第2話 妖姿媚態
南に太平洋を臨む人口約九万人の茅原市は、首都圏のベッドタウンの一つだ。
市の中心に位置する茅原駅。
北口改札は、デパートや量販店が立ち並ぶショッピングモールに繋がっている。平日でも買い物客で賑わうこの一角には、市役所や警察・消防署などといった施設もある。いわば市の心臓とでも形容すべき地域であった。
一方、反対側の南改札はというと――。
駅を出て、真っ先に目に飛び込んでくるのは色とりどりのネオンの華やかな光だ。
この界隈は市内で唯一の繁華街だが、決して規模は大きくない。
駅の南口改札から放射状に広がる三つの主要な大通り。
その周辺に店舗は集中していた。パチンコ屋と居酒屋、それとキャバクラを筆頭とした、いわゆる『女の子のいる店』。ゲームセンターにカラオケボックス。二十四時間営業のファーストフード店とファミリーレストラン。コンビニと、深夜まで営業している書店にレンタルショップ。
それらが雑多に立ち並び、どこもそれなりに賑わっている。
様々な店の客引きが、仕事帰りのサラリーマンに片端から声をかけていた。
きわどい装いの女性たちがキャバクラの前にずらっと並ぶ。今日は少し寒いということもあってか、一様にコートを羽織っていた。
タクシー乗り場のすぐ隣にある木製のベンチ。
所々剥げかけている年代物のそれに、人目を惹く金髪の少女が腰掛けていた。
小柄で、華奢な少女だった。背は百五十センチもない。
県立海南高校のセーラー服を着ているので高校生なのだろうが、もし私服であったら小学生と間違われそうな体格だ。
腰の辺りまで伸ばした、癖のない真っ直ぐな金色の髪が微風に揺れている。
長い睫に大きな目。瞳の色はスカイブルーだ。
吊り上がった目尻。こじんまりとした鼻に、これもまた小さな口。
水気のある健康的な肌には一点のシミもない。
ごく普通の――と形容するには美しすぎる少女であった。
彼女の美貌はあまりにも、浮世離れしすぎていた。
この一帯は、有名なナンパスポットでもある。
女子高校生が制服で歩いていたら、かなりの高確率で誰かしらに声をかけられる場所だった。
彼女ほどの美少女が一人きりでいれば、間違いなくナンパされるはずだ。
だが、誰一人彼女に声をかけることはおろか、近づこうとさえしない。
彼女の存在に気づいていないわけではなかった。
その証拠に、通りすがる者の多くがベンチに座る彼女に目を向けている。
幽霊というわけではないのだ。
しかし――それでも彼女は、ただの『美少女』などではなかった。
ベンチに腰掛けた彼女のスカートの下、そこから奇妙な『何か』が垂れ下がっている。細長い鞭のような形状のそれは、風に吹かれているかのように左右に激しく揺れていた。
いや、風など吹いていない。
その物体は、彼女の意思に従って動いているのだ。
それは――まぎれもなく――『尻尾』であった。
少女の青い瞳が、妖しげな光を帯びた。
獲物を視界に収めた肉食獣のように、己の膝元をしっかと見据える。
口元に笑みが浮かぶ。唇の端から八重歯が二本、姿を現した。
「んふふふっ~、気持ちの良い夜ねぇ~。さぁて、たっぷりと楽しませてもらうわよぉ~?」
美しいソプラノで思わせぶりに呟く。
耳の横に流れる金髪を、小さな手でさっとかき上げた。
「……いっただきま~すっ♪」
嬉しそうな声を上げると、おもむろに膝に載せてあったプラスチック製フードパックに手を伸ばした。フタを開ける。まだできたてなのであろう、もわっと湯気が立った。
その中に、薄い木製の舟形容器に乗せられた『それ』があった。
鼻歌をしつつ、容器に輪ゴムで止めてあった竹串を取り出す。ぎっしりと詰め込まれた『それ』の一つに、深々と突き刺した。青のりと削り節、さらにウスターソースとマヨネーズをかけられた熱々の粉物料理。
それは――まぎれもなく――『たこ焼き』であった。
和馬は雑踏を歩く際には、人一倍神経を使う。
並み外れた巨体がその理由だ。気を緩めると、すぐに誰かにぶつかってしまう。
もちろん和馬自身はビクともしないのだが、相手はそうはいかない。下手をすれば大怪我にもなりかねないのだ。
(不便だなあ……。これ以上大きくなったらどうしよう……)
それが和馬の目下の悩みの一つだった。周りの同級生たちからはよく「羨ましい」などと言われるが、当の本人にとっては深刻な問題である。
背があまりに高すぎるため、おのずと頭を引っ込めたり、腰を屈めたりすることが多くなる。
身体の横幅も問題だった。
例えば駅の自動改札など、身体を横向きにしないと通過することができない。
