封門師・結城和馬の平和主義
加持響也
封門師・結城和馬の多忙な日常
第1話 容貌魁偉
まるで冬に逆戻りしたかのような、肌寒い四月中旬の夜。
喧噪の途絶えない繁華街の、くたびれた二棟の雑居ビルの狭間。
ここで今、ある異変が起きようとしていた。
辺りには空き缶とペットボトル、生ゴミの詰まったビニール袋が散乱し、酔ったサラリーマンが毎日のように立小便をしているためか、すえた臭いが漂う。
この繁華街でも、特に大きな店舗も少なくうら寂しい一帯だ。どちらのビルにも、ほとんどテナントが入っていない。右側三階の雀荘だけが営業中だが、商売柄、窓のカーテンは常に閉め切られている。
狭く薄暗い空間を照らすのは、天上から射し込む月明かりだけだった。
冷たい風が通り抜けていく。
工事業者が場当たり的に付け足したために、複雑に入り組んでしまった配管の下で、一匹の黒い野良猫がうずくまっていた。
ジジ、ジジジ……。
野良猫がびくりと反応した。周囲をキョロキョロと不機嫌そうに窺う。
どこかで漏電でもしているかのような耳障りな音だ。
キキ、キキ……。
続いて、今度はガラス窓を爪で引っ掻いたような不快音が、奥から聞こえてくる。
その音の源は、一つ二つではなかった。
野良猫の目が、闇をじっと見据える。音が重なり合いながら次第に近づいてきた。
次の瞬間――奥から無数の小さな影が出現した。
異様な姿態の影、その形状は一見似ていたが、よく見るとどれ一つとして同じ姿はない。ただ、十センチにも満たない全長と吐き気を催す臭気は共通していた。
奇声を発しながら先頭を走る影。蝙蝠を彷彿とさせる翼を持ち、全身から玉虫色の鈍い光を放っていた。手足はずんぐりとした体躯には不釣り合いなほど細い。赤く光る逆三角形の目と尖った大きな耳。鼻は無く、口が顔の半分近くを占めていた。
隣の全身灰色の影は翼を持たず、代わりに手足が計八本あり、さらに二又の細い尻尾が生えている。口も鼻も耳もなく、無数の目玉がぎょろぎょろと蠢いていた。
いずれも、この世界には存在が確認されていない生物であったが――いや、生物か否かも疑わしい――もしこの場に誰かいれば、きっと彼らをこう形容したに違いない。
『魔物』と――。
その、幅二メートルもない狭間の入口に一際大きな人影が立った。
道行く人の大半が、思わず目を向けてしまうほどの大男だ。
身長はおよそ二メートルというところだろう。
高さだけではなく横幅もあるが、太ってはいない。全体的にがっちりとした、偉丈夫という言葉がぴったりの体格だ。
ただ突っ立っているだけで存在感がある、そんな男だった。
男の背後の道路を、ゆっくりとタクシーが通過していく。
車の灯りに照らされた顔立ちには幼さが残っていた。
その身を包むのは、間違いなく特注品であろう紺色の学生服。襟元には菱形の校章があった。
ここまで走ってきたのだろうか、逞しい肩がわずかに上下している。
青年が真横に腕を広げた。そのまま深く鼻で息を吸い、大きく口から吐き出す。
ただの深呼吸だが、身体があまりに大きいため、それだけで絵になってしまう。
呼吸を整えた青年は、すっかり落ち着いた様子で狭間に足を踏み入れた。
狭間の奥は、裏側のビルの壁で行き止まりになっていた。
壁面は打ちっぱなしのコンクリートで、何も目をひくようなものはない。
灰色の壁を飾るのは、スプレーで描かれた意味不明の落書きと、長年洗い落とされることのなかった汚れだけだ――少なくとも、つい十分ほど前までは――。
昼間でも薄暗いその一角は、今や異様極まる魔の空間と化していた。
ざっと数えただけでも軽く百匹はいるであろう、小柄な異形の『魔物』たちが、口々に耳障りな奇声を発しながら、辺りを無秩序に駆けずり回る。
ビルの壁に浮かぶ、不気味なシミのようなもの。
どぎつい紫と黒みがかったピンク色の怪しい光を放つ、直径一メートルほどの『紋様』だった。無数の円と多角形によって構成されたその紋様には、そこかしこに奇怪な文字と数字らしきものも混在していた。
紋様は、意思を持つ生物のように蠢いている。心臓の鼓動を彷彿とさせる低く重いドクンドクンという音が、紋様それ自身から発せられていた。
