剣聖ラプソディ
朱塗りの手すりに身体を預けて、女が窓辺で惚けている。
白い肌に乱れ髪。
そしてうさぎのように腫らした真っ赤な目から、昨夜は一睡も出来なかったことが窺える。
ルヴァンは布団のうえから、そんな彼女の横顔を眺めていた。
いまや狼となった金色の瞳をギラつかせ、またぞろ色欲の誘惑にとらわれようとしている。
一晩中、飽きることなく抱いた四肢。
香炉から漂う甘い匂いも、彼女の汗には敵わない。
毛で覆われた獣面以外が冷えてくると、ふと昨夜の温もりが恋しくなって手を伸ばす。
「やんっ。また……」
女は手すりから引き剥がされ、ルヴァンの胸元へと飛び込む。
そもそも半裸のような艶姿が肩からむかれ、妖艶な玉の肌があらわとなった。
「何を見ていた」
「別になにも……ただ坂道をご婦人が登っておいでだなと……」
「ご婦人? こんな朝っぱら色街へ?」
「へぇ。世の中、色んなおひとがござんすからねぇ。それよりも――」
うつ伏せになった女は、たわわな乳房を獣毛に覆われたルヴァンの厚い胸板へと押し付けた。つぶれた乳房はよくこねたパン生地のようだ。横へと広がり、ふたりの身体を隙間なく密着させる。ルヴァンはあえてその隙間を探るようにして彼女を見下ろすと、大きな手のひらでもって背中を優しく愛撫した。「ほぅ……」と女の吐息が漏れる。
ルヴァンは気を良くして、彼女の髪の匂いを嗅いだ。
「それよりも――何かな?」
「……もう今日で十日もずっとお布団のうえですよ。そろそろ一度、お帰りになられたほうがいいんじゃないですか」
甘美な身体のしびれに酔いながら、女はルヴァンの腹のうえでタバコを呑む。
手にした煙管で、煙草盆を引っ掛け、横着にも手元へと引き寄せた。
一服つけるとそのままルヴァンの口へと煙管をくわえさせる。
獣面の紳士はくわえタバコのまま「十日か……」とつぶやいた。
「花代が心もとないか。よし。ちょっと下男を屋敷にまで走らせ」
「お足の話じゃありませんよ」
呆れた様子で女がルヴァンの胸から身を起こすと、パン生地だった乳房が熟れた果実に变化する。燃え盛るような緑の毛並みが、下腹部から割って立つのと見つけると、ルヴァンは体を入れ替えて、今度は彼女を組み敷いた。
カンっと。
いい音を立てて、煙草盆に灰を落とすと、そのまま煙管をうっちゃって、自由になった利き手で彼女の果実をむさぼった。
「……あ……ン……」
「仕事の心配をしてくれているのかい? それなら問題ないよ。私はただここにいるだけで良いんだ。今日び剣聖なんてな、名ばかりの名誉職でね」
「……で……も……あん……王立……だ、大学の学長さん……なんでしょ……」
「王立士官学校のね。魔道士メイルゥの退任後、防衛機関の強化を名目に各国の貴族たちが作らせた、ただの『箱』だよ。私ぁ本国のメンツのために送り込まれた、看板さ」
「もう、そんなに卑屈になさって。剣聖さまって偉いんでしょ? もっと胸張っても良いんじゃないですか……旦那?」
ルヴァンは獣の瞳を天井近くに向けていた。
そこには壁に掛かった四枚の木彫りの面がある。
訝しんだルヴァンはふと女に問う。
「あんなの……まえからあったか?」
すると女は寝そべったまま、ルヴァンのしたからその様子を仰ぎ見る。
「へぇ。ありましたよ。ただ旦那が……わっちに夢中だったから……」
「そ、そうかい。で、なんか言われのある面なのかね」
「全然。土産物ですよ。海の向こうの何とかいう国で、お芝居や踊りに使われるお面だそうですよ。一番右の口の曲がった男がひょっとこで、隣のふくれた女がおかめだそうで」
「あとのふたつは?」
「猿と狐ですって。あちらの国では、精霊さまをああやってお祀りするんです」
「狐か……そうか……あのお方の面は狐だったのか……」
ルヴァンは立ち上がると、おもむろに窓辺へと立った。
朱塗りの手すりに身体を預け、下帯姿のまま天を仰いだ。十日ぶりにまともに見た太陽に目を焼かれながら、ルヴァンはふと遠いむかしの記憶へと思いを馳せる――。
「――アイザック・ヴァン・ヌーデルワスク・ルヴァン男爵、まえへ!」
「はっ!」
延々と続く赤絨毯のうえをいまひとりの青年将校が歩いている。
銀髪長駆の美丈夫である。
胸には数々の勲章が輝き、腰には式典用の宝剣を帯びていた。
ひとたび脚を進めるたびに、参列した貴族たちの間から声が漏れる。
ご婦人はうっとりと感嘆を、そして――。
ヌーデルワスク家だと? 聞いたこともないわ。わしとの養子縁組を蹴りおって!
