第14話 熟慮断行

(ああ……行っちゃった……とりあえず、理子さんに伝えないと!)


和馬がスマホを懐から取り出したところで、通用門の前に黒い車が急停止した。

葉月が無言で、車に向かって走り出す。

その肩を、和馬は咄嗟に掴んだ。

やはり一言も発さずに振り返った葉月の目には――涙が浮かんでいた。

それだけで、もう、和馬には何も言えなかった。

和馬を振り払い、葉月が車に乗り込む。

彼女は、祖母の行方を追うつもりだ。

それを止めても無駄なのは、今の表情で明らかだった。


そしてメルも、単独で探索を始めてしまっている。

口には出さなかったが、彼女も和馬と同様に自分が気づいていれば、と後悔しているのかもしれない。

危険な状況に、葉月とメルは自ら飛び込んでいる。


(僕にできることは……)


逡巡したのは、ほんの一瞬だった。

理子から与えられた指示は、間違いなく適切だ。

凶悪なテロリストによる誘拐事件などは、和馬の仕事の領域ではない。警察や大崎たちに任せておくべきなのは、和馬も重々承知していた。

しかし――。


(このまま放ってはおけない! 僕だけ安全な場所で待っているなんて!)


自分にもできることがある、そう和馬は信じた。

閉まりかけたドアに手をかけると、シートに座った葉月が意外そうに見上げてきた。


「何のつもりだ」


冷たい口ぶりだが、言葉の端々が微かに震えているのが聞き取れた。

それが緊張によるものか、怒りなのかは分からないが、いずれにしても和馬が口にすべきはただ一言だった。


「僕も行くよ、二階堂さん」


「待機の指示が出ているのだろう。お前はここで待っていろ」


「それなら、葉月さんも待機して。そうじゃなければ、僕は一緒に行くよ」


「お前には関係ないことだ。祖母の件は私の不手際。お前が気にするようなことではない」


「メルちゃんも僕も、そうは思っていないよ」


「勝手なことを言うな! 田村、車を出せ」


鋭い声を飛ばすと、前方の運転手に声をかける。

葉月お嬢様、しかし――と躊躇いがちに答える様子から、彼女のお抱え運転手のように思えた。見たところ三十代後半の物静かな男性といったところだが、和馬は只者ではないと直感した。

