したな。だって夫は悪くない。体調不良は、悪くない。私だってさんざん体調不良を経験してきて、そういうのを夫はわかってくれる。だから、いまやるべきことは、やるべきことは、自分自身で自分の領分を処理することだ。

 ええと、店にはとりあえず、電話しなくちゃ。電話。えっ、こんなテンションで、人と話すのか。予約ずらしてくださいごめんなさいって言うのか。きつい。でもそもそもこんなテンションで整体のお店のひとたちと受け答えしたり、事務的なレベルでも会話を交わすのきっつい。というか無理。無理。

 じゃあ、電話だ。電話しなくちゃ。別の日に変えてもらって……ああ、でも肩痛いなほんと。今日また見てもらわないとほんとうに頭も痛い。でも、でも、自分がリラックスするためのことで、病気の彼をほっぽりだしていいのか。病気のときこそ自分がいるべきでは? いやでも頭痛い。でもじゃあ電話。どっちにしろ、電話。もうあと十五分以内に行動決めて電話しないと。いやだ。ひととしゃべりたくない。こんなきもちで。そもそもいっしょにショッピングモール行くはずだったじゃんか。悪くない、けっして、○○は悪くないんだよ。わかってる。つらいのは○○だよ。でも……。



 いま言語化してみると完全に思考がループである。このとき私は、自分のメンタルやエネルギーや体力がごりごり削られていくのをひとごとみたいに実感していた。わあ、ゲームでよくあるゲージがごりごりごりごり削られていくや。今日のために、とっといておいたはずの、いろんなものが。

 つらくなってきてしまった。よくない癖が、いわゆる発達障害的に典型的でもあるだろう癖が、次々出てくる。



 パソコンの前で、頭を抱えて。苛々と唸っていた。外ではよくなってきた激しい貧乏ゆすりがダイニングテーブルを揺らすほどはじまる。髪の毛をぐしゃぐしゃ掻きむしる。わからない、どうしていいかわからない、と発する自分の声は、普段の愛想のよさでコーティングしたものとはかけ離れた響きだった。

 きみは悪くないんだ、悪くないんだこんな私が、ごめん、とも言ったが、それはパニックのそのときにかぎっては彼を想ってというよりは、「体調不良という不可抗力で相手を責める自分に納得できない」から、言葉だけはとりあえずわかったふうに謝った、ってことだったんだと思う。


「……ここにいないで、休んだら、どうなの……」

「あなたの気持ちが落ち着いたらね」


 落ち着かないよ、こんなの、いっかいこうなってしまったらもう落ち着かないもん――と、心のなかだけで反論した。まるで、精神年齢のバランスが取れていない状況だった。



 そのうち私はぼろぼろと泣きはじめてしまった。悲しみとかいうよりは、単にパニックの涙。とても二十六の人間とは思えない泣き方。でも。これも、あんがい、発達障害やグレーゾーンのかたは、とてもわかってくださるんじゃないですかね――。


「電話、電話しなきゃ、電話やだ、やだ、こんな気持ちじゃしゃべれない、しゃべりたくないだれとも、どうしていいかわからない、一日に詰め込みすぎた、どこから、どこからどうすればいいのかわからないよ、わからない……ああもうやだ!」




 気がついたら、頭に手が載せられていた。




 ……手が動いて、撫でられているのだ、熱でいっぱいいっぱいのはずのひとが、わざわざ立ち上がって、立ったまま、病人が、すこやかな状態のはずの私を、撫でてくれてるんだ、と気づくまでにかかったのは、あれは何秒だったんだろう、それとも一秒もかからなかったのか――。




 いますぐ横になりたいくらい、つらいはずなのに。

 ……言葉が、降ってくる。




「あなたがだいじょうぶになるまでは、俺はここにいるよ」




 私は、心がカッと熱くなって、たまらなくなってしまった。

 ああ。こういうとこ。こういうとこ。ほんとにこのひとは、こういうところ。

 大好きだ。そして、かなわない。自分のことを優先して、いますぐ横になってしまえばいいのに。子どもっぽい駄々をこねる私のことなんか、撫でてる場合じゃないだろう。休んで。休んでほしい。でも――こういうひとだから、私は、このひとと、いままでも、いまも、ずっといっしょにいるのだ。でも、でも――でも。



 そして――私は、言うべきではないことを、言ってしまった。



「……体調が悪いなら、事前に、言ってくれればよかった。せめて、あと、一時間、早く言ってくれたら。そうしたら。もうちょっと、私は、どうにかできたのに」



 撫でる手が、止まった気がした。



 うん、でも、起きたらだるいって思ったから――夫は、そう言った。

 起きたら、起きたらっていつ、そのとき……そう思って、私は口をつぐんだ。――完全に間違っているのは自分のほうだってことくらいは、かろうじて、わかった。



 だから、そこで間違いを止めればよかったのに。

 私は、もっと、間違ってしまった。




「ここにきみがいてくれたって、なんにもならないでしょ! 早く寝室で休んだらどうなの!」



 気がついたら、頭から手は離れていた。いつのまに。……わからなかった。あるいは、私自身、気持ちがゆきづまりすぎて、意識さえできていなかった。




「だいじょうぶかい?」

「だいじょうぶじゃないけどっ、しょうがないじゃん、そっちが具合悪いんだから! もう! あー、もう!」



 私は脚をじたばたさせた。



「……じゃあ、休ませてもらうよ」



 私は、返事さえできなかった気がする。






 すぐに判明するが夫はインフルエンザだった。

 そんなつらいなかで、ふらふらだったろうに、私が落ち着くまで目の前でじっと待ってくれていた。私が泣き出すと、立ち上がって、立つのもつらかったろうに、頭を撫でていてくれた。

 そんなひとの気持ちを、私は、「なんにもならない」だなんて。


 あとで、インフルエンザだったとの知らせを受けて、ショッピングモールで買い物をしてるとき、自分で自分に言いわけをしてみた――私は、あのとき、とにかく彼に横になってほしかったのだ、なんて。




 でも、そんなきれいにコーティングできるわけもない。

 私は、あのときはっきりと、夫に腹を立てていた。彼はなんにも、なにひとつ悪くないのに、一日の予定が乱されたことで、パニックになって、幼稚なふるまいと、言ってはいけないことを言ってしまった。




 それなのに夫は私を責めるでも、さみしそうになるでもなく、ただ自分のなすこととして寝室へ休養に向かった。

 なにか、優しい言葉をかけられた気がする。でも、頭を抱えて唸ってじたばたし続ける私には、その言葉を受け取る感受性さえも残されていなかったのだ――ひさびさに、「自分が万死に値する」と、数時間後、振り返って思った。





(つづく)

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