跡継ぎがおらず王家預かりになっていた家督ですな。ほれ、騎士階級のルヴァン家のままでは剣聖は名乗れませんから。
だからわしの息子になれと言ったんじゃ! 騎士階級の田舎者の分際で!
ほっほっほ。あなただけとお思いかな? 彼を――いや剣聖の名声を手に入れたがっている貴族は星の数ほどいる。うちの娘も、今夜の夜会には出席しますので――。
おい聞いたか? あの化物、たったひとりで国をひとつ滅ぼしたそうだぞ。腰抜けぞろいの王朝軍の掃討戦とはいえ、恐ろしいことだ。
そんなに勲章が欲しいかね。それとも人殺しが好きなだけかな?
はっはっは。聞かれるぜ。なにせ剣聖さまだからな。
怖くないさ。これからは銃の時代だ。剣など何するものぞ――。
聞き取れないまでも、青年には、その時の自分に浴びせかけられている言葉はよく分かっていた。ここに集った人間のすべてが今日のこの日を祝福している訳ではないからだ。
剣聖号授与式。
嫉妬と野心、または上流階級の権謀術数が渦巻く世界に、彼が足を踏み入れた瞬間だった。
式典が行われているのは精霊正教の大聖堂である。
精霊正教は、反魔導主義を掲げる国家群の多くが国教と定めている宗派であり、最高指導者である歴代の教皇は、精霊の代行として王位や爵位を授ける権威を持つ。
近代になってその政治的役割は曖昧なものになったものの、各国の王や支配者と肩を並べる存在であることには間違いない。
青年はいままさに壇上で待つ教皇のもとへと歩を進めている。
本来であればこの上ない栄誉である。
しかし魔導王朝も先ごろすでに打倒され、これからは近代兵器の時代である。
領地と爵位を与えられ、前線にも出されず。
当代の剣聖とは、ただ名ばかりの存在となるのだ――。
そんなことを考えながらも歩みを進める。
そのうち参列している外野の声も聞こえなくなった。
この厳かな雰囲気に、礼儀知らずの貴族たちも姿勢をただしたのだろうと思った。
だがそれは違った。
赤絨毯を挟んで両翼に並んだ参列席。埋め尽くした招待客のことごとくが意識を失っていたのである。
ばかりか、式典を行うはずの枢機卿たち、衛兵や従者、それらすべての人間が、まるで時が止まったかのように立ったまま眠っている。
「な、なんだこれは――」
思わず口走ったものの、それを咎める者は誰ひとりとしていない。
この場で意識を保っているものは、自分だけなのかと思った、その時である。
「――アイザック・ルヴァンどの。剣聖号継承の儀、
青年は腰に帯びた宝剣を「それ」に向かって薙いだつもりだった。
完璧に捉えた自信があった。
だが「それ」は青年の放った渾身の一撃をいとも容易く避け、涼しげに立っていた。
否、涼しげであるかは分からない。
なぜなら「それ」は、奇妙な仮面を着けていたからだ。
またフードを目深にかぶり、足首まですっぽりと覆うローブを羽織っている。手には肩口まである杖を握っていた。
「何者だ!」
「ワイズマン。ひとであった頃の名はとうに捨てた。今日は教皇たっての頼みでな。お主を祝福しに来たのだ」
「なに?」
するとワイズマンと名乗った男の肩越し、いまだ数十歩先の壇上にある教皇が見えた。
教皇はいたって呑気に手など振っている。
とてもおちゃめな笑顔である。