エレベーターなどは最悪だ。まずドアが開いた瞬間、誰もが驚く。威圧する気など微塵もないのだが、あちらはそんな和馬の気持ちなど知ったことではない。
しかも、余裕があるので乗れそうと思った次の瞬間、無情にもブザーが鳴ったりする。百十キロという和馬の体重は人間一人分とは扱われないのだ。
だから和馬は、なるべく他人の迷惑にならないよう、常に細心の注意を払いながら日々の生活を送っている。
好奇の視線を向けられてしまうのは承知の上で、できるだけ目立たないよう、ひっそりと慎ましく生きていくのが彼のモットーだった。
今もこうして、駅前を忙しなく行き交う人の流れを寸断しないよう、知らない誰かにぶつかってしまわないよう、お年寄りや子どもを驚かせないよう、ゆっくりと慎重な足取りで歩いている。
「和馬ってさ、何だか動きがのっそりしてるよねー」
中学の同級生にそんなことを言われたこともあるが、実際はもっと敏捷に動ける。
だが、意識してそれを自制していかなければならない。それは、車が公道を制限速度以下で走らなければならないのと同じ理屈なのだ。
金髪の少女は、一心不乱にたこ焼きを頬張っていた。
幸せそのものといった表情である。
一つ食べ終わるたびに、傍らに置いた缶のコーラをぐぴぐぴっと飲む。満足げに溜め息を漏らすと、すぐに次のたこ焼きへと竹串を伸ばしていた。
「お待たせ、メルちゃん」
「は、かうま! ほかえり~」
和馬が声をかけると、少女が口の中にたこ焼きを入れたまま、返事をした。
彼女の隣にそっと腰掛ける。彼なりに精一杯気を遣ったのだが、ベンチからはギシギシっと、その巨体に抗議するような音が出てしまった。
「……あのさ、メルちゃん」
「ん? なあに?」
和馬が、頬をポリポリと掻きながら困り顔でボソッと呟く。
たこ焼きを咀嚼し終えた少女は、青い瞳をキラキラと輝かせながら小首を傾げた。
「あのね……その、尻尾、出てるよ。気を付けないと」
「へ? あ、あはははははっ! ゴメン、ゴメ~ン。ミポリンのたこ焼きが楽しみすぎてさ~、ちょっと油断しちゃったよ~」
メルと呼ばれた少女が、ヘラヘラと笑う。
次の瞬間、だらりと垂れ下がっていた尻尾が、シュッという音と共に、目にも留まらぬ速さで引っ込められた。
和馬はこれを見るたびに、いつも自宅の掃除機のコードを思い出してしまう。
メルが、口に運ぼうとしていた最後のたこ焼きを和馬に向かって突き出し、
「はい、和馬。あーん、して」
「あ、うん……。ありがとう」
無邪気にほほ笑む彼女に対し、和馬は照れくさそうに顔を赤らめ、控えめに口を開けた。
そこにメルが、ちょっと強引にたこ焼きを押し込む。
「美味しい?」
メルがぴったりと和馬に身体を寄せ、上目遣いで問う。和馬はぎこちなく頷いた。
「んふふ……和馬ぁ」
「な、何? ほら、食べ終わったら、もう帰らないと……」
急に甘ったるい声を出すメル。
一方の和馬は完全に及び腰だ。大きな身体を斜めに傾け、メルから距離を取ろうとする。
だが、メルは細い腕を和馬の腰に回し、離れようとしない。
身体の大きさだけで見れば、父親に甘える幼子のような光景であるが、
「にゃあ~。まだいいでしょ、か・ず・まぁ」
「え、ええっ、ちょ、ちょっと、メルちゃん……くすぐったいよ……」
メルの声が甘美な艶を帯びていた。
その幼い姿からは想像もつかない、蠱惑的な響きだ。
「んふ、ホントに可愛いなあ、和馬ったら……」
(こ、困ったなあ……ま、まあ、いつものことだけど……)
彼女の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
美しい肢体を、和馬に盛んに摺り寄せてくるメル。
和馬も健全な青少年男子であるから、嬉しくないはずはない。
だが、ただでさえ人目を惹く自分たちが、駅前のベンチでこのような行為をするのは気恥ずかしかった。
「なによう、和馬。あたしが……魔族だから、ダメなのぉ?」
あたふたしていると、傷ついた目で見つめられてしまった。
魔族と人間。
その交流は遥か昔、紀元前まで遡ると記録には残されている。
彼ら魔族は、和馬たちの住む人間界とは別の、『もう一つの世界』――魔界の住人だ。人間界に多くの生物が住むのと同様に、魔界にも多種多様な生き物が存在している。
世界を超えての異種交配は、昔から幾度となく試みられてきた。
今、人間界に生きる動植物の中には、その成果ともいえる種がいくつもある。