和馬は真剣な面持ちのまま、中に乗り込もうとする。

葉月が怒りに満ちた顔を突き出し、それをかたくなに拒んだ。


「来るな、と言っているだろうが! お前は関係ない! これは仕事とは別だ!」


「そうだよ、仕事なんかじゃない!」


厳しい語調に、和馬もいつになく大きな声を張り上げて答えた。

誰に対してもできるだけ穏やかに接したいというのが和馬の信条だが、今はそんなことを言っていられない。何より彼の心が、昂っていた。


「なに? じゃあ何だとていうんだ!」


和馬はそこで大きく息を吸い、激した心を鎮めようとした。

感情をすべて抑えきることなど、到底できることではない。

それは和馬も理解していた。

だが、一時の激情で事態を打開できるほど甘くはないということも事実だ。

落ち着いた上で、和馬はもう一度、自分に問い直した。


それでもやるのか――と。

そして、何故そこまでしてやるのか――とも。


答えは、すぐに出た。

迷いは、もう何も無かった。


「友達を助ける、それだけだよ」


「なっ……」


「もちろん、友達じゃなくたって助けるけど――でもやっぱり、二階堂さんは僕の友達だからね。何とかして助けたいんだ。僕にできることは全てやりたい。それだけだよ」


和馬の言葉があまりに意外だったのか、それとも何か琴線に触れたのか、葉月はただ口を開けたまま何も答えようとしなかった。

だが、少なくとも彼を拒む理由は消え失せたらしい。

和馬が遠慮がちに乗り込もうとすると、そそくさと席を空けてくれた。

大きすぎる身体を精一杯縮めて、和馬が後部座席に座る。

運転手の田村は、葉月の合図を待たずに発車させた。

和馬はすぐに彼に、葉月の祖母が誘拐されたこと、メルが単独で追跡中ということ、さらに藤堂蔵馬の存在まで、全てをありのまま伝達した。


「分かりました。では、メル様の跡を追いましょう。お任せください」


和馬の直感通り、田村はただの運転手ではなかった。

人間だが、おそらくは美帆と同様の能力を有しているのだろう。


「えええっ!? メルが追ってるの!? 何やってんの、ダメじゃない、待機しなさいって言ったでしょーにぃ。え? 葉月も? ああ、まあ葉月はしょうがないか~、どうせあたしの言うこと聞かないしねえ、あいつ。ま、田村さんもいるから平気かな? って、え!? 和馬君も一緒にいるの!? ちょ、ちょっ、ホントに君たち、何やってくれちゃってんのよぉ!」


「すいません、理子さん」


素直に謝ると、理子は電話の向こうで大きく溜め息をついた。

長い髪を、ぐしゃぐしゃと掻く音も聞こえてくる。

当然といえば当然だが、相当怒っているようだ。

だが、


「ま、やっちまったもんは、もう、しゃーない! 今さらメルを引き戻すこともできないでしょ? ともかく、何かあったらすぐに連絡してね。くれぐれも無理はしないこと。いい?」


「はい、連絡は必ずします。無理は……できるだけ、しません」


叱られることは承知の上で、正直に答えた。

普段であれば理子の指示には忠実に従う和馬であるが、状況が状況だけに「絶対に従う」とは言い切れない。

彼女から見て、無謀だということをしなければならない事態も起こり得るだろう。


(もし、メルちゃんに何かあったら……)


そんなことは考えたくもないが、起きないとは断言できない。

そんな時に、自分の身の安全だけを考慮して動くことなど、和馬にはできそうになかった。

和馬の答えに、理子は少し間を置いてから爆笑した。


「あっはは! できるだけ、しない、か。いかにも和馬君らしいね~」


「すいません」


「謝ることないよ。あたしは君の、そういう素直で正直なところが好きだしね。それに、君が真面目な人間だってことも、口先だけの人間じゃないってことも、誰かを助けるために一生懸命に働く人間だってことも、信じてる。だけど……」


理子はしばし間を取ると、強い口調で言った。


「もし本当にどうしようもなくなったら、躊躇わずに逃げなさい。誰も君を責めないし、その後で起きたことはあたしが全部責任を取る。いい?」


「はい!」


「よろしい。んじゃ、全部片付いたら、皆でステーキ食べに行こ。サラダにデザート、ご飯が食べ放題の店があるのよ~。じゃ、またね!」


電話を切ると、車内は沈黙に包まれた。すれ違う車はほとんどいない。

田村が、気配を感じ取りました、とだけ呟くと進路を変えた。

窓の外を見ても、すでに業務時間外の工場のわずかな灯りしか目に入らなかった。

厚い雲が強風に流され、月明かりを頻繁に遮っている。

葉月に目を向けると、彼女は思い詰めた表情で自分の足元を見つめていた。

制服に包まれた細くしなやかな肢体が、かすかに震えているのが分かる。


(魔族を憎んでいる、と言っていたけれど……)


あの時の彼女は、己の出生を本気で呪っているようにしか見えなかった。

だが今、彼女は真剣に祖母の身を案じている。それは間違いなかった。

あるいは祖母だけは、魔族であっても彼女にとって特別な存在なのかもしれない。

和馬も、幼い頃からいわゆる『おばあちゃん、おじいちゃん子』だったので、その心情は大いに理解できる。

そうすると、彼女が激しく憎悪の炎を向けているのは、父親ということなのだろうか。

彼女の父親がどのような魔族で、どういう経緯で母親が葉月を身に宿したかは知る由もない。

また、自分のことを多くは語らない彼女が、今どのような家庭環境で生活しているかも、和馬は何一つ知らなかった。


過去も、今も……全然、知らないんだよな……)

もちろん、彼女が思い描く『未来』がいかなるものかということも、想像すらできない。

知り合ったばかりで、仕事以外はほとんど会話を交わす機会もなかったのだから無理もない話だが、


(でも、僕はもっと……葉月さんのことが知りたいな……)


和馬は純粋に、そう思っていた。


(続く)

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