青年は宝剣を取り落とすほどに呆れてしまった。
「ルヴァンよ。お主にヌーデルワスクの家名と爵位を与えた意味は分かっておるな?」
「……剣聖の名を血縁に加えたいと欲する貴族たちの争いを避けるためだ。騎士階級だった俺を王家預かりにすることで、教皇はその争いをいち早く防いだと聞いているが――」
「そうだ。真の魔法使いが暴走したとき銃だけでは対抗できん。ルツの気配を感じることのできる優れた剣術使いがいる。お主の力量は剣聖として歴代最強クラスのものだ。くだらん権力闘争に付き合って技を腐らせるな。研鑽を重ねよ」
「し、しかし――これから先も、政略結婚や強引な縁組の話は続きましょう……」
青年は落とした宝剣を拾い上げると、自らの暗い未来を案じながら剣を鞘におさめた。
意識を失った貴族たちの緩みきった寝顔を眺めてがっくりと肩を落とす。
「放蕩せい」
「は?」
「純粋な鉄は脆く、折れやすい。不純物を取り入れ、叩き、油でなますことで強靭で粘りのある剣は鍛え上げられる。お主は真面目すぎる。もっと遊ばんかい。貴族の目を欺け」
「あ、え、えぇ……?」
「それでも人間に嫌気がさしたらまた会おうぞ。ひとを捨てる方法を授けてやる」
「ひとを捨てる……」
「おっと。話し込んでしまったな。教皇がお待ちかねだ。よいか。犬と狼は似ているが同じにあらずだ。国家に仕えても飼いならされるでないぞ――」
パチンと指を鳴らす音を聞いた瞬間、ワイズマンの姿は青年のまえから消えていた。
まるで何もなかったかのように、参列者たちのざわめきが再び沸き起こる。
壇上を見ると、教皇がウィンクをしていた。
夢ではなかった。
自分が剣聖であることを祝福してくれるひとがいたことに気づいて顔をあげる。
そして青年はまた赤い絨毯を壇上に向かって歩き出した――。
「――な、だーんな。旦那ってば」
「あ」
「『あ』じゃありませんよ、急にぼうっとしちゃって。手すりから落っこちますよ」
女の軽口を聞き流し、ルヴァンはもう一度、天井近くの壁に掛かった狐の面を見た。
物言わぬ仮面にあの日の言葉を思い出す。
「――真の魔法使いを斬る……誘惑に駆られるな……」
などと誰に言うでもなく独りごちると、静まり返っているはずの朝の風俗街に、チンピラと思われる怒号が鳴り響いた。
「ここはハンソン一家の縄張りだぜ!」
ルヴァンが手すりに身を乗り出して、辺りを見渡すと、坂道を登りきったところにあるパブと思わしき廃屋のまえで、数人のゴロツキたちに囲まれている女性を見つけた。
年の頃なら三十路過ぎ。
男装の麗人とも言うのだろうか、ズボンをはいた気品漂うひとだった。
ゴロツキの威圧にも動じず、このままでは一触即発といったところである。
そんな状況を見てしまっては、いてもたってもいられない。
「ちょっと君たちぃ。朝っぱらからうるさいじゃないか。眠れやしない」
ゴロツキたちの脅し文句を遮って、窓辺から声を挟む。
一同は皆、彼の顔を見て唖然としている。
無理もない。
彼は人狼卿ルヴァン。獣面をした紳士。
この世にふたりといない、当代最強の剣聖である。
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