そして――おぞましい紋様は、徐々にではあるが確実に『成長』していた。壁をじわじわと浸食し、その勢力を拡大している。
突如、紋様の中心部が、これまでになく強い白金色の光を発し――。
次の瞬間、『それ』が姿を見せた。
目映い光の中から現れた『それ』は、頭部だった。
サイズこそさして巨大ではないが、明らかに人間の頭部ではない。
螺旋状の白く太い角が二本、こめかみの上から生えている。見るからに硬そうな、縮れた青紫色の長い髪。肌は薄い紫色で、額には菱形の真紅の紋様があった。白く光る目には、瞳孔が無い。ひくひくと蠢く大きな鼻から、煙のような白い息が漏れている。
耳の近くまである、巨大な亀裂のような口がくわっと開かれると、鋸の刃に似た鋭い歯がずらりと並んでいた。低い獰猛な唸り声が、場の澱んだ大気を震わせる。
常人であれば、脇目も振らずに逃げ出すか、あるいはあまりの恐怖にその場に立ちすくんでしまうことだろう。
だが、その現場に足を踏み入れた青年は只者ではなかった。
学生服の巨漢は、無造作にその空間に姿を現した。
堂々とした様子からは、目の前の怪事に対する恐怖心はまるで見受けられない。
奇怪な容貌の魔物たちがすぐ足元で飛び跳ねているが、全く意に介する気配もなかった。
真っ直ぐに、ためらう素振りすら見せず、壁の紋様と頭部の前に立つ。
青年の顔が、白金の光に照らされた。
とりたてて美形というわけでもなく、またいかにも怖いものなしといった強面でもない。どちらかといえば、穏やかで真面目そうな好青年の顔立ちだ。
これで体格さえ人並みであったならば、きっと『その他大勢』の一人となっているだろう。
「……ほう。我の姿を見て驚きもせぬとはな。いったい何者だ、貴様?」
地の底から響き渡るような声で、頭部が威厳たっぷりに尋ねた。
対する青年はというと――。
「あっ、どうも、こんばんは。初めまして、ですね……ええっと、何者ってそれは……こっちの台詞ですよ?」
困ったように眉をひそめ、頬を人差し指でポリポリと掻きながら答える。
このおどろおどろしい空間にはあまりにもそぐわない、また青年の威風堂々とした姿からは想像もつかない程、のんきな受け答えだった。
「むっ……何だと?」
相手の意外すぎる反応に、頭部もやや困惑気味の様子である。
「ダメじゃないですか、勝手に門を作ってこっちの世界に来るのは条約違反ですよ?」
腰に両手を当て、噛んで含めるように、ゆっくりと丁寧に語りかける。悪戯をした子を注意する大人のような仕草だが、彼は高校生で、相手は異形の魔物だ。
「……ふん、条約違反だと? 嗤わせるな、そんなことは百も承知の上よ。我は、お前たち人間どもとの条約など守る気は毛頭ない。命が惜しくば消え失せよ」
嘲笑うかのように答え、鼻息をシューッと噴き出した。ほのかに、硫黄のような匂いが漂ってくる。青年は小首を傾げ、小さく溜め息を漏らした。
「なるほど、密入国者の方、ということですね。分かりました。それじゃあ僕も帰るわけにはいきません。命はとっても大事ですけれど、僕もここに『仕事』で来ていますから」
学生服のボタンをゆっくりと外した。隆々と盛り上がった大胸筋と僧帽筋、それにゴツゴツとした肩、白いYシャツがはちきれんばかりになっている。
服の上からは判りづらかったが、腕も恐ろしいほど太い。首も、大木の根を彷彿とさせる逞しさだ。全体的に骨が太く、頑丈な造りをしている。
「ほほう、『仕事』とな? ふふっ……その体躯と態度……貴様……さては『狩人』(ハンター)かっ!」
頭部が、ニッと凄絶な笑みを浮かべた。その声にはある種の歓喜すら漂わせている。鋭い牙が、ぬめり光った。
「え? ああ、違いますよ。よく間違えられるんですが、僕は『封門師』です。この茅原市担当の結城和馬といいます。よろしくお願いします」
脱いだ学生服を丁重に畳みながら、青年が場違いなほど明るくハキハキとした、好青年そのものといった口調で挨拶をした。
「……なに、封門師だと? ゆうき、かずま?」
「はい。ええっと、結ぶ城と書いて『結城』、平和の和に動物の馬と書いて『和馬』です」