また、メルのように人間に近い種族とヒトの間には、いわゆる混血種も生まれていた。中には魔族に近い能力を持つ者もいれば、ごく普通の人間と大差ないケースもあるという。
お互いの合意と周囲の理解さえあれば、和馬とメルが結婚することも可能ではあった。もちろん、法手続きは人間同士の場合よりもかなり煩雑にはなるのだが。
しかし、この二人の間にある問題はそこではなかった。
「……いや、その、僕は……その、メルちゃんは……あくまでも友達で……」
何よりも重要な、当の和馬の気持ちの問題だった。
かれこれ彼女とは小学校入学以来、十年近くの長い付き合いである。
交換留学生として人間界に来たメルは、和馬の家にホームステイしていた。
年に何度か里帰りするが、単純に人間界の暦で数えればこちらにいる期間の方が長い。
もっとも、魔族である彼女はすでに和馬よりも何倍も長い時を生きている。
彼女たち魔族は、人間よりも成長が遅い。メルの外見が幼いのも、それが原因だ。
「うー、ひどいよぉ、和馬。私をお嫁さんにしてくれるって言ったのに!」
確かに約束したが、あくまでも小学校一年生の時の話である。
まだ恋愛がいかなるものであるかも真剣に考えることがなかった頃だ。
真に受けられても困ってしまう。
「ねぇ、和馬ぁ……。あたし、本当に、本当に和馬のことが好きなんだよぉ?」
目の縁に涙を溜め、せつなげな声を漏らして再び迫ってきた。
(……こ、困ったな……。さすがは『夢魔』(サキュバス)……)
彼女は古い伝承に伝えられる、手練手管で男を籠絡する魔族の一員だ。
夜ごと男の寝床に現れ、眠っている内に誘惑し、精気を吸い取るとされている。
西洋ではサキュバスという名で知られているが、東洋においても彼女たちの仕業と思われる事件は数多く起こっていた。
中には時の為政者の妻や愛妾となり、人間界の歴史に重大な影響を与えた事例も確認されている。
うぶな和馬など、彼女が本気になったらあっという間に虜にされてしまうだろう。
だが、どうもメルは自身の持つ『魔力』によって籠絡するのではなく、あくまでも一人の女性として和馬と恋人同士になりたいのだそうだ――どこまで本気で言っているのか、定かではないが。
「ねぇ、和馬ぁ……」
相変わらず甘ったるい声を出し、顔を少しずつ近づけてくる。
温かな吐息を頬に感じ、思わず顔をそむけそうになってしまうが、彼女は許さじと迫ってきた。
唇と唇。
その距離、ほんの数センチ。
「あ、あのさ、メルちゃん……」
「……ん? なぁに?」
目を閉じ、唇を突き出していたメルが薄らと瞼を開けた。
彼女はすでに、自らの勝利を確信していたかもしれない。
「あのね……。そのぅ……歯に、青のり、付いてるよ」
時計は午後十時を回ろうとしていた。
ちょうど上下線がほぼ同時刻に停車したこともあって、駅の南口からは人がどっと溢れてきた。
大半がスーツ姿のサラリーマンだ。まだ週末には遠い曜日であるが、中にはやはりほろ酔いを通り越して泥酔に近いような者もいる。だが大半の人は、真っ直ぐ家路に就くような様子だった。
そんな中、一際異彩を放つ風体の女子が南口のバスロータリー付近を歩いていた。
異彩といっても、特に奇抜な衣装というわけではない。
ただ、駅前の繁華街という場所にはそぐわない服装ということと、持ち歩いている物が普通ではない、ということだ。
少女は、メルと同じ海南高校のセーラー服に白いエプロン姿だった。
黒いストレートの髪を肩の後ろまで伸ばし、リボンで結んでいる。
頭には、水玉模様の三角巾を付けていた。
これだけなら、高校生が飲食店でアルバイトをしているということで、それほど珍しくはない――制服は脱げ、と普通は注意されるだろうが。
異様なのは、彼女が引っ張っている屋台のリヤカーと――背中に負っている菖蒲柄の竹刀袋であった。
女子高生、セーラー服、リヤカーに、竹刀袋。
一つひとつは別段おかしくはないが、組み合わせてみると何とも不思議な存在感を放ってしまう。
少女は、何がそんなに楽しいのか、まさに満面の笑みといった表情で屋台を引いていた。
身長も体格もごくごく普通であるが、胸は平均よりも遥かに豊満だ。
美人であることは間違いない。
だが、アンバランスな衣装といい、茫洋とした視線を中空に彷徨わせている様子といい、一風変わった少女と思う者が大半であろう。
少女はハミングしながら、和馬たちの座るベンチまでやってきた。
「……あらぁ~」
二人の姿を認めた少女が、のったりとした口調で呟いた。
(続く)
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