異形の魔物相手に自分の名前を丁寧に説明――彼なりのユーモアのつもりなのか、素で教えているだけなのか、表情からは窺い知ることが困難だ。
きれいに畳んだ学生服を、傍らにあったポリバケツの上にそっと置いた。
「さて、それじゃあ門を封印させてもらいますね。危ないですから、ちょっと首を引っ込めてもらえませんか?」
和馬が、にこやかな表情で一歩前に出る。頭部の赤い目が、鋭い光を放った。
「危ない、だと!? むう、貴様、この我を……万魔堂の旋角鬼、アグチュラド=ゴルバトレスを愚弄するかっ!」
ぴしっ。ばちっ。
頭部の周囲の空間で無数の破裂音が鳴った。首がぐいと突き出され、瘤のように隆起した両肩が壁面から浮き上がる。その体幅は、軽く二メートルは超えていた。まさに鬼と呼ぶに相応しい巨体である。
「ああっ、そんな、ダメですって。完全に身体がこっち側に出てしまうと、本物の狩人さんが来ちゃいますよ。すぐ近くで待機していますから。凄く強い人なんです。そうすると、僕も……その、アグさんも色々と困ったことになっちゃいますからね」
事ここに至ってなお、和馬は冷静そのものだった。異形の鬼を気遣うような余裕すら感じられる。巨躯に相応の度胸を備えているとみるべきか、単にのんきな性格とみなすべきかは、判断の難しいところだ。
「だ、誰がアグさんだっ! 舐めるなっ!」
あまりにとぼけた対応に激怒したのだろう、アグチュラドの肌が若干赤みを帯び始めた。野放図に走り回っていた魔物たちが一様に足を止め、対峙する両者に目を向ける。
和馬が一歩、前に出た。
そして――。
「よかろう、それほどまでに無残な死を望むというのならば、その愚かしい願い、叶えてやろうではないか。我が力の前に儚く散華す……って、ちょ、ええええええっ!」
アグチュラドの長く大仰な口上が、途中で寸断された。
和馬が真っ直ぐに突き出した右手が、がっちりと顔を鷲掴みにしている。
目いっぱいに広げたその手は、まるで野球のグローブのように大きく、
「あ、いたたたたたっ! ちょ、待って……い、痛いって! 痛いイタイいたいいいっ!」
思わずアグが情けない悲鳴をあげてしまうほどの怪力だった。
「ゴメンなさい。でも、こうでもしないとアグさん、帰ってくれないでしょ?」
悲しげに眉をひそめてはいるが、和馬は一切力を緩める気はないようだ。
丸太のような右腕に、太い血管が浮き出ている。
「ぐぐぐっ……いや、これしきで諦めることなどできぬ! 我がこの門を開くためにどれほどの艱難辛苦に耐えてきたと……退かぬ、こ、この程度の痛みでは退かぬぞおっ!」
苦痛に耐えつつ、アグがずいと前に押し出そうと試みた。
だが、対する和馬の身体はビクともしない。むしろアグの巨体の方が、少しずつ紋様の奥に押し戻されるほどだった。
「ぬうっ、バカな……くっ、我が望みがこんな形で潰えてしまうというのか……」
「あの……その、アグさんは、どうしてこっちの世界に来ようとしたんですか?」
順調にアグを追い詰めていた和馬が、唐突に手を止めた。
「ん? おお! もしや、その望み次第では目こぼしをしてくれるというのか?」
「いえ、残念ながらそうはいきませんけれど……」
「何だ、つまらん……ふむ、しかしお前は何故我が条例に反し危険を冒してまでも人間界を訪れたのか……その理由が個人的に気になる、ということなのだな?」
「ええ、そうです。こういうことはしょっちゅうあるので、毎回色んな方に尋ねているのですけれど。正直に答えてくださる方が、あまりいらっしゃらなくて」
相変わらず右手は頭部をしっかりと捕えたまま、左手で頬をポリポリと掻きながら苦笑する。
「ほほう、興味があると。面白い。よかろう、ならば話してやろう。あれはそう、もうかれこれ十年以上昔のことであったが……」
「……あ、すいません。できれば、その、手短にお願いします」
「えっ」
「僕、早く家に帰って宿題と明日の予習をしとかないと」
「……そ、そうなのか……」
困惑気味のアグに対し、和馬は小さく溜め息を漏らすと、
「明日は僕たちの世界では四月二十日で、僕、出席番号が二十番なんですね。だからまず確実に、二限目の英語のリーダーの授業で当てられます。毛利先生、和訳をあらかじめやってこないとすごく怒る先生なので……」
「……ん、ああ、分かった、分かった。正直何のことだかさっぱり分からぬが、まあそれほどまでに火急の用があるというなら一言で簡潔に済ませてやろう。心して聴くがよい」
「ええ、お願いします」
「……女子高生の生足だ」
「え」
真剣な語り口にそぐわぬ意外すぎる回答に、和馬はその場に固まってしまった。
「もう一度言おう、いや、何度でも言おう! 我は人間界の……そう、それもこの日本の! 女子高生の生足が好きなのだっ! これだけは絶対に譲れぬ! 思い起こせば十、いや十二年前! たまたま人間界の様子を朋輩と窺っていた折に、チラリと見えたそれはもう美しい少女の太ももが……って、おい、ちょっと!」
今度はいささかの躊躇もなく、無言でアグの頭部をずずずっと壁に押し込んでいく。一片の同情の色もない、完全な無表情だ。
「そんな、しょ、正直に答えたのに!」
すでにアグの頭部は、その大半が壁に埋まってしまっている。
媚びるような声で懸命に抗議するが、和馬は聞く耳持たぬといった風情で容赦なく押し切ってしまうと、
「ふんっ!」
今まで全く使ってこなかった左手を、己の右手の上に重ねた。
目を閉じる。わずかに開いた唇から太い声が漏れた。息継ぎすることなく囁き続ける。もちろん、意味のない独り言などではない。
詠唱が三十秒ほど続いたところで、紋様の色が変化し始めた。
先程までどぎつい色彩だった紋様が、薄紫、桜色、ほんのりと色づいた白と、徐々に薄くなり始め、
「はっ!」
和馬がそれまでとは打って変わった覇気のある声を放つと、紋様から激しい閃光が走り――跡形もなく、消えた。
和馬が顔を近づけ、入念に壁に入ったわずかな亀裂を確認する。
背後で一連の騒動を見守っていた小柄な魔物たちは、蜘蛛の子を散らすように通りに向かって去っていった。
「あっ……と、まあ仕方ないか」
和馬は困ったように眉根を寄せたが、大きく溜め息を漏らすと、畳んであった学生服を手に取り、パタパタと埃を落としてから袖を通した。
やがて、堂々とした足取りで歩き始める。一仕事終えた満足感のようなものが、その表情から窺い知れた。
「……っと、報告、報告」
通りに出る直前で、思い出したように和馬が懐からスマホを取り出した。扱いに慣れていないのか、それとも手指が大きすぎて使いにくいのか、広い両肩をすぼめるようにしてぎこちなく操作している。
「あ、はいは~い。和馬君、お疲れ~!」
二十代と思しき女性の元気というか脳天気な大声に、和馬が一瞬ビクッとなる。
「あ、どうも、理子さん。藤南町一丁目の門ですが、今、封じました」
「ん、あっりがとー! いやいや悪いね~、和馬君も色々忙しいのに~。でもでもどうしたの~? なーんかずいぶん元気ないじゃないの~。疲れてんの? お腹空いてる? それとも何か悩み事? おっと、もしかして恋の悩み?」
ポンポンと矢継ぎ早に繰り出される質問に、和馬はすっかり気圧された様子で、
「いや、そのぅ……」
ぼそぼそと言いかけたが、
「んー、じゃあじゃあ、せっかくだから理子お姉さんが悩める青少年の相談に乗ってあげましょう! 今さあ、北口の豚骨ラーメンの店に並んでるんだけどね、おごったげるからおいでよ~」
「あ、いや、ご飯はもう食べましたし……それに僕、帰って宿題やらないと……」
「あらら~、相変わらず和馬君は真面目だねえ~。あたしなんか高校生の頃、ぜーんぜん勉強しなかったけどな~。まっ、しょうがないね。じゃっ! ……っと、そうそう、いつものように、お給料は口座に振り込んでおくからね~。あー、あと経費とかその辺は、ピロ公によろしく伝えといて。ほいじゃあ、バイチュー~♪」
言いたいことだけ並べ立てると、蘆名理子は一方的に電話を切ってしまった。
放心したように液晶を数秒眺めた和馬は、ネオンに彩られた繁華街に向かって歩き始めた。
(続く)
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